第3章 ,still


 第3章  ,still


 ボードゲームに飽きたのか、ここ最近の壮は洋書を読んでいることが多い。聞くところによると壮はアメリカ人の祖母を持つクォーターらしい。英語力もほぼネイティブと変わらないのだと、クラスの女子がうっとりした表情で教えてくれた。

『鵜飼先輩』は、後輩たちの憧れの的で、千宗はクラスメイトからあれこれと質問を受ける。けれど聞かれたところで答えられるほど壮のことをよく知らないし、クラスメイトの方がよっぽど壮のことを知っていた。

敢えて言えることがあるとするなら、壮の愛読書は英米文学の作品が多いということくらいだ。ヘミングウェイやサリンジャー程度なら知ってはいるが、壮が読んでいるどの著者の名前も千宗にはピンとこない。壮は読書家のようだ。

 壮は読書を、千宗は勉強をする。間に会話はなく、いつも通りの静かな部室。そこに廊下から足音が聞こえてきて、扉の前でぴたりと止まる。東藤かと思いきや、扉を開けたのは女子生徒だった。

「壮、いるー?」

 艶のある黒髪が後ろで一つにまとめられ、着ているTシャツには朝日南高校バスケ部の文字が書かれている。背が高く、百七十センチはありそうだ。手足がすらりと伸びて、遠目にも分かる美人だった。読書をしていた壮が本に栞を挟んで畳み、頬杖をつく。

「なんだよ」

「また部長会すっぽかしたでしょ。会議終わっちゃったよ」

 その顔を近くで見て思い出した。この人は生徒会長だ。入学式での答辞もこの人だった。ふと千宗とその女子生徒の目が合う。

「あれ? もしかして新入部員?」

「犀賀です」

 女子生徒は驚いたというように口元に手をやってから、可哀想なものを見る目でこちらを見る。

「壮からお金でも借りてるの?」

「いえ、脅されて入部したわけでは……」

「そうだぞ、蛍。人聞きの悪い」

「まあ、あと一年の我慢だしね。壮は変人だけど付き合ってあげて」

「はい」

「千宗もそこで頷くな」

 生徒会長は千宗に向けて花が綻ぶようにふわりと笑いかける。

「私、佐鳥(さとり)蛍(ほたる)。よろしくね」

「よろしくお願いします。確か生徒会長ですよね」

「そう。バスケ部の部長もやってるの。月末は部長会だから、もし壮が部室にいたら部長会に行くように言っておいてくれる?」

「分かりました」

「ありがとう。しっかりした子が入部してくれて良かったね、壮」

「うるせー。用が済んだなら帰れよ」

 それから二人は他愛ないことをいくつか話していた。何の本を読んでいるのかだとか、あの映画はもう見たかだとか。その様子を見ながら千宗は想像を巡らせる。

──もしかしなくても彼女では?

 お互いを下の名前で呼び合っているし、会話も親しげだ。壮と佐鳥の二人は美男美女で似合いのカップルにも見える。

「あ、そろそろ部室に戻んないと」

 そういって佐鳥は千宗に手を振って第一理科室から出て行った。説明を求めるように千宗は壮を見つめる。

「彼女さんですか?」

「は? んなわけねえだろ」馬鹿にしたようにへらへらと壮は笑う。「前に言っただろ。この学校には一人しか友達がいないって」

「それが佐鳥さん?」

「一応。それにあいつ、彼氏いるんじゃねえの? あんまりそういう話しないから知らねえけど」

 照れているようには見えない。本当に恋人関係でもなければその前段階というわけでもないらしい。勘ぐった自分が少し恥ずかしい。それと同時に勿体ないなとも思った。周囲の人間もお似合いなのにと思っているに違いない。

「久しぶりにリクエストボックス見てみるか」

 壮は教室の後ろに置かれた箱を開ける。中には紙片が入っていて、走り書きがされていた。

〈生徒会長・佐島蛍は売春をしている〉

 その文言が目に入った千宗は思わず声が出かけた。ついさっきまでそこにいた人物のことが書かれているだけでも驚きなのに、その中身は売春ときた。友人である壮は紙片を破り捨てるだろうかと思いきや、意外にも軽く笑って済ませた。

「へえ、あいつ友達が多い方だと思ってたけど、案外嫌われてるんだな。完璧人間にも綻びありだ」

 ニヤリと笑いながら紙をポケットにしまう。壮は佐鳥が売春しているという話を全く信じていないし、彼女がそんなことをするはずがないと思っているようだ。その厚い信頼関係に驚いた。友情というものを初めて目の当たりにしたような気さえした。


 ***


 千宗は地下鉄で高校に通っている。晴れの日が続くのなら自転車に乗っても良いのだけれど、坂が多いし毎日晴れとも限らないので自転車通学は諦めている。いつも通り駅から出てしばらく歩くと、高校が見えてくる。

少し早く着きすぎたなと思いながら腕時計を見ていると、背後から悲鳴が聞こえた。助けて、と叫んでいる。千宗は慌てて声が聞こえた方へと目をやる。十メートルほど離れた場所に女子生徒が倒れていた。ふくらはぎから赤い血が流れ、黒いコンクリートをてらてらと濡らしていく。

「大丈夫ですか!?」

 跪いて顔を見ると、そこには佐鳥の顔があった。

「佐鳥さん?」

「さ、刺された……」

 傷を見ると、ふくらはぎの皮膚が十センチほど裂けている。そこからだらだらと血が流れ続けていて、佐鳥の顔を青白くさせていく。

──保健室、いや救急車か?

 スマートフォンを取り出し、救急車を呼ぶ。それから佐鳥に断りその場を離れて職員室へ向かった。職員室にいた教師を引っ張って佐鳥の元へ連れてこさせる。傷を見た教師はおっかなびっくりとした手つきで応急処置を施した。ほどなくして救急車が現れ、佐鳥は運ばれていった。

「怪我じゃないよな?」

 救急車を見送りながら手当てをした男性教師が訊ねる。

「刺されたって言ってました」

 近頃世間を騒がしている通り魔の文字が頭を過ぎる。まさか佐鳥はその通り魔にやられたのではないだろうか。けれどなぜこんな時間に。疑問はつきないが、そんな千宗を追い立てるように予鈴が鳴った。

