花が香るは十七までか

濱野乱

私は勝負師だ


午後八時を過ぎると、客足は遠のく。あけび書房は駅前ビルにある書店とあって立地には恵まれていたが、賃貸料などの諸々の経費を賄えるほど、売り上げは芳しくない。


つまり、他の書店と似たり寄ったりということになる。ネット通販の隆盛、さらに活字離れが叫ばれる今、苦戦を強いられているのはこの店だけではない。


かといって何か手を打っているかといえば、そんなこともなく、唯一の女性店員は、カウンターで大判の本を開いている。化粧っ気のない顔に眼鏡を載せ、髪は耳の上で揃えていた。ネームプレートには真泉とある。


一心不乱に読みふけっていたのは、将棋図巧という本だ。江戸時代に書かれた将棋の問題集のようなものである。


コツンという革靴の音が、それほど広くないフロアに響く。


背の高いスーツ姿の男性がカウンターの前に立った。白髪混じりで還暦を過ぎていると思われるが、背筋はぴんと伸び、眼光は鋭い。彼は無言で商品をカウンターの上に置いた。


真泉は、受け取った商品からスリップを抜く。後でどの本が売れたのか確認するのに使うのだ。レジが古くてPOSシステムがないので、地味に大事だったりする。スリップには、寝て覚える矢倉の本と銘記されている。これも将棋の本だ。


「この本は古いので、お勧めいたしかねます。お客様」


真泉はきっぱりと言い切り、寝て覚える矢倉の七十九ページを開いた。盤面を図にした箇所を指さす。


「ほら、ここ。ここは香車を打って、勝負する局面です。玉を逃げてる場合ではありません」


「それはお前の対局感だろ。素人はそこまでわかりやせん。こうすれば一局ってことだ。負けにくい方がいいだろ、うん?」


「実戦に即していない戦術など無意味です。現にこの局面は先日の竜皇戦で先手良しの結論が……」


経験者同士の濃い会話は五分ほど続いた。その間、他の客はやってこなかったので問題はない。


「つまりあれだ。お前は、俺の書いた本が古くて使い物にならないと言いたいわけだ」


年甲斐もなく挑みかかるように笑う男の名は、田原町健吾九段。現役のプロ棋士で、タイトル所持の経験もある実力者だ。そして、寝て覚える矢倉の著者でもある。


「先ほどからそう申しております。当店に在庫はありませんが、『先手でも大丈夫。AIと遊ぶ矢倉の神髄』がお勧めです。ご注文なさいますか?」


「いらん! これだけもらう」


AIソフト時代の突入により、将棋の変化のスピードは著しく早くなった。棋士入魂の研究も、本が出る頃には全く逆の結論が出ている事もザラにある。田原町九段だって、十年前に出した自分の本が古いというのは百も承知だ。本の供養と、孫への自慢のために手を出したに過ぎない。


そして、彼がこの書店に立ち寄った理由はもう一つあった。


香花きょうか


帰り際、田原町九段は、真泉を下の名前で呼んだ。真泉は感情の読めない目で彼を見つめる。


「将棋、続けてるのか」


期待を込めた問いは、あっけなく打ち砕かれる。


「やってません。これは単なる暇つぶしです」


プロ棋士でさえ匙を投げたくなる難問ぞろいの将棋図巧に目を落とし、真泉香花はそっけなく答えた。


あけび書房は九時閉店だが、明日発売の本を平台に載せていたら九時半を過ぎてしまった。レジ閉めを店長に任せ急ぎ店を出る。


電車で二駅の所にあるアパートに帰る。六畳の部屋に明かりを灯す作業は何度やってもぞっとする。追いやられた暗闇はどこに行くのだろう。どこかに潜んでやしないだろうかと想像を巡らせる。


大盛りのカップ焼きそばをコーラで流し込み、時間に目を配る。シャワーを浴びる前に、ツイッターに配信予定を書き込んだ。 


シャワーを浴び終えると、ハンガーに掛かっていた衣装を身につける。薄ピンクのブラウスとミニスカートに着替えると、ナチュラルメイクをしてカラーコンタクトを入れる。あとは、ニーハイソックスに紫色のウイッグを被れば出来上がり。


