第8話 名前を呼んで

『お兄さんはもう、あなたに謝れたのかしら』


 最後に聞こえたイリェーネの言葉は、ツバキに衝撃を与えた。


(謝るって、どういうこと?)


 兄にとってツバキは母親を奪った憎い存在だ。謝ることなどない。


(きっと、そう。誰かと勘違いしてるのよ)


 イリェーネの元には歴代の王や州長官が挨拶に来ると言っていたので、イリェーネの記憶違いの可能性が高い。

 なぜなら、ツバキがサイロスに来て一週間、機会はいくらでもあったはずなのだ。だが彼は一度しか顔を見せなかった。それも儀礼的な挨拶だけ。普通であれば夕食に招待するはずで、多忙だとしても、州長官夫人が代わりを務めて歓迎の意思を示す。それさえもないなら、ツバキは歓迎されていないということだ。

 謝罪など到底、ありえない話。


「ツバキ、大丈夫か? 着いたみたい、だけど」


 カオウに呼ばれてはっとする。

 カオウは昔から、ツバキが兄のことでくよくよしていると励ましてくれた。サイロスに来てからも、いちいち話題にはしないが、そっと気遣ってくれている。


(もう考えるのはやめよう。今はそれどころじゃないから)


 と頭を切り替え、周囲を見渡す。

 見渡して、ぎょっとした。

 ツバキたちがいたのは、カオウやツバキが持つ特殊な空間と同じく、地面も壁もない不思議な場所だった。

 その中を、炎を丸めたような見るからに熱そうな球が飛び交っている。

 それはもう、ビュンビュンと。

 縦横無尽に何十個も。

 本当にそれどころではなかった。

 ツバキに当たりそうな炎球はカオウが叩き落としていた。どうやら魔力を纏えば防御できるようだ。


「カ、カ、カオウ。なんなの、ここ」

「俺に聞かれても」


 それもそうだ、とアクアヴィテへ問いかける。


「”火の精霊のアーサルの中だろうな。ワタシも初めて来たが”」


 精霊王の遺跡のときと同じように、アクアヴィテはツバキの口を使って会話してきた。ツバキは独り言をブツブツ言っていると思われないようカオウに説明してから、アクアヴィテへ質問を続ける。