 一時間目の途中に教頭が教室にやってきて千宗を呼び出した。教頭は暗い表情で今朝のことを刑事の前で話すようにとこちらに言ってきた。

「できそうかな? 気分が悪くなったりしていない?」

「大丈夫です」

「ならいいんだけど」

 第一理科室の扉が開かれ、二人の刑事と目が合う。いつも部室で使っているのに、見慣れない大人が二人いるだけで雰囲気ががらりと締まったものへと変わる。

「あ」

 ふとそのうち一人に目がとまる。

「君は確か……」

「宇治崎さん」

 後輩と思わしき刑事が宇治崎の方を見る。

「お知り合いですか?」

「まあ、少し」

 宇治崎は言いよどむ。

「そうか。朝日南か。この学校には嫌な縁を感じるな。また何か絡んでるのか?」

「佐鳥さんを見つけただけです」

 後輩の刑事が人好きのする笑みを浮かべる。

「救急車を呼んだのは犀賀くんだよね。正しい判断だったよ」

「ありがとうございます」

 しばらく質問に応答していると、廊下ががやがやとうるさくなった。やがて無理やり扉が開く音がする。

「ちょっと君! 勝手に入って来ちゃだめだよ!」

「春ちゃん!」

 第一理科室に入ってきたのは壮だった。宇治崎が苦い表情で自分のこめかみを指でなぞる。

「お前か……。というか下の名前で呼ぶのをやめなさい」

 どうやら宇治崎の本名は宇治崎春らしい。自分より倍以上年上を下の名前でちゃん呼びしてしまう壮も壮だが、刑事にしてはなんとも可愛らしい名前である。

「あれ? 千宗?」

「おはようございます、壮先輩」

「なんでお前がここにいるんだよ」

「佐鳥さんを朝見かけたのが僕だからですかね」

 怪訝そうな宇治崎が間に割って入る。

「まさか、お前達も知り合いなのか?」

「天文部の後輩だよ」

「天文部には近づくなって、言っただろう」

 ぎろりと宇治崎が睨んでくるので、千宗はそっと目を逸らした。壮は堂々と千宗の隣の席に座る。

「とにかく蛍はオレの友達で、千宗は後輩」

「お前、友達いたのか?」

「悪いかよ」

「いいや。お前に社交的な部分があって驚いただけだ。安心しろ。佐鳥蛍さんは無事だ。怪我の後遺症もない。ただショック状態で事件前後の記憶が消えてる」

「通り魔の仕業ですか?」

 千宗の問いかけに、宇治崎は一瞬いらっとした目をした。突っ込んでくるなと牽制をされたような気がした。

「さあな。そうだとしても、そうではないとしても、お前たちの出る幕じゃない。絶対に手を出すな」

 やはり牽制だ。だが気づいているのか、いないのか壮はまったく怯んでいない。やがてチャイムがなり聴取は終わった。

廊下を二人で歩きながら、壮に訊ねた。

「どうするんですか?」

「決まってるだろ」壮はかつてないほどに感情的だった。苛立つときの癖なのか、奥歯をがちんと鳴らした。「通り魔を見つけ出す」


 ***


 放課後、壮と共に大須にある鏡ランの住処兼ネットカフェに向かった。今日の鏡の服装は黒いゴシックロリータだった。佐鳥のことを壮が話すと、鏡も皆と同じ反応を示した。

「へえ、そーちゃんに友達いたんだ」

「なんでみんな、その反応なんだよ……」

「いや、そーちゃんってフレンドリーだけど近寄りがたいからさ。柔らかめのATフィールドを無意識に展開してるんだよねえ」

「オレのことはいいから。通り魔についてなんか知らない?」

 飴を舐めながら鏡は足を机の上にやる。

「うーん。報道されていることがほとんどだけど……」

 通り魔は夜、名古屋市を中心に三重、岐阜でも発生している。標的はサラリーマンや、お年寄りの女性と規則性がなく、さまざまな世代の人が狙われている。

「ああ、分かっていることと言えば、こんなマスクをつけているらしいってことかな」

 カタカタとキーボードを打ち込むと、画面に剥き出しの八重歯が目立つマスクが映る。目元はピエロが泣いているようなイラストが施されていて、悲しみと凶暴さがない交ぜになったような不気味なデザインのマスクだった。

「ついたあだ名は〈ジャバウォック〉だ。怖いだろう?」

 けけけと全く怖くない様子で鏡は笑う。

「確かに、センスの悪さが化け物級だ」

 ジャバウォックは『鏡の国のアリス』に出てくる怪物だ。誰かがそこから名づけたのだろう。

「あと出回ってる情報っていうと〈DIVA〉が〈ジャバウォック〉を殺そうとしてるってことかな。仲間内で懸賞金をかけてるらしいよ。彼らも彼らで凶暴だからね」

「じゃあ宮桜にも会いに行くか」

 こともなさげに壮が言う。

「話聞いてた、そーちゃん? 殺気立ってるんだよ」

「大丈夫だって。この間、連絡先教えてもらったし」スマートフォンを操作し、壮はにやりと笑う。「お、かかった。かかった。錦にいるってよ」

 大須から錦へと向かい、宮桜がいるというビリヤード店に入った。ビルの二階にあるその店は煙草の煙が充満していて、千宗は少し咳をした。ビリヤード台が六つと、ダーツやスロットマシーンが置かれている。宮桜は店の奥でビリヤードのキューを持ち、もう片手には煙草を持っている。未成年の喫煙だ。無論、千宗はそれを咎めるほど命知らずではなかったが。

「けむたっ。お前、若い頃から煙草なんて吸うとヤニ臭くなるぞ」

 宮桜はわざと煙を壮に向かって吐いた。

「ああ、そう。ご忠告どうも、お兄サン。それで、何か用? お前たちには〈ローズバッド〉の件で借りがある。できる限りのことはしよう」

「貸し借りなんて柄じゃないんだけどな」

「こっちの問題だ。気にするな」

 それから壮は佐鳥蛍が通り魔に刺されたことを話した。話を聞き終えた宮桜は灰皿に煙草を押しつけて消した。

「なるほど。友人が〈ジャバウォック〉に刺されたと。友人が──」

「友達くらいいる! なんだよ! 悪かったな!」

 宮桜は突然、怒り出した壮に対して怪訝そうな顔をする。

「友人が怪我をして報復したい気持ちは分かるが、と言おうとしたんだが」

「なんだよ。驚かすな」

「ともかく気持ちは分かるが〈ジャバウォック〉には近づくな」

「自分たちの獲物を横取りされたくないからか?」

「そんなチャチな理由じゃない。〈ジャバウォック〉は決まって夜更けに背後から人をひとつきで襲う。そんな奴が白昼堂々足を狙うのは奇妙だ」

「犯人は〈ジャバウォック〉じゃないって言いたいのか?」

「ああ」

確かに、宮桜の言い分にも一理ある。問題は、では誰が佐鳥を襲ったのかということだ。宮桜は続ける。

「冷静に動くことだ。余計な詮索はせずに」

 話の終わりを告げるように、宮桜はキューを持ち直しビリヤード台に向き直る。どうやらこれ以上のことは聞かせてもらえないらしい。借りがあると言いながら、情報を提供しないのは如何なものかと思うが、それも宮桜なりの気配りととれば噛みつくことはできない。第一、半グレ集団を仕切るボスに噛みつくなんて自殺行為はごめんだ。

「帰るか」

 肩をすくめて壮が言う。

「そうですね」

 しかしビリヤード店を出ようとしたとき、思い出したように宮桜が声をかけた。

「友人の様態は?」

「後遺症はないよ。ただ一時的なショック状態にあるだけだ」

 返答を聞くと宮桜は、無表情なまま背を向ける。帰れと言うことらしい。

「意外です」

 千宗は思ったことを思わず口に出している自分に気が付いた。

「何がだ」

「見ず知らずの壮先輩の友達を心配するなんて、意外だな、と。すみません」

「謝罪の必要はない。帰れ」

見ず知らずの壮の友人を心配したことで冷静沈着に思えた宮桜のリーダー像が少し揺らぎ、千宗は内心驚いた。感情を持たない人間がいないように、宮桜もまた情に厚い部分があるらしい。いや、そうだからこそ支持を集め、集団のリーダーが務まるのだろう。


 ***


 翌日、千宗は壮と共に放課後の体育館にいた。壮は佐鳥のいる病院に見舞いに行きたかったそうだが、まだ面会謝絶状態で断念したらしい。仕方なく、事件の尻尾でも掴めればと彼女の所属しているバスケ部が練習している体育館に来たのだった。

 出入り口に立っているだけとはいえ、ジャージ姿の生徒に紛れて私服姿の生徒がいるのは目立つ。そしてまた人気者の壮は後輩たちに遠巻きに見られて、ひそひそと話されている。

──本人からしたらいい迷惑だろうな。

 平々凡々な千宗には分からないが、美人には美人の悩みがあるだろう。歩くだけで騒がれるなんて自分だったらまっぴらだ。

「友達が少ないって言っただろ」

 言い訳をするように壮が気まずそうに言う。

「壮先輩の見た目が良くないんだと思います」

「自慢するわけじゃないが、容姿を貶められたのは初めてだな」

「そういうところ腹が立ちますね、ほんと」

 そんなことを話していると、女子生徒がこちらに近づいてきた。二つ結びをしたバスケ部部員だ。

「鵜飼くん、何してるの?」

「相羽(あいば)?」

 現れたのは相羽るりという三年生の生徒だった。彼女はバスケ部の副部長で佐鳥の友人らしい。

「蛍の事件こと調べてるんだ。鵜飼くんらしいけど、気をつけてね」

「分かってるよ。それに素人にできることなんてたかが知れてる。それより、最近の蛍の様子は? 変なところとかなかったか?」

「蛍のことなら鵜飼くんの方が詳しいじゃない」

 相羽は苦笑した。

「女の勘ってのがあるかもしれないだろ」

「期待しないで。蛍はいつも通りしっかりしてたよ。あ、でも部活帰りに遊ぶことが減ったかな」

「勉強してるんじゃないのか。あいつ東大志望なんだろ」

 文武両道な東大志望、絵に描いたような朝日南の理想の生徒だ。こんな話を聞くとますます売春という文字が佐島蛍という存在から遠のいていく。一体誰がそんなことを書いて投函したのだろう。

「こんなところで何してるんだよ、相羽。と、鵜飼くん?」

 今度は茶色っぽい地毛の小柄な男子生徒が現れた。恐らく体育館のコートの半分を使っている男子バスケ部だろう。

「誰?」

 途端、壮の声が低くなる。なぜだか突然、機嫌が悪くなった。それに気づいているのか、男子生徒は空笑いをする。

「ひどいな。頼本(よりもと)大和(やまと)だよ。一年のとき同じクラスだっただろ」

「ああ、そういえばそうだったかも」

 壮は頼本と目を合わせようとしない。かわりに相羽が頼本に訊ねる。

「なんか最近、蛍に変なところなかった?」

「変なところ? どうして?」

「鵜飼くんが調べてるんだよ」

 それだけの言葉で納得がいったのか、頼本は考え込んでから閃いたように手を叩いた。

「オレ、佐鳥が男と歩いてるの見たよ」

「男?」

「四十代くらいの男」

 相羽と頼本が話し合っている中、やはり壮は不機嫌だった。その理由は千宗にも分かる。売春の紙片の情報を思い出しているのだ。四十代くらいの男が売春相手だったら? 嫌な憶測が頭に過ぎっているのだろう。

 壮は冷たい表情のままその場を立ち去った。追いかけて何か言うべきかとも思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。

 だが捜査に進展はあった。四十代の男性の存在だ。もし仮に本当に佐鳥が援助交際をしていて、その相手がその男性だったとする。二人の間に何らかの衝突があり、男が佐鳥を刺したというストーリーも十分に考えられるだろう。警察はもうそのことを掴んでいるのだろうか。宇治崎のことが頭に浮かぶが、もしこれらのストーリーが過ちだった場合、佐鳥を傷つけることになる。とてもではないが話せない。結局、自分たちで調べていくしかない。


 ***


「病院行くけど、来るか?」

 翌日の放課後に第一理科室にやってきた壮は、教室に来るなりそう言った。

「面会謝絶じゃなかったんですか?」

「今日からは普通に面会できるらしい」

「でもどうして僕も?」

「ついてきてくれると助かるな。非常に。花とか何を選べば良いか分かんねえし」

「構いませんが……」

 妙に今日の壮は歯切れが悪い。日頃から何を考えているのか分からない人ではあるが、更に今日は謎めいている。いや、苦しんでいるのか?

 二人は電車に乗り、佐鳥の入院している大学病院に向かった。病院の前の花屋で適当な花束を作ってもらい、それを持って病室に入る。

「蛍―。オレだけど」

 閉じられていたカーテンが開き、佐鳥が顔を出した。その表情は明るかった。

「壮。来てくれたんだ。犀賀くんも。ありがとうね」

「花瓶ないのか?」

「え、花束持ってきてくれたの?」

「似合わねえとか言うなよ」

 壮は花瓶に花を生けながら訊ねる。

「怪我は?」

 足下はシーツに隠れて見えないが包帯が巻かれているだろう。

「全然痛くないよ。傷もまあ、ちょっとは残るかも知れないって言われちゃったけど。平気」

「そっか。元気そうで安心した」

 にやにやと佐鳥が笑う。

「ふーん。心配してたんだあ。壮がねえ。ねえねえ、犀賀くん。壮はどんな感じだったの?」

「馬鹿っ」

「通り魔を捕まえようとしてますよ」

 さすがに予想外だったのか、佐鳥は真面目な顔に切り替わった。

「そんなの危ないよ。絶対ダメ」

「分かってるよ。千宗、捕まえるっていうのは語弊がある。オレは犯人を推測しているだけだ」

「推測なんて……。分かるわけないじゃん。私、何にも覚えてないんだから」

 壮は面会者用の椅子に座り、佐鳥と向き合った。

「本当に何にも覚えてないんだな」

「そうだよ。警察にもそう言ってるし」

「じゃあ、これは?」

 壮が鞄から取り出したのは、リクエストボックスに入っていた例の紙片だった。本人にそれを見せるのかと、驚いた千宗は思わず声が出そうになったが、手で押さえた。紙片を見た佐鳥の表情がどんどん強張る。

「なにこれ……」

「天文部のリクエストボックス。知ってるだろ。そこに投函されてた」

「信じてるの?」

「頼本大和がお前が男と歩いてるのを見たって」

 壮は無表情だった。それがまた佐鳥の感情に油を注ぐ。

「私は援交なんてやってない。絶対」

 睨みつけるような佐鳥の眼力を、壮は凪いだ瞳で受け止める。数秒の後、壮が目を逸らした。

「信じるよ。頼本のは何かの見間違いだろ」

「こんなこと書く人がいるなんて信じられない。頼本くんのことを信じるのもどうかしてるよ」

「いいのか、生徒会長。今のは問題発言だぞ」

「今はただの佐鳥蛍だからいいの」

 それからは通り魔や事件の話はしなかった。授業の内容を教えたり、千宗に対して佐鳥があれこれと質問したりした。そうこうしているうちにあっという間に面会時間が終わり、二人は帰路についた。病院のリノリウムの床を歩きながら、千宗は壮に訊ねた。

「佐鳥さんの言ってること、信じるんですか?」

 千宗はどうも佐鳥を白だと思えなかった。疑うのが心苦しいほど立派な人だが、火のない所に煙は立たないという諺もある。

「信じるよ」きっぱりとした口調で壮は言った。「蛍は嘘をつくような人間じゃない」

「あの……」

 立ち止まってみると、壮も歩を止めた。

「なんだよ?」

「どうしてお二人は友達になれたんですか?」

「なんでそんなこと聞くんだよ」

「いえ、何となくです」

「別に、なろうと思ってなるものじゃないだろ。なんとなく趣味があったり、会話が楽しかったりするだけだよ」

「それでも話し出すきっかけはあるでしょう?」

 席が近いとか、友達の友達だったとか、理由はあるはずだ。

「ヒーローなんだよ、あいつは。俺の」

 壮は少し笑ってそれからは何も答えず帰ってしまった。


 ***


 壮と別れて、家に帰る途中、今日は母の帰りが遅いことを思い出した。夕食をコンビニで買って帰らなければならない。駅前のコンビニでカップラーメンを選びながらぼんやりと友人について考える。

 千宗には仲のいい人間はたくさんいるし、中学や小学校の友人とも誘われれば今でも会ったりする。けれど対面して人にはなかなか話せないような深い話をするようなことは今まで一度もなかった。

 人間関係の維持は、学校の課題と似ている。窮屈だけれど、要領を得れば容易い。そこから逃れる術を探すよりも、適応する方が楽だし後々様々な場面で役に立つ。損どころか得しかない。けれど相手に踏み込みすぎると、こちらも傷を負うことになる。そんなことはご免だ。だから適切な距離がいい。思い入れは少ない方が傷つかなくて済む。

 もしかして僕は、壮先輩のことが羨ましいのだろうか……。

 それとも、自分はこの生涯で何でも忌憚なく話せる友情は得られないと諦めているのだろうか。心の中がぐちゃぐちゃとかき混ぜられているように気分が悪い。それでも不思議と食欲はあるので、担々麺のカップヌードルを選んでコンビニを出た。

 外に出てふと目をやると、車の助手席に相羽を見つけた。ふと目が合う。次の瞬間、運転席に男が入ってくる。相羽は千宗から目を逸らし、男の方へ笑顔を向けた。男は三十代くらいで、とてもではないが父親には見えない。随分と年の離れた兄とも取れるが、兄弟を相手にあのような媚びた笑顔を向けるだろうか。それに相羽と目が合った瞬間、彼女は身体を硬直させたように見えた。

 援助交際?

 まさか佐鳥だけではなく、友人の相羽も関わっているのか?

 考えがまとまらないうちに、車は発進しコンビニから去って行く。高級外車のエンブレムが、威張り散らすようにきらりと輝いた。

 誰もいない家に帰り、ひとまずは担々麺を食べた。辛さが絶妙で美味しい。レガートに餌をあげてから自室のPCを立ち上げ、援助交際というワードで検索をかけてみた。

 一番上に出てくるのはウィキペディア。そもそも援助交際は1996年に流行語大賞に選ばれた、比較的新しい言葉らしい。言葉の意味は今更調べるまでもなかったが、90年代になりポケベルや携帯電話の登場と共に援助交際が広まり始めたという部分は新たな気づきだった。SNSさえあれば薬物も女性も簡単に買えてしまう。利便性と危険性はいつも紙一重だ。

 もう少し調べていくとパパ活という言葉が出てきた。聞いたことがあるような気がするが、よくは知らない。調べてみると、パパ活は食事やお茶をするだけでお金をくれる〈パパ〉とデートをすることらしい。援助交際の一種ではあるが、男女の関係はなし。

 ほんとかよ、と思わず突っ込んでしまいそうになるが、少なくとも定義上はそうらしい。

 佐鳥のことを思うと、胸が痛む。本当に援助交際をしているのだろうか。いっそ壮のように真っ直ぐに信じられたらいいのだが、友人である相羽の姿を見てしまったことで佐鳥への嫌疑はますます強まった。紙片にあったとおり、佐鳥は売春をしているだろう。

 今回の件に関しては、壮先輩は頼れないかもな……。

 薄暗い思いのまま、千宗はPCを閉じた。


 ***


 土曜日になり、千宗は行動を開始した。鏡に会いに大須のネットカフェに向かったのだ。一人で行くのは初めてなので緊張したが、無事に鏡の席にたどり着けた。

「鏡さん。すみません。壮先輩の後輩の犀賀です」

 スライド式のドアをノックすると、ドアが開き、ピンクのゴスロリ服の鏡が出てくる。

「千宗くんだっけ? どうしたの?」

「お聞きしたいことがあって……」

「まあ、僕んところ来るんだからそうだろうね。で、何?」

 ミックスジュースを飲みながら、鏡は脚を組んだ。

「パパ活って知ってますか?」

「知ってるよ」

「危ないですよね」

「そりゃそうでしょ。まあ、一応ちゃんと許可取ってやってる店もあるんだろうけど、大抵はアプリとかSNSで出会った見ず知らずの〈パパ〉に会いに行くわけなんだから。十八歳未満とかもばんばんやってるだろうしね。JKリフレとか警察が必死に取り締まってるのに、世話ないよね」

「みんなお金に困ってやってるんでしょうか……」

「まあ、お金も魅力的だけど、チヤホヤされる快感とかもあるんだろうね」

 同情できる部分があるのか、鏡は赤いマスカラが塗られた睫毛を少し下げた。

「そういうものですか」

「お金は悪魔だよ、千宗くん。親元で過ごしてるうちはまだよく分かんないかもしれないけど」

 佐鳥や相羽も金銭や一時の快感のために援交に手を染めたのだろうか。なぜそんな選択をしたのだろう。それともそうせざるを得ない要因があったのか。どれも憶測の域を出ないし、想像しかできない。

「そうだ。名古屋にもパパ活の斡旋業者がいるよ」

「斡旋業者って、〈パパ〉と女性の仲介をする会社ってことですか?」

「そ。もちろん県の許可取ってる合法の店なんだけどね。いくつも外車を乗り回せるような富裕層向け完全会員制の店。表向きは合法」

 鏡がニヤリと笑うので、千宗は思わずつばを飲み込んだ。

「裏では色々と非合法なことしてるんだ。十八歳未満の子を売りに出したり、ね……」

「その店、名古屋のどの辺りにあるんですか?」

「お、千宗くん調べる気あるんだ」

「今回は壮先輩を頼れないみたいなので、自分で調べます」

「そう。でも情報料は頂くよ」

 当然のように鏡がいう。こちらもすっかりと忘れていた。彼女は情報屋。こちらは客なのだから対価を払わなければならない。そうとはいえ、千宗の持ち金はせいぜいが財布の中の一万円だ。とてもじゃないが、鏡が首を縦に振るとは思えない。

「おいくらですか……」

 ATMに行けばお金を下ろせる。払えないことはないだろう。しかし鏡は意外なことを言い出した。

「どうしてそんなことを調べてるのか教えてよ。壮ちゃんを頼れない理由も教えて。興味ある」

 千宗はうっと言葉を詰まらせた。本人のいないところであれこれと話すのは気が引ける。しかし、パパ活の情報も捨てがたい。仕方がなく、千宗は壮の友人である佐鳥が援助交際をしている可能性があることを話した。話を聞き終えた鏡は、ストローでジュースを飲み干してから言う。

「壮ちゃんは随分とその佐鳥蛍って人に懐いてるんだね」

「懐くって、動物じゃないんですから……」

「僕、友達いないから分かんないなあ。千宗くんは?」

「友人はいますけど、壮先輩みたく何でも無条件に信じられるかと言われると」

「だよねえ。でもそれ普通でしょ」

「普通なんですかね?」

「壮ちゃんも壮ちゃんだよ。目撃証言があるのに精査せずに、友達の言葉を信じちゃうなんてさ。真実から目を背けているとしか思えないね」

「手厳しいですね」

「あ、壮ちゃんには今の内緒ね」

 にははと鏡は笑う。千宗は笑わず首肯した。

 確かに鏡の言う通り壮は真実から目を背けている。聡い彼のことだ、本当は佐鳥の綻びに気づき始めているのかもしれない。それでもなお信じ抜いているのは、なぜなのだろう。信じているから気づかないのではなく、信じたいから気づかないふりをしているのではないだろうか。そこにあるのは友情ではなく、ただの押しつけ、エゴなのではないか。

 壮先輩……。

 彼が何を考えているのかは、やはり分からなかった。


 ***


 日曜日の夕時、千宗は鏡に教えられた会員制のパパ活店へと向かった。遠くからその店を見るだけで良かったのだが、気がつくと店の入ったビルの前まで来てしまっていた。看板を見上げながらしばらく考え事をまとめていると、急に後ろから肩を掴まれる。

「君、うちの店に興味あるの?」

 黒いスーツの三十代くらいの男性に微笑みかけられた。

「えっ……」

 もしかしてパパ活店の店員か?

「うちはママ活、兄活なんかもやってるから男性も歓迎だよ」

 ママ活に兄活。頭がフラフラしてきそうな文言だ。

「とりあえず中に入りなよ」

「えっと、あの、」

 男はぐいぐいと笑みをこちらに近づけてくるので、千宗は内心で引きながらも言われたとおり店の中に入った。なにか新しい情報が掴めるかもしれない。そもそもそのためにここに来たのだ。怖じ気づいてどうする。

 ビルの二階。綺麗な客間に通され、お茶を出される。美味しい緑茶だった。

「ここのことは誰に聞いたの?」

 男は胡散臭い笑みを浮かべたままだ。

「学校の先輩です」

「へえ、誰?」

 笑ってはいるが、慎重に言葉を選んでいる。名前まではよく知らない、と答えても良かったが千宗は賭けをしてみることにした。

「佐鳥蛍さんです」

 心臓がどくりと音を立てる。男は答えた。

「ああ、佐鳥ちゃんか。良い子だよね。佐鳥ちゃんの後輩なら安心だ」

 ふうっと小さく息を漏らす。佐鳥蛍はこのパパ活店のメンバーだ。これで〈生徒会長・佐鳥蛍は売春している〉の投書がほぼ正しかったことが証明された。同時に、病院にいた佐鳥は壮に嘘をついたことになる。

 壮先輩は信じてるのに、佐鳥さんは裏切った……。

 これを壮が知ったらどう思うだろうか。考えたくなかった。

「佐鳥さん、誰かに刺されたんですよ」

「ああ。ニュースで見たよ。可哀想に」

「まさかここのお店のお客さんが犯人じゃないですよね?」

 とんでもないというように男は大仰に驚いてみせる。仕草がいちいち役者っぽくて、こちらを苛立たせる。

「馬鹿言わないでくれ。うちのお客さんはいい方ばかりだよ」

 男は住所や携帯番号を書くスペースのある用紙とボールペンを出し、書くように求めてきた。千宗は適当な番号を書いてその場を済ませようとする。ちょうど書き終えたときに、弟から電話がかかってきたので、これ幸いとばかりに千宗は嘘をついた。

