帰るべき安らぎの場所にて
特訓からの帰り道。顔を上げてみれば、オレンジ一色に染まった夕焼け空。
今の疲労困憊な僕の目には、その鮮やかさはあまりに眩し過ぎて疲れる。だから自然と家路への足取りも早くなった。
瓦屋根の一軒家が連なった閑静な住宅街。その一角に佇む
ただいま――その言葉を使わなくなったのは、いつからだっただろう。
両親が共働きの我が家に声を投げたところで……って、あれ? 靴がある?
「あっ、兄さんじゃないですか」
「そんな珍獣が現れたような目で見られても」
キッチンからお団子状に髪を纏めた女の子がひょっこり顔を出す。目を見開く妹――
「てっきり今日も図書室で本の虫になってると思ってたので」
「こっちだって、夜まで友達とパンケーキ屋巡りしてるのかと」
「そんな贅沢できる程、私の懐は温かくありません」
そういえば戻って来てからというもの、学校のある日は必ず放課後は図書室で過ごしていたっけ。しかも最終下校時刻ギリギリまで。
そう考えたら、学校のある日でここまで早く帰ってきたのは久しぶりになるのか。
いずれにせよ、こんな時間に妹と鉢合わせてしまった以上、この後の展開は大体予測出来てしまうワケで――
「ですから兄さん、これも何かの縁ということで……」
「はいはい、わかったから。ほら、手洗ったら、そこに座って待ってて」
「むー、そこまで指図される程、もう子どもじゃないですー」
不満げなジト目で睨みつけながらも、麗夢は素直に手洗いへと向かう。
そして僕は僕で、そのまま台所に向かうなり、冷蔵庫から卵や牛乳やらを取り出した。
あとはグラニュー糖に薄力粉、ベーキングパウダー……よし、材料は揃ってる。
「先に言っとくけど、アドリブは一切受け付けないからな」
「わかってます。兄さんのパンケーキが食べられるなら、それで十分です」
「そんなに好きなら、自分で作ろうとか思わないの?」
「思いませんー。兄さんが作るからいいんですー」
期待を弾ませた声を聞きながら、僕は黙々と生地作りを初めていく。
卵黄に牛乳や薄力粉、ベーキングパウダーを混ぜていく。特訓の疲労からなのか、いつもより混ぜる腕が重く感じる。
「まあ、どうしても兄さんが食べたいって言うなら――」
「丁重にお断りさせていただきます」
「……わかりました。では兄さんが寝ている間に、お腹一杯食べさせてあげますね」
「それは罰ゲームか何かかな?」
卵白とグラニュー糖でメレンゲを作りながら、以前食べた妹の手料理を思い出す。
味はよく憶えていない。というか、それ以前に記憶自体が曖昧なのだ。
唯一分かっているのは、一口食べて瞳を閉じたらあら不思議、次に瞼を開けた時には時計の短針がぐるりと一周していた、という事実だけである。
「あっちの世界でなら、さぞ立派な武器になってたろうに」
「何か言いましたか?」
「ううん、こっちの独り言」
首を振りながら、出来上がったメレンゲを卵黄の生地に混ぜ込んでいく。
あとはこれをホットプレートで焼くだけ。実にシンプルだけど、妹の満足げな表情を見る限り、これで大丈夫そうだ。
「ホイップとメイプルシロップは――」
「どうぞご自由に、でしょ?」
「それと食べ過ぎにも注意ね。夕ご飯も控えてるんだから」
「はーい。それじゃあ、いただきまーす」
兄の忠告を聞くのもそこそこに、麗夢の両手が嬉しそうに動き出す。
右手に握ったナイフでケーキを切り分けて、左手に握ったフォークでふわふわの欠片を大きく広げた口へと運んでいく。
じっくり味わうのではなく、パクパク食べ進めていく様子は、さながらお腹を空かせた子供みたいだ。
「焼き具合や味も、いつも通りの出来でしょ?」
「ええ、相変わらずの素朴な味です」
「ほんと、変わってないでしょ?」
「だから、安心出来るんです……ホッと、するんです……」
発する口ぶりとは違って、妹の浮かべる表情は実に満足げで。
そんな様子を眺めつつ、手際よく夕食の準備も進めていく。
共働きゆえに、朝から晩まですれ違ってばかりの両親。決まった時間に顔を合わせられるのは、僕と麗夢だけ。
数年前から変わらない兄妹二人きりの姿が、そこには広がっていた。安堵の温もりを伴わせて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます