第十一話 婚前旅行


 そもそも私は結婚するまで純潔を守りたいという思いも少女時代からそう強くなかったのです。


 侯爵令嬢として育ちましたが、両親は割と奔放な考え方をする人でした。ですから以前付き合っていた医科の彼に初めてを捧げてしまって、もう娘ではありません。


 当時私はこの彼と一生共にしていくのだろうなと漠然と思っていたのです。けれど彼が王宮に就職出来なかったことで関係は終わってしまいました。


 それからというもの、私は何もかも面倒になり恋愛に積極的ではなくなりました。貞操観念の問題ではなく、誰にでも体を許す気にもなりませんし、深い関係になるとしたら結婚の約束をした人ではないと嫌だという思いも大きいのです。


 ケンのことは好きですが、いまいち私はそこまで踏み込んだ関係になっていいのか分からずにいました。庶民の彼はもちろん、貴族のそんな花嫁絶対処女主義や貞操観念は理解出来ないに違いありません。


 私はケンの真剣な眼差しを思い出していました。私は恋に落ちてしまっているからか、彼のことがとても素敵に見えてしまいます。この人には全てを捧げてもいい、彼の腕の中で目覚めたいという気持ちが躊躇ためらいに勝ったから彼との旅行を承諾したのです。




 二人きりの小旅行に出発する朝、ケンの荷馬車は荷物でいっぱいでした。


「ケン、何をこんなに沢山積んでいるの?」


「今晩と明日の食材だよ」


「えっ、宿に泊まるのではないの?」


「いや、別荘を借りた。周りには何もない静かなところが良かったからな。誰にも邪魔されずにゆっくり出来るよ」


 隣のケンは少しはにかんでいました。私も彼の意味していることが分かって少し赤面してしまいます。それよりもここに来て私は別の問題に直面してしまいました。


「ケン、別荘で私たち二人だけだったら……私、食事作りなんてほとんど出来ないのよ……」


 私たち一家も休みの度に良く別荘を借りて家族だけで過ごすことがありました。私の言う家族とはルイも入れた両親と兄弟の六人のことです。


 その時、食事作りなどの家事は主にルイがしてくれました。もちろん両親や私たちも手伝いました。ルイには料理の仕方も少し教えてもらっているので、私も簡単な料理なら作れるのです。