「そろそろ帰らないと、親が……」

「うん。いいよ」

 意外にもあっさりと男は千宗を解放した。ビルから出て、つけられていないことを確認してから早足で駅へと向かった。胸がドキドキする。自分が思っている以上に恐怖を抱いていたようだ。弟からの電話をかけ直すと、昨日発売された漫画を買ったかどうか訊ねられた。大した用件ではなかったようだ。

「買ってないよ」

〈今、外? 買ってきてよ〉

「仕方ないな……。割り勘だからな」

〈はいはーい。よろしくー〉

 電話が切れる。あとで書店に寄らなくては。

 昼時の街は様々な人で溢れている。今、腕を組んで通り過ぎたカップルは、本当に恋人同士なのだろうか。そんな疑念が頭に過ぎる。レンタル家族、パパ活、ママ活、兄活、援助交際。様々な単語が浮かんではシャボン玉のように弾けて消える。

 人間の関係は、生物の関係性はとても希薄だ。絆なんて言葉を簡単に使うけれど、そんなものが本当にあるのか甚だ疑問だった。


 ***


 月曜日。いつものように千宗は第一理科室で勉強をしていた。チャイムが鳴り、生徒に下校時刻を告げる。ノートを鞄にしまい教室から出ると、廊下に相羽が立っていた。蛇の如く、ぎろりと睨まれる。

「こんにちは……」

「挨拶なんていい」

 これはこれは、随分なご挨拶である。

「この間、コンビニで会ったよね。誰かに言ったら殺すから」

 物騒なことを言い残し、相羽は踵を返し立ち去ろうとする。その背中に向かって、千宗は声をかけた。

「佐鳥さんもやってるんですよね。キャッチの人に聞きました」

 相羽は歩を止め、くるりと振り返った。

「君、そんなことしたの?」

 刺すような視線が痛む。

「佐鳥さんが客に刺されたんじゃないかと思って調べてたんです」

 小馬鹿にするように相羽は笑う。

「天文部って変人しかいないんだね。そんなこと調べてどうするの?」

「でもキャッチの人はそんな奴が客にいるはずがないって」

「当然、そういうでしょ」

「怪しい人、いませんでしたか?」

 相羽は再びこちらを睨む。今の千宗は相羽の弱みを握っているのだ、相羽は答えざるを得ないだろう。やはり相羽はため息をついてからスマートフォンを動かす。そしてLINEの画面を見せてくれた。

「この男。蜂須賀って名乗ってる」

 四十代半ばくらいの男性が写っていた。SNSに投稿されたらしい、スタジアムの観客席でサッカーチームのユニフォームを着て笑っている写真だ。隣りにいる美人の女性は妻、モザイクがかかっているのは子供だろう。

「この人、店を挟まずに会おうとしてくることで有名でさ。無理やり車に押し込まれそうになったって子も知ってる。危ない奴だよ。人を刺すほどかって言われると、そんな馬鹿なことしないと思うけど、まあ人間なんてわからないしね」

 相羽の言葉は随分と軽々しかった。

「いつ頃、店に現れるか分かりませんか?」

「さあ。あ、でも水曜日かな。一ヶ月に一度くらいしか来ないけど、決まって水曜日だった気がする」

「そうですか。ありがとうございます」

 ふと相羽が口元を緩ませ、笑った。

「君さ、蛍のことどう思ったの?」

 その微笑みは嘲りの笑みだった。

悪いのは私だけじゃない。

汚いのは、私だけじゃない。

あの清廉潔白、文武両道を絵に描いたような生徒会長も同じ穴の狢だと、その瞳は雄弁に語っている。

「僕は佐鳥さんの友人ではないので、特にどうとも」

 事実、驚きこそしたがそれ以上の感情はわいてこなかった。敢えて言うなら、事実を知った壮が落ち込むのではないかと少し心配なくらいだ。もっとも心配したところで千宗には事実は曲げられないし、壮がそれほど弱い人間ではないことは知っている。

「そう」

 つまらない、というように相羽は再び廊下を歩いて行った。その姿は世間一般が認めるだろう、ただの可愛らしい女子高生だった。


 ***


 居場所はどうやって作るのだろうか。

 作ったとして、そこをどう守ればいいのだろうか。

 佐鳥蛍には分からなかった。

 佐鳥がまだ三歳の頃、両親は交通事故で亡くなった。チャイルドシートに護られた佐鳥は、伯父夫婦の家に引き取られ育てられた。

 だが伯父夫婦の息子と娘から、佐鳥は嫌われていた。自分たちに宛がわれるべき愛情が二等分から三等分になったのを怒っているのだろうと、小学生の頃の佐鳥は理解していた。

ほぼ同い年の二人は、いつも険しい顔でこちらを見ていた。小学校が同じなので、佐鳥は友達もつくる気がしなかった。自分が友達を作った数だけ、彼らから友達を奪ってしまうような気がしたのだ。

 中学になり、勉強に順位がつけられはじめた。たまたま佐鳥の成績が良く、伯父からよく褒められた。義姉と義兄の視線が痛かった。それでも褒められることが嬉しかった。だから勉強を選んだ。一心不乱に勉強をして、県内随一の名門高校に合格した。

 伯父は喜んでくれた。けれどやはり義姉たちはこちらを恨むような視線をやめなかった。伯母もそんな子供たちの異変にようやく気が付き始めたのか、佐鳥を避け始めた。

 波が引いていくように、どうしようもない引力によって、私の居場所がなくなっていく。

 伯父を喜ばすほどに、佐鳥の居場所は強固になるが、狭くもなった。このままでは圧死すると思った。本気で死ぬと思った。否、死のうと思ったのだ。

 自分の部屋のドアノブに縄紐をかけ、薬局で売っているような軽い睡眠薬を大量に飲んでみた。けれど少しの苦しさの後、気を失い、気が付けば縄は外れ、佐鳥は床に突っ伏して丸一日の休日を眠っていただけだった。

 死ねなかった絶望と死なずに安堵した自分を恨む声とが響き渡った。

 やっぱり私の居場所はどこにもない。

 誰かに求められたかった。君でなければだめだと。ここにいていいと言われたかった。

 そんなときに噂を聞いた。

「パパ活?」

「そう。pとかpjとか言うんだけどね、ホテルに行くとかはなしで、食事するだけでお金がもらえるの。最高じゃない?」

「ええ、そうかな。危ないと思うけど……」

「それがそうでもないんだって!」

 面白そうに友達はパパ活について語りだす。佐鳥は興味のないふりをしつつも、内心は今すぐにでもそれについて詳しく知りたいと思った。

 契約関係。それだと思った。

 私に必要なのは金銭的な契約による居場所だ。

 煌めくようなその答えに佐鳥は飛びつき、家に帰るなりスマートフォンで検索をした。そこで斡旋業者の存在を知り、面接にこぎつけた。

「いいね。合格。じゃあ、写真撮るから」

 部屋に入るなりそう言われて面を喰らった。

「もっと話術を見るとかしないんですか?」

 男は笑った。

「美女を侍らせてる感覚がおっさんたちは楽しいんだよ。話術なんて簡単だ。『へえー』と『すごーい』だけ言えればいいんだよ。九官鳥でもできるでしょ?」

 その通り、パパ活は思っている以上に楽だった。ホテルにしつこく誘ってくるパパも中にはいたけれど、援助交際なんかよりは随分と簡単なお小遣い稼ぎになった。

 けれど佐鳥は増えていく預金通帳の残高よりも、契約関係によって生じる居場所が好きだった。そこでようやく息ができる気がした。

 息苦しい日常から逃げ出せる場所。それがパパ活だった。

 高校二年生になり、友達ができた。今までだって友達はいたけれど、素の私を知る人は誰もいない。けれど、その友達・鵜飼壮は特別だった。

 何がどう特別なのかを言い表すのは難しい。ただ彼にじっと見られると、ドキリとする。恋愛的なものではなく、自分の孤独だったり苦しかったりする部分を見透かされているような気がするのだ。そして彼は多分、見えているうえでほどよい距離を保ち、友人として優しく接してくれているのだ。

