第5話 皇女は逃げ出したい

 天は混沌を割いて光を生んだ。

 最初の光は儚く散った。

 嘆いた天は時を丸めて昼と夜の神を生み、新たな光を与えた。

 神はそれぞれの光を守り、育み、天に捧げた。

 それを良しとした天は次々に光と神を生み、ことわりで結んだ。


 天の寵愛を最も受けた女神レイネスは、託された光の美しさに涙を落とした。

 涙が海となり、降りた足元から地が広がり、喜びの息が風となり、ひとすくいの水と一滴の血から命をつくり、そして最後に手を鳴らして火を散らした。

 ――『創世記』より抜粋――



 初等部を卒業している帝国民ならば誰もが知る一節である。

 レイネスが涙を落とした場所はサイロスの西の海洋と云われており、そのため四年に一度サイロスで創世記を再現する祭が行われる。

 創世祭は三日間。

 まず一日目は天帝と昼夜の神の話、二日目は女神レイネスが世界の土台を作る話、そして三日目は生命と火の誕生で、皇族は一度は必ず何かの役で出演することになっている。

 ツバキはレイネス役だ。

 レイネスは「美貌と気品で人々を魅了する女性」と定められているため、美形揃いの皇族女性が候補に上がるのだ。


 支度を終えたツバキが鏡の前に立つ。

 髪はきつく結い上げただけで飾りはなく、細身のドレスは純白でシンプルなデザイン。それでも昨日一日がかりで磨き上げた肌と最高級品で手入れした髪のおかげもあって、主の輝くような美しさに侍女三人娘はうっとりと見惚れた。


「うわあ。本物の女神様みたいです」

「最高にお美しいです」

「素敵すぎて蕩けちゃいますぅ」


 感嘆する侍女たちと、無言だが誇らしげに微笑む女官。

 しかし当のツバキは鏡に映る自身をそわそわと何度も見直していた。


「本当にこの衣装で出るの?」

「ツバキ様の綺麗な足にみんな釘付けですよお!」


 床まで届く長い裾は両側に大きなスリットが入っている。サクラはキラキラした眼で称賛したが、ツバキが気にしているのはそこではない。


「そうじゃなくて……その……胸が……」


 体の側面が隠れているのはくびれの下から臀部まで。つまり足だけでなく、脇から横腹も丸見え。もっとはっきり言うと横乳が見えている。

 ツバキは決してたいらというわけではなく帝都の同年代女性の平均くらいあるにはあるのだが、サイロス州の女性たちに比べると豊満とは言い難い。つまり高さが心許無い。もっとはっきり言うと動くと先端がこんにちはしそうである。


「違う衣装じゃだめなの?」

「代々この形と決まっているそうですので」

「ズレたりしないわよね?」

「大丈夫ですよ」


 カリンが断言したものの気が気でない。

 州民たちのような下着同然の服よりはかなりましだが、この州ではどこかを露出しなければ気がすまないのだろうか。

 ちなみに歴代皇后はサイロス州出身者が多いからか、皇族の血が濃いほど体つきはサイロス寄りだ。以前レイネス役を演じた異母姉のエレノイアもしかりで、当然彼女は同じ衣装でも心配無用だったはず。

 悲しいかな、ツバキは顔は父親似でも体は母親似なのだ。


(うう。逃げ出したい)


