第9話 サイロス州長官

 その日の夜、ツバキは州長官の執務室の前に緊張した面持ちで突っ立っていた。

 気を失っている間に、カオウがジェラルドの元へ行き、報告を聞いたジェラルドが州長官のライオネルへ連絡、ツバキにも話したいことがあると呼ばれたのだ。

 当然ながら気が乗らない。

 必要なことだけ聞いてさっさと退出すればいいと考える。他に話すことなどないのだから。

 だがイリェーネから言われた一言がどうしても頭を離れなかった。


(期待しても無駄だってわかってるのに)


 ツバキには朧げながらも残っている記憶がある。

 姉のクリスティアが亡くなってひと月経ち、周囲は通常の生活に戻り始めたころ。まだ落ち込んでいたツバキは一人でこっそり泣く日々が続いていた。

 姉の話をすると女官のミランダが鬱陶しがるので、ある日思い立って生前のまま残されていた姉の部屋へ行くと、誰もいないはずのそこに、ライオネルの姿があった。

 ツバキは出直すことも立ち去ることもできなかった。

 彼が小さな肩を震わせ、声を押し殺して泣いていたからだ。

 しばらくして気配を感じたライオネルが振り返り、目が合った。

 最愛の姉とまったく同じ碧眼。

 そのとき、いつもツバキを睨んでいた兄の瞳は、憎しみ以外の感情でツバキを見た。

 ほんの数秒だけ、しかし確かにはっきりと。同腹の姉の死を――ライオネルとツバキだけが分かち合える何かがそこにはあったのだ。

 何度兄に無視されても期待してしまうのは、その眼差しが記憶に残っているからかもしれない。


「扉とにらめっこしててもしょうがないだろ。俺のことは説明してあるみたいだし、俺だけで行ってこようか?」


 隣にいたカオウが手の甲でツバキの手を軽く叩く。

 今回護衛としてついてきているカオウだが、ライオネルにはツバキの授印だと伝わっているらしい。もちろん龍とは言っていないが。


「ううん。私も行くわ」


 ツバキは深呼吸してから扉を開けた。

 州長官の部屋はサイロスらしい開放的なつくりで、漆喰の白壁に鮮やかな花模様の織物が飾られており、仕切りや椅子などの家具は籐素材が多い。ツバキが泊まる部屋と似ているが、違いは広さと引き出しの多い事務用机があるかどうかだ。

 その机にライオネルの姿があった。

 髪はジェラルドと同じ錫色。サイロスに移住してすっかり日焼けした母親似の顔は、有事を前に険しい。

 それでなくとも忙しい時期で仕事は多いのだろうが、彼の性格なのか、書類はきっちりと整頓されていた。

 机上には書類の他に、夫人と二人で並んだ絵も置いてある。夫人はライオネルより二つ年上のサイロス出身者で、まもなく出産予定と聞いている。一応結婚式に出席したので面識はあるものの、まともに話したことはない。


