『雨宿りの女』4

 

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 十文字によって仏間の水たまりから引き揚げられると、麻來鴉はたまらず畳の上に膝を突いた。出血が続いている。魔力を消耗した事によって体が弱っている。逃げ切れたのが不思議なくらいだ。

「おい、大丈夫なのか」

「わたしはいいから、能見さんをソファに。魂を取られている」

「魂って……。それは、どういう……」

「言葉通り。まだ死んでいないけど、そのままほっておくとまずいから、とりあえず横に」

「あ、ああ……」

 十文字が能見の体を抱えてリビングへ戻る。麻來鴉は鞄の中を漁り、三種の生の薬草と九種の薬丸が入った銀のケースを取り出し、そのうち薬草の口に放り込み粉々になるまで噛み続けた。

「ハーヴィの館で語られしハーヴィの箴言しんげんに曰く、火と太陽の顔とかなえば健やかさ、恥なき生、これらが揃えば最上の生き様。生きていれば牝牛めうしはこの手に。医師になるべき者に第二のまじないをかけよ」

 頭が陶然とする。薬草が効いてきた。薬効と呪文によって、消耗した魔力が少しずつ増えていくのがわかる。

「麻來鴉!」

 十文字が戻ってきた。が、その声が少し大き過ぎる。麻來鴉はケースの中にあった薬草と薬丸をまとめて口の中に放り込み、飴玉でも噛み砕くかのようにがりがりと音を立ててそれらを食った。

「麻來鴉、能見さんは……」

「これを両手に握らせて。嵌めちゃ駄目。魂のない体に急に魔力を与えると危険だから」

 麻來鴉は二つの指輪を十文字に手渡した。エオとシゲルのルーンが刻まれた指輪だ。能見の体を衰えさせないために、まずは徐々に麻來鴉の魔力に慣らさなければならない。

「少し寝るわ。三十分くらい。起こさないでね」

 十文字の返事を聞く前に、押し寄せて来た睡魔によって麻來鴉の意識は闇に落ちた。


 夢を見た。悪い夢だ。十文字がけん玉をして遊んでいる。麻來鴉は自分にもやらせろというが、十文字は一向に貸してくれない。けん玉の玉を目で追っていると、まるで十文字の手首が三六〇度回転しているかのようだった。そうして、そのうち足が衰え、目がかすみ、腰が曲がって、麻來鴉は老衰で死んでしまった。彼女はとっくに死んだはずなのに、十文字はまだけん玉をやっている。繰り返すのは世界一周。世界一周は流転の技である。

 きっかり三十分後に、麻來鴉は目を覚ました。傷はとりあえず塞がったが、魔力はまだそんなには戻っていない。

「起きて平気なのか」

 十文字はくたびれた様子で能見の事を見守っていた。テーブルの上にいくつかの魔除けの道具が出してある。十文字の私物だろう。

「秘薬が効いているからね。動けはするよ」

 麻來鴉は十文字の横に腰を下ろした。

 能見は半目を開いたまま、生気なく天井を見上げている。

「魂が取られていると言ったな。彼の魂はどうなったんだ」

「天使様って奴が持っていったと、能見晶子はそう言った」

 能見の口元に手をやる。まだ息はある。

「肉体はまだ死んでいない。魂は無事だよ。どこにあるかはわからないけど」

「どうするんだ。彼の魂を取り返さないと……」

 麻來鴉の頭の中を先ほど悪夢が過ぎる。十文字の手元でけん玉が回転する。小皿、大皿、中皿、けん。これは見立てだ。小皿ノルディック・クロス大皿ノルディック・クロス中皿インヴァーテッド・クロスけんラテン・クロス。十字架で魂が弄ばれている……。

「麻來鴉」

 十文字が強めに言った。

 麻來鴉は立ち上がって、辺りを見回す。ワルツを踊っている男女のオブジェが、棚の上でゆっくりと回転している。仏間の水たまりはすでにない。天使は能見晶子を連れ去ってしまった。

