13
「……叶くんはさ、記憶喪失の割には、すごく落ち着いているね。どうしてだろう?」
その祈の声を聞いて、叶が隣に座っている祈のほうにその顔を向けると、祈はじっと森の奥のほうにその目を向けていた。
森の中に吹く風に、祈の長い黒髪が、美しく揺れている。祈の白くて小さい綺麗な耳が、その揺れている黒髪の中で見え隠れしている。
叶は、そんな祈りの美しい、まるで一枚の絵画のような横顔をじっと見つめる。
二人の周囲に吹く、小さな風の音が聞こえる。
「……そうかな? 僕、そんなに落ち着いてるかな?」叶が言う。
「うん。落ち着いているよ。すごく落ち着いている」視線を動かして、叶の顔を正面から見て、祈は言う。
祈の大きな黒い瞳がじっと叶のことを見つめている。
……そう言われてみると、確かにそうかも知れない、と叶は思った。
確かに僕は、記憶をなくした割には、すごく落ち着いてるかも知れない。
本来ならもっと慌てるべきなのかも知れない。
本当なら、もっと、僕は『自分の身に起こった不可解な出来事』について、真剣に考えるべきなのかも知れない。
でも、僕はそんなこと全然考えていない。
……あんまり、気にもなっていない。(気になるのは、祈のことばかりだった)
……いや、むしろ気にならないどころか、……僕は。
そう考えると、なぜか叶の胸は、少しだけ痛くなった。
「もし、もしだよ。私が記憶喪失になってさ、どこにも知らない場所の中でたった一人で目を覚ましたとしたらさ、きっと、私だったら、もっと焦ってしまうと思う。きっと、ううん。絶対に怖くて泣いちゃうと思う。大声で叫んだり、悲鳴をあげながら、『誰か私を助けて!!』 って、泣きじゃくりながら、叫んじゃったりしちゃうと思う。それが普通だと思う。……でも、それなのに叶くんは、なんだかずっとどこかぼんやりしているし、……それに、ずっと私に以前に君とどこかで会ったことないかな? とか、そんな変なことばっかり聞いてくるし……。全然、泣いたり、叫んだり、助けを求めたりしない。なんだか全然真剣じゃない。まるで、自分の身に起こったことじゃないみたいに見える。全部が自分のことじゃない。全部が他人事みたいに思えるよ」
と真剣な顔で祈は言った。
「……きっと、あんまりいい思い出がなかったんだよ。記憶を失う前の僕には。きっと忘れたいことばっかりだったんだと思う。……だからじゃないかな?」
祈を見て、小さく笑って叶は言う。
二人は、その叶の言葉のあとで、少しの間、沈黙する。
「なんだか、すごく悲しいことをいうね。お姉さんは寂しいな」とまた、森の奥のほうに目を向けて、小さな声で祈は言った。
叶は、祈が見ている森の奥のほうに目を向ける。
するとそこには暗い、本当に暗い闇があった。木々の間にある、真っ暗な闇。なにもかもを飲み込んでしまいそうな闇。
……『森は叶くんが考えている以上に、危険なところなんだよ』。
そんな祈の言葉を、叶はその闇を見て思い出した。
叶はじっと、その闇をみつめた。
闇はただ、そこにあった。
……いつまでも、いつまでも、そこにあり続けた。
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