第4章 ジャバウォック


第四章 ジャバウォック


──相変わらず、僕は壮先輩の連絡先を知らない。

 別にいいのだけれど。距離は縮まりそうで縮まらない。まるで手の中をすり抜けていく野良猫のように、壮は捕まったり捕まらなかったりする。

 千宗は週に三日、予備校に通っている。予備校講師は一年生の内からこつこつ努力することが難関校への突破口だと語りながら、自分の授業は手を抜いていた。

 どことなく世界の全てが灰色に見えることがある。そんなはずはないのにと千宗は首を振り、そのイメージを振り払おうとする。世界は素晴らしいといえなくとも、価値があって然るべきだ。虐待の末に死んでしまった子供がいて、飢餓で苦しむ人がいて、故郷を失った人がいる世界の中でも。世界は灰色なんかじゃない。彩が合って、調和が合って、美しい音楽が流れているはずだ。そうでなければ、いけないはずだ。

「最近、付き合いいいな」

 学校帰りのカラオケルームで、友人が言った。飲んでいるジンジャーエールの匂いがする。

「今まで悪かった?」

 千宗が訊ねると、少し困った風に笑う。

「いや、熱心に部活に行ってたから」

「ああ。まあ最近は曇りで星が見えないからね」

 嘘だ。

天文部は相変わらずで、千宗が第一理科室に行けば『本日活動中』になるし、行かなければ『本日休み』になるだけだ。東藤も壮も出欠席など気にしていない。

 部活に行きたくなくなったわけではない。ただなんとなく第一理科室での勉強よりも、気になることができた。その気になることを千宗は友情の研究と名付けていた。

 壮と佐鳥の一件以来、千宗は何かと、友情と言うものについて考えていた。純粋に二人が羨ましいのかもしれないし、はたまた、そんなものは存在しないのだと神の如く結論づけたいのかもしれない。そのどちらにせよ、千宗の関心ごとは第一理科室のミントグリーンのびっくり箱よりも研究に向いていた。

 クラスメイトと遊ぶのは退屈さと楽しさが共存していた。退屈さは漠然と、楽しさは夏に爆ぜる花火のように一瞬だった。だが、人付き合いなど、こういうものなのだろうという諦めもあった。いくら親しくて、それこそ親友と呼べるような人と出会ったとしても、毎日話していれば話題も尽きるし、飽きもくる。それはお互い様というやつだ。

 僕に必要なのは危機的状況なのかもしれない。

 たとえば友人が危険なパパ活に勤しんでいたとか、そういう状況。それでも壮のように佐鳥を信じられるか、大きな嘘をつかれた後でも親友でいられるか。

 クラスメイトの危機的状況を頭の中でシミュレーションしてみたが、自分は彼らを許すことができた。けれどその許しは親愛から来るものなのか、それとも無関心から来るものなのか判断がつかなかった。

 だからこそ必要なのは、鬼気迫るような本当のひっ迫した状況だった。



 翌日、二週間ぶりに天文部の第一理科室に向かった。部屋には既に英米小説を読んでいる壮がいた。いつものようにロッカーの上に寝転んでいる。まるでひなたぼっこをしていペルシャ猫だ。

「よう」

 壮は本から目をそらさず、それだけ言う。よほど本の中が面白い展開らしい。

「こんにちは」

「お前、最近、部に来なかっただろ。俺、一人で人探しに悩み相談に、大変だったんだぞ」

 そう言いながら、やはり目線をこちらに向けない。本気で怒っているわけではないのだ。

「すみません。友達と遊んでて」

「お前に友達がいることが本当に不思議だよ」

「失礼ですね」

「おいおい。俺は褒めてるんだぜ。どうしてか世間は友達は多い方がいいなんて言うが、実態はそうじゃない。本当にヤバいときに助けてくれる人が多い方がいいって話だ。にもかかわらず、お前は表面的付き合いを怠らない。そんなこと面倒で、俺にはできないね」

「本当にヤバいとき、ですか」

 語彙力のないその例えを口の中で繰り返してみる。

「佐鳥さんのためなら、なんでもできるってことですか?」

 ちらりと壮が本を上に上げてこちらを見た。

「さすがに殺人は考えるな」

「それ以外ならひとまずはオーケーなんですか……」

 窃盗、強盗、放火、色々と思いつくが、そこらへんは良いのだろうか。

「ま、蛍はそんなことしねえよ。そう思うから友達なわけだし、違うのか?」

 友達の行いに、責任を持てるのか。壮の意見は、どうやらイエスのようだ。

「僕に定義を求められても困りますよ。ギリシャの哲学者とかに聞いてください」

 僕の意見はどうだろうか。クラスメイトが、たとえば万引きでもして、それを知ったとき、一緒に店に謝りに行ったりするんだろうか。上手くイメージできない。いや、そんなこと自分はしないという確信があるから、イメージできないのだ。

「可愛くない後輩だなあ」

 しみじみとそう言うと、壮はまた本の世界に埋没していった。



 第一理科室で課題と予習を終えて、地下鉄に乗り帰宅する。千宗の家は、駅から十五分ほど歩いた場所にある。あたりはすっかり暗くなり、電灯の青白い明かりだけが足元を照らしている。人気のない一本道、その坂を上り切ったとき、千宗は足を止めた。前方から人が来ていた。ただの人ではなかった。

 黒いマスクに、涙目、そして獣のような歯並びのペイント。そして何より、右手に鈍く光る包丁。

 驚くよりも先に、鞄を取り落としていた。声を出そうとしたが、呼吸すらままならない。

 〈ジャバウォック〉は確かにこちらを認めると、喋った。

「千宗くん」

 若い男の声だった。同い年くらいではないだろうか。しかもその声にはどことなく聞き覚えがあった。〈ジャバウォック〉がそのマスクを外す。出てきたのは黒髪に真っ黒い瞳をした少し背の低い中性的な青年だった。

「新くん……?」

 えへへ、と新はこの場に似つかわしくない無垢な笑みを浮かべる。包丁の刃を革のスリーブのようなものに仕舞い、マスクと一緒にリュックに入れる。

「久しぶりだね」

「何してるの?」

「水族館に行こうよ」

 話が噛み合わない。けれど、考えるよりも先に千宗は喋っていた。

「もう閉館してるんじゃない?」

「大丈夫。今日は夜の八時までやってるんだって」

 新は駅の方向へと歩き出していた。追いかけず、そのまま家に帰ることもできた。もっといえば、今すぐスマートフォンで通報することだってできた。けれどしなかった。

 待ちに待った、ひっ迫した危機的状況が訪れた。



 名古屋港を見渡す大きな水族館。訪れるのは中学二年生の遠足以来だった。もっと小さかった頃は、弟と一緒に何度も来ていた。入るとすぐに現れるのは、バンドウイルカのいる巨大水槽。そこからしばらく歩くとシャチのいる水槽にたどり着く。こちらに気づいているのか、いないのか、シャチは水槽の中を一定のルートで泳ぎ続けている。

「シャチの生息域は哺乳類の中で世界一なんだって」

 リュックの中に刃物を入れている青年が屈託なく笑う。

「南極海から日本、カナダ、アルゼンチンなんかにもいるらしいよ」

「詳しいね」

「羨ましくて。どこでも生きられる力があるのって、すごいことだよ」

「海の上では生きられないじゃん」

「地球はほとんど海なんだよ。シャチからしたら、陸でしか生きられない僕らの方が窮屈だよ」

 それはそうなのかもしれない。そうかもしれないが、今は関係ない。

「そろそろシャチ以外の話をしてくれても、いいと思うんだけど」

「そうだね。まあ、見ての通りだよ。僕が今をときめく〈ジャバウォック〉だ」

 さすがに直接認められると面を喰らう。

「その呼び名知ってるの?」

「ネットで調べればすぐ出てくるよ。犯人についてあれこれとみんな書き込んでるけど、どれも外れだ。誰も犯人が僕だなんて気づいてない」

 新は自らの犯行で悦に入っている様子はなかった。妙にさばさばと他人事のように、自身の行いを語る。

「警察には?」

「そのうち行くよ。最後にやることを終えたらね」

 千宗にはまだ選択肢があった。犯行を認めた新を今すぐ警察に突き出すこと。凶器をリュックに忍ばせている今なら新が〈ジャバウォック〉だということを疑われることはないだろう。ましてその刃物からルミノール反応でも出れば、逮捕は確定だ。一方、もう一つの選択肢はこの会話をまだ続けるかということ。

 リスキーな賭けだった。けれどそれも全て研究のためだ。

「やること?」

 千宗は会話を続行させた。新は口を開いた。

「────」

 シャチがその巨体を動かし、優雅に海水の中を泳ぐ。白と黒のその生き物は、海の中ではときに冷酷なハンターになるが、その一方で仲間意識の強い生き物だと言われている。

 人間はどうなのだろうか。あるいは、僕自身は何なのだろうか。

 何が僕を僕たらしめるのか。あるいは、僕はどんな僕になりたいのだろうか。



 しばらくして閉館の時間となり、地下鉄へととぼとぼと歩いて戻る。侘しいイルミネーションだけがぴかぴかと光っていた。そのときふと思い出したように新は帰るところがないと言った。

「ネカフェに泊まるお金はある?」

「財布はあるけど、身分証とかは持ってないんだよね」

「それなら大丈夫。そういうのが必要ないところ、知ってるから」

 思いついたのは鏡のいる大須のネカフェだ。場末のようなあのネカフェならば身分証の提示どころか新のような未成年が泊まっても咎める者などいないだろう。

「なんでそんなこと知ってるの?」

 不思議そうに新が言う。

「まあ、色々あって。僕の先輩がそういうアングラなことに多少詳しいっていうか……」

「僕が言うのも変だけど、その先輩、大丈夫? 怪しい宗教とか入ってない?」

 通り魔に心配される壮を哀れに思いながら、千宗は苦笑いを浮かべる。

「たぶん大丈夫。それに優しくていい先輩だよ」

 地下鉄で大須商店街へと向かい、例のネカフェのあるビルに案内する。中に入って、鏡に挨拶するべきかと思ったが用もないのに行くのは逆に失礼かと思い、新とはビルの前で別れることにした。

