第2章 教室の支配者

 第2章  教室の支配者


 五月中旬、天文部に入部したものの、千宗は新しい星の一つも覚えていなかった。そうというのも先輩である壮がボードゲームをやっているからである。もともと先代が部費で買ったとかで、理科準備室には将棋、オセロ、チェス、チェッカー、人生ゲーム、双六、麻雀、なんでもあった。壮は一人でそれを遊んでいることもあれば、頼んでもいないのにこちらにルールを説明し出し、対戦することもあった。誘ってくるわりに、壮は特別ボードゲームが得意というわけではなかった。勝率は、壮:千宗=6:4といったところだろう。負けたときは『あ~。ここが悪手だったか』と一人で反省会をしているが、特に悔しがることもなければ、勝って喜ぶこともない。何が楽しいのかよく分からないが、今日は二人でバッグギャモンをプレイしている。

「さぼりにきた東藤ちゃんとも遊ぶんだけど、あの人すごい弱くてさ」

「単に負けて早く終わらせたいだけなんじゃないですか」

「言われてみればそうかもな。今度接待プレイしてみるか」

 かちゃかちゃと動かしながら、千宗はリクエストボックスの方を見る。

「中身、見ないんですか?」

「昨日見たけど何も入ってなかった」

「でも今日はあるかも」

「じゃあ千宗が開ければいいだろ」

「それは何だか嫌です」

 ボックスを開けると、どうしても責任が発生してしまうような気がする。壮の言うように、あのリクエストボックスはダストシュートの先にあるゴミ捨て場だ。ゴミ捨て場に置き去られた手紙の内容など気にする必要はない。だが、ゴミ箱の蓋を喜々として開ける人間がいないように、千宗はその中身が気になっても自ら開けることはしなかった。

「はいはい。開けますよ。ったく部長を顎で使うとは……」

 壮が教室の後ろに置かれているボックスを開ける。すると一枚の紙切れがはらりと床に落ちた。A4サイズのプリント用紙にワープロで文字が打たれている。

〈2年3組は支配されています。助けてください〉

「短い文なのに、わざわざパソコンで打って作ったんだな」

「そこですか? 内容ではなく?」

「中身ぃ? うーん。あんまり興味ない。ただ、まあ、敢えて言うならやっぱり〈支配〉って単語は引っかかるよな」

 支配されているなんて文章、魔王を倒すRPGとかソーシャルゲームとかくらいでしか見ない。歴史上の支配者を思い浮かべても、現代では大概が悪人として名が通っている。それくらい支配という単語は威圧的で悪いイメージを与える。

「文末は〈助けてください〉か。ほっておくのも目覚めが悪いし、ちょっと調べてみるか」

 千宗が勝ちかけていたバッグギャモンをやめて理科準備室にしまい、二人は昇降口に向かう。全校生徒が使う広いスペースには、部活終わりの生徒がちらほらといた。その中の一人の男子生徒が、二年三組の下駄箱を開ける。

「ちょっといい?」

 男子生徒は突然声をかけられ驚いていた。

「は、はい……」

「あんたはクラスカースト上? 下? 中間はなしね」

 いきなり何を言い出すんだ、この人は……。

 驚愕を通り越して、呆れが勝る。千宗は困っている男子生徒に哀れみの視線を向けた。男子生徒は恥じ入るように言う。

「下です……」

 正直、そうだろうなと思った。男子生徒は地味な服装にキューティクルにまるで気を遣わない髪の毛をしている。眼鏡も野暮ったく、消極的な性格に見えた。朝日南は制服がない分、私服や髪型でその人となりが分かりやすく、自然クラスカーストも把握しやすくなってしまう。いいことなのか、悪いことなのか判断しかねるが、これも伝統というものなのだろう。

「たった三十人の好感度の序列なんて気にするな。オレも学校には友達が一人しかいないから下の下だよ」

 一人はいるのか。意外だ。というか、壮先輩はクラスカーストの下というより特殊枠にいる人間だろうと、千宗は静かに分析していた。

「実は2年3組のこと調べてるんだけど、嫌な噂とか流れてない?」

「噂ですか?」

「所感でもいい。自分のクラスの嫌なところ、ない?」

 生徒は言いにくそうに口をすぼめるが、やがて言った。

「僕が言ったって言わないでくださいね」

「ああ、もちろん」

「……いじめがあるんです。陰口とかのレベルじゃなくて、たぶんお金とか取られてる。そいつは不登校になりました」

「名前は?」

「蛭子(えびす)慧(さとし)です」

「加害者は?」

 加害者という強い言葉に、男子生徒は更に言いづらそうにする。

「加害者っていうか……いじめてたのは直井(なおい)桐也(とうや)ってやつです。直井くんもあんまり学校に来ないけど……」

「ふーん。色々ありがとう」

 解放された男子生徒は壮の元から脱兎の如く昇降口の外へと逃げ出した。

「いじめが事実なら──クラスメイトが言うんですから事実でしょうけど、結構な問題ですよね」

 昨今の学校の喫緊に解決すべき課題といえば、ずばりいじめ問題だろう。しかも金銭を渡すように脅されているとなれば、恐喝罪にも値する。立派な犯罪だ。

「紙を投函したのはいじめられている蛭子さんでしょうか? 直井さんに支配されているから、助けてくれってことですかね?」

「まあ、そう結論を焦るなよ。他のやつの話も聞いてみよう」

 壮は、また別の二年三組の生徒を捕まえた。次の生徒は溌剌としていて、部活仲間だろう五人の友人と話をしながら下駄箱に向かう女子生徒だ。その間に壮は割って入った。

「ちょっといいか?」

「鵜飼先輩!?」

 女子生徒が『きゃっ』と短く叫び、掌で口元を覆う。

「鵜飼先輩だー!」

 他の生徒も騒ぎ出す。せっかくの黄色い悲鳴も、本人は聞き飽きているのか平然としていた。

「自分はクラスカーストが上だと思うか?」

「え? えっと? ……どうですかね。でも、友達は多いですよ」

「上だな。よし。質問だ」

 鵜飼は男子生徒にしたのと同じようなクラスの嫌な噂がないかを訊ねた。蛭子と直井の話がまた出てくるかと思いきや、女子生徒が話したのは別のことだった。

「岩ちゃんが直井くんを殴ったらしいんですよ。あくまで噂ですけどね」

 新たな登場人物だ。千宗は説明を求める。

「岩ちゃんって?」

「黒岩先生。たしか英語教師だったかな」

 壮が答える。女子生徒は頷いた。

「そうです」

「みんな暴力の件、信じてるの?」

「まさか。岩ちゃんがそんなことするはずないですよ。直井くんはやんちゃでちょっと近寄りがたい感じですけど……」

「そっか。ありがと」

 壮がひらひらと手を振ると、それだけでまた囁くような音量で悲鳴が上がる。イケメンの力は偉大だ。

 二人はまた第一理科室に戻り、壮が白いチョークで黒板に簡単な図式を書き始める。教師用の黒い机の前に千宗は座った。

「黒岩先生って人気者なんですか?」

 生徒からは岩ちゃんと呼ばれ、暴力を振るうはずがないと信用されている教師。わざわざ訊ねなくとも、人気者であることは間違いない。

「ああ。うちに来たのは三年前。オレは担任もってもらったことねえけど、教えるのも上手いし、二十代で面白くて、野球部の副顧問。よしっ、できた」

 黒板にできあがったのは三角形だった。黒岩、直井、蛭子が丸で囲まれ、矢印で繋がっている。

 蛭子は直井にいじめられている。黒岩は蛭子と直井の担任教師。直井は黒岩に暴力を振るわれたとの噂。

