青春ダストシュート

北原小五

第1章 ローズバッド


 第一章  ローズバッド


 〈青春は、ゴミ箱に。〉

 変わったキャッチコピーだと思い、目が行った。制服を身につけた女子高生が手を繋いで塀の上からジャンプしている。アングルの都合上、着地点は見えない。明るい青空の上から真っ黄色の文字でキャッチコピーが記されている。

 その文章はややマイナスなイメージを想起させるような気がした。ゴミ、という表現がまずあまり良くない気がする。しかも捨てるのは〈青春〉だ。

 青春。

 その最中にいる犀賀(さいが)千宗(ちひろ)はいまいち、ぴんとはこないけれど、世間様がそれを至極大切なスローガンとして守っていることを知っている。このポスターは敢えてその常識を壊すようなことを書くことで、受け手に衝撃を与えようとしているのかもしれない。

 難しいようなことを書いているが、このポスターが最も伝えたいことは、駅ビルに入っている女性向けファッションブランドのクリアランスセールが行われるということであり、それ以上の意味はない。

 狭苦しい地下鉄に列車がなめらかに滑り込む。朝の車内は恐らく同じ高校の学生たちで混み合っていた。恐らく、というのは千宗が通う高校が私服通学を認めているからである。ジャージやジーンズも許されるらしいが、千宗は白いカットソーに黒いチノパン姿でいる。恥ずかしながら、母の見立てだが、確かにこれなら誰にも文句を言われないだろう。母らしい無難なチョイスに感謝しなくては。

 入学式から一週間。通学にもようやく慣れた。三階にある教室まで階段を上がっていくのも、日差しの眩しい席にも、妥協し始めているところだ。

 県立朝日南高校というのが千宗の通っている高校だ。偏差値七十二、愛知県内でも名門とされている高校だ。

 千宗は特に受験勉強を懸命に努力したというわけではなかったが、日頃から予習復習、課題も忘れることなくこなしていたため、労せず合格することができた。心ないクラスメイトからは『優等生は違うねえ』と野次られたが、そんなことで傷つくほど千宗は柔ではない。

 朝のホームルームが始まり、担任の若い女性教師がプリントを配り始める。まだどこかぎこちない具合でクラスメイトたちは用紙を後ろの席に回していった。

「来週までに体験入部の用紙を記入するように」

 〈体験入部希望欄〉と書かれた用紙は最大第三まで希望を書けるようだった。千宗は、中学はテニス部だったが、高校では続けるつもりはなかった。というのも朝日南高校のテニス部は強豪で練習がきついと聞いていたからだ。テニスは好きだが、趣味でやれればそれでいい。そう考えていた千宗は真っ先にテニス部を頭の中から除外した。

 やはり運動部がいいだろうか。案外、文化系の部活も楽しいかもしれない。そんなときふと、部活動一覧の中のある部活が目についた。

〈天文部:活動は月に一度ほどで、星の観察を行います。部員募集中。〉

 他の部活動が言葉巧みに勧誘を行っている中、なんとも淡泊な紹介文だった。ともすれば『こっちにくんな』とも思えるほどのパサパサ感だ。だが、それが逆に千宗の心に刺さる。

〈青春は、ゴミ箱へ〉

 あれは結局、どういう意味なのだろうか。そんなことを思いながら、第一希望欄に天文部の名前を書いた。


 ***


 一週間後、千宗は天文部の体験入部のために第一理科室の戸を開けた。薄暗く独特のゴムの匂いがする部屋には、白衣を着た顧問らしき中年教師の姿がある。

「おっ、来たか」

 中年教師がにたりと笑う。髪がぼさっとしていて、白衣の下に着ているチェックのシャツも皺が寄っている。独身だな、と失礼なことを考えてしまう。

「こんにちは。体験入部の犀賀です」

「どうも。オレは東藤(ひがしふじ)、理科教師です。よろしく」

 話し方にも覇気がなく、よろしくする気が全くなさそうだ。

「あの、他の生徒が見当たらないんですけど……」

「ああ。うちに入部希望出したの、君だけだから」

「えっ。ゼロ人ですか?」

「そ。君さ、星とかロマンがあっていいなーって思ったんでしょ?」

 突然、上から目線で型にはめられた気がして、千宗はむっとした。

「いえ、違いますけど」

「じゃあ、どうして?」

 青春をゴミ箱に入れてみたくって、なんて言うわけにはいかない。

「体験入部ですし、自分が選ばないような部活を選んでも損はないかなと思っただけです」

 我ながら無難な回答、のはず。

「ふーん」

 無関心そうな相槌だ。

 そのとき、立て付けの悪い教室の扉がガラガラと音を立てて開かれた。

「お、来たか」

 現れたのはすらりとした美青年だった。異国の血が混じっているのか、目が碧く、少し肌が白い。表情がないからか、つんとした冷たい氷の棘のような人に見える。黒いライダースジャケットに、黒いジーンズ。耳に銀色の小さなピアスもついている。綺麗な人なのに、随分と柄の悪い服を着ているので、どこかアンバランスで危険な香りがする。こういうのに女性は弱いだろうな。

「東藤ちゃんが仕事をしているなんて、めずらしいね」

 口調はずいぶんと東藤と親しげで、五月の晴れた天気のようにさっぱりしている。

「おう。来たのか、部長」

 黒いライダースの上級生は千宗には目もくれず、窓際に置かれている手作り感溢れる紙製の投書箱を手に取った。上級生はリクエストボックスと書かれた箱の裏側をめくり、中に入っている手紙を取り出す。

「まだやってるのか」

 東藤が呆れたように言う。

「いいじゃん、別に」

「あの、あれなんですか?」

 千宗の質問に、東藤が答える。

「リクエストボックス。月一度の天体観測は部員以外も参加できるんで、その観察テーマのリクエストを全校生徒から聞くために先代か先々代の部長が作ったんだけど、いつの間にか変な噂話がたっちゃったんだよ」

「変な噂話?」

「この箱に悩みごとや困ってることを投書すると、解決されるって噂……。ま、こいつが部長になってからは、こいつ自身が関わってるんだけど……。なんでそんな面倒くさいことするかねえ」

 地球惑星外の生命体を見るような目で東藤は部長と呼ばれた上級生を見る。

「何でもかんでも首を突っ込むわけじゃない。それに大体はオレにはどうしようもない、愚痴や文句だし」

「それでも他人のプライバシーに関することだ。第一、その悩み事の現場に学校も関わるかもしれないし……」

「生徒が選んだのが校長や世間にばっかり尻尾を振ってる先生よりも、誰が読むかも分からない箱だったってだけだろ。責任転嫁するな」

「それを言われるとなあ」

 痛くもない腹が痛むのか、東藤はため息をつく。どうやら、このリクエストボックスは学校内で生徒の拠り所のようになっているようだ。困ったときに縋るお地蔵様のようなものだろうか。もっとも、その願いや祈りを聞き届けるのは地蔵というより、今どきのやんちゃな若者なわけだが。

「いざとなったらリクエストボックスなんて知らなかったって言えばいいだろ」

「言われなくともそうするよ」

 千宗が間に入った。

「手紙の中、なんて書いてあるんですか?」

 特に驚かれるようなことを聞いたつもりはなかったが、二人はびっくりとした様子で千宗を見た。

「えっ。関わりたいの?」と東藤。

「興味があるだけです。責任は取りません」

 もしもその手紙の中が解決してほしい悩み事だとしても、ただその場に居合わせただけの千宗には何の責任も発生しないはずだ。たとえ投稿者が解決を望んでいるとしても、こういってはなんだが、千宗には全くもって関係ない。だから手紙の内容を知りたがるのは、純度百パーセントの好奇心だ。

