第6話 悲恋の定義

 二人の世界に没入していたツバキたちはようやく本来の目的を思い出した。

 すぐさま立ち上がり、ササッと服についた草を払う。


「もしかして、イリェーネさんですか?」


 白髪の人魚はおっとりして上品そうな美人で、人間で言うと七十代くらいに思えた。

 半身は銀とくすんだ苔のような緑の鱗に覆われており、人体の腹には大きな傷跡が残っている。


『そうだけど、先に名乗るのが礼儀ではないの?』

「失礼しました。私はツバキ。こちらはカオウです」


 ツバキが丁寧にお辞儀すると、イリェーネは含みのある笑みを浮かべた。


『わたしに会いに来る人間はたいてい二種類に分かれる。人魚を捕まえようとするか、昔話が真実かどうか確かめに来たか。あなたたちはどう考えても、後者よね』


 くすくすと笑う。人魚を捕らえる前にいちゃつくバカップルはいないだろう。


「いつから見て……」

『あなたが押し倒されたあとから。せっかく出てきたのになかなか気づかないし、帰ろうとしたところでやっとあなたと目が合ったのよ』


 今日は恥ずかしいことばかりだとツバキは泣きそうになった。このままでは本当に慙死ざんししそうだ。


『どの本を読んだの?』

「どの、とは?」

『本がたくさん出ているから。みんな、それぞれが読んだ本の内容を教えてくれるのよ。あらすじは大体同じだけれど、忠実に書いてあるのもあれば、いい加減なのもある。ああ、ものすごく壮大でロマンチックな展開の物語もあるのよ。失敗して泡になって消えたとかもあったわね。あなたはどの本?』

「この島の子が持っていた絵本です」

『あら、まだ読まれているなんて嬉しいわ』


 イリェーネは尾ビレで湖の水を搔いた。小さな波が湖に広がっていく。

 他人事のような口調なのが、カオウには不思議だった。


「何も知らない奴らに好き勝手に書かれてるのに、なんでそんな風に平然としてられるんだ」

『慣れると面白いものよ。人間の想像力には感心する』


 イリェーネはよくある質問だと言うように目を細める。


「だからって、あんたにとっちゃ過去をこねくり回されてるようなもんじゃないか。本のせいで変な奴らが来ることがあるんだろ」

『そりゃあね、危険な目にあったこともあるし侮辱されたこともある。でも呼ばれたからって誰とでも話すわけじゃない。長年ここにいたから、どういうつもりで会いに来た相手なのか見極められるようになったの』


 海のようなエメラルドの瞳がふたりを見上げる。


『どうやらあなたたちは、ただの観光気分で来たわけじゃなさそうね』


 目が合ったカオウは不安を見透かされたように感じた。

 真横に立つツバキの手を握り、ゆっくり息を吐いてから、イリェーネへ自分たちもイリェーネたちと同じであり、共に生きていく方法を探しているのだと伝えた。

 それまで穏やかな表情を崩さなかったイリェーネは、カオウが魔物だと聞いてから、少し緊張したように見えた。


『神様が現れて薬を作ったなんてあるわけがない。神はことわりを変えることを許さないもの』

「じゃあどうやって人間になろうとしたんだ」


 カオウが腹の傷跡を見ながら問うと、イリェーネは首を横に振った。


『私は失敗した。期待しない方がいい』

「それでもいい。何でもいいんだ。本なんかじゃなくて、あんたから何があったか聞きたい」


 切実なカオウに気圧されたイリェーネは後方を気にするように目を動かした。そこに何が、と焦点を合わす前に彼女が息を吐く。


『……わかった。真実を話してあげる』


 座るよう促されたツバキとカオウは、視線を交わしてから腰を下ろした。




『彼と出会ったのは、わたしが成獣になったばかりのころよ。人魚は成獣するまで人魚が暮らす海域から出られないの。やっと制限がなくなってはしゃいでいたら、溺れてる男の子を見つけた』