 佐鳥は壮といるのが心地よかった。それと同時に恐怖もあった。

もしこの居場所も失ってしまったら、自分はどうなるのだろう。

 ふと楽しそうに文学の話を喋っている彼の顔を見る。もしパパ活をしている自分に幻滅したら、どうしよう。けれどパパ活をやめるなんてできない。あそこは居場所だ。金という契約関係によって生まれる、決して綺麗とは言えないが私の息ができる居場所なのだ。

 彼には言えない。

 だから今日も佐鳥は真面目で明るい生徒会長を演じる。嘘まみれの自分。それを受け入れてくれる友達を騙し続けながら。

 本当にこれで良いのだろうかと、悩みながら。


 ***


 水曜日の夜に、千宗は蜂須賀を見つけるためにパパ活店の近くを張っていた。

あまり近づきすぎるとまたキャッチに捕まるかもしれないので、向かいのコンビニで焼き鳥を一本買い、駐車場で食べている振りをしながら張り込んでいる。まるで本物の刑事だ。

一時間がたち、二時間がたった。

今日は現れないかと諦めかけたとき、ビルの隣の駐車場から蜂須賀らしき男が出てきた。スーツ姿で見た目は普通のサラリーマンだ。ビルの中に入り、女の子を連れて出てくる。

 追いかけよう。

 蜂須賀は店の女の子と共に、フレンチの店に入っていった。フランス式の小さな庭がある立派な店だ。距離を置いてしばらく待つと、食事を終えた二人が出てくる。

「今日はありがとうございました」

 語尾にハートがついたようなしゃべり方で女性が笑う。

「いやいや。こちらこそ楽しかったよ。また指名するから、よろしくね」

「はい!」

 女の子は蜂須賀から現金をもらうと、タクシーに乗り込んだ。そのまま直帰するようだ。

蜂須賀は再びビル横の駐車場に戻ろうとする。電灯の明かりがあるだけの閑静な住宅地。人がいないので、なるだけ距離を空けて追跡する。しかし、蜂須賀はふと足を止めた。

「何か用かな?」 

 それは明らかに千宗に向けられた言葉だった。電柱の後ろに隠れていた千宗はゆっくりと姿を現した。

「……蜂須賀さん、ですよね」

 蜂須賀は不機嫌そうに目を細める。

「誰だ、君は?」

 明らかにこちらを見下したような声だった。

「佐鳥蛍さんを刺したのは貴方ですか?」

 単刀直入に聞いたところで返事があるとは思わない。しかしその瞬間の瞳の動きや身体の動かし方で何か分かるかもしれない。蜂須賀はますます不機嫌になる。

「刺した? なぜ僕がそんなことを……」

 動揺している様子は見られない。本当に無関係なのだろうか。いや、ただ演技が上手いだけなのかもしれない。そう考えていたときだった。

──ヒタッ。ヒタッ。

 朝に降った雨でできた水たまりの上を誰かが歩く音がした。音の主は千宗でも、蜂須賀でもない。目をやると、三十メートルほど離れたところに黒いレインコートの人間が立っていた。その顔には、剥き出しの歯のマスクがつけられている。

 〈ジャバウォック〉

 声が出るよりも先に、〈ジャバウォック〉は走り出していた。両の手で刃物を握り、全力でこちらに向かって走ってくる。そしてそのまま一直線に、蜂須賀の腹を真っ正面から突き刺した。

 つんざくような蜂須賀の悲鳴が住宅街に響き渡る。〈ジャバウォック〉はナイフを抜かずに、そのまま千宗の横を走り抜けて逃げていく。 その瞬間、仮面の奥の瞳と目が合った。

──彼はこちらを見て、にやりと笑った。

 ゾッと背筋が凍りつき、手先が震える。 

 千宗は何が起きたのか分からず、パニックになりかけていた。蜂須賀が倒れ込み、痛い痛いと呻いている。

 何かしないと。何か。どうする。どうすればいい。

 怖い。なんだ。何が起きた?

 冷静になれ、犀賀千宗。

 頭の中で声がする。すると冷静な自分が徐々に戻ってきた。まずは救急車だ。佐鳥のときと同じようにすればいい。

 十分もしないうちに救急車とパトカーがやってきて、蜂須賀は救急車に運ばれていった。警察官が現場保存のために動き始め、千宗は黄色い規制線の中で刑事に何があったのかを説明した。

「でも、君はなぜ蜂須賀さんを追いかけていたんだい?」

 本当のことを言った方が良いのだろうか。口を閉じて悩んでいると、肩を叩かれた。

「もう関わるなと言ったはずだが?」

「宇治崎さん……!」

 見知った顔を見て、なぜだか少し安堵した。すると少し、足下がふらついて倒れそうになる。

「平気か? いや、平気じゃなさそうだな」

「……すみません」

「謝らなくていい。詳しいことは署で聞こう。この子を車に」

 千宗は頭を下げ、黒い車に乗って警察署に向かった。


 親への連絡を手短に済ませてから、いわゆる取調室に連れて行かれた。書庫のような小さな部屋の片隅で、ドラマで見るような録音テープがくるくると回っている。

「犯人は仮面をつけていて素顔は見ていないと」

「はい」

「些細な特徴でもいいんだが、何かないか?」

「真っ直ぐ蜂須賀さんを狙って、それから僕を見て笑いました」

「笑った?」

 宇治崎が怪訝そうな顔をする。

「微笑むっていうよりは、ざまあみろって感じの笑い方でした」

「ざまあみろ、ね……」

 それから細かいことをいくつか聞かれたが、蜂須賀を追いかけていたことに関してはパパ活店の話はしたが、佐鳥や相羽の名前は伏せた。幸いにもその辺りにはあまり触れられなかったので、自分の友達が蜂須賀に迷惑していると適当な嘘をついて誤魔化しておいた。

 聴取が終わり、部屋から出ると心配そうな顔でベンチで母親が待っていた。

「千宗……」

 いつもは堂々としている母も、さすがに不安そうだった。

「大丈夫だよ」

 千宗はそういって宇治崎たちに挨拶をしてそのまま車で自宅に戻った。その道中、助手席に座った千宗は運転する母に訊ねた。

「母さんは、親友っているの?」

「……変なこと聞くのね」

 千宗は母親似だ。さばさばしているというか、物事にあまり執着しない性格は母に似たんだと、父親によく言われる。

「いないわ」

 さっぱりとした口調で母は言う。

「寂しくない?」

「手のかかる息子が二人もいるし、仕事もあるし、そんなこと思ってる暇はないわ。ああ、でも仲の良かった人くらいはいるわね。忙しくて十年以上、連絡とってないけど。そういうあんたはいるの?」

「いない」

 母はくすりと笑った。

「でしょうね。あんたは父さんじゃなくて、私に似ちゃったから。けどね、大丈夫よ。あんたが辛いときに助けてくれる人はいるわ。家族だけじゃなくて」

「何でそう言えるの?」

「あんたがいい子だから」

それは親バカというものではないだろうか。そんなことを思いながら、千宗は黙った。


 ***


 翌日のニュースで〈ジャバウォック〉の新たな凶行は取り上げられた。家族たちは気を遣って、そのニュースが流れ始めるとぷちんとテレビを切って、何ともなかったかのように音楽を流し始める。その気遣いは嬉しかった。蜂須賀の容態は安定しているらしく、命に別状はないらしいとスマートフォンのニュースで知った。

 目の前で人が刺されるというのは、想像以上にショッキングな出来事だった。フラッシュバックとまではいかなくとも、あの光景を思い出すと頭がくらくらとする。

「朝ご飯食べられそう?」母が訊ねる。

「少しなら」

「ミキサーで野菜ジュースを作ろうか?」

「いいよ。大丈夫だから。あと奏。漫画、今日買って帰るから」

 テーブルの向かいにいる弟はスマートフォンをいじっていたが、顔を上げた。

「いいよ、別に。兄ちゃん、心配だし」

「じゃあ、漫画は奏の奢りな」

「えっ。お金はちょうだいよ」

 千宗が笑うと、奏は安心したように微笑んだ。分かりやすい弟で助かる。

「学校行くの?」

 過保護な母は、今日は休んでも良いんじゃないなんて言い出す。

「大丈夫だよ」

「本当に?」

「行ってきまーす」

 支度を済ませて家を出る。学校に着くと、騒ぎを知っているクラスメイトにも心配された。みんな優しかったし、自分は恵まれていると感じた。ただ心の奥が暗いのは、佐鳥の嘘を知ってしまったからだろう。