「正直に自分が意地汚い野次馬だって認められるのはすごいことだ。偽善者にはなかなかできない」

 なぜか面白そうに上級生が言う。

「ディスらないでください」

「ディスってねえよ。オレは嘘が嫌いなだけ」

 引き出しからカッターを取り出し、上級生は桜色の可愛らしい封筒を開く。その中には同タイプの桜色の便せんが一枚入っていた。

〈〈ローズバッド〉について調べてください〉

 文章はそれだけだった。だがこの文章は『~してください』と懇願の文法をとっている。日常のストレスを書き殴ったものではない。

「願い事みたいですね」

「なんか、そんなタイトルのモノクロ映画あったよな」

「『市民ケーン』だろ。タイトルじゃねえよ、東藤ちゃん。ボケはじまってんの?」

「うるせえ」

 千宗はじっとその筆跡を眺めていた。丁寧な字だ。女子生徒だろうか。そうだとしたら、どんな気持ちでこの手紙を書いて、こんな埃まみれの薄暗い第一理科室の箱に投函したのだろうか。

「面白そうな匂いがするな。この手紙は採用」そういうと上級生は手紙と荷物を持って、教室から去ろうとする。去り際、思い出したように振り返る。「んで、お前はどうするんだ、新入生?」

「犀賀千宗です」

「千宗な。壮でいい。鵜飼壮だ。よろしく」

「どうするんだって、いったい何をどうするつもりなんですか?」

「オレと一緒にフィールドワークするつもりはあるかってこと」

 フィールドワーク、と聞いて千宗は顧問の東藤の方を見る。彼は耳をふさいでいた。

止める気はなさそうだ。なら安心だ。フィールドワークとはそのまま課外活動というわけではなく、この〈ローズバッド〉の謎を明かしに行くのだろう。千宗は即答した。

「行きます」

 その返答に壮は少し目を見開き、それから無表情になった。

「お前さ……」

「?」

「いや、初対面で言うことじゃないか」

 壮は踵を返して廊下を歩いて行く。千宗は慌てて自分の荷物を持って、壮の後を追いかけた。


 ***


 夕方の街は飲食店の書き入れ時だ。牛丼や焼き肉の好い匂いが鼻腔をくすぐるが、夕食を摂っている暇はない。

 壮は千宗の三歩先をさくさくと歩いて行く。やがて高架下のライブハウスの前で立ち止まった。今夜はライブがあるのか、道路に客が溢れて並んでいる。

「〈ローズバッド〉について調べるんですよね?」

「調べる必要はねえよ。それがなんなのかは知ってる」

「え、なんですか?」

 訊ねられた千宗は薄暗い笑みを浮かべた。

「MDMA」

「…………」

 MDMAが何なのかは、薬物乱用防止教室や保健の時間に習った。合成麻薬の一種だ。俗にパーティードラッグとも呼ばれて、海外では若者に広く浸透して社会問題にもなっているという。

「やめておくか? その方が正解かもよ」

 なんともない様子で壮は言う。言う通りここで逃げ帰っても彼は千宗を馬鹿にしたりはしないだろう。迷いはあった。危険なことに首を突っ込もうとしているのかもしれない。けれど、興味が勝った。

「いえ。でも〈ローズバッド〉の正体が分かってるなら、解決じゃないですか?」

「それは投函した人間が決めることだ」

 ライブハウスの中に入っていくので、千宗も後に続いた。受付の女性に五百円払いドリンクをもらう。中は真っ黒の壁に輝くミラーボールとくるくる光るカラフルな照明に照らされ、ハードメタルバンドが演奏している。光が強くてステージを見ているだけで目眩がしそうだし、音楽も爆音で耳がキンとする。けれど客たちは音楽と一体になり、身体を揺らして楽しんでいる。

 二人はなるだけ音楽が聞こえにくい奥のカウンターに背を預けて立った。壮が手紙を出し、こちらに渡す。

「裏を見てみな」

 便せんの裏には〈月曜日の夕方に栄のライブハウス・サンデーに来てください〉と書かれていた。サンデーとはここのライブハウスの名前だ。

「会うつもりですか?」

「そりゃもちろん。直接話を聞いた方が色々と早いだろ」

 しばらくそこで騒音に耐えていると、ふらりと女性が現れた。

「……天文部の鵜飼先輩ですよね?」

 小柄で可愛らしい女の子だった。化粧をしているせいで大学生くらいに見えるが、壮を知っているということは同じ朝日南の生徒だろう。

「二年の鞘林倫子です」

「手紙を出した子?」

「はい。失礼かもしれませんが、まさか本当に来てくれるとは思いませんでした……」

「自分で言うのも変だけど、オレはわりと気まぐれだからな。あ、こいつ千宗。新入部員」

「体験入部です」

 ぴしゃりと訂正したが、壮に改める気はなさそうだ。

「詳しく話、聞かせてよ」

 三人はカウンターに腰かけ、爆音に負けないように肩を寄せ合った。

「〈ローズバッド〉って麻薬の名前だよな。MDMA、エクスタシー、まあ薬物なんて全部そうだけど、神経ぶち壊して最悪死ぬやつ」

「ご存じなんですね」

「情報集めが趣味みたいなものなんだ」

「変人ですね」

「千宗クンは、黙ってて」

 何事か言い出そうとしているのか、鞘林は苦しげに視線を下げた。

「実は、友人が〈ローズバッド〉に手を出しているんです。本人は依存なんてしてないし、ちょっとしたパーティーとかで飲んでるだけだって言ってるんですけど、心配で……」

 そんなことはとても不特定多数が読む可能性がある手紙に書ける内容ではない。だから鞘林はわざわざこんなところまで壮を越させたのだろう。話をするのも、教師の目が光る学校ではかなり抵抗のある話題だ。

「友達にドラッグをやめてほしいんだ」

「はい……」

「なるほどね。気持ちは分かったよ。でもはっきり言って難しいかもな。オレは医者でもカウンセラーでもねえし」

「でっ、でも鵜飼先輩は悩み事を解決してくれるトラブルシューターなんですよね!?」

 縋りつくように言う声は、本当に壮しか頼るものがないのだと伝えさせる。こんな風に頼られて、どんな反応をするんだろうと壮の方を見る。

「興味の赴くままにやってたらこうなったってだけなんだけどな。でもそこまで言うなら、ちょっと〈ローズバッド〉について調べてみるよ」

「ありがとうございます!」

 鞘林は何度も礼を言った。やがて女友達に呼ばれて場を離れたため、二人は耳が壊れそうなライブハウスからようやく撤退できた。あたりは暗くなり、電柱には明かりが灯っている。光に集まった蛾がぱたぱたと飛んでいた。

「大丈夫ですか?」

 本気で心配しているわけではなかったが、聞いておいた。

「なにが?」

「あんな約束して。壮先輩も言ってたように、僕たちは医者でもまして警察でもありませんよ」

 薬物の扱いは厚生労働省だったから、警察はまた違うのかもしれないが、ようはプロフェッショナルだ。壮は薬物依存者を更生させるプロではない。

「オレがしたのはあくまでも〈ローズバッド〉を調べる約束だよ。鞘林の友達がMDMAをやめられるかは、かわいそうだけど別問題だ」

 案外、あっさり切るんだな。

 けれど当然だ。できることには限りがある。千宗は壮の言葉に落胆しなかったし、むしろ正常な感覚を持っているらしいと安心した。

「友人の忠告もまともに聞かないなら、むしろ縁の切りどきに思えますけど、よほど大切な友人なんでしょうね」

「……かもな」

 微妙な間があった。さっきも、自分に対して彼は何か言いたげだった。気になるが、今は無視した。

「とりあえず接触してみるか」

 壮はスマートフォンを取り出し、怪しげな外国語表示の通販サイトを開いた。しばらく動かすと、ピンク色の薔薇のつぼみの形をした錠剤の写真が出てくる。〈ROSEBAD〉可愛らしい見た目をした薔薇色の悪魔だ。

「買うんですか?」

「そんなことするか。会うんだよ」

 素早くキーボードを動かし、日本国籍のマークがついた出品者に対してメッセージを送る。内容は薬物が本物か確かめたいので直接会いたいというものだ。会うという行為は通販での購入以上に危険な気がするが、壮の中では順列が逆らしい。