「おい。一体どうするつもりだ」

「魂を探すよ。でもその前に、ちょっと情報を集めないと」

 邪気が家の中に滞留している。まだ何かあるはずだ。大型テレビの横に、ガラス戸の古い戸棚を見つける。その上に、ちょっと気味の悪い人形があった。

木製だろうか。くすんだ色をした、いやに細い体の男。首を右に傾げ、口は笑ったように半開き、切り株のようなものに腰掛け足は左足だけ組み、右足はだらりと下がったままだ。

「十文字、この人形ずっとここにあった?」

「うん?」

 十文字は人形に目をやったが、途端に顔をしかめた。

「いや……見覚えはない。この家には朝からいるが、気付かなかったな……」

 言いながら、十文字は口元を手で覆う。

「何だろう。嫌な感じだ。見ていると気持ちが悪くなる」

「邪気が込められている。呪具だね。この家を呪うために置かれている」

「何でそんなものが……。能見さんが置いたわけじゃないだろう? ……まさか、娘の晶子さんが」

「見覚えのある邪気が込められている。二人が持って来たわけじゃないよ」

 霊視の調子も回復してきたようだ。麻來鴉はナイフを取り出し、フローリングの床に切っ先を突き立てた。

「おい、何やってるんだ……」

「情報集めの準備」

 答えながら、麻來鴉はナイフで次々文字を刻んでいく。

「依頼人の家なんだが……」

「この家、来た時よりも邪気が溜まっている。放っておけば化け物屋敷になっちゃう。床の傷くらい安いもんでしょ」

「お前を紹介した俺の責任にもなるんだが……」

「家をぶっ壊すわけじゃないし」

 そうこうしているうちに、麻來鴉は九つの文字を刻み終えた。八角形を描くように刻印された八つの文字と、ちょうどその中央に九つ目の文字。麻來鴉はその上に人形を置いた。

「この家に彷徨う悪霊に告げる。未だ死者の国へ参らぬのならば我が呼びかけに応えよ。これはガングレリのちょくである。聞かねば刻んだルーネがうずく。痛む。命を奪う。汝の魂は永久に死者の国へたどり着かぬ。刻んだルーネを唱える間に現れよ。これはガングレリの勅である――」

 カタ、と人形が一人でに動いた。

「……麻來鴉」

 十文字は声を出したが、麻來鴉は人形から目を離さない。今動いたのは、奴が応じたフリだ。こちらの様子を伺っている。

「では聞くがよい。

燃え続けよフェオ  積もる土に耐えよウル

茨からは逃げられぬソーン  言葉は風に乗らぬオス

足は樫となって動かぬラド  何も知る事は出来ぬケン

 麻來鴉の呪文に応えて、刻んだルーンに光りが灯り、反転する。それぞれのルーンが本来持つ意味とは逆の意味を念じながら術を行使すると、それは魔術ではなく呪術の意味合いを持ち、対象に害をもたらす。

 人形に変化が訪れた。その体に火が着き、床から突如として盛り上がった土に飲み込まれ、茨に絡み付かれ、不気味な半笑いは次第に苦悶の表情に歪み、組んだ足はガタガタと震え、やがてその口からアー、アーと呻き声ともつかぬ声が漏れ始めた。