「アーサルの中ってことは、もしかしてこの炎球のどれかが火の精霊……とか?」

「”いいや、やつはここにはいない”」

「どこにいるかわかる?」

「”閉じこもっているからわからん”」

「どうすれば出てくる?」

「”単純だから怒らせればすぐに出てくる”」


 怒らせたら炎球が一斉にこちらへ飛んできそうだが。


「他に方法は?」

「”ヤツは人間のオンガクが好きだ。ヤツが好む歌を歌うか、ガッキを奏でればいい”」

「歌……」


 イリェーネのように歌えるわけがない。


「どうしよう」

「ちょっと怒らせてみたら?」


 軽く言ってのけるカオウ。


「本気?」

「それしかないんだろ。どうやるかは知らんけど」

「怒らせるのは簡単だと思う……」


 風の精霊が言っていたのだ。

 あの、愉快そうな名を呼べば怒って出てくると。

 すでに炎球が恐ろしいまでに飛び交う中、叫んだ瞬間予想通りのことが起きそうではあるが、待っていても時間の無駄なのでやるしかないだろう。

 ツバキは大きく息を吸い、両手で口を囲って叫んだ。


「ヒッヒー!」


 その瞬間、四方八方自由に飛んでいた炎球はさらに熱そうなマグマのような色へ変化した。

 咄嗟にツバキをかばったカオウの体に激突、激しい爆発が次々と巻き起こり、巨大な炎が荒れ狂う生き物のようにうねる。

 カオウが魔力で防御してくれているが、骨さえ溶けそうな炎の色は恐怖でしかなく、止まない爆発の衝撃音は鼓膜が破れそうなほど痛い。

 しかもというか案の定、耐え続けても一向に火の精霊が現れる気配はなかった。


<カオウ、どうしたらいい!? アクアヴィテに攻撃されたときみたいに、魔力送ればいいの?>

<んー。それでもいいけど……>


 焦るツバキとは対照的に、カオウはこの状況でも落ち着いていた。


<ちょっとこれ着て>


 カオウが自らの空間から取り出したのは、真っ黒な袖なしの外套マントだった。

 もちろんただの外套ではなく、暴力的な炎の中でも消し炭にならない特殊な外套。


<シュンがくれたんだよ。どんな攻撃も防げるんだって>


 カオウは外套でツバキをすっぽり隠し、離れても問題がないことを確認してから、準備運動とばかりに肩を回した。

 またもや空間から何かを取り出す。

 華麗な装飾がついた長剣だった。

 両手で構え、気をためるように集中してから一気に振り下ろす。


「え!!」


 外套の隙間から様子を伺っていたツバキは驚かずにいられなかった。

 目の前の炎が裂けたのだ。

 カオウは続けて右へ薙ぎ左上を払い、自分たちを飲み込もうとする巨大な炎を紙のように切り刻んでいく。

 崩れた炎は再燃できずに消失し、それに比例して辺りが暗くなっていった。

 あっという間に炎だけでなく爆発前の炎球もひとつ残らず斬ったカオウは、空間から光る鉱石を入れた角灯を取り出すと、軽い運動をした後のようにスッキリした顔で戻ってきた。


「その剣って……」

「これもシュンからもらったんだ。魔力を纏わせたらなんでも斬れる剣だって」

「なんでも?」


 ツバキは頭からかぶっていた外套マントを羽織りなおす。

 なんでも斬れる剣となんでも防ぐ外套とはこれいかに、と思ったがそれはそれとして。柄の装飾に目が留まる。


「その紋章って……カタルの……よね」


 ツバキは自分の目がおかしいのかと目をこすってから再度凝視した。

 見間違いではない。

 カオウが使った剣は皇室に代々伝わる、始祖の宝剣だった。

 はっとしたツバキは外套を隅々まで確認、こちらには紋章がなかったので仰々しいほどに安堵のため息を吐く。


「どうしてこんな大切な物を、お兄様がカオウに?」

「くれるって言うからもらった」

「え。本当に、あげるって言ったの? お兄様が? 宝剣を?」

「あー、えーっと。そういえば、剣は貸すだけって言ってたような」


 カオウはすっとぼけたように腕を組んだ。ちなみに彼の空間には骨董品がゴロゴロしている。


「もう、びっくりしたじゃない。それよりお兄様がこれを貸すなんて何か理由があると思うのだけれど」

「火の精霊と戦うことになったら使えって言われただけだよ」

「こうなるって予想してたってこと?」


 ジェラルドの先見の明と宝剣を貸す豪胆さには恐れ入ったが、それならツバキにも話しておいてもらいたかった。相変わらず兄とカオウはツバキを蚊帳の外に置くのだな、とムッとする。


「帰ったらちゃんと返してね」

「えー。かっこいいのに」

「か・え・し・て・ね」

「わかったよ」


 なぜかツバキが怒っているので渋々返事をするカオウ。辺りを見回して、とりあえずもう不要そうだと宝剣を空間へ戻そうとした、そのとき。


”待て”


 重低音の男の声。振り返ると先程より一回り大きな炎球がふよふよと浮いていた。

 カオウが剣を構えると、炎球は人間の――カオウと同じ背丈の男性の形へ変化する。

 火の精霊かとツバキが声をかける前に、それが話し始めた。


”なぜお前がアーギュストの剣を持っている”

「だから、今の皇帝がくれ……貸してくれたんだって」

”お前はゲンオウの息子だろう。龍が人間の真似事とは”

「なかなか楽しいぜ。ストレス発散にちょうどよかった」

”愚かな”


 火の精霊は吐き捨てるように言った。

 そのやりとりを見ていたツバキは違和感を持つ。

 一時的でも霊力があるツバキは精霊の言葉がわかるが、耳に入ってくる音は精霊の言葉だ。直感のように理解できるだけ。

 しかし火の精霊が話しているのはバルカタル語だった。


「どうして火の精霊は私たちの言語が話せるの?」

「”昔は人間と親しかったからな。お前の先祖が精霊を殺したせいで、今はアーサルに閉じこもっているが。おかげで風のヤツから引きこもりのヒッヒーと呼ばれるようになった”」