 この格好で民衆の前に出るなど想像しただけで顔から火が出そうである。


「本当に本当に、変じゃない?」

「もちろんですよぉ。そうだ、カオウとトキツさんにも見てもらいましょ」


 予期せぬ提案がモモの口から出てぎょっとした。


「い、いやよ!」

「恥ずか死慣れしましょう」

「どういうこと!?」


 主の静止をきかず、モモが伝令役の綿伝でカオウたちを呼び出すと、彼らは即座に瞬間移動してきた。

 待機中呑気に菓子でも食べていたのか、モグモグと口を動かしていたが、ツバキを見るなりゴクンと飲み込む。


「おお、すっごい綺麗だよツバキちゃん」

「…………」


 すかさず褒めたトキツに対し、カオウはぼーっと見入っていた。

 美しさは当然ながら、着飾っているわけでもないのに溢れる気品、なにより、なぜか脇をギュッとしめて恥ずかしそうに顔を赤らめるツバキはカオウの心を鷲掴みにした。

 これはもう「綺麗」「かわいい」などの月並みな言葉では表現できない。

 ツバキの周りだけ侵してはならない聖域のように光り輝いている。

 こんな姿を野蛮な大衆の目にさらすなど言語道断である。


「どうですか、カオウ」


 何も感想を言わないカオウにモモが催促した。

 すると。


「だめだ」


 カオウは凝視したままぐんぐん歩いてツバキの前に来ると、手を掴んで瞬間移動した。

 突然の出来事に残された者たちの思考が止まる。


「……え?」 


 主が消えた。まもなく創世祭が始まるというのに。


「どうしよう!?」

「早く連れ戻さないと!」

「どうせ追いかけても逃げられるぞ」

「時間ももうありせんよ!」

「じゃあどうすればいいんですかぁ?」

「モモのせいでしょ!」

「だって連れ去るなんて思わないですしぃ」

「昨日……私の技術すべて使って手入れしたのに……」


 ワーワーキャーキャーと誰が喋っているのかわからないほどパニックに陥る一同。


「……代役サクラが行くしかないわね。替えの衣装があって良かったわ」


 女官が静かに怒りつつ苦渋の決断をすると、青ざめたサクラが激しく首を振った。


「こんな露出の多い服恥ずかしくて着られません!」

「この服じゃあ、いつもみたいに胸締め付けられませんし」

「ツバキ様は巨乳だって思われちゃいますねえ。次からツバキ様の方を盛る方向でいかないと」


 パニックゆえに言いたい放題の侍女たち。

 落ち着かせるため、女官は手をパンっと叩いた。


「他に方法はないでしょ」

「でも私、レイネス様役の動きとか覚えていません」

「私が指示します。髪に綿伝を潜ませましょう」

「でもでも、ツバキ様ほど足長くないですし。昨日食べすぎちゃいましたし」

「遠目だからわかりません」

「で」「まだ何か?」

「…………いいえ」


 鬼気迫る女官にたじろぐサクラ。


「ではトキツとギジーは出ていって。カリンはメイク、モモは予備の衣装を持ってきたら爪を整えて。私はウィッグを結うわ。あと一時間……いえ、四十分で準備するわよ」


 それから急いで支度に取り掛かった。

 特にカリンは昨日の努力が無駄になり折れていた心を奮い立たせ、限界を超えた動きでサクラの顔を主に変えていく。もしメイク速度を競う世界大会があればぶっちぎりで優勝するのではと思える速さだった。

 なんとか間に合い、ヘナヘナと床にへたり込む。

 着替え終わったサクラはツバキのように鏡の前でそわそわと自分の姿を確認した。


「ツバキ様の気持ちがわかったわ。横がスースーして落ち着かない。ねえモモ、足太いの目立つ?」

「充分綺麗ですよぉ。ねえ、アベリア様」


 女官の目がサクラの頭からつま先へと動く。

 完璧な女神ツバキと比べるとやはり見劣りするが、即席女神にしては上出来といっていいだろう。

 安堵した女官はふと、実は懸念していた箇所――胸をまじまじと確認した。

 そして一言。


「これなら安心ね」


 誰も何も言えなかった。




 女官と侍女にそんな苦労をさせた罪深き二人は、オリュンポス島のイリェーネ岬にいた。

 早く帰らないとと焦るツバキと断固拒否するカオウの応酬は終わり、戻ることを諦めたツバキは膝を抱えて花畑に座っている。

 予定では創世祭後に行くつもりだったのだが、他に行きたい場所もないので仕方ない。

 ここは聞いていた通り、一面に様々な色の花が咲き乱れ、絵本に出てきた湖もあった。


「人魚は本当にいるの?」

「湖の中に魔物がいる気配はする」

「何回も呼んでるのに出てこないじゃない」

「警戒してんだろ。時間はたっぷりあるんだし、のんびり待ってようぜ」


 本当はこんなことをしている時間ではないのだが。

 まったく悪気のないカオウは片膝を立ててぼんやり眼前の景色を眺めていた。

 ここは高所にあるため、湖の向こうは空と山しか見えない。もっと岬の先端へ行けばサイロス城のある本島など、他の島々が見えるだろう。


 ちら、とカオウの体を横目で盗み見て、恥ずかしくなりすぐさま視線を戻す。

 カオウはこのイリェーネ岬についてすぐ、着ていた前開きのシャツをツバキにかけた。

 おかげで今は上半身裸だ。

 彼はジェラルドの臣下になってから厳格なトレーニングも受け始めたため、最近ますます逞しくなった。

 もちろんサイロスの男たちに比べたら細いが、ツバキはゴリマッチョよりもやや細めのマッチョが好きだ。くっきり割れた理想的な腹筋はドキドキして近寄りがたい。

 しかしながら、座って数十分経った今もただぼんやり湖を眺めるだけの状況も不満だった。


(せっかくふたりきりなのに)