 放課後。第一理科室へと向かったが、壮の姿は無かった。今日も佐鳥のいる病院にお見舞いに行っているのかもしれない。

ふとリクエストボックスが目についた。いつもは開けたがらない箱だが、なぜか今日は妙な引力を感じた。その不可思議な引力にひかれて、ボックスを手に取る。異様に重たい。底を開けてみると、ざーっと紙が流れ落ちた。二百枚はありそうだ。床に散らばった紙を見ると、全て定規で書かれた手書きで同じ文面だった。

〈佐鳥蛍は売春している〉

 凄まじい熱量の怨念と憎悪が千宗の背筋をゾッと冷やした。これを投函した人間は佐鳥に並々ならぬ執着を抱いているに違いない。

 そのときふとパズルのピースが合わさったような感覚を抱いた。

 どうして気がつかなかったんだろう。このリクエストボックスに触れるのは学内の人間だけだ。そして投函した人間は佐鳥を憎んでいる。恐らく、刺してしまいたいほどに……。

 佐鳥を刺したのは、この手紙を出した人間だ。

 そして佐鳥への疑いを確かにしたのは──。

 千宗はそのままバスケ部のクラブハウスへ急いだ。階段下に友人たちと話をしている彼を見つける。

「頼本さん」

 千宗の呼びかけに振り向く。

「少しお時間頂けますか」

 頼本の顔に緊張が走ったように見えた。だが何事もなかったかのように、頼本は微笑んだ。

「いいよ」

 仲間に断ってから、二人はクラブハウスの裏手に回った。人気がないので会話が聞かれる恐れはない。

「鵜飼くんの後輩だよね。オレに何の用?」

「佐鳥蛍さんと蜂須賀さんを刺したのは、頼本さんですね」

「は? そんなわけないでしょ。あれは〈ジャバウォック〉の仕業だ」

 奇妙なことをと頼本は笑っていた。しかしその笑みは少し引きつっている。

「そもそも佐鳥さんが男性と歩いているのを見たとあなたは証言しました。それで僕は佐鳥さんを疑うことを始めた。けれどあなたは〈ジャバウォック〉ではない。だが、この紙片は頼本さんのものだ」

 そういって千宗は告発文を取り出した。頼本の顔色は変わらない。

「どうしてオレがそんなことをしなきゃならないんだよ。佐鳥を恨む理由がない」

「いいえ、あなたはこの学校から佐鳥さんを排除しようとしていたんです」

 頼本の眉が動く。自分の推測が間違っていないのだと千宗は感じ始めた。

「だから佐鳥さんを襲ってから、商売相手の蜂須賀さんを狙った。そうすれば警察が二人の関係性を調べ、佐鳥さんがパパ活をしていることが明らかになる。頼本さんはそれを狙ったんですね」

「待てよ。パパ活? とにかく百歩譲って、オレが佐鳥を傷つけようとしたとする。だが、動機がない。どうしてそこまで佐鳥に拘る?」

 そう、そこだ。佐鳥への執着。そこばかり考えていたからおかしなことになった。

「あなたは佐鳥さんに拘っていたわけじゃない。この紙片も佐鳥さんへの恨みから書かれたわけじゃない。リクエストボックスを開く人物、それを確実に読む人物、壮先輩に拘っていた」

「…………」

 頼本の顔がさっと青ざめる。言葉も出ないのか、口を開いて閉じてを繰り返す。

「頼本さんは壮先輩に好意を抱いている。違いますか?」

 執着していたのは、拘っていたのは、鵜飼壮だった。

あの告発文は、佐鳥を鵜飼から遠ざけるため。しかし鵜飼は文書を信じなかった。だから蜂須賀を刺し、佐鳥と蜂須賀の関係を明らかにしようとした。蜂須賀を刺した後、こちらに笑いかけたのは鵜飼の傍にいる千宗への牽制の意味もあったはずだ。

「…………」

「壮先輩とバスケ部に初めて行ったとき、壮先輩は頼本さんを知らない振りをしました。それにやたらと不機嫌だった。気になって調べてみたんですが、壮先輩は一年生の頃、頼本さんと同じクラスでした。いくら壮先輩でも、二年前のクラスメイトを忘れているとは思えません。まして嫌っていた相手なら。ではなぜ壮先輩は頼本さんを嫌っていたのか。そのときの担任は東藤先生。何があったのか話を聞きました」

「オレは……」

 頼本は汗をかき、声を詰まらせる。千宗は当時、何があったのかを語り始めた。


 ***


 二年前。

 お気に入りのペーパーバックがカッターで破られて教室のゴミ箱に捨てられていた。めずらしいことではない。壮は無言のままゴミ箱を見つめていたが、諦めて席に着いた。

 壮はいじめにあっていた。入学して間もなく、クラスカースト上位の人間にたてをついたことが原因だった。単純にそいつが気に食わなかったので噛みついただけだが、クラスメイトの反応は冷淡だった。

 こういうのは反応したら負けだ。

 そう考えていた壮は無視を決め込んでいた。それが気に食わないのか、いじめはエスカレートしていき、本や弁当が捨てられはじめた。それでも壮はしれっとした澄ました顔を崩さなかった。

やがて五月になる頃、クラスメイトにルーズリーフの紙片で呼び出された。

〈放課後にクラブハウス裏に来い。なくした本が見つかるかもしれないぞ〉

 なくなった本が多すぎてどれのことだか分からないが、本当に本があるならラッキーだ。そうではないとしても、影で動くいじめっ子たちに直接顔を合わせられるなら、いい加減、そろそろ何かガツンと言ってやりたいという思いもあった。

 クラブハウスの裏に行くと、頼本大和が待っていた。

 小柄なわりに目つきが悪い。確かバスケ部だったか?

 四月初め、意見の食い違いから喧嘩になった相手の一人だ。なるほど、こいつがいじめを手引きしていたのか。

「何か用?」

「ムカつくんだよ、お前……!」

 炯々と光る眼光に並々ならぬものを感じ、普通なら距離を取りたくなるだろう。目に宿っている感情は燻っているような怒り。なぜそんな感情を向けられなければならないんだと、理不尽さにため息が出そうになる。

「ふーん。そう。でもオレにどうしてほしいわけ?」

「どうして無反応なんだよ! 涼しい顔しやがって!」

 ふっと、鵜飼は目を細める。

 ああ、なるほど。そういうことね。

「構ってほしい子犬かよ。めんどくせぇな。反応したって、そっちがつけ上がるだけだろ。……それに、言いたいことがあるのはそっちじゃねえの?」

 頼本ははっとした表情で黙った。鵜飼は疲れた顔をしていた。

「別に気持ち悪がったりしねえよ。こういうの初めてじゃないし。でも伝え方ってものが──」

「違う! オレは……!」

 頼本はぐっと歯を食いしばり、拳を鵜飼めがけて振りかぶった。その拳をさっと躱し、鵜飼は大きく息を吐く。

「お前、ほんとつまんない奴だな」

 そう言い捨てて鵜飼は踵を返し、クラブハウスから立ち去る。クラブハウス横の階段脇を通ったときだった。

「危ない!」

 女子生徒の声がして、それから腕を引かれる。自然と引かれた方に身体が動くと、背後が見えた。そこにはカッターナイフを持っていた頼本の姿があった。もしも女子生徒が鵜飼の身体を動かさなければ、あのカッターナイフは背中を切りつけていただろう。へたりと、頼本はカッターナイフを取り落として、その場にしゃがみこむ。もう攻撃する力はないらしい。

「大丈夫?」

「ああ」

 ようやく助けてくれた女子生徒の方に目をやる。黒い髪をポニーテールにした女子。確か、入学式で挨拶をしていた入試トップの秀才だ。名前は蛍。綺麗な名前だったので覚えている。