 アクアヴィテがクククッと嘲笑すると、火の精霊の体から炎がゴオッと噴き出した。


”何か臭いと思ったら、水のやつがいるのか”

「”引きこもりのお前に言われたくないね。ああ、さっきは人魚の歌につられて出てきたようだが。異臭がしたからすぐにわかったよ“」

”なんだと”


 火の精霊の左手から一際巨大な炎球が現れた。

 投げつけそうな勢いだったので、ツバキは慌てて会話に入る。


「待って下さい。あの、貴方が火の精霊ですよね。私はセイレティ」

”目的はわかっている。だがアーギュストの子は信用ならない”


 結局投げつけられた。カオウに真っ二つに斬られた炎球が横を通り過ぎる。

 火の精霊は情報通り皇族が嫌いのようだ。

 ツバキはめげずに、しかしカオウの背から恐る恐る説得を試みる。


「私は……」

”黙れ!”

「きゃあ!」


 下から火柱が噴出した。

 カオウに引っ張られて退避。


「せ、精霊王から頼まれ……」

”なぜオーウィンはまた裏切り者に託すのだ!”


 怒りに震えた火の精霊の体が何十倍も膨れ上がった。

 昔絵本で見た炎の巨人を思い出し、ツバキは恐ろしさで涙目になる。


「は……話を」

”早く出ていけ!”


 後方の空間にぽっかりと穴が空いた。どこかの森に繋がっているようだ、と気付くが早いか火の精霊の巨大な手がツバキたちを追い出そうと迫る。

 カオウが剣で押し返すが、火の精霊の威力は凄まじく、斬るどころか金属が溶けるような嫌な匂いがした。

 カオウの顔も険しくなっていく。


「説得は難しそうだぞ。倒すにも、この姿のままじゃ無理だ」

「龍になるってこと? いえ、その前に倒しちゃだめでしょう!」


 炎の巨人っぽい精霊VS龍など見たくない。


「アクアヴィテ、どうにか落ち着かせられない?」

「”ここはヤツの領域。負担がかかるぞ。覚悟しろ”」


 めまいと耳鳴りがした直後。


「”いいかげんにおしイグニスフェルノ!”」


 アクアヴィテの怒声とともに氷の壁が出現し、火の精霊の腕が弾け飛んだ。

 一瞬の出来事に目を見開くも、急激な脱力感に襲われたツバキはカオウにもたれかかる。


「”オマエはいつまでいじけているのだ!”」

”どうせまた同じことが起きる!”

「”そうはならん!”」

”だが、人間は……あいつは……!”


 火の精霊は頭を抱えて体を震わせた。怒りではなく苦悶しているように見えた。震わせるたびにドロドロした液体が崩れ落ちていく。


「あいつって……三百年前のバルカタルの王?」

”オレを騙した卑劣な王め!”


 火の精霊が苦しそうに叫ぶ。


”あやつは結界を強めるためと嘘をついてオレからイヴェを奪い、精霊を殺す道具とした! 忌まわしい男の縁者など信用ならない! お前らになど渡すものか!”


 火の精霊が暴れ出した。咆哮した口からマグマが噴出し、アクアヴィテが氷の壁で防ぐたびに激しい蒸気が上がり視界を白く染めていく。


「”聞けイグニスフェルノ! あのときとは状況が違うのだ”」

”何も違わない! そいつにイヴェを渡す価値はない!”

「”今渡さなければ手遅れになる”」

”もう手遅れだ! サイロスは明日滅びる!”