「はーい、こんばんみー、異詰いづみこぉらですぅ。今日も無謀な挑戦者をギタギタにしちゃうぞー。覚悟はいいか、てめえら!」


普段とは似ても似つかない、舌足らずなアニメ声で真泉は喋りだした。部屋には彼女しかないが、キッチン上に置かれたパソコンのカメラを通して動画が配信されている。


『元奨励会員 異詰こぉらの脱衣将棋実況』


それが彼女の配信する動画のタイトルだ。奨励会とは、将棋プロ棋士の養成機関であり、真泉はそこでプロ一歩手前まで上り詰めた猛者だった。


動画では異詰こぉらと、視聴者が将棋で対戦し、こぉらが負ければ一枚ずつ服を脱ぐという趣向である。しかし、真泉がそこいらのアマチュアと戦えば瞬殺だ。それでは動画再生数は伸びない。序盤はわざと手を抜き、焦らす。


「あー……、ここに歩を打ちますかあ。からいですな。どうしよぉ、プロっぽいよこの人」


不利を装い、その実、決定打は与えない。第二ボタンを外した胸をチラ見せしたり、足を組み替えて視聴者の劣情を煽るのも忘れない。終盤になると詰め将棋で鍛えた寄せが爆発。追い越し車線を走るように悠々と、異詰こぉらは勝ち名乗りを上げた。


「ふあー、危ない危ない。運が良かったあ。ここで一服」


一勝するたび、コーラをがぶ飲みするというパフォーマンスを行う。特に意味はない。炭酸が好きなだけだ。


男の習性を利用したこのビジネスを初めて一年になるが、靴下一枚渡した事がない。


これは、真泉香花の復讐だ。


奨励会に在籍していた当時、真泉は十七歳だった。早熟の天才が多いこの世界ではそれほど若いとは言えない。勝負師として生きると決めていた真泉にも焦りがあった。


奨励会を辞めたあの年、真泉は残り二戦を残し、一敗を保っていた。プロになれるのは、年一回、リーグ戦を勝ち抜いた二名だけだ。真泉の成績は昇段圏内に入っていた。


調子は良かった。透明な海の中を覗くように手が見える。調子を崩さなければいける。そう確信した矢先、あの事件が起こった。


将棋会館で、真泉は兄弟子と局後の検討をしていた。休憩がてらトイレに立った際、通路での立ち話が偶然耳に入った。


「真泉の奴、良い体してるよな」


聞く気もないのに、体は動かない。逃げろと脳は叫ぶが、足は前にも後ろにも倒れなかった。


「屈んだ時に、胸が見えそうになるんだよ。たまんねえ」


「お前それ誘ってんじゃねえの」


「それな。あれじゃ集中できねえよ。実力以外の所で力発揮するとか女ってズルいよな」


ほうほうの体で真泉は女子トイレに駆け込み、吐いた。相手はつい先ほど負かした相手だった。相手にとっては、単なる負け惜しみ程度の意味しかなかったのかもしれない。それでも真泉には耐えがたい屈辱だった。


自分は勝負師として扱われていなかった。一体何のために戦ってきたのか、急にわからなくなる。


それから外に出ようとすると胃が締め付けられるように痛くなり、学校にも会館にも行けなくなった。


将棋を辞めたいと、師である田原町九段に相談した。小学生の頃からの付き合いだ。話を切り出す前から彼はとても悲しそうな顔をしていた。


「お前は誰より将棋が好きだと思っていた。気は変わらないのか」


理由を話さない真泉を、師は詮索することなく送り出した。女性が棋士を志す人数は、男性棋士に比べてはるかに少ない。その苦労を察していたのかもしれない。


将棋を辞め、高校も中退した真泉は、一年ほどのひきこもり生活の後、この配信を始めた。


将棋の誇りと自分の女性性を傷つけることでしか、今の真泉には己を確認する術がない。汚らわしい男たちを将棋で叩き伏せるこの瞬間だけは、生きていると実感できる。


「さあ、今日は調子がいいからもう一戦いこうかな」


休憩の後、愚か者共と向き合う。異詰こぉらは居飛車党で、相手の得意戦法を真っ向から受けて立つ棋風で知られている。それは自信の表れだったが、二戦目もまた、相手の土俵に乗った形で中盤を迎えた。


「ん……」


真泉の口から意図せず声が漏れる。服に枝がひっかかったような違和感。相手から予期せぬ手が出た。基本的に相手に駒を取らせる手は悪手とされてきた。最近ではそうとも限らないが、飛車をタダで取らせるのは大きなマイナスである。相手のポカにしか思えないが、慎重に取って出方を伺う。


果たして相手は数十手先に、毒を仕込んでいた。単純な進行が難解な局面に一変した。どちらが勝っているのか判然としない。こぉらの分が悪いのではないかというコメントが画面にあふれる。ソフトの評価値を調べた視聴者もいるのだろう。余計なお世話だが、真泉もそんな気がしてきた。