「蛍さんだっけ? ありがとう。助かった」

「何があったの? 喧嘩?」

「まあ、そんなところ。だから見なかったことにしてくれない?」

 蛍はキッと目尻をあげた。

「ダメに決まってるでしょ。先生に言います!」

「ええー。面倒くさいことになるじゃん……」

 結局、東藤がやってきて、その場は丸く収まった。鵜飼へのいじめもなくなり、頼本は鵜飼に一切関わらなくなった。


 ***


「確かに、鵜飼くんをいじめていたのは事実だし、カッターで脅そうとした。けど佐鳥を刺したりなんてしてない!」

「〈ジャバウォック〉はいつも後ろから人を狙うんです。それに僕が見たのは聞いていた〈ジャバウォック〉のマスクと違う。歯は同じだったけれど、ピエロが泣いている目元がなかった。そして一番、おかしいのは目撃者である僕を見逃したこと。単純にナイフが抜けなかったっていう理由もあるのかもしれませんが、壮先輩の近くにいる僕に凄惨な場面を見せたかったという理由もあったんでしょう。無論、証拠の類いはありません。ですがすぐに警察が見つけてしまうはずです。早く自首した方が良いですよ」

「佐鳥は売女だ……。どうしてそんな女が、彼の近くにいる……。オレは間違ってない!」

 必死な頼本が千宗には哀れに見えた。

「壮先輩だったら、こういうと思いますよ。『一生、そう言ってろ』って」

 千宗はその場を立ち去ったが、頼本は追いかけて来なかった。かわりにその場にへたり込むような音が聞こえた。

 最後に壮先輩の名前を出したのは少しズルかっただろうか。けれどこうでもしなければ、逆上した頼本が何をするか分からない。

 否定しなかったな……。

 壮に好意を抱いていたことに関して、頼本は最後まで肯定もしなかったが否定もしなかった。本当に好きだったのだ。だが、そんな自分が認められず、壮を傷つけようとしてしまった。それでも無反応な壮に対して暴走した感情はやがて壮の周囲の人間に向き、佐鳥を傷つけるに至った。恋は盲目というが、見えていないというよりは見ようとしていないのだろう。

「あ……」

 それならば壮先輩も同じだ。

 佐鳥が嘘をついていることに薄々は気づいていたはずなのに、真実から目を背けた。

 恋愛は、友情は、感情は、目を曇らせる。それが幸せなことなのかどうかは外側の千宗には分からないけれど。

 次の日、頼本が自首したという話で教室は賑わっていた。


 ***


 翌日の学校は頼本の情報ばかりが行き交っていた。三年生と言うこともあり、一年生の教室はさほどうるさくなかったけれど、校門前にうじゃうじゃと現れた報道陣に対して皆、浮き足立っている様子だった。それでもいつも通り授業が行われ、放課後がやってくる。千宗はもちろん第一理科室へと向かった。壮が来ているかどうかは半信半疑だった。

 教室の扉を開けると、人生ゲームを一人で遊んでいる壮がいた。一人で四つの色の違う車を動かしてプレイしている。楽しいのだろうか?

「よう」

「こんにちは」

 様子はいつも通りに見える。だが、あれだけのことがあったのだ。壮は全て知っているはずだ。

「東藤ちゃんと春ちゃんから色々と聞いたよ。千宗、頑張ったらしいな」

 にこにこと笑っている。後輩の活躍が喜ばしいらしい。

「頑張ったというか、首を突っ込んだというか」

「蛍のことも聞いたよ」

 その言葉を聞いて、千宗は思いきって訊ねてみたかったことをぶつけてみることにした。

「壮先輩、本当は佐鳥さんの嘘に気づいてたんじゃないですか?」

 表情は変わらなかったが、その手がふと止まった。

「……信じられないことでも、信じてやるのが友達だろ」

 そうなのだろうか。間違っているなら、それを正すのもまた友達のあるべき姿なのではないだろうか。もちろん壮のように、全てを肯定し、守るというあり方も否定はしないけれど。

「東藤先生に聞きました。一年生のとき、カッターナイフから壮先輩を庇ったのが佐鳥さんだったって。だから友達になったんですか?」

「少し違うな。一年の頃、軽いいじめにあってたんだよ。蛍はそれに気づいたとき、オレに対して怒ったんだ。いじめられてたオレに。……あのときのオレはさ、どうでもいいっていうか、いじめられててもスルーしてばっかりでやり返そうとかチクってやろうとかも考えてなかったわけ。やられっぱなし。それでいつか終わるだろって考えてた。でも蛍は『自分を軽んじるな』って、オレに怒ってくれたんだ。自分をもっと大事にしろって。それがオレにとっては衝撃的だったわけ。なるほどなあ。オレってオレを大事にしてなかったんだなあって気づいた。蛍はオレの友達だけど、恩人でもあるんだよ」

「そうですか……」

 自分を軽んじるな、か。確かに簡単に人に言える台詞ではない。佐鳥さんのような人間だからこそ、壮に物申すことができたのだろう。

「今から、会いに行くんだけど、来るか?」

「来てほしいって素直に言えないんですか?」

 壮はうっと言葉を濁す。

「仕方ねえだろ。蛍と喧嘩するなんて初めてだし。喧嘩になるかわかんねえけど」

「いいですよ。どうせ暇ですから」

 鞄を持って、そのまま佐鳥の入院している病院へと向かう。道中の壮はどこか気が重たそうだった。だが着いてしまえば引き返せない。壮はノックをしてから部屋の扉を開けた。

 窓際にいる佐鳥は静かな表情で鵜飼を見つめ返した。何が起きたのか、彼女は知っているのだ。

「頼本大和が捕まったってよ」

「うん。知ってる……」

 沈黙。無理もない。壮はゆっくりと切り出した。

「お前、オレに嘘ついただろ」

「うん……。幻滅したよね」

壮は見舞客用の椅子にどさりと座った。

「お前、前、オレに言っただろ。『自分を軽んじるな』って。その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」

「そんな昔の話、覚えてるの?」

「オレにとっては大事な言葉だったんだよ」

壮は少しばつが悪そうにする。

「私の言ったこと、ずっと信じてたんでしょ」

「信じてたし、これからもそうだ。お前が殺人鬼でテロリストでどうしようもない人間だとしても、お前の言うこと、これからも信じるよ。それがたとえそれがオレのエゴでも。いや、完全にオレのエゴだな」

 潔い回答に驚いたのか、佐鳥は少し目を丸くしてから苦笑した。

「そっか。……私ね、居場所が欲しかった」

「だからあんなことを?」

「そう。親は死んじゃって、親戚からは白い目で見られて、学校も、なんだか馴染めなくて仮面の自分で生きてきた。パパ活は私に契約関係による居場所を与えてくれた。でもね、高校に入って、壮と出会った。私、信じてたよ。信じようとした。けど、信じ切れなかった。私はよく大切なものを失くすから、また消えちゃうんじゃないかと思った」

「消えねえよ、あほ」

 怒っている壮とひきかえに佐鳥は涙目で苦笑していた。

「そうだね。壮は殺しても死ななそう」

「殺されたら死ぬわ」

「それじゃダメなの。いなくならないでほしい。友達じゃなくなってもいいから。ただ、それだけなの」

 壮は大きく息を吐く。

「分かったよ。約束するよ。少なくとも、お前よりは健康的な生活を送ってやる」

「うん。約束。ありがとう」

 じゃあまたなと言って、壮は病室を去って行く。千宗は佐鳥に一礼してその後を追った。

「喧嘩になりませんでしたね」

「ならなかったな。よかったよかった」

「壮先輩が少し羨ましいです」

 鵜飼は意外そうな顔をする。

「オレが? どうして?」

「秘密です」

 千宗は微笑み、何も答えようとしなかった。

 羨ましかったし、眩しかった。

 たとえ何者になろうとも信じられる人がいると言うことが、どれだけ尊く素晴らしいことか、壮は気づいているのだろうか。きっとまだ気づいていないに違いない。

 自分もいつかそんな友人ができたりするのだろうか。

 想像は膨らまない。自分には無理だろうという声もする。けれど夢を見るくらいはいいじゃないか。

 病院の外には大きな夕日が沈みかけていた。

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