「溺れてた?」


 冒頭から絵本と違うのでツバキが驚くと、イリェーネはふっと笑む。


『初めて出会ったとき、彼はまだ六歳の子供だった。サイロスではその年頃の男の子は、より早くより遠くへ泳げる人が尊敬される。でも彼は泳ぐのが苦手で、いつの間にか沖へ流されてしまったみたい』

「サイロスの王子だったんですよね? 州ではなく国だったころですか」

『そう。当時はまだ州長官というものがなく、バルカタルに統治された後は筆頭首長が王となり国を治めていた。それなのに長男である彼が少ししか泳げないなんてサイロスではありえない。だからわたしが泳ぎ方を教えてあげることになった。

 そのときはもちろん恋愛感情なんて微塵もなかった。本来は友人になることさえありえないことなのよ。たいていの人魚は人間を下等種族と思っているし、人間からしたら、人魚は危険な存在だったから。聞いたことあるでしょう? 人魚は歌で人間を誘い出して海へ引きずり込むって。わたしも最初に出会ったのが彼じゃなかったら、きっと人間を餌としか思わなかったでしょうね』

「餌……」

『食べないから大丈夫』


 ツバキが身構えると、ふふっとイリェーネは笑った。


『彼が大人になるころには、お互い惹かれていたけれど、明言したことはなかった。わたしは人魚で、彼は人間の王子。一線を越えてはいけないとわかっていたから。

 でも彼がセイフォンとの戦争へ行くことが決まって……。わたしたちは想いを打ち明けずにはいられなかった。そして彼は、帰ってきたらふたりで国を出て静かに暮らそうと言ってくれた』

「それは……国を捨てるってこと?」

『ええ。でも彼は王太子としてサイロスを愛してるから、きっとできないだろうと思った。だから人間になろうとしたの。彼が戦争へ行っている間に、海の底に住む大鯰に会いに行った。バルカタルの始祖の十二神よ』

「全知の力を持ってたっていう、あの大鯰?」


 十二神の大鯰は鯨より大きな鯰で、どんな難問も神の啓示のように答えを知る力があったと云われている。

 驚いたツバキはカオウへ思念を送った。


<知ってる?>

<会ったことはないけど、だいぶ前に死んだってクダラから聞いてる>


「サイロスの海にいたんですか?」

『始祖の森の近くに。彼女なら答えを知っていると思ったけれど……』


 イリェーネは言いづらそうにひじを抱える。


『彼女は、人に転化したまま核を取り除けば可能と言った』

「核だって!?」


 カオウが大声を出した。


「そんなん取り除けるわけないだろ!」


 核とは魔物の体内にある、心臓以上に大切な魔力の源だ。魔物が致命傷を負っても魔力を吸えば再生できるのは核があるからで、反対に、核が消えるほど魔力を吸いつくされると体も塵と化す。


「できるわけない、そんなこと」


 カオウが愕然とすると、イリェーネは『期待しないでと言ったでしょう』と憐れみの目を向けた。

 ツバキはカオウの手に手を重ねる。


「でも大鯰は、何か手段があるからそう言ったんじゃないんですか」

『彼女は答えならなんでも知っているけれど、その過程まではわからない。そういう力なんだと言っていた。だからそのときはまったく役に立たないと怒って帰ったわ。

 だけど他に方法が見つからないまま戦争が終わって……。彼は無事に戻ってきたけれど、セイフォンの王女との婚約が決まったと知ったの。打ちひしがれたわたしは、自分でここに短剣を刺した』


 腹の古い傷跡に触れるイリェーネ。

 ツバキは息を呑んだ。無謀過ぎる行為だが、それほど追い詰められてしまったのだろう。


『結局核は取り除けず、死ぬ寸前だったところで誰かの声が聞こえた。そして気がついたときには彼が血だらけで倒れていた。自我を失ったわたしが彼に襲い掛かって魔力を吸い取ったのよ……恐ろしかったわ、とても。冷たくなった彼が。愛する人を殺そうとした自分が。人に近い種族の人魚でも、魔物は魔物なのだと知った。あとはどの話にもある通り、歌で彼を治癒して記憶も消して、わたしはずっとここにいる。……ごめんなさいね、あなたたちに聞かせるのはやっぱり酷なことだったわ』


