第7話 人魚の歌

「まだ教えてほしいことがあるのですが」


 ツバキは黙り込んでしまったカオウの手を両手で包んだ。これ以上同じ話題を続ける気はなく、他に人魚に会えたら確かめようと思っていたことがあった。


「イリェーネさんは、最高位の火の精霊と会う方法をご存知ですか?」

『火の精霊様?』


 イリェーネはきょとん、と首を傾げる。


「イリェーネさんの話にあったセイフォン軍とバルカタル・サイロス軍の戦は四百年前の出来事ですよね。当時はまだ精霊とともに生きていたはず。それに、核を損傷した人魚が王子の魔力を吸ったとき、彼が瀕死となったのなら、彼を癒やすほどの魔法が使えたと思えません。精霊から力をもらったのではありませんか」


 絵本には神が現れたとあったが、イリェーネは神の介入を否定している。だがイリェーネを手助けした存在はいたはずで、ツバキはそれが精霊だと考えていた。精霊信仰が禁止された後に精霊から神と改変されたのだろう。

 イリェーネはふうん、と思わせぶりに目を細める。


『精霊が今もいると確信しているようね。貴女は何者なの?』


 ツバキはどう説明したらよいかと思案を巡らせ、やはりここは丁寧に答えるべきだろうと決めると、片足を引いて優雅に皇女の礼をした。


「私はバルカタル帝国皇女、セイレティア=ツバキ・モルヴィアン・ト・バルカタルです。皇帝陛下の命を受けて、火の精霊を探しています」


 イリェーネは目をパチパチと瞬かせたのち、『まあ!』と手をたたいた。


『皇女さまだったのね。てっきり浮かれて仮装した観光客かとばかり。あら? でも、創世祭は皇女が出ると鳥が噂していたような。確か、今日……』


 ぎくりとするツバキ。諸事情あって代役が出ているのだと告げると、イリェーネは『あらまあ、だめじゃないの』と目を丸くした。

 ツバキはんんっと咳払いして話を戻す。


「火の精霊にお会いしましたか?」

『ええ、あなたの推測通り、彼の魔力だけでは傷は完治せず、魔法も使えなかったから、精霊を呼び出す歌を歌ったの。それなら魔力は必要ないからね。すると火の精霊様が現れて、魔力を補ってくれた』

「精霊が魔力を?」

『精霊が気を操れるのは知っているかしら。火の精霊様は生物が持つ気を魔力に変換できるのよ。ただそれでも結構無理したから、体中が痛くて、二度と人に転化できなくなったけれど。そしたら火の精霊様は憐れに思ったのか……』


 イリェーネは湖に手のひらを乗せる。


『わたしが過ごしやすいように、この湖に強い加護を与えてくれた』

「加護を?」


 具体的には、海へ戻らなくても湖で過ごせるようになり、また、湖にいる間だけ傷の痛みがなくなったのだと言う。

 火の精霊は気性が荒いと聞いていたため意外だった。


「加護は三百年前、精霊とともに消えなかったのですか?」

『もし消えていたらわたしは今日まで生きていられなかったはず』

「そうですか……」


 ツバキは顎に手を当てて黙考する。

 加護が消えていないなら、火の精霊は確かにサイロスにいるはず。


「精霊を呼び出す歌を歌っていただくことはできますか?」

『それは……。今も現れるか保障できないけれど、それでもいいなら』


 承諾したイリェーネは湖の岸に腰掛ける。

 精霊に会うためとはいえ、有名な人魚の歌を聞けることになりツバキは胸を弾ませた。

 人を狂わせるほど美しいと伝えられる魔性の歌。狂わされる気はないが、それほど魅了されるのだと思うと聞きたくなるのが心情というものだ。


 イリェーネがゆっくり目を閉じて大きく息を吸う。

 その瞬間、周囲の空気が彼女に引き寄せられたようにツバキには感じた。

 紡ぎだされた言葉は聞きなれない言語。けれども透き通るような美しい歌声はその一音一音がキラキラと輝くしゃぼん玉のようだった。花や湖を揺らす風が伴奏のように新たな音を生み、柔らかな言葉の響きと重なり、伸びやかに空へ広がっていく。

 意味はわからなくとも、長い時を生きた人魚の感情豊かな歌にツバキは自然と涙がこぼれ、カオウもまばたきを忘れるほど聞き入っていた。

 うっすらと何かが見えてくる。


「あれは……。カオウ、イリェーネさんの周りにいるの見えてる?」

「ああ」


 精霊が現れた。羽衣はごろものような奇妙な生き物と、色とりどりの花弁に覆われた嘴の大きな鳥が、戯れるようにイリェーネの腕やヒレの動きに合わせて泳いでいる。彼女も期待していなかったからか、驚きつつも嬉しそうに手を伸ばした。