「また明日、ここに来るよ」

 千宗がそう言うと、階段を昇りかけていた新が振り向いた。

「本当に手伝ってくれるの?」

「うん」

「どうして?」

 新の顔はいっそ悲痛そうでもあった。助けてほしいと願い出たのは新だが、まさかこんなにも千宗が乗ってくるとは思わず、千宗のことを怖く思っているのかもしれなかった。怖がらせる気はなかったのだけれどと、千宗は内省した。

「友達だから」

──僕らは友達なのだろうか。

「千宗くん……」胸打たれたように新は微笑む。「ありがとう」

──僕は新くんの友達を名乗れるのだろうか。あんなことをしておきながら、のうのうと嘘偽りなく友達なんだと言えるのだろうか。

 それでも、

 千宗は研究を続行する。自分の中にある何かの正体を突き止めなければならない。これが友情か、憐憫か、罪悪感か、その答えを求めなければならない。


 ***


 近頃、部活に来なくなった後輩を、壮はそれなりに心配していた。それなりに、というのは受験を終えた一年生なのだから遊びたくなる気持ちがあるのは当然だし、二年三年となるにつれて受験へのストレスも募るのだから今のうちに遊んだ方がいいに決まっているため、心配はそれなりに、だった。どうせ千宗が第一理科室に来てやることは、勉強か、ボードゲームをする壮の相手役かのどちらかだ。

「鵜飼ー。いるかー?」

 東藤が第一理科室のドアをスライドさせる。

「東藤ちゃん」壮は独りで遊んでいた将棋を一旦やめた。「どうしたの?」

「お前、昨日の部会すっぽかしただろ。忘れると俺に連絡来るんだからな」

 ぷりぷりと女子高生のように東藤は小言を言う。芝居がかった言い方だった。

「ごめんって。でも俺が部会サボるなんていつものことじゃん」

 前は、佐鳥があれやこれやと煩かったので行く気もわいたが、最近ではすっかり面倒になってしまった。何らかの行事に対して代表者という生贄が決まるまで永遠に終わらない会議など、初めから出ないが勝ちに決まっている。

「まあ、それはおいといて。お前、犀賀のこと知らないか?」

「千宗? どうかしたの?」

 東藤は顔色を暗くした。壮なら何かを知っているかもしれないと踏んでいたが、当てが外れてしまったようだ。

「大事にしたくないから誰にも言うなよ。あいつ、今朝から行方不明なんだよ」

「は?」

「朝、学校を出てから行方知れずなの。学校はもちろん、付近のゲーセンとか高校生が行きそうなところは、もう警察がパトロールしてるけど見つかってない。家出の可能性を考えて、家族はまだ行方不明届を出してないみたいだが……。犀賀が家出をするような奴に見えるか?」

 それは否定形の疑問文だった。

「あいつなら天変地異が起きても、けろっとした顔で登校してきそうだね」

「だろう。だとしたら誘拐か」

「男子高校生を? 千宗の家ってそんな金持ちなの?」

 朝日南は公立高校だが、長い歴史があり名家・財閥出身者は意外と多い。

「いいや、少なくともお前の家よりは普通に近いだろうよ。それに身代金の要求もない」

「警察はなんて?」

「突発的な家出と見ているようだが、どうだかな……」

 そのときふと壮は箱の方を見た。まるで月と地球が引かれ合う引力のように、壮はその箱に近づき中を開けた。

〈シャチを探してください〉

 意味の分からない文言だった。ただその下の段には覚えがあった。

〈あなたの可愛い後輩より〉

──可愛くない後輩だなあ。

 そんな言葉を吐いたことを思い出す。

「これ書いたの千宗だよ」

「は? シャチを探せ? どういう意味だ。暗号かなんかか?」

「さあ。でもこんなもの書いて置いていったってことは、失踪で間違いない。無意味にこんな悪戯する奴じゃないし」

「確かにそうだが……。ひとまず警察に伝えてくる」

 そういって東藤は箱に入っていたメモを持って、第一理科室から出ていった。

 なぜ千宗は〈自分を探してください〉なり〈探さないでください〉と書き記さなかったのだろうか。〈シャチ〉という単語がふわふわとした形で脳裏に浮かぶ。名古屋港水族館で飼育されているが、それそのものを指しているわけではないだろう。シャチの生息域はとても広い。日本の北海道や和歌山県でも見られるが、南極にも現れる。どこでも生きられる生物だ。それを探せというのはかなり骨の折れそうな頼みだった。

 けれど千宗は確かに言葉を残して消えた。


***


 鏡の使っているネカフェはもう使えなくなった。

「どうして?」

 ハンバーガーチェーン店で二人は昼食を取っていた。平日の午後にこんな場所にいるのは不思議な気分だった。チーズバーガーを食べている新が言う。

「あのネカフェ、案外居心地良かったよ」

「僕の先輩が真っ先に探しそうな場所だからダメ。新くん、状況分かってる? 僕たちはかなり必死になって逃げて、かつうまいこと君の最後の望みを叶えなきゃならないんだ」

 千宗はポテトを三つ、白い紙ナプキンの上に並べた。

「一つは警察。君が〈ジャバウォック〉だってことに気づいているのかはともかく、細心の注意を払う必要がある。二つ目は〈DIVA〉。こっちも君の正体がバレたら、アウトローの憂さ晴らしで殺されることになる。三つ目は、これが結構厄介なんだけど、僕の先輩がいる」

「千宗くんの先輩って何者なの?」

 へらりとした具合で新が笑う。

「普通の高校生」並べたポテトを一つ一つ噛んで食べていく。「ただ頭が冴えてて、人を探したり、人のこと見透かしたりするのが得意」

「それ普通って言うのかな?」

「うーん。言わないかも」

 くすりと千宗は笑った。壮は面白い。そういうところでは誇れる先輩である。

「ていうかさ、会うの結構久しぶりだね」

 新とは小中と同じ学校だった。

「新くんはどこの高校に行ったの?」

「就職したよ」

「え」

 中卒で就職とはいまどきかなりめずらしい。まして新は特段、学力が低いわけでも経済的に困窮していたわけではないように見えた。

「もうこうなることは分かってたから。どうせ少年院に行くのに、高校行ったって。ねえ?」

 自嘲気味に新は笑う。千宗は笑えなかった。中学を卒業する前から、新は〈ジャバウォック〉になる覚悟を決めていたのだ。

「香織ちゃんは?」

 香織は新の双子の妹だ。大人しい性格で、休憩時間はもっぱら読書をしていたのを憶えている。

「あいつは賢いから、私立に特待生で行ったよ」

「そうなんだ」

「そういえば、まだ聞いてなかったけど、あの日、僕の家の近くにいたのは何でなの?」

「刺そうと思って」

 誰かを、と言いながら新はハンバーガーの最後の一口を食べる。いっそ無邪気ともとれるほどの呑気な言い方だった。友達として戒めるべきだろうか。けれど既に壊れてしまったコップに水を注いでも無意味なように、新にどんな言葉をかけても無駄なのかもしれない。

 しばらく無言で食事をした。会話をしてもよかったが、しなくてもよかった。しばらくの無言の後、新が言った。

「僕の家、見に行ってもいいかな?」

「……うん」

「まだ決行ってわけじゃなくて、下見」

「うん。いいよ」

 新の家は駅から離れた古びたマンションの五階だった。向かいの道路から国松家の表札が出ているであろう五○二号室を見上げる。

「なんで通り魔なんてしたんだろ」

 今更、心からの疑問のように新はそう言った。ガードレールにもたれながら、千宗は少しの間、目を瞑る。

「むしゃくしゃしてたんじゃない?」

「そうなのかな」

「そうなんでしょ。たぶん。僕さ、高校、天文部に入ったんだ。でも、実態は学校のお悩み相談所みたいな部で」

 新が少し笑う。

「なんだそれ」

「そこで他人の悩みとか困りごととか見てると、なんか青春ってそんなきらきらしたものばっかりじゃないよなあって改めて思った。もちろん、輝いてる人はいるんだろうけど。同じくらいそうでない人もいて、ゴミ屑みたいな、そういうところにいる人も確かに存在してるんだ」

「僕はその屑のひとつ?」

「好きでそこにいるわけじゃないだろうけど、まあ輝いてはいないよね」

「千宗くん、なんだか辛辣さが増したね」

「正直に話してくれた新くんを前にして、僕は正直になったの」

 そのとき、国松家の家のドアが開いた。出てきたのは五十代くらいの体格のいい男だった。

「あの人?」

 千宗が訊くと、新は神妙な顔つきで頷いた。

「あいつだよ」

「ふーん」

 新が捕まる前にやっておきたい最後のこと。それはあの男を殺すことだった。

 友達として、止めるべきなのだろうか。けれど事情を聞いた千宗はその男を殺めるべきだと思ってしまった。そうしなければ、国松家は救われない。

「怖いなら、僕がやろうか」

 千宗の言葉に、新は眼を大きくして驚いた。千宗は自分でも自分の言葉に驚いていた。けれど訂正する気もしなかった。

「代わりに、僕が殺そうか?」

 二人の間に風が吹いた。新は突っ立っていた。千宗は、笑っていた。

 友達なら、そうすると思った。


 ***


 失踪した後輩を探す。壮はかつてない艱難に衝突していた。

 相手はなまじ頭の良い千宗だ。どこに隠れているのかさっぱり分からない。そんな壮が頼ったのはやはり大須にいる鏡だった。

「そーちゃん。チャオ~。女の子相手に痛い目あったって?」

 今日の鏡は薄紫のウサギ耳のついたゴスロリ服(たしか甘ロリとかいうタイプ)だった。扉を開けるなり、元気よく挨拶をされ、壮はげっそりとした気分になった。

「誰の情報だよ、それ」

「佐鳥蛍ちゃんって彼女と喧嘩したとかどうとかって」

「あいつとはそんなんじゃないの」

「ええー。僕は男女間の友情とか信じないんだけど~」

「友達がいないから、感覚が分かんねえだけじゃね?」

「はい、僕の地雷踏んだ! シャットアウト! ゲットアウト! もう金輪際、そーちゃんの依頼は受けません!!!」

 めんどくさいな……。

 でも一応は大事な情報源兼友人である。機嫌を損ねるのは良くないことだ。

「はいはい。俺が悪かったよ。で、今日もお願いがあるんだけど」

「千宗くんのこと?」

「さすが。耳が早いな」

「このネカフェにめずらしく警察が来てさ。高校生を探してるって聞いて、初めは何となくそーちゃんのことかと思ったんだけど、調べてみたら千宗くんみたいで驚いたよ。彼、ちょっと冒険家だけど無謀な賭けをするタイプじゃないし」