 ツバキとカオウはしばらく言葉が出なかった。

 覚悟していたとはいえ、本人から聞くと重みが違った。同じように幼いころに出会っていたというのも大きいかもしれない。

 ツバキはふと、カオウの手が冷たくなっていることに気づいた。


「もし……」


 カオウが重ねた手をじっと見つめながら口を開く。


「もし自我を失わず核を取り除けてたら、人間になれたと思うか」


 イリェーネは目を見開いた。答えづらそうに視線を泳がせる。


『無理だと思う。痛みに耐えればいいという問題じゃないの。核を抉ろうとしたら、転化が勝手に解けてヒレが消えかけた』

「…………」


 カオウは黙り込んだ。

 願いはツバキと共に生きることだ。命を懸けてまで人間になる気はない。

 だが大鯰の力は本物だとクダラは言っていた。無理やり取るのではなく、手段さえ見つけられたら可能かもしれない。暗闇の中手探りで探していた道をやっと見つけたような心境に――なるはずだった。


(核を取ったら魔力もない無能な人間に成り下がるんじゃ……?)


 どくんと心臓が波打ち、今湧きあがった感情に戸惑う。人間になるのと引き換えに魔力を失うとしたら、その道を信じてひたすらまっすぐ進む覚悟があるのだろうか。


 ──ツバキヲ……ニ。


「カオウ、核を取ろうとしないわよね? 危険すぎるわ」


 ツバキの声ではっとする。

 一瞬、頭の中に黒いもやがかかったようだった。何か大事なことを忘れているような気がして焦燥感に駆られる。


「カオウ?」

「え? あ、ああ」

「本当に?」


 歯切れの悪い言い方がツバキを不安にさせてしまったが、カオウはうまく表情を作れない。


『ねえ、せっかくだから、わたしがいつも見てる景色を見てみない?』


 沈んだ雰囲気を変えるように、イリェーネが声の調子を上げて言った。


『ぐるっと周ってもらわなきゃいけないけれど』


 ツバキが頷くと、イリェーネは上半身を起こしたまま後ろ向きに泳いでツバキたちを先導した。

 ツバキはまだ気落ちしている様子のカオウを気遣うように手を引く。

 途中、半円型の石墓があった。先程イリェーネが気にかけた視線の先にあった物だ。


「これは?」

『彼のお墓よ』

「王の墓がどうしてここに?」


 イリェーネが止まらなかったので、墓の文字が読めないまま通り過ぎる。


『あれから何十年も経ってから、彼がふらっと現れたの。まさか再会すると思っていなかったから、隠れそびれて見つかっちゃった。すっかりおじいさんになってた。わたしのことは覚えていなかったけれど、なぜかここに来たいと思ったんだって。わたしも初めましてって挨拶したわ』


 イリェーネは懐かしそうにくすりと笑う。


『それから頻繁に来ては、たわいもない話をするようになった。海のこととか星のこと、好きな遊びやおいしい料理のこととか。王なのに忙しくないのかって聞いたら、甥に任せたから暇なんだって言っていた』

「甥に?」

『バルカタルの王に嫁いだ妹の三男を養子にしたそうよ。仕事に没頭していたら結婚できなかったって笑ってた。詳しい事情は知らないけれど、セイフォンの王女との結婚はなくなったみたい。彼の幸せを願っていたから、少し複雑だったわ』


 イリェーネは言葉を切ると、くるりと海の方へ向きを変えた。


『再会して一年くらい経ったある日、その甥が彼の死を伝えに来た。以前から病気を患ってて、養生しなきゃいけないのに無理して来ていたそうよ。しかも、墓は湖の近くにしてほしいと書かれた遺言状が残されていたの。王の墓は場所が決まっていたけれど、特例で認めてくれた。……仕事ばかりでいつも険しい顔をしていたのに、わたしと会った日はとても優しい顔をしていたからと……人生で一番幸せそうな時期だったからと、言ってた』

