第五話 新職場


 新しい職場での仕事が始まりました。私は周りの同僚たちと上手くやっていけるか、患者さんたちに心を開いてもらえるか、色々と心配ばかりでした。


 蓋を開けてみると『フロレンスの家』では医師不足で目の回るような忙しさでした。施設の入居者で病気や怪我をしている人の回診に、併設の託児所や孤児院の子供達の定期健診、それに外来の患者さんを診ることもあります。


 一日働くとぐったりで、宿舎に帰って寝るだけで精一杯のこともありました。王宮医師をしていた時とは一日の時間の流れが全く違いました。


 まだ数日勤めただけでは分からないでしょうが、やり甲斐があってやる気が湧いてくる職場だと思えました。同僚の医師も看護師も、人手不足のところにやって来た私を歓迎してくれました。足手まといにならず、即戦力になれたようでほっとしていました。


 仕事を初めて三日目の夕方、ケンが私の宿舎に訪ねてきました。


「よぉ、アレクサンドラ先生。過労で参っていないか?」


「何よ、その先生っていうのは、やめてよ」


「疲れていなかったら食事に出掛けようぜ」


 そう言えば先週、デュケット診療所のことを教えてくれた時にケンは今度食事にでもと言っていました。本当にこんなに気軽に誘われるとは思ってもいなかった私でした。ただの社交辞令ではなかったのです。


「いや、お前が街に出る元気もないのだったら、別にいいけど」


 瞬きをしながらしばらく無言の私に気を悪くしたのでしょうか。


「あ、いいえ。そうじゃなくって、少しその、驚いたと言うか……私で良ければご一緒したいわ」


 仕事へは動きやすい私服で行っている私です。看護師や他の職員にはエプロンや作業着の着用義務がありますが、医者は施術や手術をする時以外、基本的に私服です。


「私のこの普段着のドレスでもいいかしら? 消毒薬の匂いはしない?」


「いいよ。俺だってこんな恰好だし」


 彼はシャツの上に綿の薄い上着を羽織っていました。仕事の後に着替えたに違いありません。森で木を切ったり運んだりするには少々小綺麗すぎる装いでした。


「この間、西部料理の旨い食堂があるって言っただろ、そこでもいいか?」


「もちろんよ。私、本格的な西部料理を食べたことないのよ」


 西部の料理は割に塩味が薄めで、野菜の旨味を利用する煮込みが有名です。


 私は仕事が始まったことを両親に文で知らせていましたが、色々その日にあったことを直接誰かに話せることが純粋に嬉しかったのです。それにケンとはいつも楽しくお喋りできました。


 この人は私が侯爵令嬢で、元王宮医師であることも全て知っているのに、言葉遣いもくだけたものですし、まるで私が同じ平民であるように接するのです。


 最初は少々鼻に着いた彼の態度でした。しかし、今では彼が卑屈になることも萎縮してしまうこともないのが好ましく思えます。


 以前付き合っていた貴族の男性たちは誰もが女の私より優位に立つことが何よりも重要なことと考えていたようで、無駄なプライドだけは高かったのです。


 ケンの屈託ない笑顔と率直なもの言いがとても心地良く感じられるようになっていました。私たち二人は何もかもが違うというのに、ただ何気ない世間話も気楽にできて、意外でした。


 それでも聞き上手なケンを相手に、何だか私だけが話しているような気がしないでもありません。




 食堂に入り、ケンは麦酒を注文していました。私も一杯だけ飲むことにしました。


「アレクサンドラ先生の順調な仕事の滑り出しに」


 彼がグラスを挙げています。


「先生は止めてって言っているでしょう。私はそうね、貴方の怪我の回復を祝って」


「こんなん怪我のうちに入んねぇよ」


「そんなこと言って感染症を甘く見ていると痛い目に逢うのだから」


「分かりましたよ。俺、医者の言うことは素直に聞くに限るって身に沁みて分かっているからな。で、どう? 施設での仕事は?」


「忙しくて充実しているわ。まだまだ戸惑うこともあるけれどね。でも、思い切ってここまで来て良かったって思っているわ。一か月、一年経っても同じことが言えるように頑張ります」


「王都からこんな田舎にやって来たのだからまあ環境の変化も大きいし、そんなに力まずにほどほどに頑張れよ」


「ありがとう、ケン。貴方に色々手伝ってもらえて本当に助かっているのよ」


「ずっと不思議に思っていたけど、何でお前は王都でのエリート医師の座を捨ててまでこんな田舎に越して来ようと思ったわけ? 今まで何度も聞かれてもう答えるのも面倒だったら言わなくてもいいけれどさ」


「うふふ、貴方の言う通り、確かに何人にも同じ質問をされたわ。どこから始めましょうか……私は父方の祖母を知らないの。と言うのも彼女は父が幼い時に流行り病で亡くなってしまったから」


「それでお前は医者になろうと思ったわけ?」


「そうね。祖母のことを聞かされた時、私は丁度貴族学院に上がる前だったのよ。貴族学院というのはいわゆる中等科ね。進学して、勉強が得意だった私は迷わず医科に進んで医者になったのよ。王宮医師は難関だったけれど、私は努力して就職することも出来たの」


「何か、俺すっごい人とこうして話しているんだなぁ」


「もう辞めてしまったし、すごくないわ……最初は何の疑問も持たずに勤めていたのよ。でも昨年の今頃だったかしら、王都の『フロレンスの家』の理事をしている私の知り合いから、一日だけ助っ人に入って欲しいと頼まれて……」


 どうしてケンを相手にこんなことを言い出したのか、分かりませんでした。貴族学院の友達や同僚にはまず理解してもらえなかった私の決断を、タダの平民のケンになら聞いてもらえるような気がしたのでしょうか。


「ここでの仕事のように一日中患者さんを見続けて、目から鱗が落ちる思いだったわ。そこでは本当に医者として仕事をした、って気持ちになれたのよ。何だかうまく言えないけれど、医者としてきちんとした診断が出来る事例だけではなかったし、もう手の施しようのない患者さんもいたわ」


「なるほどね」


「王宮で王族や貴族を診る仕事に不満があったわけではないの。けれど、その日から私は自分の医師としての在り方に疑問を持つようになって、『フロレンスの家』で非常勤として働かせてくれないかと理事に頼んでみたのよ」


「王宮医師は副業を入れても良かったのか?」


「本当はいけないから、奉仕活動ということで週一回だけ働いて私はそこでやり甲斐を見つけたの」


「それではるばるペルティエ領の『フロレンスの家』に来ることにしたのか?」


「ええ。ペルティエ領の方がより医師不足が深刻だと聞いて、迷ったけれど結局申し込んでみたのよ。そして見事採用されたから私は今ここにいるの。病は病と言うけれども、貴族のお嬢さまのにきび治療や、奥さまたちがいかにして楽に体型を保てるかとか……あとは長年の暴飲暴食が原因の成人病を日々王宮で診ていて、私はこの為に医者になったのかと自問自答する毎日だったのよ……」


 私は家族や親友というごく一部の人々にしか告げていなかったことをケンに話していました。




***ひとこと***

さて王都の『フロレンスの家』の方はフロレンスが創設した時にアメリが手伝いました。その後、アメリの娘ミシェルもそこに就職、今は彼女が理事を務めています。そのミシェルがアレックスを庶民の医療現場に引き込んだのですね。以上、今作の作成裏話でした。

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