「だよなあ。俺もびっくりしてる」

 なんのために千宗が消えたのか。それさえも分からない。そういうと鏡はニヤリと笑った。

「それなら分かるかもだよ。千宗くんの目撃情報によると、一人じゃなかったんだって」

「誰かと一緒にいたのか?」

「同い年くらいの男の子と一緒にいたのをファミレスの客が見てる。監視カメラはついてないから顔までは分かんないけど、千宗くんが失踪した理由にその子が関わってるって考えていいんじゃないかな」

「でも」

「でも?」

「あいつにそこまで仲のいい友人がいるとは思えないんだよなあ……」

「ワオ。僕が言うのもなんだけど、酷いこと言うね」

「事実なんだから仕方ないだろ。あいつは表面的な付き合いはともかく、誰にもガード許してないタイプだよ」

「あー。それなら僕にも分かるかも。基本的に誰も信じてなさそうだよね」

「その千宗がなりふり構わず一緒にいるなんて、妙だ」

「妙、妙。そう。そうだといえばね、そーちゃん。ここからがとっておきの情報」鏡はロリポップを舌の上で転がす。「一緒にいた男の子、警察から追われてるっぽいんだよね」

「はあ? なんで、不良なのか?」

 そのとき壮の横にすっと男が現れた。いきなり真横に気配が現れたので、壮は声を出しそうになる。そこにいたのは宮桜だった。

「〈ジャバウォック〉だろ?」

 相変わらず生物全てを射殺しそうな冷たい視線で宮桜はそう言い切った。

「みゃーちゃん、いらっしゃい。そうだよ。よく分かったね」

 みゃーちゃんという本人に似つかわしくない可愛らしいあだ名をつけられた宮桜はつまらなそうな顔で舌打ちする。

「まさか〈ジャバウォック〉がガキとはな。さすがに驚いた」

「いやいやいや、俺も相当驚いてるんだけど、そもそも何? 宮桜とランちゃん、いつ仲良しになったの?」

「〈ローズバッド〉の後始末で色々あってご贔屓にしてもらってるんだよー」

 にこにこと鏡が笑う。引く手あまたの情報屋。どこにでもパイプを繋げておきたいらしい。

「そういえば〈DIVA〉も〈ジャバウォック〉を追ってるんだったか」

「ああ」

「殺すのか?」

 宮桜は真顔のまま、しばらく黙ってから言った。

「〈DIVA〉の主目的は自警だ。それを乱す者ならば粛正する」

 殺す、とは明言していないが、殺さないとも言っていない。

〈DIVA〉において宮桜は絶対的リーダーであり、やんちゃな若者たちを鶴の一声でまとめあげられるカリスマだと聞く。だがどんな群れにも小競り合いはあり、ガス抜きが必要なことには変わりない。だからこそ〈DIVA〉は自警という形をとり、暴力を内ではなく外へ解放し、内紛を防いでいる。今回の件も同様に、〈ジャバウォック〉という獲物を見つけた群れがどのように動くのか、リーダーの宮桜にも読み切れない部分はあるのだろう。

「粛正って、新選組かよ。何時代だっつうの」

「それより、お前の後輩が〈ジャバウォック〉と行動を共にしているようだが、どういうことだ?」

「先輩だからって、後輩のこと全部わかってたら今頃こんな苦労してないだろ」

「確かにそうだな」

 宮桜がこちらを鼻で笑うので、壮は奥歯を噛んだ。だが今はそんなつまらない話をしている場合ではない。

「なあなあ、宮桜サン。よかったら協力しないか? あんたは〈ジャバウォック〉を、俺は千宗を探してる。別々で情報を追うより、まとめてやった方が効率がいいだろう?」

「構わないが、せいぜい役に立てよ」

「前々から聞こうと思ってたけど、宮桜って俺より年下だよな?」

「年功序列なんて俺の世界では通じない。以上だ」

 そう言い残し、宮桜は帰っていった。ムスッとした顔で壮はその背中を見送った。


 ***


 いつも通りの家族三人での夕食中にチャイムが鳴った。こんな夜に誰だろうかと、新が玄関に向かい、ドアを開けた。このときほど、のぞき穴を確認しなかったことを後悔したことはない。いや、見たところで自分はきっとこのドアを開けてしまっただろうけれど。

「開けろよ」

 あの男が五年ぶりに帰ってきた。

「早く開けろ!」

 酒に酔っているのか、その言葉は明朗ではなかった。ドンドンッと繰り返しドアを叩かれ、食卓に着いていた母と妹も何が起きたのかをすぐに察した。蒼白とした顔色の母が玄関にやってきて、おもむろに鍵を開けた。男が乱暴にドアを開く。

「鍵を変えたな?」

 ぎろりと睨まれ、母は小さく悲鳴を上げた。まるでアフリカの肉食獣と草食動物のようだった。事実、そうだった。

 新たちは一方的にこの男に喰われ続けていた。

 父親、とは誰も呼ばない。もう十年も前に暴力を理由に離婚している。それにも関わらず男は金を無心しにこの家に度々やってきた。金を要求するうちはまだ可愛い方だ。もっとひどいときは、中世の悪逆非道な王のように暴力をふるう。

「なんで鍵を変えたんだ!!」

 どかどかと居間に入ってくるなり、男は母を問い詰める。今にも吐きそうなくらい顔色が悪い母は蚊のような声で答えた。

「あなたが来るからじゃない……」

 バチンと男が母の頬を平手打ちした。母は床に倒れ込み、新と香織がその身体を支える。

「俺はのけ者か!?」

 そうだ。あんたはこの家の者じゃない。家族なんかじゃない。

 そう言い返してやればよかった。

 事実、新はもう十六歳で筋肉はないが男だった。それに香織や母よりかは筋力がある。立ち向かえばよかった。けれど長年の隷属がそれを許さなかった。

「飯、用意しろ」

 香織が頷き、キッチンへ行く。男は誰も座っていない食卓の端を陣取り、テレビのリモコンに手を伸ばす。まるでつい昨日までここにいたかのような、自然な振る舞いだった。

「デカくなったな、新」

 でも、俺には歯向かえないんだろう?

 せせら笑うように、男は笑う。耳障りな声だった。けれど心を支配するのはただひたすらに凍えるような恐怖だけで、一刻も早くこの男がこの家から消えるようにと願うことしかできなかった。

 男は家をなくしたのか、女に家から追い出されたのか、当然のような顔でこの家に住み着き始めた。そして夜になると、いつも暴力をふるった。

 ある日、中学校から新が帰ると、一足先に帰ってきた香織が男の前で土下座させられていた。頭を床にこすりつけながら、何度も何度も謝っていた。頭には生ごみがぶちまけられていた。異様な光景に新はつぶやいた。

「何……」

 何があったの、という言葉さえも、新は男を前にすると言えなくなった。恐怖で口が回らないのだ。

「もうやめて」と母が泣いている。

男は脂ぎった指で香織の髪を掴み、左右に乱暴に揺らした。

「私立高校なんて受けやがって、女が高校なんて言ってどうすんだよ。ソープ嬢にでもなってもっと稼いで来い!」

 男はしたたかに酔っていた。酒の匂いが離れた場所からでも香ってくる。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 香織の顔は涙と生ゴミでぐしゃぐしゃになっていた。殴られたのか、唇から血が滴っている。

「私が悪いんです。ごめんなさい」

「そうだ! お前が悪い! 謝れ! 謝れ!」

 何度も何度も、悪夢のような光景が続いた。新たちが心を落ち着けられるのは、男がパチンコ店に行っている間だけだった。そうとはいえ、当然その軍資金は母の給料であったし、負けて帰ってきたときの男の荒れ具合はとても恐ろしかった。


「酷い話だね」

 話を聞き終えた千宗は特に義憤にかられているようでもなかったが、その眼は少し憂いを含んでいた。

「それからストレスが溜まって、いつも鞄に包丁を忍ばせるようになってた。あいつを殺すことばっか四六時中考えてて、気がついたら見ず知らずの人を刺してた。怖くなって逃げだして、でもそのとき、すごくすっきりした」

「……」

「引いた?」

「分からない。でも誰彼構わず暴力をふるいたくなる気持ちは、もしかしたら分かるかもしれない」

 世界は灰色なんかじゃない。けれど視界が灰色に染まる瞬間はある。他人への思いやりや慈しみが消え去り、ただ自分の奥底の強いエネルギーが不気味に輝き始め、解き放たれる瞬間を待っている。そんな風に思える瞬間は、きっと誰にでもあるし、起こりうる。

「それから僕は通り魔を続けた。あの男を殺すための予行練習だと思ってたし、事実、爽快感すらあった。分かってるよ。僕はたぶん、頭がおかしくなってる」

「……そうだとしても、僕がその男を殺すよ」

「なんで?」

「新くんは優しいから。ねえ、あのときのこと覚えてるでしょう?」

 新はただ顔を伏せて答えない。

「僕は君を裏切った。でも君は僕を責めなかった。……君の殺したい相手を殺すよ。それで僕はようやく君とフェアな関係になれると思う」

「フェア?」

「友達ってことだよ」

 友情とは、なんだろうか。

 千宗にはまだ分からない。ただ新に大きな貸しがあるのは事実だ。それを乗り越えない限り、自分たちは本当の友達だとは言えないのではないかと千宗は思った。

 人の命を奪うということ。警察に捕まれば、自分は少年院に送られるだろう。家族は悲しむだろうし、奏は学校で虐められてしまうかもしれない。それだけのリスクを背負ってまで、自分は新を助けるべきなのだろうか。ただ自分がここで何もしなければ、新は、国松家は暗い洞窟の中で肉食獣に怯える生活を一生続けることになる。そんな未来だけは変えなければならない。

