第十四話 追撃
二人で食事をした店を出ようと私が上着を着ていたらケンに耳元で囁かれました。
「これからお前の部屋に行ってもいいか?」
そう聞かれることは分かっていました。私はギクリとしたことをケンに気付かれていないか、恐る恐る答えました。
「いえ、今夜は……明日の朝はいつもより早い出勤だし、それに今、月のものが始まっていて……」
嘘をついたことで挙動が不自然になっていないか、心配でした。
「なんだ……まあそれならしょうがねぇな、じゃあ送って行くよ」
「あ、ありがとう」
私の宿舎まで二人でゆっくりと歩きながら、私はケンにもう会わない方がいいとどうしても言い出せずにいました。彼が私の唇に口付けて、帰っていく後姿を見送りながら、その姿が涙で
「次に会うのが最後よ、アレックス……いつまでも続けられないわ……」
今晩彼が私の部屋に来ることは断ったものの、別れる前にもう一度だけ彼に抱かれたいという浅ましい気持ちをどうしても抑えられませんでした。
気の弱い私は何も言い出せず、次の休みの前夜にケンとまた食事に出掛ける約束までしてしまいました。
見知らぬ土地に一人で来て、やっと出来た友人であり恋人であるケンを失うことになるのです。それでも私はここペルティエ領に根を張ると決めたのですから、辛くてもここで生きていくしかありません。
次にケンに会う日まで再び仕事に一心不乱に打ち込むことにしました。ふとしたことで私はすぐに後ろ向きな考えに囚われてしまうのです。何かやっていないと気が紛れませんでした。
孤児院の子供達の屈託のない笑顔には本当に癒されました。
その日私は孤児院ではなく、成人の患者さんが入院している棟での勤務でした。そして午後になると外来診察の方へ助っ人として呼ばれました。
寒い季節になるとやはり外来の患者さんも連日沢山来るのです。何人目かの患者として入ってきた人物に私は目を見張りました。
「アレックスさん、こんにちは。ああ、貴女の診察で良かったです。出来れば女医さんが良かったの」
「こんにちは。えっと、ヴィオレット・ミショーさんでしたわよね」
口調に棘がないか、自分でも自信がありませんでした。今日の彼女はベージュのドレスですが、手提げ袋が
「あの、迷いに迷ったのですけれど、手遅れになるよりは、と考えて……思い切って今日こちらに参りました」
ヴィオレットさんは心なしか顔色が悪く、思い詰めたような表情をしていました。
彼女の言葉に私は冷水を被せられたような気持ちになりました。あれだけケンと私は外で良く会っていたのです。こんな小さな街ですからすぐに人目についてもしょうがありません。
彼女が私の職場に乗り込んで来る前に潔く関係を終わらせるべきだったのです。
「最近、私疲れ気味で、眠くてしょうがないのです。それに気分も悪くて……」
今度は拍子抜けして思わず耳を疑いました。ヴィオレットさんは本当に体調不良で診察のために来たのでした。
そう言えば今日の午後は本来私の診察日ではなく、代理で診察しているのでした。彼女はわざわざ私に会うためではなく、純粋に医者に診てもらいにここへ来たのでした。そう言えば先程彼女は出来れば女医の方が良かったと言いました。
自分の勘違いに心の中で恥じ入りました。私は動揺してしまっていて、理路整然と思考することが出来なくなっているようです。気を取り直して医者として患者さんに向き合うことにしました。
「他にはどんな症状がありますか? 夜は良く眠れますか?」
「実は月のものがもう二か月ほどないのです。私、妊娠しているに違いありません!」
なんとヴィオレットさんはそう続け、私は頭を鈍器で殴られたかと思いました。
かえって冷静になれた自分が居ました。最近まで彼女の存在を知らなかったとはいえ、私には罰が当たったに違いありません。
朝から食欲もなくて胃の中には何もないというのに、戻しそうになり気分が悪くなりました。大きく深呼吸をして診察を続けます。
「最後に月のものがあったのは正確にはいつですか?」
「あまり良く覚えてはいないのですが、確か……」
彼女の言葉から、妊娠しているとしたらいつ頃その行為がなされたのか、即時に逆算している自分が居ました。
皮肉なことに丁度、私とケンが湖畔に旅行した頃でした。あまりに惨めで情けなくて、心の中で自嘲的に笑っていました。こんなこと、バカバカしすぎて三文小説のネタにもなりません。
「まだ妊娠を確認するのは早すぎますね。せめてあと、一か月半は経たないと分かりません。妊娠以外、他の病気の可能性も特に考えにくいです。あまり心配し過ぎるのも良くありませんよ」
私をそう喋らせているのは、なけなしの医師としての職業意識だけでした。ヴィオレットさんにも、宿っているかもしれない小さな命にも罪はありません。
「そうですね。誰にも相談できなくて、まだ妊娠だとはっきり分からないだろうとは思っていたのです。けれど私一人で悩んでいて不安でしょうがなかったのです。アレックス先生に聞いてもらえて少し心がすっきりしました。ありがとうございました。失礼します」
普通に考えたら、彼女がケンと結婚しているなら子供が出来ることは喜ばしい出来事で、彼女が一人で悩む必要はないのです。けれどその時の私は冷静な思考が全く出来なくなっていたのです。
「こんな季節ですから体を冷やさないように温かくして、お大事になさって下さい」
そしてペコリと頭を下げたヴィオレットさんを見送り、私は次の患者さんを呼ぼうと立ち上がりました。
その瞬間、私は
「アレックスさんっ! ちょっと誰か! お願いします、来て下さい!」
横になっている私の手を誰かの温かい手がしっかりと握っているのを感じていました。それと同時に額や
こんなことをするのはルイに違いありません。
『アレックス、愛しているよ』
そこでケンの愛の言葉が
『以前アレックスはおっしゃいましたね。私より好きになれる男性がいいと。難しくないですよ。胸がかきむしられるくらい、好きで好きでしょうがないと思える人が絶対に現れます』
今度はルイの声でした。そんな人が現れたけれど、私の恋は実らないみたいなの……私はルイにそう反論したかったのですが、口が開きません。そこで私はゆっくりと目を覚ましました。
***ひとこと***
アレックスはぶっ倒れてしまい、大変なことになっております。
さて、ヴィオレットとはすみれです。花の名前がついているという事はこのヴィオレットちゃん実は……
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