「重ねて命ずる。現れよ。ガングレリの勅である。現れよ」

ボタ、ボタと。

 人形の上に雫が落ちた。赤黒い、ドロっとした雫。

「ぐぐぐぐぐぐっぐうぐあああああ」

 あの血まみれの男が天井下りよろしく、再び天井からぶら下がるように現れた。

「がががががああがっがあああ」

「お前に聞きたい事があるが、まずは言葉を思い出してもらおう。お前が怪物になった理由を、魔道に堕ちた理由を……」

 血まみれの男の視線は定まらず、獣のように濁った声でたけるばかりだ。麻來鴉は言った。

「×××――」

 あの異界の浜辺で会った女が言った名前を、なるべく発音を真似て口にする。うまく真似出来ていたとは思えないが……

 血まみれの男は吼えるのを止めた。

「お前の名前だな」

 血まみれの男は答えない。代わりに微動だにせずじっと麻來鴉を見つめ返してくる。

「お前には妻がいたな」

 無言。男は答えない。

「お前には娘がいたな」

 同じく、無言。

「二人は新しい父親を見つけた」

 その時、男の目に感情が戻ってきた。

 憎しみという感情が。

「もう、二人はお前の家族じゃない。お前は捨てられた――」

「違う!」

 血まみれの男は叫んだ。獣の吼え声ではない。人間の声だった。

「俺は頑張った。三人で暮らせるように頑張ったんだ。だというのに誰も俺を助けてくれなかった。理解してくれなかった。妻は娘を連れて出て行ってしまった。お願いしたのに、俺はお願いしたのに」

「何を」

「二人が出て行かないように。家族三人でいつまでも暮らせるように」

「誰に」

 答えはわかっている。これは確認作業だ。

「天使様」

 血まみれの男は言った。

「天使様が俺に約束してくれた。いつまでも三人で暮らせると。なのに! あいつは、俺から晶子を奪った。出て行ってしまった。どうして! どうして出て行ってしまったんだ! 俺は約束したぞ! 必ず、お返しはしますって! 俺は天使様に約束したんだ!」

「何を約束したの?」

 血まみれの男は、そこで目を剥いて麻來鴉を見た。

 口が裂けた鬼のような笑い顔をした。

「命」

 小さく呟いた。息から血の臭いがぷんぷんする。

「……誰の?」

 ぼたり、ぼたりと男の頭頂部から血が滴る。

「用意するのは簡単だ。あいつと俺がいればいくらでも作れる」

 言葉の意味がわかった瞬間、麻來鴉の拳が逆さまの男を殴っていた。常人なら顎の骨が砕けているだろうが、忌々しい事に相手はすでに死した悪霊だ。怯む事なくけたたましい勢いで、男は笑い出す。

「ひっ、ひっ、ひひひっ。三人で暮らすんだ! ずっと、ずっと! 三人で暮らすんだ! 天使様の力で!」

もはや足場はないギョーフ

 途端に血まみれの男の体がぐにゃりと歪んだ。首、胴体、腰から下が階段状にずれている。男の顔に刻まれた九つのルーンのうち、七つが青く燃えている。ぎゃあぎゃあと、醜い叫び声が家中に響き渡る。

 麻來鴉は血まみれの男の首を掴んで締め付けた。自分の子を異形に売り渡そうとした男の首を。

「いいか、よく聞け。あと二つだ。あと二つルーンを反転させればお前は終わりだ。すでに死んだお前は死者の国に行くのが道理だが、わたしがそうはさせない。永遠に苦しむ円環に閉じ込めてやる。お前に刻んだルーンが、この先ずっとお前を焼き続ける。お別れの前に一つ良い事をしていけ。能見さんの魂は何処にある? 答えろ」

「天使様天使様天使様天使様がいつまでも三人で仲良く暮らさせてくれる約束してくれたんだ」

もはや何処にも届かぬウィン

 男の体が雑巾のように捩じれ、絞られる。喉が裂けんばかりの大声が男の口から上がった。天井から男の足が抜けて、背骨が曲がり、爪先が顔に近付いてくる。まるで大きな輪が閉じようとしているかのようだ。