「今度は僕が、新くんを助けるよ」

 今の自分を壮先輩が見たらなんと声をかけてくれるだろうか。

 想像はできない。先輩は今ここにはいないのだから。


 ***


 宇治崎に呼び出されたのは、学校からほど近い道端だった。普通、喫茶店とかじゃないのかと壮は呆れたが、ひとまず呼び出された場所に来た。ありきたりな幹線道路の端に、スーツ姿の宇治崎と、相棒なのだろうまだ若い刑事が一緒に立っていた。宇治崎はこちらを見つけるなりタバコの火を消し、携帯灰皿に吸殻を入れた。

「犀賀千宗の居場所に心当たりは?」

「会うなりそれ?」

 どんな要件かはだいたい分かっていたが、挨拶もないとは。

「急いでるんだ」

「はいはい。心当たりはもう全部探したよ。今頃はもう県外にいるんじゃないの。そっちこそ、千宗……っていうか〈ジャバウォック〉を探してるんでしょ」

「どうしてその名前を?」

 さりげなく後輩刑事が言う。

「ネットではもう彼のあだ名はだいぶ浸透していますよ」

「そんなことはどうでもいい。とにかく知らないなら用はない」

「なら電話で訊けばいいじゃん」

「お前はすぐに嘘をつくからな。直接目を見て確かめたかった」

 路肩に停めてある黒い車に二人が乗り込もうとするので、壮は前方を遮るように立った。

「なんで〈ジャバウォック〉と千宗は行動を共にしてるわけ?」

「お前に答える必要はない」

「〈DIVA〉が〈ジャバウォック〉を探してる。先にあっちが見つけたら、たぶん〈ジャバウォック〉はあいつらに殺されるよ」

 それは一種の脅しだった。自分は〈DIVA〉と繋がりがあるとほのめかしているようなものだ。

「中学の同級生だそうだ」苦々しく宇治崎が短く答えた。「あとそんな不良な連中とつるむのは即刻やめろ」

 同級生か。壮は宇治崎の警告は無視し、現れた新しい情報について考えを巡らせた。

「ああ、あと千宗は書置きを残していったよ」

「〈シャチを探せ〉だろう? 知ってるよ」

「たぶん、なんとなくだけど、あいつは何かをしようとしてる」

「何かって何だよ。通り魔か?」

「……さあ、そこまでは」

 車が急にバックをして、走り去っていく。

 何なんだよ、春ちゃんのいけず。

 消えていく車を見送りながら、壮は髪をかきあげる。千宗が今どこで何をしようとしているのか、その手掛かりさえ壮は掴めていなかった。


 ***


 乗車人数の少ない普通電車を乗り継いで、千宗と新は岐阜県にやってきていた。織田信長の大きな像がある岐阜駅に降り立ち、これからどうしたものかとため息をつく。

 あの男を殺さなければならないが、まだ新は決行の意思を固められずにいるらしい。ひとまず今日をやり過ごすために、あちこちを転々とすることにする。

「顔色悪いね」

 千宗が新の顔を覗き込む。

「ちょっと寝不足で……」

「カラオケにでも行く? 横になって寝てるといいよ」

「いや、平気だよ」

 明らかに新は強がりを言っていたので、どう説き伏せるべきかと千宗は考えていた。そのときだった。

「おや、犀賀千宗くんかな?」

 突然、背後から声をかけられ背筋がぴんと伸びた。バッと振り向くと、そこにいたのは見るからに警察官でも〈DIVA〉の半グレでもない、杖をついた老人が立っているだけだった。老人は被っていた洒落た帽子を取り、にこりと笑う。

「これはすまない。急に話しかけて、驚かせてしまったかな」

「あの……失礼ですが、どなたですか」

 いつでも走り出せるように心の中で準備をしながら千宗が訊ねた。老人は意外な言葉を口にした。

「鵜飼壮の祖父です」



 鵜飼家は立派な日本庭園つきの家だった。和風の建物と壮の姿はどことなくミスマッチに思えたが、目の前の老人とはよく似あっていた。

「まあ、おあがんなさい」

「お邪魔します……」

 新の顔色が悪いことに気がついた壮の祖父は、駅から近いからと二人を家に招いた。断ろうかと思ったが、下手にカラオケ店で休むよりこうして静かな場所の方がいいかもしれないと思いその好意に甘えることにした。もちろん壮と鉢合わせになることも計算したが、今はまだ日が出ている。学校にいる時間のはずだ。それに壮の祖父のあの反応からして、自分たちが壮たちや警察から逃げていることには気づいていないようだ。

「すみません」

 申し訳なさそうに新が謝る。

「気にせんでいいよ。客間に布団があるから、そこで寝るといい」

 壮の祖父は、家政婦と思わしき女性に布団の準備を頼んだ。家政婦が新を客間に案内し、千宗は壮の祖父と共に、縁側のある綺麗な居間に連れていかれた。

「あの、どうして僕が分かったんですか」

「これだよ」

 祖父は棚の中から朝日南高校の会報を取り出した。そこには部活動の紹介が連載されており、その天文部の紹介の横に小さな写真が載っている。その写真には壮と千宗、顧問の東藤がカメラマンにせがまれた作り笑いを浮かべて笑っていた。

「こんな小さな写真で、よく分かりましたね」

 千宗は素直に感嘆した。ずば抜けた記憶力と瞬時に顔を判別する力がなければ、あの瞬間に声をかけることはできなかっただろう。

「壮が君のことを楽しそうに話していてね。一度、会ってみたいと思っていた」

「僕のことをですか?」

「後輩というものを持つのが初めてだからな。中学の頃はろくに学校に通っていなかったし」

 そういえば壮は、中学生のころまでは東京に住んでいたと聞いた。父親との不仲が原因で愛知県の祖父の家にやってきたのだと。

「あいつは頭は良いが、色々とトラブルメーカーでね。いや、トラブルに身を巻き込んでいくというか、ともかく問題児だった」

「それは今もあまり変わっていないような気が……」

「ふふっ。まあでも後輩ができれば、無茶なこともしなくなるだろう?」

「そうでも、ないですね」

 もっぱら自分のことが原因で、今頃、壮はいい迷惑をこうむっていることだろう。

「……ところで、あの子は友達かな?」

 痛いところを突かれる。あまり新の話はしたくなかったが、全く話さないのも不自然だ。

「そうです」

「どうして学校にも行かず、岐阜にいるのかと、あれこれ訊きたい気もするが、まあやめておこう。どうやら訳ありのようだ」

 察しが良い遺伝子は孫にも受け継がれているらしい。壮の祖父は家政婦が注いだ熱い日本茶を飲む。その泰然とした姿を見ているうちに、気がつくと千宗は語り始めていた。まるで不思議な力で口元が動いているように、するすると言葉が出てきた。



 小学一年生の頃、千宗は新と出会った。同じクラスで隣の席、読んでいる本は同じ外国のファンタジー小説だった。しかしだからといって特段、仲が良いわけでもなかった。二人とも寡黙で静かな空間を好むタイプだったからだ。ただ遠足のバスの座席だとか、体育のペアだとか、二人一組が必要になるとき、なんとなく千宗から声をかけて、二人で一緒にいた。

 それは、いつから始まったのかは分からない。

 ただクラスの中で一番背が高く、一番偉そうな男子が掃除中に千宗を小突いた。千宗は箒を取り落とし、膝から床に倒れる。その様を見て、なぜか男子生徒は笑った。なぜ笑うのか、そもそもなぜそんなことをするのか理解に苦しんだ。それは些細な力であったけれど、純粋な暴力であり、これから続く長い苦難の道への一歩だった。

 翌日から示し合わせたかのようにいじめがはじまった。

 休憩時間、千宗が席を外しているうちに、教科書が盗まれ、見つけたときには中身は真っ赤なペンで落書きだらけだった。驚いている千宗の様子を見て、クラスメイトの女子がくすくすと笑った。

 子供は純粋で、何が悪で何が善なのか、まだはっきりとはきっと分かってないない。先生に叱られるから、これはしてはいけないだとか、親が怒るから、あれは言ってはいけないだとか、そういう風にしか物事を捉えない。クラスメイト達もたぶん、同じだった。自分がしていることに罪悪感なんて微塵も抱かず、ただ自分の渇望の赴くままに想像力を膨らませて千宗を虐めた。

 千宗は心を失った人形のようだった。ただでさえ無口なのが、家でも黙るようになり、食事もあまり喉を通らなくなた。けれど涙を流したり、誰かに助けを求めたりはしなかった。ただ機械のように学校に通い、虐めを受けて、ベルトコンベアで運ばれる商品のように家に帰った。

「千宗くん」

 ある朝、隣の席の新がこちらに声をかけた。

「僕に声をかけちゃダメだよ」

 何の感情も乗せていない声音で千宗は新に警告をした。今度は君がいじめられることになるよと。それでも新は手の中のものをこっそりとこちらに渡した。

 それは輸入食品店で見かけるような、外国の大きな球形のチョコレート菓子だった。きらきらの銀紙に包まれているそれを、新はにこりと笑って渡した。

「これ、ハンナが作ったお菓子に似てるから、千宗くんにあげたかったんだ」

 ハンナとは二人が読んでいたファンタジー小説の登場人物だった。お菓子を作るのが上手な偉大な魔女で、ワルプルギスの夜には空から無数の菓子を降り注がせ、主人公の住む村をお菓子で一杯にしてしまうのだ。