「来たか。座れ」


 と命じたのはジェラルド。

 ライオネルの斜め左、部屋の壁に掛けられた交鏡の中に上半身が映っていた。

 ツバキとカオウはライオネルの対面、ジェラルドと合わせて三角形を作るような位置に座り、顔を交鏡へ向ける。


「カオウから話は聞いた。体調は戻ったのか?」


 ツバキはやや間を置いてから頷いた。まだ少し息苦しく、頭痛が残っているが、気を失う前と比べれば落ち着いている。

 次にジェラルドはカオウとライオネルを交互に見た。


「カオウを紹介しておこう。コイツが事前に話していたセイレティアの授印で、私の小間使いだ」

「はあ!?」


 抗議しようとしたカオウを手で制す。


「黙れ。私の首を勝手に賭ける下郎め。時間がないから本題に入る」


 ギリギリと歯を食いしばるカオウを無視して、ジェラルドはツバキに視線を戻した。


「明日の創世祭の演目は一部中止し、聖火賜与しよは来賓なしで行うことになった」

「火の精霊が言っていた儀式のこと?」

「そうだ。聖火は大昔、対妖魔の武器として使われていたらしい」

「武器? 火の精霊は、妖魔が火を奪いに来るって言っていたけれど」

「点火前の状態を狙うんだ」

「その情報はどこで?」

「サイロスの部族の歴史はバルカタルより長い。言い伝えだが、信頼できる人物からの情報だ」

「つまり、火をつけるまでが勝負ってこと?」

「そういうことだ。詳しくは明日ライオネルに説明してもらえ」

「え……」

「セイレティア、お前も聖火賜与に参加しろ」


 カオウが立ち上がった。


「危険すぎる。ツバキは城で待ってた方がいい」

「結界の綻びがサイロスのどこにあるかは言っていたのか?」

「いいや」

「ならば、綻びは複数あると想定すべきだ。現れた妖魔が聖火だけ狙うとも限らない。もし本島に被害が出れば、お前はセイレティアが心配で集中できなくなるのが目に見えている。そもそもセイレティアが大人しく待っているとも思えん。だったら最初から目の届く所にいた方がいい」


 その通りだった。

 ぐうの音も出ず、カオウは大人しく座りなおす。

 すると次はライオネルが手を挙げた。


「戦えない者を儀式に参加させるつもりはありません」

「セイレティアなら心配ない。自分の身は自分で守れる」

「そうでしょうか。剣もろくに持てそうにない。まさか魔法が使えるとでも? 制御をまともに習っていない者が、上級魔物の魔法を扱えるとは思えません」


 トゲのある言い方だった。

 ツバキは涙が零れそうになり下を向いた。

 カオウが反論しようとしたが、それもジェラルドに止められる。


「カオウと印を結んだことには驚かないのだな」

「皇族ですから、上級なのは当然でしょう」

「制御をまともに習っていない者でもか?」


 ジェラルドが意味ありげに微笑し、ライオネルは気まずそうに目を逸らした。


「しかし……。……いえ、陛下のご意思に従います」

「ではライオネルは先ほど話し合った通り、警備と住民の避難体制を整えてくれ。セイレティアは明日に備えてしっかり休め。お前にしかできないことがあるだろうからな。カオウは……とにかく何が何でも守りきれ。健闘を祈る」


 早口で話すと、ジェラルドは交鏡から消えた。緊急事態のため時間が惜しいようだ。


(私にしかできないことって……アクアヴィテがいるから?)


 参加するよう命じた本当の理由は、精霊の力が必要になると考えたからだろうか。


(ジェラルド兄様は、ライオネル兄様にどこまで話しているのかしら)


 火の精霊を探すためにツバキが来たことは知っているはずだ。滞在中のスケジュールはそのように組まれ、どこへ行ってもいいように許可証を従者からもらっている。

 だがさすがに水の精霊が体内にいるとは知らない気がした。


「護衛は何名だ」


 ふいに声をかけられて動揺する。

 質問の意図がすぐにわからなかった。

 ライオネルの目はツバキではなく書類に向いており、口にはしないが邪魔者扱いされているのが明白だ。


「あの……えっと……」

「お前を守る護衛も来るのだろう」


 はあ、と大きくため息をついたライオネルにビクつく。

 「自分の身を守る」方法は空間に逃げ込むことだと思っていたツバキだが、カオウの能力を知らない人からすれば護衛がつくと考えるのが普通だろう。

 そんなことにも考えが及ばないほど萎縮していると自覚した。

 

「……三名、です」

「あまり多くは入れない場所だというのに」

「すみません」


 しゅんとして謝ると、カオウが舌打ちした。


「ツバキはあんたより強い。何も知らないくせに見くびるな」


 ライオネルがようやく顔を上げた。

 カオウを目を細めて凝視する。


「金色の魔物……」


 ぼそりと呟いて、真顔のままツバキへちらと目だけ動かした。

 何を言われるかのと緊張が増す。


「創世祭が終わったら」


 その後の言葉は「帝都へ帰れ」と続くのだろう。そう怯むが、ライオネルはそこで口を閉じ、再び書類へ目を戻した。

 気まずい沈黙。

 耐えきれなくなったカオウに手を引かれた。


「行こう」


 長居できるような雰囲気ではない。

 ツバキはカオウに促されるまま執務室を出ようと踏み出した。


(でも……)


 歩を止める。

 今まで、ライオネルはツバキのことを無視し続けていた。しかしもしも本当に、イリェーネに妹がいることを話したのなら、彼の中にツバキの存在は残っているはず。

 「帰れ」とすぐに言わないのは、彼もツバキと話したいと思っているからではないか。

 それを確かめるチャンスは、今しかないのではないか。

 ツバキは無いに等しい可能性に懸けた。


「……創世祭が終わったら、い、一緒に食事しませんか」

「…………」


 ぐしゃり、とライオネルは書類を握った。

 もともと殺伐としていた空気がさらに張り詰める。


「……明朝帝都へ帰れ」

「でも、陛下が」

「お前に何ができる!」


 バンッと机を叩く。

 怒らせた、とツバキは血相を変えた。


「も……申し訳……ありません」


 咄嗟に出た声が奮える。

 カオウがツバキを庇うように前に出た。


「なんであんたは昔から……!」

「いいの、カオウ。私が悪いの。もう行こう」


 逃げるように退出し、扉を閉める。

 涙がポロポロ溢れてきた。


「いつも言ってるだろ。あんなやつなんか気にしなくていいって」

「うっ……」


 カオウの胸に顔を押し付け、声を殺して泣く。

 いくつになっても、兄にとってツバキは邪魔者でしかない。わかっていたはずなのに、針に刺されたように心が痛かった。


「ツバキ、熱っぽくないか。早く休んだほうがいい」


 カオウは瞬時にツバキの宿泊部屋へ移動すると、女官のアベリアがすぐさま近寄ってきた。心配していたのだろう。二人の重い雰囲気を感じ取り、侍女へツバキを託してカオウと部屋を出る。


「何があったの?」

「別に。いつも通り期待してダメだっただけ」


 カオウは淡白にそう答えた。

 アベリアは腑に落ちず眉を寄せる。


「いつも通りなら、あそこまで気落ちしないはずよ」

「……変に期待するからだ」


 目を伏せ、床をぼんやりと見る。

 イリェーネからおかしなことを聞いたせいだとしても、それが間違いであることは経験上わかるはずだ。

 なぜ嫌な思いをするとわかっていて何度も歩み寄ろうとするのか理解できない。

 カオウが気にするなと言い続けているのに、なぜ納得できないのか。


「いつ諦めるのかな」

「それは……」


 アベリアはしばし逡巡する。


「……あの方がろくでもない人であれば、きっぱり切り替えられるでしょうけれど」

「は?」

「ライオネル様は、誠実で誰にでも別け隔てなく接する懐の広い方だもの」

「そんなわけ……」


 反論しようとしたところで、廊下から忙しない足音が聞こえてきた。

 サイロスの従者だった。アベリアに火急の相談があると告げる。明日のことだろう。

 アベリアは部屋にいる侍女に連絡すると、従者とともに足早に去っていった。


 カオウはアベリアの背を見つめながら、先程の言葉について考える。

 あの女官は冗談を言う性格ではない。

 ならば、本当にライオネルは誠実で、懐の広い人物なのだ。――ツバキ以外には。

 グッと拳を握りしめる。


「やっぱり、ろくでもないやつじゃないか」


 怒りがふつふつと湧いてきた。

 ツバキにだけつらくあたるライオネルに対してだけでなく、彼をかばう女官にも。

 そして、カオウの言葉より兄を気にするツバキにさえも。

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