「次でラスト。まともな答えを期待している」

 右手の親指と中指の先を合わせ、麻來鴉は最後通告をした。

 傍目にも男の体はもはや口を利けるような状態には見えないが、男は悪霊である。体がどうであれ、叫べるのであれば口も利けるであろう。

「家族と暮らしたかったんでしょう? まともな父親になりたかったんでしょう? あんたが協力すれば晶子さんは無事帰ってくるの」

 男の目は冷ややかだった。

「二人は俺の物だ。邪魔者は墓の下だ」

罪の浄めであるハガル

 指を鳴らす。男の口に自身の爪先が突っ込まれる。反転していた床のルーンが正位置に戻っていく。

「汝は何処にも行かず、歩めず、戻れない。汝は毒蛇の毒。己が毒で己を焼く。闇の中でガングレリの沙汰を待つがいい」

「っ、ヴぉおおおおおおおおおおおおおお!!」

 一つの輪と化した男の体が高速で回転し、顔に刻まれた九つのルーンが燃え盛る。最後まで叫び声を上げながら、男は花火のように瞬く間に消え去った。

「……何をしたんだ?」

 事の次第を脇で見ていた十文字が、ようやく口を開いた。

「あいつの魂をこっちの世界から弾き飛ばした。一つの輪になったあいつはもう誰も呪えない。どこぞとも知れない闇の中で循環する自分の呪いを受け続ける。ガングレリの沙汰が下るまでね」

 九割がた呪術として完成しかかっていた術を、麻來鴉は最後の一文字で魔術に転換させていた。呪いはそれ自体がリスキーだ。あのまま呪術として完成させれば、あの男は文字通りに永遠に苦しんだであろうが、それをすれば術を行使した麻來鴉自身も闇に近付き、やがては同じように永劫抜けられない魂の苦しみを味わうであろう。

 呪具である人形は崩れかかっていた。麻來鴉はそれを足で踏み潰す。

「能見さんの魂の場所は……?」

「邪魔者は墓の下……」

 麻來鴉は異界で行き着いた墓地を思い出していた。

「十文字、能見さんの奥さんのお墓がどこかを調べよう。能見さんの魂はそこにあるはず」

 そして、もう一人。

「能見晶子もそこにいる」


 十文字が一階を調べている間に、麻來鴉はまず能見の体に治癒の魔術を施した。エオとシゲルのルーンが刻まれた二つの指輪を両手の指に嵌め、呪文をかけて肉体の生命力を促進させるのだ。この術は結界のような役割も果たすため、邪気が魂の抜けた体に入り込む事もない。

 能見の体に毛布をかけると、麻來鴉は二階へ上がった。仏間のちょうど真上に当たる部屋のドアを開ける。

 能見晶子の私室だ。自分と同い年の少女の部屋に無断で入る事が少しだけ気になったが、麻來鴉は迷わず足を踏み入れた。

 カーペットの床は埃ひとつ立たなかった。勉強机はプリントもノートも綺麗に整頓され、余計な物は何一つない。白い洋服箪笥の上では古びたウサギとアニメのキャラクターのぬいぐるみが仲良く寄り添い、二人の間には写真立てがあった。

 能見晶子と、女性が写っている。二人とも親し気だ。女性のほうには会った事がないが、その顔には見覚えがあった。

「能見晶子の母親だ」

 十文字が部屋に入ってきた。

「能見里穂りほさん。お墓は青梅おうめだ。ここからだと車で一時間はかかるな」

 十文字の手には霊園のパンフレットや、石材店との契約書類があった。

「ありがとう。十文字、車で来てる?」

「ちょっと先の駐車場に止めてある。急がないとな」

 麻來鴉はもう一度、能見親子の写真を見た。晶子はまだ幼い。中学生にもなっていないくらいだ。

幸せそうな二人。麻來鴉に見せた憎悪や怒りは微塵も感じられない。能見晶子は、本来こうやって笑うのか。

 写真に写っているのは二人だけ。おそらくは再婚前の写真で、前夫とは別れたあとだろう。

「前夫、失踪したって話だったけど」

「ああ。お前が潜っている間に、少し調べたよ」

 階段を下りながら、十文字が答える。

「どうやって?」

「俺にも伝手はある。昨今は古い新聞記事だって契約すればネットで閲覧出来るしな」

 そう言って、十文字はスマートフォンを振って見せる。

「葦(あし)谷(や)行男ゆきお。元々は東京で旅行会社に勤めていたらしいんだが、里穂さん……旧姓は喜納きのう里穂さんと結婚してからすぐに、実家の不動産屋を継いだ。子どもも生まれて、しばらくは順調にやっていたんだが、晶子が六歳の時に、経営に失敗して不動産屋は倒産。両親もすでに亡く、行男はかなり追い詰められた」