「……ありがとう」

「なんだよ、これ」

 男子生徒がチョコレート菓子を見咎め、それを千宗の手から奪った。

「こんなもの、なんでこいつにやるんだよ」

 明らかに不機嫌そうに男子生徒は新に詰め寄った。怯えた様子で新は言う。

「か、返して」

「ダメだね。これはもう千宗の菌が移った。感染してるんだ。こんなもの喰ったら、死ぬぞ」

 にたにたと笑いながら、男子生徒は窓の外へとその菓子を放り投げた。放射線状に投げ込まれた菓子は、中庭の方へ消えていった。

「なんてことするんだ!」

 そのときはじめて新は大きな声を出して男子生徒に掴みかかった。

 千宗は目が覚める思いがした。彼がこんな風に大きな声を出すのも、怒っているのも始めて見た。そしてその怒りは、自分の為だった。彼は自分のために怒ってくれていたのだ。

「うるせえな!」

 男子生徒もやり返し、教室は大きな騒ぎとなった。すぐに担任の教師が駆け込んできて、その場は鎮められた。千宗はただ茫然とその様を見ているだけだった。

 心は消えてしまったはずだった。けれど確かにそのとき、静かな湖面に確かな波紋が浮かんだ気がした。


 翌日からいじめのターゲットは千宗と新になり、千宗の負担は少しばかり軽減された。

「よかったの?」

 登下校のとき、千宗は虚ろな瞳で新に聞いた。新はいじめられているとは思えないほど堂々としていた。

「いいんだよ。食べ物を粗末にする奴の方が悪いんだ」

「そう」

 二人は別に、友達ではなかった。虐められているという境遇は同じでも、それ以上の繋がりがあるわけではなかった。

 ある日、千宗が社会科のテストでクラスの中でトップの成績を取った。千宗は別に勉強が得意というわけではなかったので、それはただ単に幸運が重なっただけの出来事だった。けれど担任の教師は、千宗がいじめられていることを察していたのか、いないのか、クラスメイトの前で千宗をとてもよく褒めた。

 すると不思議なことに、いじめは次第になくなっていった。要するに、クラスメイトは自分より格下だと思っていた千宗が確かな形で自分たちの能力を上回り、怯んだのだろう。それに気がついた千宗は更に勉強を積み重ね、全ての科目で一番の成績を収めた。するとクラスメイトはすっかり千宗を相手にするのをやめ、まるでずっと友達だったかのような顔で、テストの成績を褒めてきた。千宗はいじめられる存在ではなく、クラスの中の天才になった。

 一方で新は相変わらずいじめられていた。それでも彼はどこかそんなことを気にしていない強さがあった。

 体育の授業の終わり、更衣室で新が複数の男子生徒に囲まれ、何事かを言われ、からかわれていた。偶然そこに居合わせた千宗は息をのんだ。カーテンの閉じられた暗い部屋。まるでそこいるのが自分たち二人だけのように感じられた。

 助けなければと思った。あのとき、新がチョコレート菓子をくれたように、今度は自分が立ち向かわなければいけないと思った。けれど同時に、毎日机に向かって泣きたくなるような気持ちで教科書とノートを開いていたことも思い出した。好き好んで勉強をしていたわけではない。いじめられるのが怖くて、自分から勉学というスターテスがなくなるのが恐ろしくて、机にかじりついていた日々。それらを一瞬で手放すのか? 自分がそう問いかけてきて、足が動かなくなる。

 こちらに気づいた新と目が合う。先に目をそらしたのは新だった。

 新は助けを求めなかった。それどころか、こちらに逃げてもいいと示したのだ。

 千宗は更衣室から走って逃げだした。脚が絡まり、呼吸が乱れる。一心不乱に階段を駆け上がり、怪物から逃げるように廊下を疾走した。

 ドドドドッと心臓が脈打つ音が耳元で聞こえる。ようやく走るのをやめた千宗は、そこでようやく自分が大きな罪を背負ってしまったことに気がついた。気がついたときには、何もかもが、もう遅すぎた。


 ***


「友達と言えるほどのものじゃないんです。少なくとも僕は、彼を一度裏切ってる」

 助けるべきだった。そうするべきだった。あれ以来、新とは別々のクラスになり廊下で顔を合わせて挨拶をする程度の仲に戻った。新へのいじめは学年が増えるごとになくなっていったが、千宗の罪が消えるわけではなかった。

「裏切りか。それは良くないことだね。だから君は彼のために何かしようとしているのかな?」

 一体、何をどこまで理解しているのだろう。千宗はやや狼狽えながらも頷いた。

「ええ」

 まさかそれが殺人だとは、流石に気取られていないだろうけれど。

「では誰が君のために何かをしてくれるんだ?」

「僕のため?」

 それは不可解な問いだった。誰も僕のために何かをする必要なんてない。今の僕に、必要なものはない。幸せではないけれど、過不足のない状態なのは確かだ。

 ただ、ふと頭に過るのは、

「壮は君を大切に想っているよ」

 けれど、それでも、あのときの暗い更衣室の清算を僕はしなければならない。

「闘わなくちゃならないんです……」

 たとえ相手があの壮先輩であっても、立ち向かわなければいけない。

 友情の証明。過去の清算。そして僕たちの対決。

「そうかい」

 おじいさんは千宗を引き留めなかった。もしかしたら全てを見透かしていたのかもしれない。



 翌朝、早くに千宗と新は壮の祖父に丁寧に礼を言い、大きすぎる家を後にした。

「今日は雨らしいよ」

 テレビの天気予報を見たのだと新が言う。

「もうそろそろ腹をくくらなきゃいけないよね」

「うん。いつまでも逃げられるとは限らないしね。とりあえず、ホームセンターにでも行こうか」

「ホームセンター?」

「必要なものを買わないとでしょ?」

 スマートフォンに電源を入れれば、足がつく可能性がある。仕方がないので市街地の方に歩いていって、目視でホームセンターを探した。見つかったのは、たまの土日に家族と行く格安を謳うチェーン店だった。

「取り合えず、包丁だよね」

 千宗は迷わずキッチンコーナーに行き、手ごろな包丁を手に取った。もちろんその刃はプラスチックのケースで守られている。

「わざわざ買わなくても、持ってるよ」

「それは〈ジャバウォック〉の刃物だ。今からは僕の仕事。必要なものも僕が揃えるよ」

 新は顔をうつむかせる。

「どうしたの?」

「やっぱりおかしいよ。どうして千宗くんが僕の父さ──あいつを殺すの?」

「何度も聞かないでよ。君とフェアになるために必要な儀式だと思ってくれればいい」

「けど」

「じゃあ、殺すのをやめる? それだけは絶対にないだろう?」

 このままではいつか国松家は崩壊する。その悪の根元を断たない限り、新たちは苦しみ続けることになる。

「やめない……」

「じゃあ、決まりだ。そんなに悩まなくていいよ。それにどのみち、いつかこんな風になった気がするんだ」

「そんなことないよ」

「いいや、僕は嫌な奴で悪い奴だよ」

 そう呟いて、カモフラージュのためのまな板や料理器具をカートに入れていく。新は何も言わなかった。



 購入した大量の調理器具の大半は、電車を降りてから駅のロッカールームにしまった。駅からあの男が入り浸っているというパチンコ屋へと歩いた。

 道中は小雨が降っていた。傘を差そうかと思ったが、そもそも傘を持っていなかったことを思い出した。どうにも頭がぼんやりとしている。まるで夢の中にいるみたいだ。

「警察、周りにいない?」

 逐一、辺りを見回しながら警戒する。警察が新を既にマークしているかは不明だが、気にしておいて損はないだろう。

「いないと思うけど」

「じゃあ、作戦ってほどでもないけど手順を確認しよう。まずは僕が男をパチンコ屋から裏の駐車場まで連れてくる。それでことを済ませる。もし上手くいかずに返り討ちにあったりしたら、道路を挟んだ向かいに待機している新くんは逃げて。また別の機会を伺う」

「大丈夫? あいつ筋力あるよ」

「呼び出した相手に警戒はするだろうけど、いきなりナイフで刺そうとしてくるとは思わないよ。一撃を回避されたら積みだけど、逆に言えば一撃さえ当たれば僕らの勝ちだ。あとはヒットアンドラン。とにかく走ってできるだけ遠くへ逃げるしかないね」

 そうこうと話しているうちに、目的地へと到着した。寂れたパチンコ屋だが、雨のせいか繁盛はしているようだ。

「行ってくるよ。またね、新くん」

「…………待って、千宗くん。僕、まだ話してないことが」

「分かってるよ」

 千宗は微笑みながら言葉を遮った。

「君は〈ジャバウォック〉じゃないんだろう?」

 新は驚愕と共に声を大きくした。

「どうして!?」

 分かっていて、信じたふりをしたのか? なぜ?

 そんなことを考えているのだろうと、千宗には手に取るようにわかった。

「もう行くよ」

 そう言って千宗はパチンコ屋の中に入っていった。

 騒がしい店内。未成年者のため店員に見咎められたが「父親を捜しに来た」というと困った顔で黙認された。きっとこういう人が多いんだろうなと、千宗は全国のろくでなしの父親を持つ家庭に心から同情した。

 列を半分ほど過ぎたところで、あの男を見つけた。千宗はそっとその背に近寄り、肩を叩いた。

「なんだよ。ガキか?」

 煙草とアルコールの臭いがする。男はぎろりとこちらを睨むが、千宗は凪のような目でその眼を見返した。

「国松新くんのことでお話があります」

「話だ? なんだよ、お前、新の知り合いか?」

「彼からお金を借りていて、返したいんですけど」

「金? どうして俺に?」

「新くん、行方不明じゃないですか」

 そんなことも知らないのかと、千宗は呆れる気持ちだった。どうせろくに家にも帰っていないのだろう。

「今、金を持ってるのか?」

 金銭のことになった途端、食いつきがよくなった。

「十万円。封筒の中に。でもここじゃ無理です」

 そういって千宗はちらりと横を見た。そこには掃除を装ってこちらを監視している店員の姿があった。

「僕、父親を捜しに来たって言ってここに入ってきたので、いったん店から出てもらえますか。そうしたらお金も渡せますし」

「ちっ。めんどくせぇな」

 だが、このまま怪しげな封筒を受け取れば、もっと厄介なことになる。男は缶ビールを片手に持って千宗と一緒に店から出た。

 あとはどうやって裏手に誘導するかだが、それは天候が味方してくれた。男は自然と、屋根のある場所を選んで歩き、かつ店員の眼が届かない裏手に勝手に移動してくれた。道路の向かい、高架下には新が隠れているが、こちらからはよく見えない。

「さあ、さっさと金を──」

 しゅるりと、ファスナーを開けていた学生鞄の中から刃物を取り出す。柄を持ち、刃を向ける。そしてそのまま、柔らかな腹部に突き刺す、だけだった。

「やめろ! はなせ!」

 大きな声が高架下から聞こえてきた。新だ。

「何すんだよ!」

 刃物に驚いた男が咄嗟に身をよじり、ガードレールを飛び越え、新の声がした方向とは反対に逃げていく。

 まずい。

 見ると、新のいる方向にはパトカーが集まり始めていた。恐らく捕まってしまったのだ。

 ついてない。どうする?