 ***


 翌日の放課後、日が傾き、月が現れた頃に千宗は壮と、日本人出品者と会うために指定された海の見える工場地帯にいた。遠くまで続く柵の向こうにずらりと船に積んで海外に送るための車が並んでいる。人気はない。叫んでも声を拾ってくれる人は誰もいなさそうだ。

「クスリの取引って、こんなところでやるものなんですか?」

「いや、普通もっと人目のあるところを選ぶはずだ。売人も逃げやすいからな」

「じゃあ、どうしてこんなところに」

 ぶつりと千宗が文句を言うと、工場の角から人が現れた。目出し帽を被った明るい髪色の若い男だ。

「一人って約束じゃなかったか?」

 細身の若い男は、軽く首を傾ける。

「こんなところに呼び出されておっかなかったんだよ」

 と壮。

「そのわりには肝の据わった眼をしているようだが……?」

 その言葉を合図にしたように、工場の角からぞろぞろと柄の悪い若者たちが現れる。その手には金属バッドや鉄パイプが握られていた。

「……取引は?」

 嫌な予感がする。それは壮も同じだろう。明るい髪色の男が大きな声で叫んだ。

「やれ!」

 壮に背中を押され、千宗は自然と前傾姿勢になり走り出す。そのまま柵を跳び越え工場裏に引き止めておいたタクシーに乗り込んだ。

「えっ、なに!?」

 運転手が驚く。追いかけてくる若者たちがバックミラーに映っていた。

「いいから出して!」

 アクセルが踏み込まれ、車が無事に発進する。さすがに彼らも車の用意はないのか、追いかける気が失せたのか、彼らの姿は小さくなる。壮がこうなることを予期してタクシーを待たせておいて正解だった。

「なんなんですか、あれは……」

 息を切らしながら千宗は、窓の外を見る。しばらくして、ようやく見慣れた街の景色が見えてきた。

「やくざって感じじゃなかったな。半グレか」

 半グレというのは、簡単に言えば暴力団と堅気の中間のようなものだ。犯罪に手を染めるが、やくざ者ではない。勢力にもよるが、なかには暴力団を凌ほどの経済ネットワークを築いている半グレ集団もあるらしい。

「どうして取引現場に半グレが……。しかも襲ってくるなんて」

「はなから襲うことが目的だったのかもな。〈ローズバッド〉をエサにして呼び出して、集団でリンチする」

「もしかしてその推論をたてた上で工場まで来たんですか?」

 壮は涼しそうににやりと笑う。

「さあ」

「さあって……」

 呆れた人だ。ついてきた自分も自分だが。

「おっちゃん。大須の駅前で降ろして」

 運転手は分かりましたと言って頷いた。

「大須ですか?」

 あんなことがあったのだから、もう今日はお開きかと思った。

「あの半グレ集団に興味がわいた。調べてみよう」

 水を得た魚のように壮は活き活きとしている。だが、顔には出さないものの千宗も不思議と退屈はしていなかった。


 ***


 三階建ての小さなビルの入り口には古びた小さな看板が光っている。一階は焼き鳥屋、二階はネカフェ、三階はマッサージ屋だ。壮は迷わず裏口の従業員用の扉を開けて階段を上がる。二階のネカフェに用があるらしい。

「ここのいいところはなぜか身分証の提示が求められないことだ」

「それは悪いところですよ」

 愛知県内においてネットカフェの身分証の提示は必ず求められるものではないが、東京などでは別らしいと聞く。ネット犯罪を未然に防ぎ、十八歳未満の深夜の利用を防ぐ目的があるのだろう。どちらも大切なことだ。

 中に入ると、最近の清潔で澄んだ空気のネットカフェの真逆をゆく、古びた煙草の匂いが染みこんだ空気が肺に入り込む。白い壁はところどころ煤けていて、店内にはよく分からない外国語やネットゲームで負けたのだろうか、いらつく声が聞こえた。随分と自由な店のようだ。

 壮は受付の店員に人に会いに来たというと、身分証の提示どころか用紙への記入もなく中に通された。二十ほどのブースの中から十二番の個室をノックする。中から子供のような声が聞こえた。

「どぞー」

 がらりとスライド式の扉を開けると、百四十五センチくらいの小柄な女の子がいた。鞘林よりも幼く見える。ピンクのゴシックロリータの服に、口には棒付きキャンディー、首元にはウサギの顔のヘッドフォンがぶら下がっている。

「おっ。壮ちゃんじゃん。隣の子は?」

「犀賀千宗です」

「新入部員だ」

「体験入部です」

「ふーん。天文部の部員なんだ。まあ、どうでもいいけど」

 どうでもいいと言いながら、女の子は動かしていたネットゲーム内で休憩しますとチャットを送り離脱した。壮が手短に彼女を紹介する。

「この人は鏡ラン。こう見えて二十歳。ここを根城にしてる何でも屋さん」

「何でもじゃないよ。僕のネットワークにひっかかるものだけ切り売りしてんの」

 天文部に関わってから、そうでない人に出会ったことの方が少ない気がするけれど、この人も癖が強そうだ。

「早速なんだけど、ランちゃん。オレたち、今、リンチにあいかけてさ」

 参っちゃうよねと言いながら、壮は困った顔をする。鏡はころころと笑っていた。

「おもしろ~。怪我しなくてよかったね」

「笑い事じゃなくて。たぶん半グレ集団だと思うんだけど、知らない?」

 壮はスマートフォンを取り出し、予め工場にセッティングしておいたスマートフォンの映像を見せた。壮は一台のスマートフォンを工場に設置し、もう一台に映像を送るように設定しておいたらしい。結局、想定通りに危ういことに巻き込まれたため、もう一台のカメラがわりのスマートフォンは置き去りにされたままだが、本人は気にしていない。金銭的余裕があるようだ。

 映像を見た鏡は、小首を傾げながら言う。

「ああ、見たことあるかも。たぶん〈DIVA(ディーヴァ)〉のリーダー。半グレってほどあくどくないし、全体的に若めのグループだよ」

 カタカタとキーボードを動かすと、画面に画像が現れる。顔のあたりが影になっていて見えにくいが、明るい髪色に細身の身体。目出し帽姿は、確かに工場で見た若い男に似ていた。

「こいつだ」

「本名じゃないだろうけど、宮桜(みやおう)って呼ばれてる。で? なんでまた〈DIVA〉に襲われたの?」

「〈ローズバッド〉ってMDMAの取引現場に突然現れて『取引はしねえ!』つって、襲ってきたんだよ」

 鏡はまた笑った。笑いのツボが他人の不幸にあるらしい。

「なになに。壮ちゃん、ドラッグデビュー?」

「んなわけねえだろ」

「だよねー。おじいちゃんに殺されちゃうか。でもね、でもね。〈ローズバッド〉の取引って、結構危ない噂が流れてるんだって。そーちゃんたちみたいに、ドラッグの売人と見せかけて言葉巧みに外に誘い出してリンチされるって。だから〈ローズバッド〉は選ばないって人も増えてんの。そっか、そっかー。〈DIVA〉の仕業だったんだ」

 いくら自分が使いたいドラッグだからと言っても、わざわざリスクのあるものを選ぶ必要はない。通販サイトで嫌と言うほど見たが、同じようなMDMAならごまんとあるのだ。ふと千宗は思ったことを口にした。

「ですが、リンチをして〈DIVA〉にどんな得があるんでしょう? 薬物を買うための金を巻き上げるとかですかね」

「お前、悪人の才能あるよ」

「期待の新人だねえ」

「茶化さないでください」

 事実、MDMAとはいえ安くはないだろう。取引現場には相応の金を持って出向くはずだ。

「でも、違うと思うよ」鏡は言う。「〈DIVA〉は半グレの中でも地域愛が強いタイプでさ。だからたぶん自分が仕切ってるテリトリーにドラッグが蔓延するのが許せないんじゃないかな。今でこそ〈ローズバッド〉の人気は若干下火なんだけど、数ヶ月前はどこのクラブでも使われてたくらい人気のMDMAだったからね」