「黒岩先生はどうして直井さんに暴力を振るったなんて噂がたったんでしょう?」

「妥当なストーリーを作るなら、いじめの件を知って、体罰として直井に暴力を振るったってところか」

「いじめの次は体罰ですか……」

 もしかして我が校はわりと荒れているのではないだろうか。

 入学してまだ一ヶ月もたっていないのに、そんな不安が頭を過ぎる。

「問題は〈支配〉だ。支配。この単語が気になる」

 壮はA4の用紙をじっと見つめる。透き通った碧い瞳が何を捕らえかけているのか、千宗には想像もつかなかった。


 ***


 翌朝、千宗は違和感にすぐ気がついた。

「ねえ、聞いた?」

「えー。ウソー」

 昇降口には学年問わず生徒たちの噂話で溢れている。いつものことだが、今日は雰囲気が違う。教室に入っても、その違和感はぬぐえなかった。自分の席に鞄を置きながら、前の席の友人に訊ねる。

「何かあったの?」

 友人は焦っているような表情だった。

「岩ちゃんが、自分のクラスの生徒に暴力を振るったらしい……」

 そういえば友人は野球部だったような気がする。先輩から聞いたのか、分からないが、詳しい情報を知っているのかもしれない。

「岩ちゃんって、2年3組の黒岩先生だよね」

「あ、うん。知ってるんだ」

「ちょっと色々あって」

 友人は頭を振った。

「信じらんねえよ。そりゃまだ知り合って一ヶ月しかたってねえけど、暴力を振るうような先生には……」

「クラスの生徒って、名前は?」

「そこまでは……。でもその人、腕を骨折して入院までしてるらしい」

「重傷だね」

 ふと視線をずらせば、窓から隣の校舎が見える。めずらしく一階の職員室にはベージュ色のカーテンが閉められていた。

「昨日の課題、分かんないところあったから職員室行ってくる」

「えっ、もうすぐホームルームはじまるぞ」

「すぐ戻るよ」

 理科の教科書とノートを持って階段を下り渡り廊下を進み、職員室の扉を開ける。出勤してきた教師たちや、朝練終わりに鍵を返しに来た生徒もいた。奥の席に東藤がいる。そしてその横にはやはり──。

「おはようございます」

「よー」

 ──壮先輩がいる。

 東藤が迷惑そうに眉を歪めた。

「なんだよお前まで来たのか……。ホームルームはじまるぞ」

 千宗がにこりと笑い、戯言を無視すると隣の校長室から大声が漏れ聞こえてきた。

「僕は何もしてません! 本当です!」

 若い男性の声。想像せずとも分かる。黒岩の声だ。しんっと職員室が一瞬静まりかえったが、壮だけは笑っていた。

「で、東藤ちゃん。何があったわけ?」

「分かってるんだろー」

「黒岩先生が直井桐也に体罰と称し、暴力を振るったってこと?」

「ほーら。やっぱり知ってんじゃん」

「でも、黒岩先生はあの通り。やってないって言ってるわけか……」

 何か新しい情報を与えなければ、壮が撤退しないと考えたのだろう。東藤はいやいやながらという顔で話し始めた。

「直井桐也は校門の前で黒岩先生と一緒にいたのが他の生徒によって目撃されている。体罰を直接振るわれた場面は誰も見ていないがな。直井桐也は帰宅後に母親と病院に行き、腕が骨折していることが判明し、親御さんは大激怒」

「直井さんが黒岩先生から体罰を受けたと証言している、ということでしょうか?」

「そうなるな」

「証拠は証言だけ?」

「んなことで嘘ついてどうするんだよ。骨折ってんだぞ」

 仮に、直井がとてつもなく黒岩を憎んでいるとしよう。黒岩を学校から追い出したくてたまらない。だから黒岩に説教されたことを利用し、帰宅途中に自らの骨を折った……。そんなストーリーが千宗の頭に浮かぶ。だが、そこで黒岩が人気教師だったことを思い出した。そうとなると直井が自ら骨を折るまでの理由が見つからない。