 どうするも何も、決まっていた。

 今度こそ、完璧にあの男を殺す。


 ***


 千宗と行動を共にしていたと思われる国松新が警察に捕らえられたという一報が壮の耳に入った。話を持ってきたのは宮桜だった。

 どこにでもある裏通り。やけに夜の雰囲気が似合う宮桜は飄々とした面持ちで表通りを歩いていた壮をいきなり引き留めた。

「国松新は警察に囲まれた。もう〈DIVA〉が手を出すのは難しいだろうな」

「へえ。後悔してるような口調だが、本当は安心してるんじゃないのか?」

「なぜ?」

「お前の仕事はあくまで自警。私刑じゃない。〈ジャバウォック〉が私刑を逃れたってことは、〈DIVA〉が背負うはずの罪も消えったってことだろう?」

 宮桜は綺麗な眉を少し吊り上げる。

「法律なんて、今更気にするか。捕まる奴は捕まる。逃げられる奴は、逃げる。それだけだ」

「ふーん。そう。でも持ってきたのがその情報だけってことはじゃ、千宗は見つからなかったみたいだな」

「犀賀千宗が逃げたところが付近のカメラに撮られていたと、鏡が言っていた」

「さすがランちゃん」

「だが、それ以上の情報はない。あとは自分でどうにかするんだな」

「手伝ってくれないのか?」

 踵を返しかけていた宮桜はふと振り向き、ますます眉を吊り上げた。

「意味が分からない。もう〈DIVA〉の出番はない」

「個人的に手を貸してくれよ。俺の可愛い後輩のピンチなんだ」

「見返りは?」

 やはり要求してくるか。

 壮はうーんと言いながら首を傾げる。

「いざお前が困ったとき、俺が手を貸そう」

「はあ?」

 今度こそ、宮桜は奇異なものを見る目で壮を見た。

「そんなものは必要ない」

「いやいや、いざというときの備えは多い方がいいでしょ。孤高の王様、気取ってるけど、いつまでもその玉座に座り続けられるほど世の中甘くないってことくらい知ってるだろ? 転ばぬ先の杖ってやつだよ。今なら、俺だけじゃなくて千宗もついてくるお得セットだ。どうだ?」

 人差し指と中指を立てて壮が笑う。宮桜はため息をついた。

「……俺に手助けは必要ない。負けるときは大人しく引き下がるさ。だが、犬みたいに必死にあちこちを嗅ぎまわってるあんたをここで見捨てるのも目覚めが悪い。だから、特別だ」

「お優しいことで」

「帰るぞ」

「冗談だって」

 かくして、壮は〈DIVA〉の宮桜を味方につけた。役に立つかは分からないが、今は藁にもすがる思いなのだ。仕方がない。

「ひとまずどうするんだ」

「警察に行く」

 宮桜が今度こそ嫌悪感を露わにした。

「俺を連れてか?」

「別にすぐ取っ捕まるわけじゃないから、いいだろ。知り合いの刑事に話を聞きに行く」



 宇治崎を見つけるのは比較的容易だった。全面禁煙の警察署の中で、唯一喫煙が黙認されている駐車場の灰色のBMWの中で宇治崎を発見した。運転席の窓ガラスを叩くと、不機嫌そうにウィンドウが開く。

「何だよ。って後ろにいるのは──。関わるなって言っただろうが」

 二歩先で仁王立ちしている宮桜は不満そうな面持ちのまま警察署の建物を睨んでいる。不良というには荒すぎる組織のトップが、どんな胸中なのかは壮には分からない。

「まあまあ。千宗捜しを手伝ってもらってるんだよ。警察さんがあまりにも見つけてくれないんでね」

 皮肉を込めてそう言うと、さすがの宇治崎も押し黙る。

「っけ。んで、成果はあるのかよ」

「まだない。そっちはどうなの。国松新は何か話した?」

「お前に話す必要は──」

「本当に国松新が〈ジャバウォック〉なの?」

 壮の問いかけに、一瞬、宇治崎は表情をこわばらせた。

「……リュックからマスクとナイフが見つかった。本人も自供している」

「けど、逮捕はしていない。おかしな点があるからだ」

「お前、どこまで分かってるんだ?」

「春ちゃんが話してくれないから、まだ正確なことまでは分からないよ。けど、国松新が〈ジャバウォック〉はいつもマスクをつけていたし、背後から人を襲う。手袋もしていたみたいだし、犯人を特定するのは難しいだろう。そこで警察が国松新に目をつけたのは、きっと〈ジャバウォック〉がマスクを脱ぐ瞬間をカメラか何かで目撃したからだ」

「…………」

「〈ジャバウォック〉はカメラのある場所でマスクを取った。その顔が国松新で、たぶんそこに千宗もいた」

「お前の千里眼には毎度驚かされるよ」

「じゃあ、やっぱり当たりなんだね」

「ただの勘だが、国松新は犯人じゃない。自分がやったと言い張ってるが、全部嘘だろうな。やってないと言い張る奴を落とすのは簡単だが、やったという奴をひっくり返すのは難しい。どうしたもんかねえ」

 煙草の煙を吹かしながら、宇治崎は言う。

「他人事みたいに言わないで、努力してよ」

 さっと煙草を指先から奪い、灰皿に押し付ける。

「わーってるよ」

 うるさいというように手を払い、宇治崎は警察署の方に戻っていった。



 宮桜と別れ、そのまま電車に乗って岐阜の家に帰った。時刻は既に十一時を過ぎていたが、壮の家に門限はなく、朝に帰ってきたときも何も言われなかった。

「ただいま」

「おけぇりなさい、坊ちゃん!」

 帰ってくるなり、嫌な相手に会った。一瞬、扉を閉めようとしたがそうもいかない。

「お久しぶりですね、日坂さん。じいちゃんに会いに来てたんですか?」

「ええ、そうです。ほら、お前ら、坊ちゃんが帰ってきたぞ!」

 そういって日坂は宴会場になっているのだろう広間の方へ駆けていった。

 壮の祖父は、堅気じゃない。正確に言えば、元組員でもう隠居しているので堅気ではあるが、こうして幹部レベルの強面組員たちが押し掛けて宴会を開くときがある。祖父と壮の父親は昔から不仲で、就職を機に愛知から東京に引っ越した。しかしどういうわけだが、壮は幼いころから祖父に懐いており、両親とは上手くいかず、高校受験をきっかけに祖父を頼りに愛知に引っ越してきた。

あまりこちらに干渉してこない祖父との暮らしは穏やかで楽だったが、昔の舎弟が家にやってくるときばかりは心が休まらない。いかにもな強面な人々に囲まれることも三年もたてば慣れたものだが、酒の席に連れ込まれるのは勘弁だ。

 そろりそろりと壮は廊下を歩き、自室へ逃げ込もうとする。すると廊下の角から和服姿の祖父が現れた。

「おかえり、壮。騒がしくして、悪いな」

「いや、それは全然いいんだけど」

「酒を飲まされていないだろうな?」

 祖父はあまり干渉をしてこないが、ことおかみの世話になることに関しては敏感だった。酒や煙草には興味すらないが、万が一手を出せば、この好々爺然としている祖父でも般若のような形相になるだろう。

「まさか。そうなる前にいつも逃げるし」

「そうか。……今日も部活か?」

 部活にしては遅すぎる帰宅時間だが、壮は頷いた。嘘ではない。リクエストボックスに入っていたメモの謎を解いているのだから、これは立派な課外活動だ。

「うん」

「そういえば、この間、千宗くんに会ったよ」

 思い出したように祖父が言うので、壮は驚いた。

「それいつのこと!?」

「つい一昨日だったか。お前が家に帰ってこなかったときだ」

 壮は親の名義で高校の近くのアパートを契約している。邪魔になった壮をそこに押し込めようとしたのだ。平日はそこに帰ってくることが多いが、休日はこうして祖父のいる岐阜まで遠出して帰ってくる。そのときに千宗がここを訪れていたのだという。

「たまたま駅で出くわしてな。友人の体調が悪そうだったので、うちに泊まっていったんだ」

「そいつ、行方不明で警察も探してるんだよ!」

壮が祖父の肩を掴む。落ち着けと言うように、祖父はその手を取った。

「ひとまず健康そうには見えた。だが、なにか思い詰めているようであったから、悪いとは思いながらこっそり客間に聞き耳を立てていたんだ。林さんはそういうことが得意だからな」

林さんは世話を焼いてくれる家政婦だ。どうせ今回も頼まれもせずに盗聴をしていたのだろう。

「彼らは、千宗くんの友達の父親を探しているようだったよ」

国松新の父親を?