 派手で扇情的な衣装に身に纏った人々が、踊り狂いながら薔薇のつぼみを飲み込んでいく。狂騒は激しさを増し、熱狂は渦となり、盛り上がりは日が出るまでの時間続く。そんなイメージが頭に浮かんだ。

「自警団みたいなもんってことか」

「リンチはやりすぎだと思いますけどね」

「それでも〈ローズバッド〉に悪いイメージを植えつけることには成功してる。結果的に、〈ローズバッド〉の被害者も減っているんだ」

 壮は思慮深げに手を顎のあたりにやると、ふと思いついたかのように言った。

「……もう一度、宮桜とかいうやつに会ってみるか」

「は?」

 つい先ほど、リンチに遭いかけたのに、馬鹿なのか。

「さすがそーちゃん。エキセントリックー☆」

「待ってください、壮先輩。会ってどうするつもりなんですか?」

 こともなさげに壮は言う。

「オレたちの目的は〈ローズバッド〉を調べること。ならよりブツに詳しいだろう〈DIVA〉の宮桜に話を聞くべきだろ」

 理解はできる。理解はできるが、まともに取り合ってくれるとは思えない。万が一、会ってくれることになっても、同じことが繰り返されるだけではないだろうか。

「下っ端の連絡先なら知ってるよ。宮桜に話をしてくれるように頼んでみようか」

「さすが、ランちゃん。お願い」

「うぃ~。報酬はつけておくから、将来、僕が困ったら助けてよね」

「はいよ」

 そんな口約束でいいのだろうか。鏡はよほど壮を認めているらしい。だが、千宗にもその気持ちが分からないわけではなかった。

 この人は普通じゃない。

 良い意味でも、悪い意味でも、何かを成し遂げられる人だ。


 ***


 夜八時過ぎ、千宗は自宅に戻った。名古屋市内の住宅街で、建築士の父が建てた二階建ての家に明かりが灯っている。玄関には中学二年生の弟・奏(かなで)の靴もある。いつもはサッカー部の練習で夜の九時まで家に帰ってこないことも多いのだが、今日はめずらしく休みらしい。

「ただいまー」

 リビングダイニングに入り真っ先に出迎えてくれたのは、ゴールデンレトリバーのレガートだった。八歳になるメスで、賢く愛嬌がある。

「遅かったわね」

 母がキッチンに向かい、夕飯を出してくれる。ハンバーグとシーフードサラダだ。

「体験入部がはじまったって言ったな」リビングのソファに座り、テレビで野球観戦をしている父が訊いてきた。「何部にしたんだ?」

「今のところ天文部」

 同じくソファに座っている弟が噴き出した。

「ダッサ」

 別にダサくはないだろう。いや、ダサいのか? 中学校にはなかったので、世間の天文部への評価がいまいち分からないが、スポーツマンの弟からしたら地味な文化系イコールダサいの図式ができあがっているのかもしれない。だとしたらそれは大きな間違いだ。

「そこにするの?」と母。

「うーん。微妙。なんか先輩、変わってるし……」

 壮先輩を思う。イケメンで何でもそつなくこなせそうなのに、なぜか厄介事に首を突っ込んでいく人。周囲から認められているのに、そんなことを歯牙にもかけていない。奢らないといえば聞こえはいいが、結局何を求めているのかよく分からない。よく分からない人は、少し怖い。

 他人とのコミュニケーションにおいて、千宗は他人の求める言葉をつい発言してしまうことが多い。自分の思うとおりに答えてもいいのに、面倒だったり、億劫だったりして、頭の中に浮かんだ最善と思える選択肢を選んでしまう。けれど不思議と壮の前だとその選択肢が浮かばない。いや、正確にはどれも不正解に思えるのだ。だから仕方なく、自分の意見を言う。壮は本音を引き出すのが上手いのかもしれない。

「いいんじゃない、星。私は好きよ」

「父さんもいいと思うぞ。宇宙はロマンだからな」

「えー。そうかなあ」

 弟だけが不満げだが、さすがに兄の部活選びにまで口出しする気はないのか、すぐに興味はテレビへと切り替わる。贔屓にしている中日ドラゴンズのバッターが三振を取られたところで、突然速報が入った。

〈【速報】名古屋市北区で三件目の通り魔が発生。被害者は重体〉

 ここ二ヶ月ほど、東海地方で通り魔事件が起きている。幸い死亡者はまだ出ていないが、夜間の外出は控えるようにとのアナウンスが町内でもよく聞こえる。

「千宗も気をつけないさいよ」

「分かってるよ。奏も気をつけろよ」

「オレは母さんに送り迎えしてもらってるから」

「そっか」

 中学が遠いため、奏は母に車で送迎してもらっている。それならば安心だ。

「オレの友達の先輩んちの柴犬、外飼いなんだけど殺されちゃったんだって」

 弟が言うには、その先輩が事件が起きたのと同じ北区に住んでおり、夜間に犬の悲鳴を聞いて駆けつけたところ、血まみれの愛犬が倒れていたらしい。犯人の姿は既になく、防犯カメラもなかったため、犯人は未だに捕まっていないという。

「かわいそうに。でも、レガートは室内飼いだから」

 そういいながら、ダイニングの机の下で伏せっているレガートを見る。彼女はぼんやりと手中のボール球を見ていた。

 夕食を食べ終え、食器を洗う。父は相変わらず野球に夢中で、母は風呂場に行った。弟が飲み物を取りに冷蔵庫に来たので、訊ねてみた。

「お前の学校で、ドラックとか流行ってない?」

「はあ? なんで? 流行ってるわけないじゃん」

 弟が通っているのは、千宗が通っていた地元の公立校ではなくサッカーの名門私立校だ。公立と私立では学内の雰囲気も違うだろう。

「薬物乱用防止教室を学校で受けてさ。クスリをくり抜いた本とかに挟んで通販でやり取りするんだって。簡単に買えるし、こういうのって身近にあるんだなって思ったんだよ」

 今からでも〈ローズバッド〉を手に入れようとすれば、スマートフォン一台で事足りる。今この瞬間も、クリックひとつで薬物を手にしている高校生がいるのかもしれない。

「流行っててもやらないよ」

 そういって奏は笑う。奏は優しい。奏は知らない。

 この世界には救い難いほどの闇がある。そしてその闇は影のようにいつも後ろについて回っている。


 ***


 翌日の放課後、千宗は第一理科室にいた。天文部の活動日は基本的には月に一度で、あとは特に決まっていない。思えば、壮のラインアカウントも知らないので連絡の取りようがない。二年生の鞘林が『鵜飼先輩』と呼んでいたので恐らく三年生だが、どこのクラスなのかも知らない。だがらこうして彼が第一理科室によるのを待つしかないのだ。特に来なかったら、来なかったで運が悪かったなと思うだけだ。

「お、いたのか」

 開いている廊下側の窓から、壮がひょっこりと顔を出す。教室で一人座っていた千宗は荷物を持った。

「いると思ったから、ここに寄ったんでしょう?」

 第一理科室は三階。三年生の教室は一階だ。わざわざ壮は三階まで上がってきたことになる。

「……」

 壮は綺麗な顔を動かさない。

 昨日、一緒にいて分かったことがある。この人はとても頭がいいし、度胸がある。引き際をわきまえているし、人間の内面をよく観察している。面白い人だと思った。だからもっと知りたいと思った。

「宮桜から返事が来た。昨日の今日で会いたがるなんて、よほどの馬鹿だろうから話してみたいってよ」

「どこで会うんですか?」

「錦通り」

 錦は名古屋一の繁華街だ。ホストクラブにキャバクラに、飲み屋だらけのイメージがある。高校生の千宗にはまだ縁遠い場所である。

 学校から錦へ向かい、壮はダンスクラブに入っていった。入る前に警備員がこちらを見たが、壮が宮桜の名を口に出すと何も言わず中に通してくれた。どうやらこのダンスクラブは〈DIVA〉の息のかかった拠点の一つらしい。

