番外編 義妹(二)
私はしばらくの間、落ち込んでいましたが、段々失恋の痛みが怒りに変わり、その感情は愚かな自分自身に向いていきました。もうこんな軽率な行動はしないと心に誓いました。
私はもうその彼のことは吹っ切れました。結婚しているのに私に声を掛けて深い関係になって、その上他の女性とも出かけているのです。彼の不誠実さを嘆くよりも、うぶだった自分に恥じ入りました。
それからも街で時折彼を見かけることがありましたが、未練もなく、ただ気持ち悪さでいっぱいになりました。
兄からはその後一度だけ私の彼に対する気持ちを聞かれて正直に話しました。決して強がりではありません。兄は私の言葉に深く頷いて以前と同じ言葉を掛けてくれました。
「お前もな、気持ちを入れ替えて過去のことは忘れろ。それにな、あんなヤローにはすぐに天誅が下るからさ……」
その頃、兄はアレックスさんと一泊で旅行に出掛ける計画を立てていました。あまりにも張り切って荷物や食糧の準備をしているので、流石に分かりました。
「楽しんできてね、お兄さん」
「悪いな、ヴィー。お前が辛い思いをしている時に俺だけ浮かれていて」
「そんな気にしてもらう方が申し訳ないわ。私、お兄さんの幸せに水を差したくないもの。気を付けていってらっしゃい」
街でも王都から来た女医さんということで噂になっていたアレックスさんに私も早く会ってみたかったのです。もちろん兄の恋人として紹介されることを期待して、兄の健闘を祈りながら彼を送り出しました。
二人きりで旅行をしたことによってアレックスさんと兄はより親密な関係になれたようでした。詳しいことは話してくれませんでしたが、兄の穏やかな表情を見ていると分かるのです。
私にも素敵な出会いがあると信じて生きていこうと心に誓いました。
そしてペルティエ領も段々と肌寒くなってきました。
その頃から私はある不安にかられるようになっていました。月のものが来ないのです。日を重ねるごとにその不安は大きくなっていきました。
そんなある日の夕方、私が家で料理をしていると誰かが扉を叩きました。
「少々お待ちください、今開けます」
私の髪よりもずっと濃い茶色の髪の小柄な女性でした。
「あ、あの、これをミショーさんのお宅にと、マルゲリットさまに頼まれてお持ちしました。私、デュケット診療所で働いている者です」
動きやすい質素な綿のドレスを着ている彼女でしたが、訛りのない、美しい言葉遣いからも育ちの良さが感じられます。彼女の緑がかった色の瞳からは、聡明で自分の意思をしっかりと持った人だということが分かります。この人が噂のアレックスさんだと私は確信しました。
「まあ、ありがとうございます。助かるわ」
彼女は手にしていた籠を私に渡してくださいました。両親が野菜を入れて運ぶのに使っている籠です。彼女は今日母の診療所で働いて、その帰りなのでしょう。
「えっと……」
私は自己紹介をして兄がお世話になっていると言うべきかどうか、少し迷っていました。アレックスさんも何か言い淀んでいます。
「はい?」
「い、いえ、何でもありませんわ。失礼いたします」
私がそれ以上口を開く前にアレックスさんは帰っていってしまいました。
その翌日に私はまたアレックスさんに会いました。彼女が私の銀行に来たのです。その時私は丁度受付に居ました。
「あ、貴女は……」
彼女も私のことを覚えていて下さったようです。
「お早うございます。昨日はありがとうございました。貴女が王都から来られた新しいお医者さまのアレクサンドラさんだったのですね」
「私ってそんなに有名なのですか?」
「ええ、それはもう」
私は思わず含み笑いをせずにはいられません。兄がいつもお世話になっています、という言葉が喉まで出かけていました。
「ヴィオレットと申します。どうぞヴィーとお呼び下さい。私はアレックスさんとお呼びしてもよろしいですか?」
「はい……」