 想像を膨らませているうちにホームールームの開始を告げるチャイムが鳴る。

「ほらほら、とっとと帰れ、帰れ。あと頼むからこの件ででしゃばるなよ」

「俺を巻き込むなの間違いでしょ?」

 茶目っぽく壮が笑い、千宗は頭を下げる。二人は職員室から去っていった。去り際、ちらりと校長室から出てきた黒岩の姿が見えた。短いスポーツ刈りの頭にスーツの上からでも分かる筋肉質な体つき。人気者なのも頷ける整った顔だが、表情は優れない。無実の罪を着せられたからなのか、それとも憐れな姿を演じているのだろうか。

 その日の帰り、千宗は偶然にも昇降口で壮を見かけた。壮はおそらく二年三組の生徒だろう人々にランダムに声をかけていた。

「壮先輩、何しているんですか?」

「千宗か。いや、直井の入院先を知っているやつがいないかと思って」

 そう説明しながら、二年三組の下駄箱の前に来たの女子四人組を呼び止める。

「直井桐也のことなんだけど──」

 その名を口にした途端、女子はぼんっと爆発したように喋り始めた。

「黒岩のことですよね?」

「ほんと、サイテー」

「好きだったのに、信じらんない」

 美しいまでの掌返しだ。岩ちゃんと呼んでいたのに、今日からはただの黒岩に降格か。

「直井くんの入院先知らない?」

「日赤第一病院だって聞きましたけど」

「ふーん。ありがとね」

 礼を言うと壮は自分の靴を履いて外に出て行く。千宗は慌ててその背を追いかけた。

「病院に行くつもりですか!?」

「そうだけど。悪いか?」

「悪くはないですけど……。僕も行きます」

 あのダストシュートが絡むと、本当に破天荒な人だな。人のことを言えないと自覚しながら、千宗は壮についていった。

 地下鉄に揺られて、病院前に到着する。友人を名乗り、部屋番号を看護師に訊ねた。直井は五階の個室にいるらしい。

「元気ー?」

 暢気な声と共に、鵜飼がドアをスライドさせる。左腕にギプスをつけて、ベッドに座っていた直井が驚いたようにこちらを見る。

「鵜飼先輩? と……」

「犀賀です」

 壮は病院の売店で買ったコーラを、ナイトテーブルの上に置く。

「はい、これお見舞い品のコーラ。っていうか腕の骨折で入院ってめずらしいね」

「うちの親、色々うるさいんですよ」

「親と言えば、学校にすごいクレーム入れたんだって?」

「うちの母親、PTAの副理事なんで、権力だけはあるんです。オレとしてはあんまり大事にしてもらってもって感じなんですけど」

 千宗は少し驚いた。

「黒岩先生に対して怒ってないんですか?」

「怒る? そりゃあ、クソ教師だとは思うけど、オレの骨を折ったことで懲戒免職決定だろう? ざまあみろって気持ちだから、もうこれ以上大事にしなくても……。こっちからも質問しますけど、鵜飼先輩は何を調べてるんですか?」