「どうして?」

「さあ。そこまではな。だが、早朝に出ていってしまった」

「じいちゃん、なんで止めたりしなかったんだよ。怪しいと思っただろう?」

「思ったが……」そう言って祖父は不敵に微笑む。「お前の後輩なんだろう? 何かあったらお前がどうにかするだろうと思ってな」

「楽しんでないか、じいちゃん?」

「ほほっ。まさか」

一通り笑うと、祖父は廊下をしずしずと歩いて行った。その背中を見ながら、壮はため息をつく。そして、あることを思い出した。

そういえば、あれはまだこの家に置いておいただろうか。

たしか、引っ越してきたばかりのときにこの家に置いておいたはずだが……。


 ***


「国松新の父親?」

 翌日、日曜日の午前中に壮は鏡のいる大須のネットカフェを訪れていた。突然の依頼に、鏡は少し驚いた顔をする。

「なんでまた?」

「事情は分からないが、千宗がそいつを探してる」

「国松新って〈ジャバウォック〉でしょ? なんでその父親が?」

「事情は分かんないんだってば」

「ええー。僕、はっきりしないことは嫌いなんだけど」

「とにかく時間が無いんだよ。人助け──いや、未来への投資だと思って俺に恩を売ってよ」

「自分で自分のことそこまで持ち上げられるのも、ある意味、才能だよねえ。まあいいよ。やったげる。どこにいるかまでは分かんないけど、今時、個人情報なんて透け透けだし」

 ロリポップを舐めながら、鏡がカタカタとキーボードを打つ。ものの二分で、国松新の父親の免許証写真と思わしきものが表示された。真っ直ぐ通った鼻筋に、ぎろりとこちらを睨む瞳。肩幅は広く、体格の大きさが伺える。

「国松淳。もっとも今は、離婚して原田淳って名前みたいだけど」

「離婚?」

「そ。なんか民事でも刑事でも訴えられてる厄介者みたいだよ。民事は不動産を巡る揉めごと。刑事は暴力だね。酒を飲んで警察官を殴った」

「破天荒な人だな」

「それを破天荒で済ませるあたり、そーちゃんの感覚はだいぶおかしいんだよね」

「ありがとう、ランちゃん。ああ、そうだ。見返りって言ったら、なんだけど、〈ジャバウォック〉は国松新じゃないよ。刑事も認めてた」

「えっ? でも自白してるんでしょ?」

「けど、まだ報道はされてない」

 それが国松新が白だという、何よりもの証拠だ。

「じゃあ、なんで国松新は自白を……」

「さあ。そこまでは。俺の仕事はただ、ボックスのリクエストに応えるだけだから」

〈シャチを見つけてください〉

 意味不明な文言。けれどそれはきっとダストシュートを通って流れ着いたSOSだ。

「千宗を探すよ」


 ***


 日曜日の午後は高校生がうろついていても、さほど不審がられず安心できた。千宗はあれからずっとほとんど眠らずにいた。橋の下で座り込み、うとうととしているうちに夜が明け、気がつけば街の雑踏を歩き、男を探していた。もちろん鞄の中にはまだ包丁が入っている。警察官にでも見咎められれば、一大事だが、日曜の昼に一人でうろついている高校生を構うほど警察も暇ではないだろう。もっとも、今は家族が捜索願を出している可能性があるので、そちらの点で警察の動向に注意しなければならないが。

 あの男を探さなければ……。

 新は無事だろうか。今頃、警察の事情聴取で精神的に参っているのではないだろうか。心配だが、手助けはもうできない。

 時間がない。

 一刻も早くあの男を殺さなければ。殺さなければ、本物の〈ジャバウォック〉が目覚めてしまう。

「もう少し耐えてくれ……」

 祈るような気持ちでそう呟く。声が届くわけはないが、せめて願いは。

 しかし男を探すと言っても、どうすればいいのだろうか。鏡と接触すれば、たちどころに壮に連絡がいくだろう。そうとなれば、自分が頼れる人材は限られてくる。

 いや、知っているではないか。ある切り札を。使い様によってはこちらの指がスパンと切れるが、仕方がない。

 千宗はホストクラブのある店の方へ近づいていき、その裏口を見つけた。不用心にも鍵は掛けられておらず、中に入ることができた。息を潜めコンクリートの床を踏みしめる。バックヤードは黒い壁紙で統一されていて、白いLED電球がやけに眩しかった。

「誰だ!?」

 革張りの高級そうなソファに座っていた若い男がこちらを向いた。数人の取り巻きもこちらを睨む。突然、現れた人畜無害そうな高校生に驚いているのだろう。

「伝言があります」

 毅然とした態度で千宗はそう言い放った。

「はあ?」

 当然の反応だ。いきなり来て、何の用だという内容を端的にまとめてくれた反応だった。

「男を探してもらいたい。この顔に覚えは?」

 マンション前で撮影した写真をスマートフォンで表示させる。若い男たちは、動揺し始めていた。

「あんた何者だ?」

「あなたたちと同じです」

「メンバーってことか?」

 彼らは〈DIVA〉を知っている。千宗がそう確信していたわけではないが、ここ一帯のアングラに属する若者たちが〈DIVA〉という存在を知っていることだけは確かだった。そして幸運なことにも彼らは〈DIVA〉のメンバー、もしくは組織に友好的な人々らしかった。このホストクラブは、前に宮桜がいたアジトの真下だ。関係があるのはほぼ間違いがなかったが、上手くいって良かった。

「これは宮桜さんからの命令です。すぐに他の仲間にも伝えてください。あと連絡は全て、僕を通してください」

 千宗は若い男たちに、スマートフォンの番号を伝えた。若い男たちは何の疑問も持たずに頷く。

「くれぐれも相手には見つからないようにしてください。彼には宮桜さん直々に手を下します。以上です」

 若い男たちは獲物を前にした肉食獣のように爛々と目を光らせ頷くと、一斉に立ち上がると部屋から出ていく。

「…………」

 うまくいくかは賭けだったが、なんとか騙せたようだ。あとは宮桜にこの話が届かないことを祈るばかりだ。



 スマートフォンに連絡があったのはその日の夕方だった。

 思ったよりも早いな。

 宮桜が率いる〈DIVA〉という組織は想像以上にメンバーが多いか、人探しに特化した技術を持っているらしい。

「ビジネスホテル?」

『ああ、そこから出て、今はコンビニの中にいる』

「分かりました。連絡ありがとうございます。宮桜さんに伝えておきます」

 電話を切り、指定されたコンビニへ鞄を持って駆け足で向かう。近づくほどに、人気のない通りが気にかかった。

──まさか。

「犀賀千宗」

 凛とする声が辺りに響いた。コンビニの前にいたのは、宮桜と壮だった。

「俺の仲間を甘く見るな」

 一言そう言うと、ぎろりとこちらを睨むのであまりの気迫に息をのむ。謝罪した方がよさそうだと考えが浮かぶが、同時にここから一刻も早く立ち去らなければとも思った。

「よう、千宗」

「お久しぶりです、壮先輩」

 壮は二人の間に何事もなかったかのように笑っている。笑ったまま、こう言った。

「国松淳を殺そうとしているのか?」

 まったく。この人はつくづく、いったいどこまで見えているのだろうか。

「誰ですか?」

「国松新の元父親だよ。暴力沙汰で何度も捕まってるらしいじゃないか。パチンコ屋の裏で、お前とこの男が対峙している映像が撮れてるんだよ。刃物を持って脅してるのかと思ったが、お前は何も言わず突こうとした。殺すつもりじゃなくて何だって言うんだよ」

「…………止めないでください。新くんが捕まったなら、なおさら僕がやらなきゃいけないことなんです」

「本物の〈ジャバウォック〉が目覚める前に、か」

「そこまで分かって──」

「本物?」

 宮桜が疑問を浮かべた顔で壮を見る。

「〈ジャバウォック〉の正体は国松新の妹、国松香織だ」

「…………」

 千宗は奥歯を噛んで押し黙る。

「国松香織は国松、いや原田淳から虐待を受けており精神を病んでいた。鬱憤も勿論溜まってただろうな。だが、それを解消する術として本人に立ち向かうことは本能的に耐えられなかった。だから台所の包丁を持ってマスクをつけて、外出し人を刺した。おそらく帰宅した後、国松新には真実を伝えたのだろう。そこで国松新は、その犯行を自分の仕業に見立てようとした。幸い、国松新は華奢な体格で女性に見えないこともない。国松香織と体格は似ていたわけだ。国松新はまず妹のアリバイを作ろうとした。妹が高校に通っている時間、かつ自身の職場の昼休みにマスクをつけて外に出た。ナイフを持って誰も傷つけず、マスクだけをカメラのある場所で外した。〈ジャバウォック〉は二人いたんだ。」

「……新くんと香織さんは仲のいい双子でした。けれど香織さんは完全に異常な精神状態になってる。でも、どうして香織さんの仕業だと思ったんですか?」

「国松新が何者かを庇っているのは春ちゃんの態度からして明らかだった。庇われている誰かは、逃走している可能性が高い。そして今、国松香織は行方知れずだ。彼女は今はどこにいる?」

「言えません。とにかく原因であるあの男さえ殺せば、香織さんの凶行も治まるはずです」

「じゃあ、俺がやろう」

「え?」

 気がつけば、壮は目の前にいた。するりと伸びた手が、鞄の中から包丁を出す。

「お前を騙したわけじゃない。原田淳は本当にいるんだよ、ほら、あのコンビニの中に」

 なんとことないように壮は笑う。

 嫌な汗が背中を伝った。

「誰かが殺さなきゃいけないなら、誰が殺しても同じだろ。それに俺はお前の先輩だし」

「か、関係ないでしょ、それは……」

 これから人を殺すとは思えないほど晴れやかな表情で壮は笑う。

「友情が何か、まだ分からない。けど蛍のためなら何でもする。蛍が本当に困ってて、殺したい奴がいるなら俺が代わりに殺すかもしれない。それが後輩なら尚更だろ。お前が困ってるなら、助けてやるよ」

 軽やかな音が流れる。コンビニの自動ドアが開く音だ。店の中から出てきたのは、あの男だった。彼は道路の向かい側の大きな夕焼けに目を細ませて、こちらに気づいていない。壮は包丁を持ったまま、男の腕を掴んだ。