 店の中はライブハウスとはまた違う雰囲気で、レーザービームの光りに合わせてヒップホップ系の洋楽が流れている。年齢層は二十代から四十代までと幅広く、様々な人がお酒を片手に口を開けて笑っている。

「こっちに来い」

 宮桜の手下だろうか。十五、六歳くらいの少年がこちらを呼ぶ。言われた通り、店の奥の部屋に入った。白いダマスク柄の壁紙に黒い革製のソファが置かれている。毛足の長い真っ赤な絨毯に、棚にずらりと置かれた不気味な動物の置物。派手で悪趣味な部屋だ。

 黒革のソファの上には足を広げた若い男が座っていた。綺麗に染め上げられた金色の髪に、凜とした瞳。明るいところで見ると、思っていたより随分と若い。十七、八。千宗と同じく高校生くらいだろう。けれどその爛々と光る鋭い眼光と、余裕のある雰囲気は、普通の高校生とは一線を画している。

「鏡から話は聞いている。〈ローズバッド〉を調べているんだってな」

「なら話が早い。聞かせろよ」

 壮はどさりと向かいのソファに座る。大きな態度が気に食わないのか、宮桜は眉を顰めた。

「その前に教えろ。話をしてオレたちになんの得がある?」

 ごもっともな言葉だ。ただ話すだけでは〈DIVA〉にメリットは何もない。壮は少し考えてから答えた。

「〈ローズバッド〉を潰す、とかはどう?」

 正気か?

 千宗は顔には出さないものの、ちらりと横目で壮をのぞき見た。彼の顔は落ち着いていた。かえって宮桜は笑っていた。

「鵜飼壮。実を言うとお前のことは知っていた。このあたりで厄介事を解決しているそうじゃないか。自分たちを棚に上げて言わせてもらえば、随分な物好きがいたものだ」

「おいおい、褒めるなよ。オレの活動はあくまでも課外活動だからな」

 褒めているわけではないと思うが。千宗が呆れるとふと空気が変わった。そう歳は変わらないはずなのに、宮桜の持つ虎のような迫力がこの部屋を征服していく。一触即発という単語が頭を過ぎった。

「できもしないことをほざくなよ」

試すような宮桜の殺気を向けられてもなお、壮は飄々としていた。

「あんたに恩が売れるなら、悪くないよな」

 宮桜はしばらく壮を見てから、諦めたのか信用に足ると判断したのか、深く椅子にかけなおした。後ろに控えていた舎弟……のようなものを顎で指図すると、男が黒いスマートフォンを取り出した。

「これは?」

「足がつかないように処理してあるスマホだ。オレたちはこれでMDMA愛好者が集うダークウェブにアクセスしていた」

 ダークウェブとはグーグルやエクスプローラーなどよく使われる検索エンジンソフトでは決して引っかからないようなネットの暗部をさす。ダークウェブに侵入するには特殊なソフトが必要だと聞きかじったことがあるが、このスマートフォンにはそういった処理も既になされているようだ。

「この中で〈ローズバッド〉を購入する輩を見つけ出し、誘い出し、痛めつけた」

 画面をちらりと見ると、薬物の名前が隠語として飛び交っていた。だが一方で意外なことに、薬物とは無関係の日常会話も多かった。

「ここはチャット状態になってるからな。あまり殺伐とはしていない」

「へえ」

 興味深そうに壮がスマートフォンを触る。その様子を千宗は黙って見ていた。

 薬物に頼ってしまう人は、心に隙間を抱えていることが多い。大切な人の死や、日頃のストレス、事の大小はともかく、話を聞いてくれる相手が必要だろう。このコミュニティはそういう内なる欲求を解消するツールでもあるのだろう。

「オレたちはここでのやり取りで〈ローズバッド〉について調べた。よく出入りしてると、売人が声をかけてくることもある。その売人に焼きを入れたり……。まあこの話はどうでもいい。とにかく利用者の振りをして売人に近づくのが〈ローズバッド〉を調べる近道だろう」

 足のつかない安いスマートフォンを渡されると、話は終わりだとばかりに一方的に外につまみ出される。外は既に暗く、壮はスマートフォンをいじって歩いている。先を歩く彼の前に千宗は回り込んで歩を止めさせた。

「何?」

「僕にそれを貸してほしいって言ったら、どうします?」

 自分の言った言葉に、自分でも驚いた。

 だが、自分がそのスマートフォンの中で繰り広げられている非日常に興味を持ってしまったことはもう隠せない。

「貸すよ」

 壮はほいっとスマートフォンを千宗に寄越す。あまりにもあっさりとした対応に少し驚く。

「いいんですか。失敗するかもしれませんよ」

「お前は失敗しないよ。こういうの得意だろう?」

 壮はにやりと笑う。

この人は僕のことをどこまで見えているんだろう。

 怖くはなかった。ただ、温い水を飲み込むような不思議な感覚がした。

「はい」

 得意だ。

 人を騙したりすることは。


 ***


「自分は大学生として、社会人の彼女がいるとするじゃん。誕生日に何を贈ればいいと思う?」

「は?」

「どうしたの千宗くん……」

 翌日の昼休み。一年五組の教室で千宗は机をくっつけて友人の男女数名と共に母手作りの弁当を食べていた。

「ネットの友達に相談されたんだよ。でもそんなこと聞かれてもって思って……」

「犀賀ってそういうのもやるんだ」

「SNSのアカウント教えたよね?」

「見た見た。〈卒業しました。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします(笑顔マーク)〉の次の投稿が〈入学しました。無事に合格できたのも、支えてくださった皆さんのおかげです(笑顔マーク)〉って。いかにも千宗くんって感じ」と女子生徒が言う。

「え? どのへんが?」

 自分らしさというのは自分ではよく分からないものだ。

「ふわふわしてて優等生なところ」

 ふわふわ……? 僕ってふわついてるか? ぼおとして見えるのだろうか。

「女々しいよな」

 ふわふわは男子勢には不評のようだ。

「いいの! 犀賀くんのふわふわは私たちが守る!」

 女子vs男子の構図でゆるい言い合いがはじまる。その間も千宗は、ぴかぴか光るスマートフォンの通知ランプに目がいった。

 ネットの友達というのは嘘ではない。MDMAから他の薬物にはまって、抜け出せなくなっている人たちのたまり場。こんな昼間の教室にいると、光りの中からぽっかりあいた暗い大きな穴を見ているようだ。

 千宗のハンドルネームはレガート。愛犬から取った。会話の隙を見て、返信をする。

〈ごめんなさい。僕じゃ何も思いつきません。〉

〈気にしないで。考えてくれてありがとう!〉

 彼女のプレゼントに悩む、普通の人なのに。この人は暗い穴の中にいる。


 ***


 放課後、壮は屋上へ続く階段に鞘林を呼び出した。ここなら人目につくこともないだろう。

「で、その子の名前は?」

「小路茉莉花って言います。富岡大の一年生です。部活の先輩で、今でも仲良くしてるんですけど」

 富岡大は岐阜にある国立大学だ。

「なるほど。とりあえず経過だけ話すと、俺たちは〈ローズバッド〉の出どころごと潰そうと思ってる。その方法も今、模索中だ」

「え?」

 驚いたように鞘林がこちらを見る。壮は笑った。

「〈DIVA〉って危ない連中も動いているし、どのみち〈ローズバッド〉は長くない。その子もドラッグそのものがなくなれば手出しできなくなるだろ。まあ、〈ローズバッド〉以外に手を出すってのなら、あんたが止めてやるしかないけど」

「……そうですね」

 重苦しそうに鞘林が返事をする。

「その子の顔写真とか持ってない?」

「プリクラでもよければ」

「いいよ」

 小路茉莉花はショートカットでメイクが派手な目立つタイプの女子だった。

「ありがとう。急に呼び出して悪かった。じゃあな」

 壮が立ち去ろうとすると、背後に向かって鞘林が声をかけてきた。

「あの、鵜飼先輩。私のお願い、適えてくれますか?」

「…………」

『〈ローズバッド〉を調べてください』それが鞘林の願いだったはずだ。思えば、『友人を助けてください』とだけ書いてライブハウスの場所を書くだけでもよかったはずだ。けれど、そうはしなかった。

鞘林の本当の願いは何だ? 彼女は何を思って投書したんだ?

