第四話 診療所


 仕事が始まる二日前、私はペルティエの街外れにある小さな診療所を訪ねました。


「街外れに小さい診療所があるんだよ。医者一人でやっているデュケット診療所っていうんだけど。仕事が始まる前にそこに行って診察しているところを見せてもらえば勉強になると思わないか? お前が見学したいならいつでもいいって了承を得ているから、良ければ」


 王宮医師として患者は王族や貴族ばかりだった私です。新しい仕事の初日に向けてとても緊張していました。そんな私にケンがこの診療所に行ってみることを勧めてくれたのです。




 街外れの空き地にぽつんとある建物は診療所というより民家でした。私の母と同じくらいの歳の上品な女性が笑顔で迎え入れてくれました。


「ああ、いらっしゃい。アレクサンドラさんですよね。ケンから貴女のことは聞いています。マルゲリット・ソンルグレです」


「アレクサンドラ・ポワリエです。ソンルグレということは、もしかして……王都のソンルグレ家にゆかりのある方ですか?」


「ええ。ナタニエル・ソンルグレは私の兄ですわ」


 ナタニエルさまは魔術院総裁を務めていらっしゃる、両親の同僚で長年の付き合いのある方です。マルゲリットさまの身のこなしや仕草が洗練されているのにも納得でした。彼女も元は貴族令嬢だったのです。


「まあ……道理で……マルゲリットさまも王都出身で貴族学院を出ていらっしゃるのですね」


 マルゲリットさまのお父さまは王国史上最年少で副宰相に就任され、退職前は宰相の地位に就いておられた方です。お母さまは『フロレンスの家』の創立者なのです。


 そう言えば私も少し聞いたことがありました。ソンルグレ侯爵家の末娘のマルゲリットさまは医師の免許を取って貴族学院を卒業した後、単身ペルティエ領に移り住んだそうでした。


「どうぞマルゴと呼んで下さい。私も貴女のこと、アレックスさんと呼ばせてもらいますね」


「はい。お忙しい中、今日は私の見学をお許しいただいて、ありがとうございます」


「まあそんなに固くならないで下さい。私も貴女も同じような境遇なのですから、私が出来ることでしたら協力は惜しみませんわ」


 貴族学院を出たのに平民として働くなんて、今の時代でも貴族社会では眉をしかめられるのです。マルゲリットさまは二十年以上も前に決断してそれを実行に移したのです。


 私は正面玄関から入った所から診療所の内部を見回して感嘆のため息をついていました。小さくて古い建物ですが、掃除や手入れが行き届いていて清潔なこぢんまりとした診療所でした。


「もう患者さんがいらしているから、私は診察を始めますね。看護師のシャンタルに診療所を一通り案内してもらって、その後に診察室にいらして下さい」


 診療所にはマルゲリットさまの看護師兼助手のシャンタルさんが居るだけでした。そしてもう一人の医師クリスチャンさんは週に二日だけ非常勤で入っているそうです。彼はフロレンスの家でも非常勤の医師として働いているのです。


 患者さんは皆近所の人たちで、お互い良く知っている間柄のようでした。待合室でワイワイと楽しそうな世間話に花が咲いていたところをシャンタルさんに静かにするように注意されていました。


「皆さん、ここは一応診療所なのですけれど! 病気や怪我でお喋りどころではない患者さんもいらっしゃるのですから!」


 私は午前中、マルゲリットさまが診察するところを見学していました。


 お昼前に少し患者さんが途切れたので一緒に昼食をとることになりました。私は宿舎の食堂で今日のお昼のために少し多めにパンと果物をもらっていたのを食べました。


「今日のお弁当も豪華ですねぇ、マルゴ先生」


 シャンタルさんがお茶を淹れてくれました。確かにマルゲリットさまのお昼はパンだけでなくスープにサラダ、デザートのクッキーまでありました。


「クッキーは沢山あるのですよ。アレックスさんもよろしかったらどうぞ」


「ありがとうございます。美味しそうですね」


「ここの仕事とフロレンスの家での仕事は同じ医者でも少し違うと思いますけど、基本は同じですから。でも、良く決心なさいましたね。王宮医師として勤めていた貴女がこのペルティエ領にいらっしゃるとは……」


「えっと、私は席を外した方が良いですか?」


 シャンタルさんがマルゲリットさまと私を見比べています。


「そんな、シャンタル。アレックスさんが宜しいのでしたら貴女も居て下さい」


「ええ。私も構いませんよ」


「では遠慮なく、居させてもらいます」


「以前の仕事辞めることには随分迷いましたけれど……反対すると思っていた家族が皆私の背中を押してくれたのです。だから他人が何と言おうが気になりませんでした」


「まだ仕事は始まっていないのですよね。うちに見学に来られてどうお思いですか?」


「今朝のマルゲリットさまの仕事ぶりを見て、感動しました。私は一日でこんなに沢山の患者さんを診ることはありませんでしたから」


「私も最初は本当に大変でした。若かったあの頃が懐かしいわ。医師の仕事だけでなくて、家事も育児も全てしないといけなかったのですもの」


「まあ……私はその点、今のところは宿舎住まいなので家事は免除されています。それに子供も居ませんし……マルゲリットさまの方が本当に庶民の暮らしにいきなり飛び込まれたのですね……」


 旧姓のままのマルゲリットさまは独身を貫いているのだと思っていましたが、お子さんがいらっしゃったようです。


「そうですね。けれどありがたいことに、我が家には私よりもずっと家事の得意な人がいるから……私も頑張ればお弁当もクッキーも作れるのですけれど……」


 マルゲリットさまは少女のように頬を赤く染めて、はにかんでいらっしゃいます。彼女のお弁当はてっきり使用人が作ったものだとばかり思っていました。


 色々な疑問が私の顔に出ていたのでしょうか、シャンタルさんがくすくすと笑っています。


「マルゴ先生のお弁当は一見しただけで先生がご自分でお作りになったのか、愛夫弁当かどうか分かりますものね」


 どうやら旦那さまの愛情がたっぷりこもったお弁当のようでした。


「口惜しいですけれど、シャンタルの言う通りね。ところでアレックスさん、午後はどうなさりたいですか?」


「何でもいいからお手伝いさせて下さい。もちろん見学だけでも構いません」


「分かりました。では、アレックスさんに何か出来そうなことがあったらお任せしますわ」


「ありがとうございます」


 午後はそうおっしゃるマルゲリットさまの側で、患者さんの診察もさせてもらいました。怪我をした子供の手当もしました。


「アレックスさんは小さい子供の相手に慣れているのね」


「はい。八つ離れている弟がいます。今は貴族学院の騎士科に通っています。腕白で幼い頃から怪我が絶えなくって」


「うふふ、どおりでね」


「今日は本当にありがとうございました。私も新天地で心機一転頑張ろうと思います」


 新しい環境での仕事にまだまだ不安は大きかったのですが、少しだけ気が楽になったような感じでした。全く初めてのこの地ペルティエ領でケンの他にも何人かの知り合いが出来たのも嬉しかったのです。




***ひとこと***

マルゲリット登場です。カジメンの旦那さまとも変わらずラブラブのようです。さて診療所はさすがにデュケット先生はもう引退されています。

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