「もしかして、記憶が戻っていたんですか?」

『わからないわ』


 肩をすくめたイリェーネは、一度水中へ潜ると湖の端で顔を出した。


『さあ、ついた。こっちに来て』


 ツバキたちが到達するのを待って、湖から身を乗り出す。

 岬の先端からは空と山だけでなく、海はもちろん他の島の街並み、船に乗る人々まで一望できる。


『素晴らしいでしょう。左奥にある高い石柱は、立ち入り禁止区域を示しているの。ここからはちょっと見えないけれど、始祖の森があるのよ。中央の大きな島を挟んで、右が本島。城も少し見えるわ。

 彼はここから見える景色が好きだった。王として成してきたことへのご褒美みたいだとよく話していた』


 海から吹く風がさらさらとイリェーネの白髪を揺らす。


『本当に……本当にただ、ここで海を見ながら話をしただけの関係だったの。前のように焦がれるような愛情が込み上げることもなかったし、もっと前のような、純粋な友情とも違った。でもとても穏やかで、幸せだった。あの頃の感情を人間はなんて呼ぶのかしら』


 ツバキには答えられなかった。言葉を知らないというより、その感情がよくわからなかった。それはまだ子どもだからで、いつか大人になればわかるのだろうかと考えても想像がつかない。

 ただ、愛おしそうに景色を眺めるイリェーネの横顔は美しかった。


「そのころのお話もどこかの本には書いてあるのでしょうか」

『残念ながら聞いたことないの。物語としては、あまりおもしろくなかったんでしょう』

「最初に本が出たのはいつですか?」

『いつだったかしら。彼の墓が建てられてから、王や……州になってからは州長官が時折わたしに会いに来るようになって、いつの間にかサイロス中に伝わっていた。どんな形であれ、長い年月が過ぎても語り継がれるなんて素敵なことだと思うわ」


 満足そうに微笑むイリェーネに、悲恋の主人公という悲壮感はない。


「それになんの意味があるんだ」


 カオウが吐き捨てるように言った。


「そいつはさっさと死んで、お前だけ苦しんで一人で生き残って。そんなの惨めなだけじゃないか」

「カオウ、そんな言い方……」

「俺は、嫌だ」


 カオウは苦しそうに顔を歪める。


「俺は……ツバキとずっと一緒に生きていきたい」


 イリェーネは悲しみをたたえた瞳でカオウを見上げた。


『ええ、そうね。よくわかるわ。わたしも彼とずっと一緒にいたかった。それが叶わなかったのはとても悲しい。でもね、彼を愛したこと、彼がわたしを愛してくれたことは紛れもない事実。わたしはその時間を、気持ちを、忘れずにいられることがとても嬉しくて、幸せなの』

「……俺にはわからない」


 カオウはイリェーネから目を逸らす。考えることすらも拒否したいほど受け入れがたかった。


『いいのよ、わからなくても。ほとんどの人がわたしをかわいそうだと言うし、それが間違ってるわけでもない。同じように、わたしが幸せだと思う気持ちも、間違いではないの。ある人も言っていたわ。誰か一人を愛しぬくのはそうそうできない、それができた自分は幸せ者で、誇らしいと』

「それって……」

『何年か前にカルバル国から来た女性だった。夫を亡くしたばかりだと言っていたわ』


 ハトシェプトゥラ女王だ、とカオウは察する。


『あなたたちが望む方法を探し続けるのをやめろと言っているわけではないの。添い遂げられるなら、それが一番いいに決まってる。けれど、結果だけを求めていると見失ってしまうものもあるはず』


 カオウはうつむいたまま動けなかった。

 イリェーネの顔も、ツバキの顔も、見ることができない。湖に映る自分の顔さえも。

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