 いつのまにか見舞客用のパイプ椅子に座っていた壮は肩をすくめる。

「何を調べればいいのか、分からないんだよ」

〈2年3組は支配されています。助けてください〉

 まさか物理的に枷をはめられているわけではあるまいし、支配の意味が理解できなければ、助けることは不可能だ。

「はあ?」

「まあ、いいや。お大事にね」

 そう言い残して壮は病室を後にした。

「結局、何をしに来たんですか?」

 呆れたように千宗が訊く。

「本当に直井が腕を折っていたのか知りたかったんだよ。なあ、千宗。ちょっとキレてみろ」

 病室の広いエントランスのあたりで、壮が変なことを言い出した。

「キレるって言われたって……」

「やーい、腹黒・根暗・優等生~!」

「そんな言葉じゃ別に怒りませんよ」

 どちらかといえば腹黒で根暗と思われていることがショックだ。そしてそれが間違ってはいないのが悔しい。

「じゃあ、お前イケメンじゃないね、は?」

「ああ、自分の容姿には無頓着ですが鵜飼先輩に言われるとなぜかカチンときますね」

「よしきた。どうする?」

「とりあえずその綺麗な鼻筋を狙います。それから目です」

「あれ、千宗クン、喧嘩慣れしてる?」

「まさかゲームで遊んだだけですよ。で、何を考えてたんですか?」

「かっとなったら普通、顔を狙うよなあってこと。オレの顔に限らずな。大抵、相手をキレさせる理由は喋っている内容にある。だから自然、口のある顔を狙う。もう少し、喧嘩に慣れてる奴だったら、ボディにいれて倒れさせる。だが、黒岩は直井の左腕を折った……。二人の間に何があったんだろうな?」

 別に答えをこちらに求めているわけではないので、千宗は黙った。壮はかつかつと革靴を響かせながら、歩いて行く。


 ***


 黒岩の体罰問題はたちどころに学校中に拡散された。噂だが、直井の両親は黒岩を傷害罪で訴えると言い出しているらしく、学校側は必死でそれを止めようとしているそうだ。黒岩は現在、休職中扱いとなっており、学校には来ていない。

 第一理科室は、千宗にとっては理科室でもなく部室でもなく、図書室に近かった。自分一人しかいない貸し切りの図書室だ。ペンが走る音が良く聞こえるくらい静かで、気持ちが落ち着く。

 なんの科目の復習をしようかと考えながら戸を開けると、なんと第一理科室に人がいた。

「鵜飼先輩! ……じゃない」

 二つ結びの髪に、水色のワンピースを身につけた女子生徒が声を上げる。

「天文部一年の犀賀です。壮先輩にご用ですか?」

「そうなの。私、二年三組の三城(さんじょう)海晴(みはる)。鵜飼先輩にお願いがあって来たんだけど……」

 三城はざっくりと言って、男性に好かれやすそうな外見をしていた。まだ会ったばかりだが、快活そうな部分と柔らかな雰囲気をもっている。

「壮先輩は気まぐれなので、来るかは分からないです」

「LINEで呼び出してくれない?」

「すみません。連絡先、知らないんです」

「そっか……。じゃあ、ここで待たせてもらってもいいかな」

 やめてください、とは言えるわけがない。仕方なく千宗はにこりと笑いそれを許した。もともと放課後の第一理科室が千宗のものというわけではないのだが、自分の城を奪われた戦国大名の気持ちが今なら少し分かる気がした。

勉強を始める千宗の横で、三城はずっとスマートフォンをいじっていた。ちらりと見えた壁紙は去年の文化祭と思わしきクラスの集合写真だった。真ん中には黒岩の姿がある。二年連続で黒岩が担任教師のようだ。三城は学校行事が好きで、この外見で、間違いなくクラスカーストトップにいる女子らしい。

 いくら待てども壮は現れなかった。やがて部活の活動時間終了を告げる鐘が鳴る。壮がここに来ないことはめずらしくもないが、三城に対して千宗はほんの少し申し訳なく思った。