 しんと静まり返る。

 白い霧から、くぐもったうめき声を上げる火の精霊が透けて見えた。


「……明日?」


 愕然としたツバキが声を漏らすと、火の精霊は屈辱に耐えるように唸った。


”明日の儀式で……アーサルが壊れる”

「創世祭が関係してるの?」


 創世祭の三日目である明日は、生命と火の誕生の演目が行われる。


”創世祭の遥か前から行われている、女神の力が宿った火を九つの地域に分け与える儀式だ。アーサルをサイロスに作ってからは、オレの霊力も混ぜることで地上に妖魔が沸かぬよう邪気を払い、結界を守っていた。だがイヴェを奪われてから一度も火に霊力を与えておらん。その間にできた結界の綻びは、最早修復できないほど広がっている。……地底に住む妖魔は賢い。今まで鳴りを潜めていたが……明日、神の力を得ようと火を奪いにくるだろう。奪われたら今のアーサルも簡単に壊れる”

「”バカな! そんな状態なら、風のヤツが知らせたはずだ。ヤツは火のアーサルに問題はないと言っていた!”」


 アクアヴィテが叫ぶと、火の精霊はふんと鼻で笑った。


”風の気まぐれだろうよ。おまえや地は汚れを嫌うが、風はさほど気にしない。それに合った風を吹かせるのみ。むしろ妖魔だらけの世界も楽しそうだと思っている節すらある”

「”ウェントシルフめ!”」


 アクアヴィテが激高したのか、ツバキの体温が急に上昇した。


「”だが火は人や魔物と親しかったではないか。この世界が滅んでもいいというのか!”」

”…………”


 火の精霊は頭を抱えたまま閉口する。


「明日……サイロスに、妖魔が……?」


 ツバキは震え始めた手でカオウにしがみつく。自身の不安とアクアヴィテの怒りが綯い交ぜになっているせいか、鼓動が不規則に速まり呼吸するのも苦しかった。

 カオウはぜいぜいと荒い息を繰り返すツバキの背中を優しく撫でる。


「心配すんな。片っ端から蹴散らしゃいいだけだ」

”言っただろう、手遅れだと”


 火の精霊に即座に否定されたカオウは鋭く睨みつける。


「うるせーな。てめえができねーからって一緒にすんな、引きこもりのヒッヒー」

”生意気な!”


 怒った火の精霊の体が猛然と燃え上がった。

 カオウはツバキを抱いたまま、片手で剣を構える。


「はっ。本当はお前も嫌なんだろうが。こっちで何とかしてやるから、てめえはさっさとイヴェってやつを渡していじけてろ」

”たとえ龍でも、あやつらの大群に勝てはしない”

「勝ってやるさ。なんなら賭けるか? 明日、火を守り切ったらイヴェを渡せ。守れなかったら……そうだな。あんたが憎む皇族の首をひとつ取ってきてやる。今の皇帝なんてどうだ」


 カオウはニヤッと笑って言った。意識が朦朧とする中ぎょっとしたツバキはカオウの腕をたたく。

 火の精霊は無言のまま、炎の体を揺らしていた。イヴェを渡したくない気持ちはあるものの、カオウの推察通り、今の世界を滅ぼされることに躊躇いがあるのだろう。

 しばらくの後、”よかろう”と承諾する。

 全然よくない! と叫ぼうとしたツバキの声は声にならなかった。途中で気を失ったからだ。


”軟弱な人間だな。こやつにイヴェが扱えるとは思えんが”


 怒りを解いた火の精霊の体がみるみるうちに小さくなり、再び炎球に戻る。


「あんた、ホントに見る目ないな」


 カオウは剣を仕舞うと、ツバキを両腕で抱える。


「言質取ったからな。ちゃんと守れよ」

”無駄な足掻きを。どうせ皆滅びるのだ”


 火の精霊はそう吐き捨てて消えた。

 残されたカオウはいつの間にか森の中に立っていた。

 見上げると、夕焼けに染まるオリュンポス山が見えた。

 ふう、と肩の力を抜く。

 火の精霊の力はカオウにとっても凄まじく、アクアヴィテがいなければ危うかっただろう。

 明日はその精霊が恐れる妖魔と戦わなくてはならない。


「……やっぱこの姿じゃあ、限界かもな」


 そう不穏な言葉を吐露して、カオウも森から消えた。

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