壮が考え込み始める前に、鞘林は駆けだしていた。去っていく背中に向かって、何を問いかければいいのか、壮はわからなかった。ただ──。

 この依頼には何かある。それは間違いなさそうだ。


 ***


 千宗は一週間ほどコミュニティに出入りし、ミヨシという男性と特に親しくなった。年齢が近く、住んでいる場所も日頃の呟きからして恐らくそう遠い場所ではないだろう。大学生で日頃、課題とアルバイトに追われ忙しない日々を送っているという。

 壮からは焦らなくてもいいと言われているが、そろそろ何か進展がほしい。そう考えた千宗は、こう呟いてみた。

〈〈ローズバッド〉が余っていて譲ってくださる方、いませんか? 代金は倍お支払いします。〉

 誰か売人が吊れるだろうか? この一週間、MDMAにはまっている人間を演じたつもりだが、自信はない。

 昼頃に、反応があった。ミヨシからだ。

〈余り、あるよ。譲ろうか?〉

〈お願いします。でも実家暮らしなので、郵送はできません。お会いして渡してほしいのですが可能ですか?〉

 会うというのはやはり大きなリスクだろう。こちらが警察や厚生労働省の麻薬取締官の可能性もある。けれど一週間のチャットのやり取りが実を結んだのか、ミヨシは快諾してくれた。

〈それなら今、名駅にいるんだ。これる?〉

 名古屋駅に十四時に約束を取りつけ、千宗は息をつく。一体何をしているんだろうか冷静な自分が肩をすくめる。けれどもう一人の自分は、掌を湿らせ興奮していた。

 待ち合わせ場所のドトールに現れたのは、髪を染めておらず、服装も機能としか見ていない大学生だった。つまり少し野暮ったい。よく言えば、人好きのするタイプというか、よくおばあちゃんに道を聞かれたりしそうな外見だ。

「レガートくん?」

 灰色のサマーセーターを目印に千宗を見つけたミヨシが声をかけてくる。

「はい。初めまして」

「はい、これ」

 紙袋にクッキー缶のようなものが入っている。この中に〈ローズバッド〉が入っているのだろう。麻薬取締法違反・所持だな。あとでトイレにでも流して袋ごと置いて行ってしまおう。

「ミヨシさん。よかったら少し話しませんか?」

 ミヨシは利用者に紛れた、売人なのだろうか。はじめは無料でクスリを与え、後々に金を巻き上げるという手法を売人は使うこともあると聞く。

「いいよ」

 そのままドトールに入り、千宗はアイスコーヒーをミヨシはカフェラテを頼んだ。それからは自分の身の周りのことを話した。

「へえ、富岡大ですか。国立ですね」

「いやいや、普通に朝日南の方がすごいよ。名門じゃん」

「入ったものの、実力不足で毎日授業についていくのがやっとですよ」

「そう? 犀賀くん、優等生って感じがするよ」

「優等生がこんなことしますかね」

 ミヨシは苦笑いした。

「それは確かに」

「勉強してると、つい欲しくなっちゃうんです」

「分かるよ……。嫌気がさすと、いつの間にか手にしてる」

 話すほどにミヨシが良い意味で平凡な人間だと分かる。なぜ薬物に手を出したのだろう。しかしそれを聞くにはまだ距離がある。そもそもミヨシが薬物に手を出した理由などはどうでもいい。〈ローズバッド〉についての情報を引き出すことが肝要だ。

 そのときだった。目の前に座っていたミヨシの身体がゆっくりと床に向かって傾いていく。どさりとそのまま受け身も取らず床に倒れる。

「ミヨシさん!?」

「お客様、どうされましたか!?」

 慌てて駆け寄る。呼びかけても唸るだけで、まともな応答がない。千宗はすぐに近くのウェイターに目配せをした。

「救急車を!」

 そのとき、ミヨシが何事かを小さく呟いた。千宗は耳を近づけて何とかその言葉を聞き取ろうとする。

「〈ローズバッド〉は終わりだ……」

 その表情はなぜか安堵したかのように微笑んでいた。

「……どういう意味ですか?」

 しかしミヨシがそれに応えることはなかった。

 ものの五分もしないうちに救急隊員がカフェにやってきて、ミヨシは担架に乗せられ救急車の中に入れられる。千宗もそれに同乗した。

 しばらく処置を施すが、ミヨシの顔色はどんどんと青白くなっていき額に汗をかき始めている。

 さっきまで平然としてたのに……。何が起きたんだ?

 後輩と思わしき隊員が妙齢の隊員に言う。

「毒物反応があります」

 年上の隊員がこちらをきっと睨んだ。

「ねえ、君。正直に答えて。この人、ドラッグやってる?」

「たぶんMDMAを」

 命に関わることだ。ここで嘘はつけない。

「分かった」

 隊員はそれだけ言うと、再び意識をミヨシに戻し、処置を再開する。

 病院に到着し、千宗はドラマでよく見るような廊下のベンチに待たされることになった。しばらくすると医師が来て、ミヨシが一命を取り留めたことを教えてくれた。だが残念ながら深い昏睡状態にあり、いつ目覚めるかは分からないとのことだった。家族の連絡先などを聞かれたがネットの知り合いだというと、それ以上は質問されなかった。だが帰らずにしばらくベンチで待っていて欲しいと言われたのでそれに従った。

「ミヨシくんのネット友達ってのは君?」

 スーツを着た四十歳くらいの男性が、千宗の目の前に立った。険しい目つきに背筋に針金が通ったようなピンとした立ち姿。服越しにも分かる筋肉質な身体。無愛想な警察官だと思った。

「はい。犀賀です」

「生活安全課の宇治崎だ」

 生活安全課と言えば連想されるのは少年犯罪の類いだ。まさか自分に疑いがかけられているんじゃないだろうなと千宗は身構える。

 宇治崎は一人分空けて、千宗の隣りに腰かけた。

「はじめに言っておくが、俺は君も薬物をやってるんじゃないかと疑っているわけではない。さっき病院の医師から薬物検査の結果はクリーンだったと聞いてるしな。ただ、どうして君が三好くんはMDMAをやっているって知っていたのか気にかかる」

「前にドラッグをやってると言っていたからです。冗談だと思ってましたけど……」

 慎重に嘘をつけ。相手はプロだ。

 宇治崎は缶コーヒーのプルトップを開けて、ちみちみと飲む。

「彼が飲んだのは、MDMAじゃなく致死性の高い毒物だった。ドラッグじゃない」

「じゃあ、薬物乱用で倒れたわけじゃなかったんですか?」

「遅効性の毒を飲んで自殺しようとしたのかもしれないな。何か聞いてないのか?」

「いいえ。僕には何も……。付き合いも浅いですし」

 毒だって? しかも自殺?

