第六話 遠乗り


 私とケンは食事をするのも忘れて話し込んでいました。


「でもさ、王宮医師ってのはエリート中のエリートで、試験も就職も超難関なんだろう? 給与もここらの普通医師とは数倍ももらえるって聞いたけれど、未練はなかったのか?」


「王宮医師の仕事を辞することよりも、私の愛する家族と離れてしまうことが辛かったわ。苦渋の決断ね」


「まあな、両親は特に娘が遠方に行ってしまうのが心配だったろうなぁ。しかも誰かに嫁ぐ為に親元を離れるわけじゃないしな」


 何だかケンに話し過ぎたような気がしてきました。けれど彼は真剣に耳を傾けてくれて、私は少しずつケンに惹かれていく自分を認めざるを得ませんでした。


「ケン、私の話を聞いてくれてありがとう。私、この地で頑張ってみるから」


「ああ、応援しているよ。ほら、お前もっと食えよ。医者って言うのは体力勝負だろ?」


「私、もうお腹いっぱいよ。材木屋で働く貴方の方がよほど体力勝負だと思うわ」


「まあね。俺もお前の話を聞きながら結構食べたから満腹だ」


 材木屋で働いているというケンの言葉を鵜吞みにしていた私は彼が一従業員で木材を切って運んでいるものだとばかり思っていました。実はそれはただの謙遜で、ミショー建材というのは彼が弟さんの助けも借りておこした店だったのです。


 ケンは立派な経営者で、今やミショー建材はペルティエ領の建築物をほとんど受け持っている大商店でした。それ以外にも、ケンについては私が知らないことが沢山ありました。




 私もだんだん新生活に慣れてきて、仕事も益々楽しくなってきていました。王宮で働いていた時とは比べ物にならないくらいの忙しさでした。


 週に二回は宿直当番も担当するようになり、急患が出た時は叩き起こされました。それでも私は忙しいくらいが丁度良かったのです。愛する家族と離れて見知らぬ地に一人きりという寂しさも紛らせることができました。




 ケンは次の休みの日に遠乗りに誘ってくれました。当日の朝は彼が私の乗る馬も引いて来てくれました。彼が乗っていたのは見事な栗毛で、私のためには美しい黒鹿毛の馬を用意してくれていました。


「お早う、ケン。どちらも素晴らしい馬ね。貴方の馬なの?」


「ああ。こっちがカフェでお前が乗るのはエトワールだ」


「まあ本当、額にエトワールのような模様があるわ。よしよし、良い子ね。私、馬に乗るのは久しぶりなの。今日はお手柔らかにお願いね、エトワール」


 私はエトワールの見事な毛並みに見惚れていました。


 それにしてもケンは何頭馬を持っているのでしょうか、カフェとエトワールは彼がいつも馬車を引かせている馬とはまた別でした。


「今日は天気もまずもつと思うから、北部の湖まで出掛けてみようか?」


「お任せするわ。私はこの辺りの地理には疎いもの」


 ケンと一緒に北へ向かって馬をしばらく走らせました。大きな湖のほとりに着き、馬に水を飲ませます。湖畔の大木の影でお昼にしました。


 今日の外出に誘ってくれた時、ケンに馬に乗れるか聞かれました。学生の頃は私も良く乗っていて、休みの日には遠乗りに出掛けていたものでした。


 ケンはただ乗馬できる服で待っていてくれればいいと言ってくれました。そして彼は私が乗る馬だけでなく、私の分も昼食を用意して持ってきてくれたのです。


「何から何までありがとう、ケン。今週はずっと働き詰めだったから、久しぶりに良い気分転換になったわ」


「喜んでもらえて何よりだよ」


 そして二人、しばらく会話が途絶えて沈黙が流れました。


「なあ、アレックス……」


「なあに?」


 私はケンの方を向きます。そして二人見つめ合って、どちらからともなく唇を合わせていました。雰囲気的にこうなる予感はありました。


 けれど、まだ会って二週間のケンに唇を許してしまった自分が信じられませんでした。いつの間にか私は彼の逞しい腕の中に居ます。彼の温もりと、段々激しくなる口付けに身を任せてしまいたい気持ちを何とか抑えました。両手で彼の胸板をそっと押し返しました。