「あの、僕でよければ壮先輩に用件を伝えますよ」

「ほんと!?」

「伝えるだけ、ですけど」

 三城は机に両手を置いてぴんっと立ち上がる。

「岩ちゃんの無実を証明してほしいの! 先生は体罰なんて絶対しない!」

 先ほどの女子生徒たちとは違い、三城は黒岩をよほど信頼しているらしい。学内の雰囲気は完全にアンチ黒岩で固まっているのに。

「分かりました。お伝えします。ですが壮先輩は好き嫌いがあるみたいなので、黒岩先生の無実を証明してくれるかは……」

「うん。分かってる。私も自分でできることはやってみるつもりだから。話を聞いてくれてありがとうね、犀賀くん」

 人好きのする笑みを浮かべ、三城は第一理科室から出て行った。

──壮先輩……。

 心の中で、千宗は壮に呼びかける。

──二年三組の関係図に進展がありましたよ。

 おそらくクラスカーストトップの三城は黒岩に恋愛感情を抱いている……。


 ***


 翌日の第一理科室で、千宗はふらりと現れた壮に三城の話をした。壮は一人で将棋を指しながら、視線すらこちらに向けない。三城の黒岩への好意はあくまでも自分の想像なので黙っておくことにした。話を聞き終えた壮はようやく口を開ける。

「ふーん」

 最近気づいたが、この『ふーん』という返事は彼の口癖らしい。

「どうするんですか?」

「不採用。オレはこの紙の方が気になる」

 そういってA4の例の紙を取り出す。

「そういうと思いました」

〈2年3組は支配されています。助けてください〉パソコンで打たれた文字。よほど慎重で疑り深い性格。だけれどダストシュートに頼るしかなかった憐れな投函者。

「なあ、学校における〈支配者〉って誰だと思う?」

「……校長先生、ですかね?」

 それはそれで問題があるような気がするが、この学校に問題が起きた場合、真っ先に責任を問われるのも謝罪会見で頭を下げるのも校長だ。支配者と言うと聞こえは悪くなってしまうが、責任者や管理者と言えば分かりやすい。

「教室だったら?」

「担任の先生」

 つまり二年三組で言うところの黒岩だ。

「〈支配者〉って言い方はきついが、要は群れのリーダーだよな。だけど今はそのリーダーが不在で、群れの仲間からはヘイトを向けられ、そっぽを向かれている」

 千宗の頭に、牧羊犬とヒツジの群れが思い浮かぶ。牧羊犬のいない羊の群れはのびのびとしているが、やがて機能不全に陥る。必要なのはリーダーの存在だ。つまり、次なる〈支配者〉の存在が求められる。

 壮は立ち上がるなり、第一理科室から出て行こうとする。

「どこへ行くんですか?」

「二年三組。今の時間なら、誰もいないだろ」

 壮の言うとおり、二年三組は無人だった。教室の構造自体はどこも変わらないはずなのに、この教室はどこか翳りを感じる。そんなものはただの思い込みに過ぎないのだが。壮は何をするでもなく、教壇の位置から教室を見ていた。

「教室って本当に狭いよな。年頃の少年少女を詰め込んで社会を構築しているなんて、本当に馬鹿らしいよ」

「否定はしませんが、処世術を学ぶためにもクラス制度は必要だと思います」

「それは千宗がカーストの上にいるからだよ。自覚してるんだろ?」

「……ノーコメントです」

「嫌味なやつ」

 軽く笑ってから壮は端から机の中を探り始めた。引き出しの中に置き勉されている教科書の名前を見て、次から次へと席を移動する。やがて真ん中あたりの席で壮は手を止めた。蛭子の席だ。それから廊下側のロッカーも確認した。鍵はついていないので簡単に中をのぞける。中身は教科書と夏目漱石の文庫本があるだけだった。

「変ですね」

 蛭子はいじめられていたはずなのに、その痕跡がない。

「だよな。いじめってのはトロフィー集めと同じだ。トロフィーは見える形であるほどいいし、目立つ場所にあった方がいい。そしてトロフィーは競い合って得るものだ。それが一つもないっていうのは気になる」

〈僕が言ったって言わないでくださいね〉

〈……いじめがあるんです。陰口とかのレベルじゃなくて、たぶんお金とか取られてる。そいつは不登校になりました〉

 昇降口で出会った男子生徒の言葉を思い出す。彼はいじめの存在をほのめかしてはいたものの、その場面を直接視たわけではない。蛭子慧が〈たぶん〉直井桐也からお金を取られていて、蛭子が不登校になったという事実を知っていたというだけだ。