”まだこれを歌える人魚がいたとは”


 ふいに心臓の周りがぞろりと動く感覚がして、ツバキは胸を押さえた。久しぶりの水の精霊アクアヴィテの反応。やはり体の中に別の存在がいるのは気持ちいいものではないが、とりあえずやっと会話できそうだと安堵する。


「知ってる歌なの?」

"元は我ら精霊の声から生まれた歌。耳の良い人魚が精霊と戯れに作ったのだ"

「一緒に作った?」

"人魚はなんでも歌にしたがるうるさい種族"


 そう悪態をつくが、アクアヴィテはそれほど嫌そうではない。


「どうして今まで呼びかけても返事しなかったの?」

"火の霊力を感じないのにお前と会話する気はない"

「じゃあ、今は感じるってこと?」

"歌が始まってからな。湖の中に入口があるのだろう"


 ツバキが湖の沖の方へ目を向けようとしたとき、ちょうどイリェーネの歌が終わった。

 イリェーネがぺこりとお辞儀すると、精霊たちは解散するように消える。


『風の下級精霊が二匹、か。やっぱり火の精霊様は来なかったわね』

「それでも水の最高位精霊が反応してくれました」

『え?』


 ツバキは実は、と自身の中に水の精霊の一部があること、湖の中に火の精霊とつながる入口があると言っていたことを伝えた。

 普通はありえないことだからか、イリェーネはあんぐりと口を開ける。

 すると、"見せたほうが早い"とアクアヴィテの声が聞こえた。

 言われた通り湖に手をつけてみると、湖に小さな波が立ち始める。波は徐々に大きくなり、やがて……。


「え!」

『うそ……』


 湖の中央まで道ができていた。幅は人が一人通れるくらいだが、湖は予想以上に深く、百メートル以上はありそうだ。


"早く行け。長くはもたん"

「そ、そう言われても」


 いつ水に飲み込まれるかわからない道を行くなど不安で仕方ない。ツバキはまったく泳げないのだ。

 カオウにお願いして、イリェーネも連れて道の終わりまで瞬間移動してもらう。ついた途端に道が閉じ、円柱の中にいるように、水の壁に囲まれた。壁といっても表面はゆらゆらと揺れている。

 突然場所が変わり『え? え?』と戸惑うイリェーネ。途中で水がなくなったと気付かない魚がぽとりと落ち、慌てて助けてやる。


『どうなってるの。本当に、あなたの中に水の精霊様がいるということ?』

「そうです。こんなことができるなんて知りませんでしたが」


 出てくるたびに違う力を見せるアクアヴィテにツバキも戸惑いながら、辺りを見回す。

 ここが火の精霊へつながる入口ということなのだろうが、祠があるわけではなかった。ぬめった地面を注意深く探すと、橙色に変色した箇所を見つける。小指の先ほどの範囲しかない。


「ここが入口?」

『あら、ここにこんな色の地面があったかしら』


 イリェーネは不思議そうに地面を凝視した。


"今までなかったなら、人魚の歌が聞こえて、たった今開けたのだ。急げ、すぐに消えるかもしれん"


 またもや急かされたツバキは、イリェーネの方へ振り返る。


「あの、イリェーネさん。急がないと消えてしまうらしいので、もう行きます。イリェーネさんのおかげです。ありがとうございました」

『え、ええ。よくわからないけれど、お役に立てたなら、なにより……?』


 水から飛び出してくる魚たちをせっせと助けながらイリェーネは言った。

 今日火の精霊と会うなど思ってもいなかったので、心の準備はまったくできていないが、魚とイリェーネのためにも早々に去るべきだろう。せめてもっと露出の少ない服に着替えたいが、そんな時間もない。

 カオウから借りた上着をしっかり着直し、カオウとはぐれないよう手を繋いでから、ふうと息を吐いて腹をくくった。

 どこに繋がっているのだろうとドキドキしながら変色した地面に触れると、パァーッと光が放たれる。


『そうだ。州長官……お兄さんはもう、あなたに謝れたのかしら』


 予期せぬ言葉に咄嗟に振り返るが、光が眩しくてイリェーネの顔は見えない。

 その真意を聞く間もなく、ツバキとカオウは吸い込まれていった。

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