 少し、というわりにはかなり詳細に、十文字は話し続ける。

「里穂さんが晶子を連れて逃げたのは、会社が倒産してから一ヶ月後の事だ。そのあと、行男も姿を消すが、数日後に交通事故の被害者として見つかった」

「交通事故?」

「ああ。里穂さんが亡くなったのも交通事故だ。偶然の一致かね?」

「いいえ」

 十文字が顔をしかめる。

「行男の交通事故の加害者は?」

「記事だと、警察が駆け付けた時にはすでに車を捨てて逃げていたらしい。その後はわからない」

「消されているかもね。呪いに関わってしまったのだから」

「呪いだと?」

 天使様にお願いした。悪霊と化した葦谷行男は、そう言っていた。行男が、あの天使様という怪物と関わったのは、精神的に追い詰められていた倒産から妻子が逃走するまでの一か月間のどこかで間違いないだろう。

「葦谷行男はどん詰まりになった己の状況を打破するために、経緯はわからないけど天宿りの怪物と契約した。代償は、娘の命。けど、実際にはまず自分の命が奪われてしまった」

「怪物は、どうして行男の命を奪ったんだ? 普通、悪魔や鬼はどんな内容であれ、自分と人間が交わした契約を守るよな。代償も、取り決め通りにしたがるだろう?」

「約束を交わさせる。約束を守り、守らせる事は、悪魔や鬼たちの力を強めるからね。人間は、自分が力を借りてしまった魔物たちを恐れ、約束を守ろうとしたり、あるいは逃げるために反故にしようしたりとする。そういった恐怖の感情が、悪魔や鬼の力になる」

 でも、と麻來鴉は続ける。

「でも、天宿りの怪物は違う。彼らは人間よりもはるか上の階層に住んでいて、そこで独自の社会やルールを設けて暮らしている。妖精や、鬼や、悪魔よりも人間に近くなく、人間よりも上位の存在である自負を持ってこちらに干渉してくる。だから彼らは人間との約束を守らない。人間が昆虫と約束しないように、彼らも人間と約束しない。彼らは強力で、正体が知れず、悪意のままに人間に接触する。楽しんでいるんだよ、自分の力で人間を壊すのを」

「楽しむ? お前の言う通りなら、連中は人間よりも上の存在だっていうんだろ。そんな奴らが下等な連中を痛めつけて何が楽しいっていうんだ」

「言ったでしょ。虫みたいなものなんだよ。ミミズを結んでみたり、トカゲの頭をもいだりするのと一緒。上位の存在は、下等なものどもを壊す事が根本的に楽しくてしかたないんだ」