 誰も、蛭子慧がいじめられているのを、見てはいないのだ。


 ***


 翌朝、壮と千宗は昇降口で人を待っていた。

「来るでしょうか?」

「来るよ」

 壮は確信に満ちた顔をしていた。その言葉を待っていたかのように、待ち人はやってきた。

「トロフィーを見に来たのか?」

 話しかけられた蛭子は怪訝そうに顔を歪める。家に閉じこもっているのか、肌は不健康なほど焼けていない。理知的な瞳をしていたが、それ以外は服装も含めて特徴がない。

「誰ですか?」

「三年の鵜飼だ。天文部って言った方が分かりやすいか」

「ああ、なんでも屋の」

「なんでも屋? オレ、そんな風に呼ばれてんの……?」

 凹む壮を尻目に、蛭子は迷惑そうだった。

「何の用ですか?」

「黒岩を見に来たんだろ? 残念だけど休職中だよ」

 蛭子の表情は変わらなかったが、返答まで少し間があった。

「……へえ、そうですか」

「あんたがいじめられてたのは、黒岩をクラスから追い出すためだったんだよな」

「何を言っているんですか?」

 壮はもう笑ってはいなかった。たまに見せる氷の棘のような碧くて冷たい眼差し。

「教室の中を思うままに操って楽しかったか?」

「待ってください。僕、いじめられてたんですよ」

「自分をいじめるように直井を誘導したんだろ?」

 蛭子は引き攣ったように笑う。

「まさか。どうやって」

 壮は大きくため息をつき、わざとらしく両手を挙げる。

「それが謎だったんだよ。けどさあ、これ見つけちゃった」茶目っぽくいいながら、壮が取り出したのは通帳だった。これは昨日、教室を探っていたときに見つけたものだ。名前の欄には〈ナオイ トウヤ〉とある。「どうしてこんなものがセキュリティーレベルの高いとは言えない教室にあったんだと思う?」

 蛭子は何も言わないが、確実に顔色が変わっていた。壮が通帳をめくると、ここ一ヵ月間で貯金が二百万円も増えていた。直井はこの突然入ってきた大金の理由を両親に知られないために、通帳を学校に隠すことにしたのだろう。印鑑はないので、これだけでは盗まれてもお金を引き出せない。

「あんたは直井に金を払って、自分をいじめさせていた。ただ加害者が、一人じゃ無理があるから、おそらく直井の友人数名もついでに買った。もちろん黒岩の暴力の噂はそのメンバーに事前に流しておいたんだ。直井のネットワークを使って拡散したからその噂はクラスカーストの上の人間しか知らなかった」

 仮に壮の言うとおり、直井が蛭子から金をもらった上で蛭子をいじめていたとしよう。だが、まだ謎がある。黒岩が直井に体罰を加えたことについてだ。

「待ってください。でも実際に直井さんは怪我をしていました。……まさか」

 ある可能性に気がついた千宗は言葉を止める。壮が続けた。

「自分で自分は殴れない。だから直井は腕を自分で折ったんだ。当然、あんたは見舞金をたっぷり出すつもりだったんだろうけど」

 金のために自らの腕を折るなんて狂気の沙汰だ。けれど一ヶ月で二百万円を支払った蛭子の金銭感覚を思えば、骨を折ればいくら貰えるのか想像もつかない。

「だけど、蛭子さんはそもそもなぜ黒岩先生をターゲットにしたんですか? こういっては失礼ですが、黒岩先生がいなくなっても、蛭子さんの周囲の環境は良くも悪くも変わらないような」