「なんだ!?」

 壮の瞳が真剣な色に変わる。見えない角度にしていた包丁を露わにし、男が身をよじらせるが腕を掴む力が強く逃げられない。

「恨みはないが、あんたを殺す」

 腕を引き、包丁を突くように動かす。刃先がずるりと男の腹部にめり込んでいく。

「待って!」

 気がつけば千宗はそう叫び、壮の腕を無理やり引っ張った。血しぶきが飛び散る──ことはなかった。

「は……?」

 男がぽかんとした顔でこちらを見る。千宗も一瞬の出来事で何が起こったのか分からない。壮は千宗の腕を放し、そのまま流れるような足蹴りを男に見舞う。したたかに背中を蹴られ顔からコンクリートに倒れ込んだ。身動きがない。どうやら気を失ったらしい。

「おっと気絶させちまったか。逃げるぞ」

「えっ、ええ?」

 壮に腕を掴まれ、千宗は宮桜と共にしばらく夕時の街中を駆け抜けた。

「あの、包丁、なんで!?」

「これ」

 走りながら壮は持っていた刃物を見せた。押すとプラスチックの刃物部分が柄に引っ込む仕組みになっている。要するにおふざけようのパーティーグッズだ。鞄から刃物を取り出すパフォーマンスをしてみせただけで、元から袖の中に隠してあったパーティーグッズとすり替えていたのだ。

「家にあって助かったよ」

「初めから、このつもりで……。でも、僕は」

 千宗が走るのをやめる。自然と壮も立ち止まる。宮桜は静かに二人の様子を見ていた。

「あの男は国松家の癌なんです。誰かが取り除かなきゃならない」

 壮はため息とともに頷いた。

「確かにそうかもしれない。誰かが、あの家庭を救うべきだ。けどそれはお前である必要はない」

「だけど、法や司法に何ができるって言うんですか? これまでだって新くんは何度も家や電話番号を変えたって言ってました。逃げても、逃げても追ってくるなら、もう……」

「たとえ、殺すしかないとしても、お前が殺す必要はないだろ」

 淡々と、一+一が二であることを示すように壮が言った。

「今のお前は視野狭窄になって、すごく重要なことを見落としている」

「重要なこと?」

「お前には頼れる先輩がいるってこと」

「は?」

 呆れかえるような気持ちがした。それと同時に腹の底から笑いがこみ上げてきた。

 先輩がいる。そうだ。その通りだ。でもだから、なんだっていうんだ?

「見つけてくれって、言っただろ」

 壮はポケットの中からキーホルダーを取り出した。ガラスでできたシャチのキーホルダーだった。それを千宗の手に握らせる。そして笑った。

「見つけてやるよ。どこにいても、何をしてても、お前が心底困って途方に暮れてるんなら、助けてやるのが、先輩だろ?」

 〈シャチを探してください〉

 自分は、どうしてあんなメモを残したのだろう。青春のゴミ箱の中に、最後のよすがに縋るように、どうしてあんなものを?

「僕は……」

 見つけて欲しかった。

 本当は恐ろしかった。けれどそれしかないと思った。

 新くんが捕まることだけは絶対に避けなければいけない。恐らく犯人だろう香織さんを止めるには、あの男を殺めるしかない。

「──たすけて、ください」

 ぽつりとつぶやいた途端、堰をきったように涙が溢れてきた。新に見せてはならないと思っていた心細さや恐怖から解放され、手足が震えた。

「どうすればいいのか、分からない……」

 新を助けたい。あのときみたいに、もう逃げてはいけない。そんな気持ちが千宗をずっと縛っていた。

「あとは任せろ」

 きっと何の根拠もないくせに壮は笑っている。その優しさが、沁みて痛かった。

 千宗はしばらく無言で泣いていた。

「泣くなよ。ださいなー」

 壮はケラケラと、ずっと笑っていた。

 第一理科室が好きだった。他愛ない話をするのが、つまらないボードゲームをするのが、楽しかった。

 ああ、そうか。

 自分はわりとこの風変りの先輩が好きだったらしい。


 ***


『京都に行け。お前は逃げろ』

 その言葉が頭の中で揺れる。国松香織は、京都駅で新幹線を降りてあてもなく歩いていた。

 私はなんてことをしてしまったのだろう。

 怖くて、怖くて泣けてきそうだった。けどこんな自分に泣く資格なんてない。一歩間違えれば人を殺めるところだったのだ。

 自首しなきゃ……。

 そう思って交番の前まで行く。

 東海地方で起きている通り魔事件の犯人は私です。そう言うのだ。

 香織が立ち尽くしている、そのときだった。

「国松香織さん?」 

 背後から声をかけられた。警官だった。ほっとして、別の涙が出てきそうだった。

「私です……。私なんです……」

 警官は一人ではなかった。私服の刑事と思わしき女性が自分を囲む。それは圧迫感を覚えるものではなかった。

「話はゆっくり聞くよ」

 女性刑事が肩を優しくつかんだ。


 ***


 その日の夜八時ごろ、国松香織が京都で逮捕された。

 千宗は壮と共に宇治崎のBMWの前に立っていると、煙草を吸いにやってきた宇治崎から話を聞いたのだ。

「国松新は白だ。犯行時刻には職場にいたアリバイもある。刃物を持って歩いていたのは銃刀法違反だがな」

 ぶつぶつと独り言だと言いながら、宇治崎は事情をこちらに教えてくれた。

「というか、犀賀千宗。大丈夫か?」

 千宗はあれから自ら警察署に出向き、失踪届が出ている者だと名乗り出た。家族に叱られたが、なんとなく家出したくなったと答えた。新と会ったのは偶然で友達だったので一緒にいたと。

「心配してくれるんですか? 叱るのではなく?」

 宇治崎は鼻で笑った。

「もう散々叱られただろ。飴と鞭ってやつだ」

「お気遣いありがとうございます。確かに、もう散々叱られました」

 母親と父親に家に引きずってでも連れ帰られそうだったが、壮と一緒にいるという条件付きですぐに家に戻らずにすんだ。

 ちょうどそのとき、警察署から若い刑事に連れられて新が出てきた。彼の表情は優れているとは言い難かった。妹が逮捕されたのだから当然だ。

 新はこちらに気づくと駆け寄ってきた。

「千宗くん……」

「ごめんね、新くん。ダメだった」

「そんなこと……。それに僕はただ、香織が……」

 目に涙を浮かべる新を見て、千宗はその肩を手でさすった。気がついたら、自然とそうしていた。

「宇治崎さん、香織さんはどうなるんですか?」

 宇治崎は煙草の灰を落としながら言う。

「まだ何とも言えんが、捕まった直後に本人に話を聞いた刑事は精神が錯乱している状態だったと聞いてる。今は病院だ。なら、そのまましばらくは警察病院にいることになるだろうな。なんにせよ、罪は償わなければならない。たとえそこに情状酌量の余地があるとすれど、贖罪は一生つきまとう。心の中にも、金銭的にも、な」

「……そうですか」

 千宗が返答すると、新は今にも泣き出しそうな雰囲気で顔を伏せた。

「宇治崎さん、原田淳のこと、本当にどうにもならないんですか?」

「ひとまず妻と娘への暴力行為で逮捕状が出ている。すでに身柄も確保された」

「問題はその後、出所してからです」

 千宗が語気を強めると、新が答えた。

「僕がどうにかします。父さんと話し合います」

「無茶だよ」

「それでも、それだけが正しい道だって、ようやくわかったから……。香織があんなに傷ついて、母さんもボロボロで、だったらもう僕が矢面に立つしかない」

 宇治崎が低い声で言う。

「手ぇ出すのはお互いになしだ」

「わかってます」

「こじれたらすぐ、警察に来い。いくらでも力になってやる。約束する」

「ありがとうございます」 

「君が誰も殺さずにいてくれてよかったよ」壮は新へと微笑みかけた。「だって千宗の友達なんだろう?」

 問われた新は目を丸くして、それから千宗を見た。そして、笑った。

「はい……!」

 僕らは、友達だった。

「小学生のとき、僕は君がいじめられてるのを見過ごした。それでも友達だって言うの?」

「言うよ。だって、僕は君が友達だから君を庇ったんだよ」

 僕らはずっと、友達だった。

「新くん。ありがとう」

 贖罪と対決。そんなこと本当はどうでもよかったのかもしれない。

 自分はゴミ箱の中にいるんだと思っていた。新くんを裏切ったあのときから、自分は部屋の隅の箱の中にいた。

 けれど、見つけてくれた。

 何年もかかってしまったけれど、随分と遠回りをしてしまったけれど。

 ダストボックスの中の、砂粒を、確かに救い上げてくれたんだ。


 エピローグ


 新緑の季節、千宗は高校二年生になった。二年生にして既に天文部の部長である。東藤から部長は部活動の勧誘をしなければならないといわれ、生徒会が持ってきたチラシに迷った挙句こう書いた。

〈青春をごみ箱に捨てたい方、募集〉

 どうせ生徒同士でしか見られないチラシだ。教師にとやかく言われることもないだろう。物好きな学生が釣れたら、それはそれで面白いかもしれない。

 リクエストボックスは相も変わらず様々な投書が届く。その内容を見て行動するかは、わりと気まぐれだけれど、今のところはやっている。

 『犀賀先輩』はいつの間にか有名人になっているらしいと友達伝いに聞いた。なんでも相談に乗ってくれるカウンセラーのように思われているらしい。

 静かな第一理科室で千宗は今日も勉強をする。ふと耳をすませば、飛行機が飛ぶ音が聞こえた。

 壮は高校を卒業してから海外の大学で英文学を学ぶことを選んだ。五月ごろに出発すると、いつだったか話していた気がするがよく覚えていない。


──僕は、相変わらず壮先輩の連絡先を知らない。


 LINEもfacebookもある昨今、僕らは互いのメールアドレスも知らないでいる。

けれど別にいいのだ。

 どこにいても、なにをしても、たとえ何者になったとしても、壮先輩は僕を見つけるだろうから。


                                  〈了〉

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青春ダストシュート 青猫 @AONeKO_09

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