 記憶の中で天使が嗤っている。

「じゃあ、何だ。天宿りの怪物、天使様はあくまでも遊んでいるだけだっていうのか? 壊れかけた家族で?」

「蟻の巣穴に水流し込んだ事ない?」

「するか、そんな事」

「よかった。わたしもないよ」

 敵は高い次元からこちらを見下ろす存在だ。憑依した者の精神を操り、異界を造り出し、こちらの攻撃を物ともしない。

 考え方の転換が必要だった。いつも通り、魔術による攻撃で殲滅するのではない。あれを一個の呪霊として捉え、祓わなければならない。

「十文字、天使を祓う方法を知っている?」

「おいおい。急に何だ」

「……いや。やっぱり駄目だな。相手は本物の天使じゃないし」

「一体何を言っているんだ?」

「いや……わたしさあ、モンスターみたいなのを倒すのは得意なんだけど、怨霊だの悪霊だのを祓うのは苦手なんだよねえ……ましてや相手は天使でしょ? 自称だけど」

「今さらそんな事を言うのか!? 何も打つ手がないのか?」

「うーん……考えてるんだけどねえ。相手の本質が見えてこないんだよ。雨、水に関連する属性で、水を媒介にして人間に憑りつく。姿形は歪な天使。名前はない。名前がないって事は、何者でもないって事だ。いくらそれらしい姿をしていても本物の天使じゃない。本物ではない以上、仮に天使を祓う術があったとしても、効果はない」

 ロジックの問題だ。まるで虫のような外見を持つウイルスがいたとして、それは虫ではないから殺虫剤で打ち倒す事は出来ない。ウイルスを倒すには、そのウイルスに効く医療薬が必要なのだ。

 まして、今回の敵には明確な名前がない。〝天宿りの怪物〟や〝天使様〟は固有名詞ではなく、アレを呼ぶために便宜上呼称している呼び名に過ぎない。

 名前は、その物の本質を決定づける。これはいわゆるしゅの考え方だ。石は石と名付けられているからこそ、石として存在する。アレは存在するくせにその名がない。名がないモノはこの世に存在し得ないというのに、だ。これはつまり、アレがこの世の理からさえ外れた規格外の存在であるか、やはり名前は存在していて、それを麻來鴉が知らないだけか。

「せめて葦谷行男が最初にどうやってあれと接触したかがわかればなー」

「そんなもの、決まっているじゃないか」

 十文字が言った。顔はこちらではなく、ガラス戸の外に向けられている。

 庭に降りるためのガラス戸には、すでにいくつもの水滴がついていた。

「雨か」

「娘の晶子が雨に降られた時に憑りつかれたんだ。父親の時の事象をなぞったと考えるのが自然じゃないか?」

「確かに、ね」

 雨は勢いを増している。急にひどい降り方だ。庭の土が跳ねてガラス戸に茶色い斑点がついた。

 泥は次々とガラス戸に跳ねる。――ピタ。ピタ。ピタ。次第に、斑点の数が増えていく。まるで、雨のように、泥が、空から――

「っ!?」

「おい、泥が空から降ってきてないか!?」

 十文字に答えるより先に、麻來鴉はガラス戸を開けて庭へと飛び出した。

 空の色は火炎のようにおどろおどろしい赤に染まっていた。地の底で蠢くマグマのように燃え滾る空。そこに、見覚えのある刻印があった。魄気を地の底に戻す、麻來鴉の魔術の証が。

イアーのルーン……なんで」

 夕日の燃える空に、哄笑が響き渡った。

 空に、顔が浮かんでいた。巨大な顔が。波打った白髪。灰色の肌。象形文字のような左目と、右側の三つの目が麻來鴉を嘲笑ってる。

「お前は……」

 何故、ここに。幻術? いや、それとは感触が違う。逃げ切れていなかった。いや、だとしても術が大き過ぎる……。

 初めから? 異界に潜った時ではなく、もしや、この家に足を踏み入れた時から――

 巨大な顔の、天使の唇が不気味に動いた。

「は サイ  ロ」

 破砕しろ――

 この言葉は。

「おい、麻來鴉!」

 家の中から十文字の怒鳴り声がした。

 異様な気配に麻來鴉が振り返ると同時に、とてつもない家鳴りがした。能見邸は歪んでいた。まるで絞り途中の雑巾のように、屋根も柱もへし折られている。十文字が必死の形相で何かを叫んでいるが、家鳴りが激しすぎて聞こえない。

 この異様な光景を前に、麻來鴉の頭はひどく冷静だった。

「十文字!」

 叫び、麻來鴉は家の中に飛び込む。

 夕焼け空で、天使が哄笑を上げている。

 その直後、何かが爆発でもしたかのような重厚な破砕音が異様な赤色の空に響き渡った。

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