「駄目よ、ケン。カフェとエトワールに見られているわ」


「何だよ、それ。俺の馬なら心配するな。別に気にしていないし、見て見ぬふりで誰にも言わないって」


 しかしケンもそれ以上強引な態度には出ませんでした。私は彼の体から離れて立ち上がりました。


「あの、ごめんなさいね、ケン……」


「まあ、それは……いいよ」


 彼は怒ってしまったのでしょうか。貴族だからってお高く止まって勿体ぶっていると思われているかもしれません。


 私は何と言っていいか分かりませんでした。ケンに惹かれている自分が居るのは認識していました。


 けれど、私は彼とキスやそれ以上の付き合いになる心の準備がまだ出来ていないのです。私は特に貴族令嬢だからと言って貞操観念までそうではありません。周りの貴族の友人達の中でも奔放的な方で、実はもう初体験もとっくに済ませていました。


 ケンとは急いで関係を深めたくなかったのです。私がキスを途中で拒んだことで彼に嫌われたかと思うと、深く落ち込んでしまいそうでした。


 何と言っても彼はペルティエ領で初めて出来た友人でした。あまりに急いで関係がぎくしゃくしてしまうことを恐れていました。私にはまだこの地でケン以上に仲の良い人はいません。


「そろそろ帰ろうか? 何だか雲が増えてきていないか? 街に着くまでもてばいいけどな……」


 彼のその言葉に私は空を見上げました。確かに先程までは青空が広がっていたというのに、いつの間にか空の半分が雲で覆われていました。


「本当だわ、これは雨になるかもしれないわね」


 案の定、街が小さく前方に見えてきた頃に私たちは雨に降られてしまいました。私の宿舎に着いた時は二人共びしょ濡れでした。


「ケン、体が冷えて寒くない? 今手拭いを持ってくるからちょっと待っていてね」


 私はエトワールから飛び降りると、急いで部屋からあるだけ手拭いを持って来ました。


「お前も体が冷えているだろ、早く風呂に入れ」


 彼はそれでもカフェから降りて、手拭いを一枚掴んで髪の毛をガシガシと拭いていました。


「貴方も風邪をひかないようにね……」


 そこで二人の目が合いました。彼の瞳の奥に欲望の炎が見えたのは私の気のせいではありません。このままケンを私の部屋に招き入れると、どうなるかくらい分かります。雨で体が冷えているというのに、私の体にも火がついたようでした。


「アレックス……」


 ケンの声がかすれていました。


「あ、あの、カフェとエトワールも可哀そうだから……急いで帰って馬屋に入れてあげて」


 私はこのまま流されてしまってはいけない、と理性を振り絞りました。もうケンに誘ってもらえなくなるかも、という恐れはありました。けれどどうしても出来ませんでした。


 そこでケンはフッと笑ったようでした。そんな笑顔がまだ私に向けられるとは思ってもいませんでした。


「全く、馬思いなお嬢さんだ。じゃあな」


 そして彼は一瞬私の唇に口付けた後、再びカフェにまたがり、エトワールを連れて帰路に就いたのです。その後私はお風呂に入って自分の唇を触りながらケンのことを考えていました。


「お堅い女だって思われたわよね。もう食事にも誘ってもらえなくなるのかしら……」


 ため息ばかりが出てきます。




***ひとこと***

遠乗りデェトでキス!

「王子と私のせめぎ合い」以来、久しぶりに書いた遠乗りデートでした! 馬を始め、動物の名前を考えるのも好きです。ただ、大抵毛並みの色で名付けているのでそろそろネタ切れなのです。

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