 おかしい。そんな素振り微塵も見せなかったじゃないか。突発的に死にたくなって、用意してあった毒を飲むならまだ理解できる。だが、なぜそこでたまたまクスリを欲しがっていた僕の相手をしたんだ? 無視して自宅にいれば救急車に運ばれることもなく無事に死ぬことができたのに。

 これは自殺じゃない。それに意識を失う前、ミヨシの呟いた『〈ローズバッド〉は終わりだよ』の意味が分からない。

 宇治崎も同じく自殺説に懐疑的なのか、納得のいっていない様子だった。

「……そうか」

「あの、こんなときに聞くことじゃないとは思うんですけど、親に連絡とかしますか?」

 よく聞く台詞なのか、宇治崎は鼻で笑った。

「困るのか?」

「ネットで知り合った人とは会うなって言われてるんです……」

「分かったよ。だが生徒手帳を見せろ。今日はそれで勘弁してやろう」

 言われたとおりに犀賀は手帳を渡した。

「へえ、朝日南か。なら一つ忠告しておいてやろう」

「なんでしょう」

「天文部には近づくなよ」

 呆れたような、困ったような顔でそう言うと、宇治崎は立ち上がってミヨシのいる病室に入っていく。

 天文部に体験入部していますとは言わないでおいた。


 *** 


 月曜日の第一理科室に千宗はいた。今日も今日とて忠犬ハチ公の如く壮を待つ。

 相変わらず薬物中毒者たちのチャットは盛り上がっているが、鏡の言うとおり〈ローズバッド〉は下火だった。粗悪品との噂も出回り始めているらしい。最近ではあまり話題にすら出ない。これも〈DIVA〉の涙ぐましい血みどろの努力の結果なのだろうか。

「出かけるぞ」

 廊下側の窓から壮がひょっこりと顔を出す。

「どこに行くんですか?」

「ライブハウス」

 栄のライブハウス・サンデーは今日も盛況だった。歌っているのはメタルではないので、少し音量が抑えられている。壮は周りをきょろきょろと見回し、彼女を見つけた。

「鵜飼先輩?」

 鞘林倫子がこちらに駆け寄ってくる。

「どうしたんですか?」

「満足か?」

 鵜飼は笑っていなかった。怒ってもいなかったし、冷たくもなかった。ただ、つまらなそうだった。こういうときのこの人は普段の倍、綺麗に見えた。非人間的というか、死んだ生物を天国行きか地獄行きを定める審判者のようだ。

「え?」

 鞘林は問い返す。

「あんたなんだろ、〈ローズバッド〉の売人は」

「…………」

 鞘林の顔色がさっと変わった。話についていけない千宗は壮を見た。

「どういうことですか?」

「まずは〈ローズバッド〉の現状について話そう。この人気のMDMAはその経済効果から〈DIVA〉だけじゃない、やくざにも目をつけられてる。もっといえば〈ローズバッド〉の売り手は命を狙われているような状況だと言ってもいい」

「……それに私とどう関係が?」

 壮はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。そこには白衣を着て何かの科学実験に取り組んでいるミヨシの姿があった。

「ミヨシさん!?」

「知り合いか?」

「チャットで知り合った人です」

「ふーん。こいつの本名は三好孝寿。あんたのパートナーで〈ローズバッド〉の製作者、だよな?」

 鞘林は奥歯を噛みしめたまま、何も答えない。

「ミヨシさんが製作者?」

「ああ。三好孝寿の専門は化学だ。命の危険は伴うが、知識さえあれば薬物を構成する素材自体は案外簡単に手に入るものなんだぜ。たとえば有名なメタンフェタミン。スピードとかメスってやつだな。戦時中だとヒロポンとかか」

 震える唇を動かし、鞘林は言葉を発した。

「そんな人知りません……」

 その言葉を無視し、壮は続けた。

「俺は小路茉莉花を見つけるために富岡大に向かった。そのとき偶然、あんたを見かけた。三日前、あんたは、富岡大に行って三好孝寿に会ってたよな。はじめは恋人同士なんだと思った。事実そうなんだろう。あんたたちは喧嘩をしていた。大きな声だったから遠くからでもよく聞こえたぜ。『もうやめよう』ってあんたは叫んでた」

「……」

 決定的証拠を突きつけられ鞘林は再び貝殻に閉じこもる。

「どっちが言い出したのかは知らないが、三好が〈ローズバッド〉を作り、あんたがそれを捌くという共犯関係にあった。だが〈ローズバッド〉があまりにも売れたせいで〈DIVA〉とやくざに目をつけられ、あんたは彼らからの報復を恐れた。ここまではいい。大人しく、売り捌くのをやめればいいんだからな。少なくとも〈DIVA〉はそれで動かなくなるだろう。けど本物のやくざはそんな甘くない」

 鞘林は立っているのも危うそうなほど、青白い顔をして小刻みに指先が震えていた。それでも壮は喋るのをやめない。

「あんたは、やくざに自分を見逃してもらうかわりに三好を殺すように脅迫されたんじゃないのか?」

 遅効性の毒なんてものは簡単に手に入る代物じゃない。けれど裏世界の人間なら話は別だ。やくざから毒を渡された鞘林は、自らの命を守るために薔薇色の悪魔を産み落とした三好貴寿を殺害することにした。

 それならば三好が不自然な時間帯にカフェにやってきたことも説明がつく。彼は死ぬつもりなどなく、本当の善意から名古屋駅に駆けつけてくれたのだ。

 鞘林はようやく重たい口を開けた。

「……私なんです。私が言い出した。軽い気持ちでMDMAを作って稼いでみようってもちかけたんです。もちろん孝寿は反対しました。でも私はお金に目がくらんで、彼を説き伏せて作らせたんです。〈ローズバッド〉は可愛らしい見た目もあってよく売れましたた。でもなんていうか、際限がなくなっちゃって。孝寿も見つからないように〈ローズバッド〉を作らないといけないから、神経すり減らしちゃって、私も〈DIVA〉とやくざが怖くて、なんか、どんどん深みにはまっていったんです。なんていうか、私たちはもう恋人同士と言うか、ただのビジネスパートナーでした。いや、もっと、なんていうのかな……。地獄に、一緒にいる、みたいな。全部、私の、せい、なんですけどね」

 しゃくりをあげて鞘林は泣き出す。人を殺そうとしたことへの恐怖か、自分への憐れみか、それとも三好への謝罪の涙なのか、千宗には判断がつかなかった。

「あの」千宗は声を上げた。「ミヨシさんは、たぶん鞘林さんが毒を仕込んだこと気づいていたと思いますよ」

 驚いたように鞘林が眼を丸くする。

「どう、いうこと?」

「ミヨシさん、毒で倒れたとき安心したみたいに笑ってました。自分が死ねば鞘林さんが助かることを分かっていたんじゃないでしょうか」

 やくざの目的は薬物精製が行える三好を潰すことだ。鞘林を殺しても遺体処理の手間が増えるだけだろう。だから三好は自分さえいなくなれば鞘林は助かるとふんだ。

 瞬間、へなへなと鞘林はその場にしゃがみこみ、苦い笑みを零した。

「わざと、かあ……。参っちゃうな。こっちは本気で殺す気だったのに」

 鞘林はとても小さく見えた。彼女が小柄だからだとか、しゃがんでいるからだとかではなく。人を殺そうとしていたはずの人間が、なぜかとてもちっぽけに見えた。

「午前中に会ったとき、コーヒーに毒を入れたの。でも怖くて貰った量の半分しか入れられなかった」

「だから三好さんは助かったんですね」

「孝寿を助けたかったわけじゃない。私が、殺す覚悟がなかっただけ」

 それは小さな差異に思えたが、彼女にとっては大きな違いなのだろう。彼に情が湧いたのか、自分に情が湧いたのか。そんなこと一生分からない。

「なんにせよ、依頼は嘘ってことでいいな」

「……はい」

「なら、オレらは帰るよ」

 そういって壮は踵を返しライブハウスから出て行く。千宗もその後に続いた。辺りはすっかり暗くなっていた。

「警察、行かなくていいんですか?」

 遠慮がちに千宗が訊ねる。

「行ったところで何もできねえよ。鞘林が毒を仕込んだ証拠も、ミヨシが薬物を精製していた証拠もない。写真はあるが、あんなのどうとでも言い訳できる。第一、オレの仕事は〈ローズバッド〉について調べて潰すこと。目的はクリアした」

 確かに、リクエストには見事答えた。だが、喉に異物が詰まったような嫌な感じがするのも事実だろう。

「ミヨシさん、目覚めるといいですね」

「そうだな」

 そのとき、鏡を通じて宮桜から連絡があった。ウェブ上から〈ローズバッド〉が消えたということだった。これで無事に宮桜との約束も果たしたことになる。しかし〈ローズバッド〉が消えたところで、また第二、第三の薬物は現れる。より効果があり、快楽を得られて、危険なクスリが市場に出回る。

「つまんねえよな」

 満月を見上げながら、壮が言う。白い月の光に照らされた横顔には何の感情も浮かんでいない。

──壮先輩が言いたいのは『つまらない』じゃないでしょう?