 けれど、実は舌が肥えているケンを満足させられるような食事が私に作れるとは思えません。


「心配するな、俺に任せておけって。侯爵令嬢のアレックスよりはずっと俺の方が料理の腕前も上だって自負しているから」


「ケン……私、宿に泊まるとばかり思っていて、貴方に全て準備させてしまったわ」


「わざとお前に言わなかったのは俺だから。二日間くらいならお前の世話をして、奴隷として奉仕する覚悟は出来ている」


「ちょっと、奴隷って何よ?」


「アレクサンドラ・ポワリエ嬢、この私に何でもお申し付け下さい。昼間は忠実に、夜は情熱的に仕えさせていただきます」


 真面目な顔でそう言ったケンが私の手の甲にそっと口付けます。


「いやだ、ケンったら……」


 私は真っ赤になってしまいました。かと思うとケンはおどけていきなり歌い出します。


「ペイヤー警部ぅ~、邪魔をし~ないでぇ~♪ ペイヤー警部ぅ~、私たちこれから……♪」


 彼が身振りも加えて歌っています。私は先日会った警護団のペイヤー団長の顔を思い出しながら吹き出してしまいました。


「ペイヤー警部ヨッ!」


「な、何気に失礼じゃない、ケン」


「何言ってんだ、街の奴らと飲み会で定番のしめの曲だぜ。警護団のミゲルと俺の、ミィちゃんケンちゃんコンビをむくつけき男共が囲んで大合唱よ」


 そのすごい光景を思い浮かべてしまい、顔が引きつってしまいます。


「俺が警護団精鋭バックダンサーズを従えて歌う『ミショケンサンバ』もあるぜ」


「みしょけんってなあに?」


「俺のこと。ケネス・ミショー、愛称ケン、略してミショケン」


「ビバ サンバ♪ ミショケンサーンバ オレ♪」


 そこでまた歌い出すケンに、もう私はお腹が痛くなるまで笑いが止まりませんでした。こんなに笑ったのは久しぶりかもしれません。




 ペルティエの街から半刻と少しで目的地に到着しました。ケンが借りてくれたという別荘は大きな湖の傍に建っているこぢんまりとした木造の家でした。


「まあ、素敵なところね!」


 一階は居間と台所で、テラスに出ると湖が見渡せます。二階には寝室が三部屋あり、日当たりの良い主寝室は湖側です。


はしけの小舟を漕いで湖に出られるよ。釣りもできる」


「本当? 早速水の上に出てみたいわ」


「じゃあ弁当を持って舟の上で昼飯にするか?」


「賛成!」


「その前に荷物を下ろさないとな」


「手伝うわ」




 以前よく両親とルイと皆で別荘に滞在していたことを思い出していました。私たち兄弟は三人とも、毎年夏休みが楽しみでした。皆で過ごした別荘での日々はいつまで経っても色褪せない良い思い出なのです。


 使用人に囲まれていないため、少々不便なこともありましたが、私たちにとってルイも加えた家族だけでのんびりと気楽にできる時間は何にも代え難かったのです。


「ケン、連れて来てくれてありがとう。ここには以前も来たことがあるの? こんな素晴らしい場所、良く知っているのね、貴方」


「どういたしまして。お嬢様に喜んでいただけて何よりです。この別荘は家族が教えてくれたんだよ」


「一泊の値段、結構するのじゃないの? 帰ったら半分払うわね。食材の費用も負担するわ」


「いいよ、この旅行は俺からのささやかな贈り物だ」


「ささやかなんてものじゃないわよ、ケン」


「遠慮するな、ニッコリ笑ってありがとうケンって言ってくれるだけでいい」


「じゃあお言葉に甘えて……ケン素敵よ、ありがとう♡」


 ケンは私の好きな満面の笑みになって、私の唇に軽いキスを落としました。




 一緒に出掛けるようになって気付いたのですが、彼はただの材木屋の従業員にしては金銭的に随分と余裕があるようなのです。


 食事や衣服にしても、彼の買い物の仕方にしても、今日のこの旅行にしても、です。それに何頭も馬を持っています。


 私も侯爵令嬢として育ちましたから、庶民の金銭感覚とは大きくかけ離れています。けれどペルティエ領で普通医師として勤め始めてからは出費に気を付けるようになっていました。それに昔からルイに色々教わっていたお陰で、貴族の私でも、庶民としての視野で物事を見ることができました。


 ケンは無駄遣いをしているわけでも、稼いだ分をすぐに使い切っているというわけでもないということは分かりました。元々裕福で大らかな人のようでした。


 湖から見渡せる木々の紅葉はため息が出るほど美しいものでした。しかも湖は大きく、湖岸には何軒か他の別荘も建っているのですが、十分離れていて私たちは静かな水の上に二人きりでした。


 昼食を舟の上でとり、ケンと交代で漕ぎ、湖の反対側まで着いた頃には段々と風が涼しくなってきました。私たちは別荘に戻ることにし、ケンはそっと私の肩に彼の上着を掛けてくれました。そのせいで何だか彼に優しく抱かれているような気がして、別荘に近付くにつれ、私は彼のことを意識せずにはいられません。


 はしけに舟をつけ、陸に上がるとすぐにケンにきつく抱きしめられました。


「アレックス……」


 彼の息に、唇に、私の背中をしっかりと支える大きな手に、熱を感じました。私の体中に火がついたようでした。


「がっついているようで、すまない」


「でも私も貴方が欲しいから……」




***ひとこと***

静かな湖畔の別荘で本当に二人きりです。次回はいよいよウフフな展開になること間違いなし! ケンの馬も見ていませんし!

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