 〈支配者〉が消えればまた新たな〈支配者〉が生まれる。けれどカースト下位にいる蛭子にその順番が回ってくるのは、随分と先のことだろう。

「全てはトロフィーのため、だよな」

 蛭子は押し黙り、何も答えない。

「トロフィー?」

「三城海晴だよ。彼女は黒岩に少なからず好意を抱いている。だからあんたは彼女から黒岩を遠ざけようとした。結果、黒岩は休職に追い込まれ、教室はあんたの思うままだ。カーストの上に立たずとも、裏から手を引けば教室は支配できる」

〈2年3組は支配されています〉

 真の支配者は、いじめられっこの蛭子慧だった。俯いていた蛭子は、開き直ったように笑い出した。

「笑っちゃうよね。人は金で支配できる。骨を折れってって命令したときの直井の顔、青くなっててさあ。でも、あいつ『やる』って言ったんだ。あーあ。本当に面白い」

 まるで奴隷を殺し合わせるコロッセオの王様のように、蛭子はひとしきり大きな声で笑った。耳障りな声だった。

「何も面白くないよ」

 物陰から現れたのは三城海晴だった。壮が予め昇降口に来るよう呼んでおいたのだ。彼女は目に見えて怒気をはらんでいた。その威圧感に押されるように、蛭子は少し後ずさる。

「三城さん……」

「確かに私は黒岩先生が好き。でもそれは尊敬しているって意味だし、恋愛感情じゃない」

「ぼ、僕は別に……」

 憧れの三城を目の前にしてか、蛭子は目に見えて取り乱し始めていた。

「私は物じゃない。君の思うとおりに動かないし、傷ついたりもしない。私は君に絶対に屈しない」

 力強い瞳の奥に揺らめく燐の色の炎のようなものが見えた気がした。本当に強い人だ。耐えられなくなったのか、蛭子は何も言わず顔を隠すようにして早足で教室の方へと消えた。その姿が見えなくなってから、三城は力が抜けたように顔を伏せた。

「大丈夫ですか?」

「平気。ただ頭に血が上ってるから冷ます時間がいるかも」

 よく見ると手先が微かに震えていた。

「まあ、安心しろ」壮が言う。「黒岩の休職は解かれる」

「なんでそう言い切れるんですか?」

 壮がスマートフォンを投げて寄越す。駐車場の映像が映っていた。しばらくしてそれが校門前の花屋の駐車場だと気がつく。車上荒らし対策につけたものなのだろうが、その映像にははっきりと校門が映っている。すぐに黒岩と直井が現れ、言い争いにある。しかし三分もしないうちに、直井が帰っていく。もちろんその間に黒岩は直井に触れてすらいない。

「昨日、あちこち回って探したんだよ。いっそ傷害罪で訴えてくれれば、この手のことは警察がすぐに暴いてくれただろうけど。ま、これを見せれば、直井の親も教育委員会も黒岩の無実に納得するだろ」

「本当ですか!? ありがとうございます。鵜飼先輩は救世主です!」

 三城が目を輝かせる。壮は面倒そうに肩をすくめた。

「何でも屋の次はメシア様か。随分な昇格だな」

 翌日、壮の言う通り黒岩の無実は証明され、そのヘイトは黒岩から体罰を受けたという嘘をついた直井に向けられた。真の支配者であった蛭子はまた不登校になったという。

 第一理科室で、壮と千宗はオセロをしていた。今回は角を三つ取ったので、千宗の勝ちだろう。ふと千宗は思い出したことを訊ねてみた。

「あのA4用紙を投函したのって、三城さんですよね」

 あの紙には〈助けてください〉とあり、三城は壮に直談判までしにきた。盤上を苦い顔で見つめながら壮が言う。

「違うと思うぞ。あれは自分のクラスが誰かに支配されていることに真っ先に気がついた人物──」

 壮がリクエストボックスをひっくり返すと、またA4用紙が入っていた。今回は明朝体で〈ありがとう〉とだけ。

「黒岩先生だよ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る