 『やるせない』ですよ。

「そうですね」

 壮先輩は無表情だ。壮先輩は振り返らない。けれど壮先輩は優しい。


 ***


 二日後、千宗は三好の入院している病院に見舞いに来ていた。両親や友人が居るかと思ったが、幸い誰もいなかった。病室の扉を開けると、本を読んでいる三好がこちらを向いた。

「レガートくん……?」

 ハンドルネームで呼ばれるというのは面はゆいものである。

「こんにちは。お見舞いに来ました」

 申し訳程度のガーベラの花束を渡すと、三好は礼を言った。

「救急車にまで乗ってくれて、迷惑をかけたね」

「いえ、気にしないでください」

 二人の間に沈黙がおりる。切り出したのは千宗だった。

「薬物反応、出なかったそうですね」

「うん。実は僕、ドラッグやってないから」

 あははと開き直ったように三好が笑う。

「作る側なんですよね」

 驚いた三好が言葉もなく千宗を見つめた。

「どうしてそれを……?」

「鞘林さんと知り合いなんです。全部聞きました。コーヒーに入れられた毒をわざと飲んだってことも分かっています。ミヨシさんがコミュニティに参加していたのは、市場調査のつもりだったんでしょう。そこで偶然、僕と知り合いになった。わざわざ会ってくれたのは、たぶん僕に薬物をやめるよう諭すつもりだったんでしょう。まあ、毒の周りが思ったよりも早く救急車で運ばれることになったわけですが」

 三好は苦い笑いを浮かべる。

「君の言うとおりだよ。いつ死ぬか分からなかったから、仲良くしてくれたレガートくんには薬物をやめてほしくてさ。でも嘘をついてごめん」

「いえ、僕もMDMAなんてやってませんから」

「え?」

「訳あって〈ローズバッド〉を調べるためにあのコミュニティに入り込んでいたんです。売人を見つけようと思って」

「大した度胸だね……。そこで君は売人だけじゃなくて、その精製元も見つけたわけだ」

「突き止めたのは正確には僕の先輩なんですけどね。でも物的証拠までは手に入れられませんでした。ミヨシさんが薬物を作っていたことも、鞘林さんがそれを売りさばいていたことも、僕らは証明できない。たぶん警察もできないでしょう」

「……だろうね。証拠は完璧に消したから」

 自白、という手段もあるがわざわざ穏やかな日常を棒に振ることはない。

「鞘林さんは、お見舞いに来られたんですか?」

「いいや、もう連絡をとってない。たぶん、これからも会わない」

 その方がお互いのためだ、と小さな声で三好が呟く。

「僕はどうやって自分の罪を償えばいいんだろうね……」

 それはこちらに訊ねているというよりは、自問自答のようだった。

「その件ですが、少し見ていてください」

 千宗は紙袋からクッキー缶を取り出した。中身は三好が渡してくれた〈ローズバッド〉が入っている。千宗はその一粒を指で挟むと、飲み込んだ。

「ちょっと、何を!?」

 驚く三好に構わず、千宗は平然としている。

「残念ですが、これは失敗作なんです。同じ製法なら、〈ローズバッド〉全てが失敗作です」

 三好は呆然としていた。千宗は続ける。

「知り合いの警察官の方に、調べてもらいましたがこのMDMAは日本の法律にはひっかかりません。脱法ドラッグというわけでもなく、ただ弱いんです。飲んだ人がハイになれたのはプラシーボ効果か、一緒に摂取した他のドラッグが原因でしょう」

 知り合いの警察官とは宇治崎のことだ。千宗がカフェに置き忘れた紙袋に奇妙な錠剤が入っていたと嘘をついて調べてもらった。

「そんな馬鹿な……」

「馬鹿げてますよね。でも事実です」

「じゃあ僕が作っていたのは、ただの錠剤?」

「今頃、裏社会の人たちもその正体に気づき始めているはずです。〈ローズバッド〉もネット上から消えましたし、命を狙われる心配もないでしょう」

 三好は信じられないという表情で自分の握り拳を見つめていた。千宗は次の言葉を迷っていた。

 実はまだ謎はある。

 なぜ鞘林がリクエストボックスに〈ローズバッド〉を調べてくれと投函したのかという謎だ。

 これは楽観的推測だが、鞘林は自分をとめて欲しかったのではないだろうか。三好を殺したくはないが、自分も死にたくはない。やくざに脅され、頼れるのはあの小さな箱だけだった。もしかしたら、とても幸運なことが起きて、誰かが助けてくれるかもしれない。三好を殺さずに、済むかもしれない。そんな一縷の望みをかけて。

 けれどもうお互いに会わないと決めたのなら、このことは伏せておくべきなのかもしれない。

「それでも僕はドラッグへの入り口を作ってしまった。司法で裁かれることはなくとも、許されることじゃないよ」

「……そうですね」

 同情の言葉はかけなかったし、必要としているとも思えなかった。

 三好は静かに悔恨の涙を流し、一人にしてほしいと言った。千宗は病室を後にした。もう二度とこの人生で三好と関わることはないだろうと思うと、薄情だがほっとしたような気持ちがした。

 だって、かける言葉がみつからなかったから。

 裁かれない人を裁けるほど、千宗は強くもなかった。それとも壮ならば、何事かを囁き、彼の重荷を軽くしてやることができたのだろうか。けれどそれを考えたところで、結局、千宗にできることなど何もなかった。


 ***


 体験入部最終日、千宗は無人の第一理科室に座っていた。

 風の噂で鞘林が県外の別の高校に編入したと聞いた。それに関して様々な噂が飛び交っている。援助交際だとか、親が脱税で逮捕されただとか、色々だ。

 しばらく静かな理科室で課題をこなしていると、壮がやってきた。寝不足なのか欠伸をしながら、妙なことを訊ねてきた。

「千宗、ダストシュートって知ってるか?」

「海外映画なんかで見たことあります」

 ダストシュートとは高層のホテルやマンションなどに設置されているゴミ捨て装置のことだ。上から下へチューブでゴミ捨て場に繋がっている。

「リクエストボックスは、それなんだよ。青春のゴミ箱だ」

「そんなキャッチコピーの広告、ありましたね」

「ん? 聞こえなかった。何て言った?」

「いえ、なんでもないです。あと、これ」

 鞄の中から用紙を取り出す。入部届。鵜飼は『ふーん』と言いながら無表情でそれを受け取った。

「初めて会ったときから言おうと思ってたんだけど、お前、嫌なやつってよく言われないか?」

 茶化している風ではなかった。馬鹿にしている風でもないが、ただ純粋にそう思っているようだった。

「優等生ってよく言われますよ」

 あのボックスがゴミ捨て場なら、この教室はダストシュートだ。様々なゴミがきらきらとした光りの上から暗い穴底へと落ちていく。けれどなぜかこの教室にいるととても落ち着く。

 壮は綺麗な歯を見せて大笑いした。千宗も少し微笑んだ。

 全くもって壮先輩の言う通りだ。

 僕は他人の暗部を見て、後ろ暗い喜びを得る嫌なやつだ。

リクエストボックスに興味を持ったのも、MDMAが関わっていると知ってもなお課外活動に付き合ったのは好奇心が故だ。鞘林が転校したことも、三好と縁を切ったことも、少しも後悔はない。自分は、薄情な悪人だ。

〈青春はゴミ箱へ〉

 僕は見てみたいのだ。

 世間が至極大切にする輝かしい青春とやらの、後ろ暗く耐え難く物悲しく汚れた部分を。

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