「わっかんなーい! でも楽しくなってきたね☆」


配信が終わると、真泉は疲労で椅子から転げ落ちた。今日は辛くも勝利したが、相手はソフトを使用していた疑いがある。稚拙な序盤に比べて、終盤が強すぎる。画面越しではカンニングは確認できないが、後でソフトを使って調べたら一致する指し手が頻出した。プロ以上の力を持つソフトはネットに無料で公開されており、悪意があれば誰にでも可能だ。


「勝負師なんてもう古いんですよ……」


真泉は、ボロボロになった将棋図巧を顔に被ってふて寝した。


「ボロボロだな」


明くる日も、田原町九段は、あけび書房に現れた。まだ午前中の早い時間である。


真泉は自分の持っている本のことを言われているのだと思った。将棋図巧は、かつて田原町九段から贈られたものだ。今でも肌身離さず持っているから、表紙が取れそうになっている。


「目、真っ赤だぞ」


違った。昨夜、コンタクトをしたまま寝たので充血したのを指摘されたのだった。


「寝不足です。先生こそ、棋戦に負けすぎてお暇ですか」


「馬鹿言え。これから王承戦の予選だわい」


大事な戦いの前だというのに、悠長に話し込んでいる。動画配信の事は当然耳に入っているのだろう。異詰こぉらの件を説教しにきたのかと思ったが、その兆候もない。


「先生」


「ん?」


昨日の今日で漠然とした不安を師にぶつける。


「先生は、いつまで勝負師を続けるおつもりですか」


田原町九段は答えず店を出たが、その広い背中は勝負師という生き物を雄弁に物語っているように見えた。


次の配信日も、異詰こぉらは苦戦に陥っていた。研究もしておらず、流行型にも疎い。空いた時間に将棋図巧をめくるだけの真泉は、葬られるべき存在なのかもしれない。


自分はずっと負けたかったのではないか。将棋というものを完全に捨て去り、女として粉々に破壊されて生まれ変わる。それも悪くないのかもしれない。配信は黒歴史だが、まだ若いのだからやり直せる。婚活サイトに登録しよう。そのうち。


真泉は熱中する時の癖で、前のめりになって画面を見つめる。活路はないか。逆転の一手がどこかにあるのではないかと、砂金を探すような思いで首を巡らす。


だが、刻々と削られる制限時間と共に、劣勢の度合いは濃くなっていく。異詰こぉらの玉に、王手がかかる。逃げる。また逃げる。徐々に狭い場所に追いやられる。丸裸にされ、追い回される。まるで真泉の未来だ。動画視聴者は、異詰こぉらの敗北を期待している。たとえ靴下一枚だろうと、不特定多数に肌を見せるのは許せない。だが、それ以上に負けるのは絶対嫌だ。追い込まれた事による反動で、真泉の勝負師としての魂が覚醒した。


「あー……、もう熱い。服邪魔!」


無意識にブラウスを脱ぎ捨て肌着を晒す。同時に、閲覧者数はかつてない記録を達成した。


「……、そうだ。玉を逃げてる場合じゃない」


真泉は、5筋に迷わず香車を打ち込んだ。まっすぐにしか進めない駒だが、遠距離まで届く。この局面も、直射して王手がかかる。相手は玉を逃げるか、別の駒で防ぐ必要がある。いずれにしろ相手の攻めはこれで一手足りなくなると読んだ。


自分の名前に香が入っていても、これまで香車を好きになった事はなかった。愚直に前だけにしか進めない。そんなものは、この世にないと思っていた。仮にまっすぐ進んだ所で叩きつぶされるだけなのだ。出る杭は打たれる。どこにいてもそれは変わらない。それならば、自分の信念を曲げたくないと思ってしまった。


異詰こぉらは、その日を以て動画配信を終了した。


「何だ、止めるのか。楽しそうにしてたのに」


田原町九段は少し残念そうである。


「やっぱり見てらしたんですね。このスケベジジイ」


「……、お前は礼儀とか将棋以外の事も勉強する必要があるようだな、うん」


久しぶりに始まりかけたお説教を、真泉は一言で黙らせる。


「色々生意気言ってすみませんでした、先生。ですが、私は勝負師です。次は盤を挟んでお会いしましょう」


予選で負けた田原町に、真泉はそう告げた。真泉の憑き物の落ちた顔に安心したのか、田原町はその日を境に、けやき書房に現れなくなった。


真泉は、プロの編入試験を受けるつもりで本格的な勉強を始めた。困難な道のりだが、止まっていた十七の蕾を咲かせるために、香車のように愚直に前へ進むのだ。

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