彼女の用件が済んで、ふと思いつきました。明日になっても月のものがなかったら『フロレンスの家』の外来で診てもらおうと考えたのです。いつまでも不安を抱えていたくなかったからです。
母の診療所で診てもらうよりも、誰か他人に相談したかったのです。もし妊娠していたら腹を
次の日の午後、銀行を早退させてもらい私は『フロレンスの家』に急ぎました。
寒くなると外来の患者さんも多く、待合室は少々混んでいました。そして私の番が回ってきて、診察室に呼ばれるとそこにはアレックスさんが居ました。今日の担当医は彼女のようです。
私は妊娠しているかもしれないと相談し、彼女にまだはっきり確認はできないと言われました。私もそれは分かっていました。ただ、誰かに聞いてもらえて少しすっきりした気分になっていました。
そして私が去る際にアレックスさんが倒れてしまったのです。
それからが大騒ぎでした。他のお医者さまの指示で彼女は病室に寝かされ、私は看護師さんに私は彼女が倒れた時の様子を聞かれました。
フロレンスの家から母の診療所で働いている非常勤のクリスチャンさんに遣いが送られ、急遽代わりのお医者様として明日から入ってもらうことになったようでした。
施設の宿舎で一人暮らしのアレックスさんですから、この街にすぐに知らせないといけない家族は居ません。ですから私は急いで兄の材木店へ行きました。知らせを聞いた兄の慌てようは妹の私でも初めて見るものでした。
「お兄さん、落ち着きなさいよ。お医者さまによると多分軽い貧血だろうとのことですから」
「そんなこと言ったってさ、昨日晩からもう何か元気がなかったんだよな……だというのに帰すのが少し遅くなってしまって、俺……」
「とりあえず急ぎましょう」
アレックスさんの病室に着いた兄は意識のない彼女の手をしっかりと握り、彼女の額や
「アレックス、大丈夫か……心配したぞ……ゆっくり休め。愛しているよ……」
私が居るのにもかかわらず、あの兄がド直球の愛の言葉まで囁いています。しばらくしてアレックスさんは気が付いたようでした。
「アレックス、目覚めたか! 大丈夫かお前、いつも無理し過ぎなんだよ!」
兄の気持ちは分かりますが、目を開いたばかりのアレックスさんが驚いています。
「お兄さん、そんな大声出さないの! ここは病室です」
「ケ、ケン? ケンなの?」
「ああ、気付いたみたいだな、良かったぁー」
兄は私が居るのに再びアレックスさんの唇に軽くキスまでしています。もちろん彼女の手はしっかりと握ったまま、もう片方の手で彼女の髪と頬を優しく撫でています。
「私、きっと現実逃避の夢を見ているのね……ケン、貴方がここに居るだなんて……」
意識が戻ったアレックスさんは何だか混乱気味のようでした。
「何言ってんだ、アレックス。お前が倒れたって聞いて居ても立っても居られなかったんだぜ、俺は。何を置いても駆けつけるに決まってるじゃねぇか」
「だからもう少し静かにしなさいってば、お兄さん。アレックスさんが驚いているじゃないの」
病室なのにいけないと思いつつ、私と兄は二人熱くなって言い合いを始めてしまいました。
「ヴィー、お前のキンキン声の方がよっぽど耳障りなんだよ! アレックスはお前の診察中に倒れたんだってな、大体ここ数年風邪でさえひいたことのないお前がなんで医者にかかる必要があんだよ」
「そんなこと、お兄さんに言う必要ないでしょ」
「医者なら母さんの所へ行って診てもらえばいいだろーが! ただでさえアレックスは忙しいのに、仕事増やすんじゃねぇよ。俺とのデートの時間も減るし」
「家族じゃなくて他人に診てもらいたいこともあるじゃないの!」
義妹(三)に続く
***ひとこと***
アレックスにヴィオレットちゃん、それぞれ深刻な悩みを抱えています。とりあえずアレックスの疑惑は先に解消したようです。
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