 普段のカオウならすぐさま触れてきたりキスしようとするが、一昨日ゆっくり過ごせて満足したからなのか、暑いからなのか、手を伸ばせば届くがより掛かれるほどではない微妙な距離を保ったまま近づこうとしない。


(人魚が出てくるのを待ってるんだもの。見逃しちゃうかもしれないし)


 そう自分に言い聞かせて、ツバキもじっと湖を見つめるが。


(……今日はしてくれないのかしら)


 星空の下のキスはロマンチックだったが、花に囲まれてするのもきっと素敵だろう。

 ツバキの中でむくむくとキスしたい欲求が高まっていく。

 だが自分からキスするのはとても勇気が必要だった。

 またもちらっとカオウを見、ドキッとして目を逸らす。


(無理よ、今までしたことないもの!)


 心の中で叫んだ瞬間、ある場面が蘇った。

 そこには下着姿でカオウの上に乗った自分がいた。


(何、今の。私から迫ったことなんてないわ。ないはず。……ないわよね?)


 否定しても記憶は勝手に呼び覚まされていき――すべて思い出した。

 自らカオウの部屋へ行って、魔力を吸ってほしいと迫った夜のことを。そのときのカオウの戸惑った顔や、印をつけられた舌の痛み、息遣い、体に触れるカオウの手や唇の感触までも。

 急激なフラッシュバックにツバキは混乱した。


(私から誘惑したって話は本当だったのね!)


 恥ずかしいなんてものではない。顔が爆発しそうだ。

 今すぐここから逃げ出したかった。もしくは全速力で走って岬の先端に立ち大声で叫びたかった。いや、もういっそのこと海へ飛び降りてしまいたかった。


「ツバキ、どうした?」


(今話しかけないでー!!)


 様子がおかしいことに気づいたカオウに声を掛けられ、どうしていいかわからず膝に顔を突っ伏した。


「大丈夫か? どこか具合悪いのか?」


 心配したカオウが顔を覗こうとした。

 耳元に聞こえた声があの夜の甘い声と重なり、たまらずツバキは彼を突き飛ばす。

 動いた拍子に肩にかけたシャツが落ちたが、服装はもうどうでもよかった。

 今はそれ以上に恥ずかしいのだ。


「ち、近寄らないで!」

「なんでそんな照れてるんだ?」


 驚いたカオウは目をパチクリさせた。

 陽射しを遮るように腕を上げて顔を隠しているせいで、脇から下の素肌がばっちり見えている。しかも非常にめくりやすそうな服。


(……これは……誘ってるのか?)


 違う。

 が、カオウにはそう思えた。

 今日のツバキはまさに女神のように高潔で近寄りがたく、いくら露出が多くても不純な気持ちを抱いてはいけないと我慢していたというのに、恥じらいつつもツバキからふとももを見せてくれるとは。


(そうだ、ルールは破るためにある。聖域は侵すためにあるんだ!)


 謎の理屈で理性を吹き飛ばす。

 毎度のことながら我慢できなかったカオウは、顔を隠すツバキを押し倒した。


「きゃあ!」


 がっちり両手首を掴まれているため、逃げられないツバキ。

 あの夜と同じく裸のカオウが迫ってくる。


「カオウ、ちょっと待っ……」

「本気で嫌なら逃げられるだろ」


 カオウは答えがわかっているように笑みを浮かべた。

 ツバキの胸が、トクンとさざめく。

 瞬間移動も、魔力で操ることも、ツバキを優しく見つめる金色の瞳には敵わない。

 さらに近づいてきたカオウの唇を見ただけで体が火照り、ツバキはギュッと目を閉じた。触れると甘い刺激が全身に伝わって、キスの音以外何も聞こえなくなる。何度も交わすうちに、まるで水面みなもに浮かんでいるように危うげな、けれども心地良い浮遊感に包まれていった。


「あっ」


 首筋へのキスに感じて声を漏らしてしまい、とっさに口を押さえると、カオウがふっと笑った。 

 いじわるな視線にまた胸がどくんと波打つ。 


(どこでそんな色気を覚えたの!)


 心臓がもたない。

 カオウから逃れるように顔をそらして深呼吸すると、どこからか視線を感じた。

 カオウではなく、湖の方から。


「!?」


 驚愕したツバキはカオウの胸を思いっきり叩いた。


「カオウッ。あ、あそこに!」

「は? なんだよ」


 興を削がれてムッとしながら湖の方を見たカオウも「うわっ」と叫ぶ。

 二人が驚くのも無理はなかった。

 湖の上に女の顔が浮かんでいたのだ。


「誰だお前!」

『そちらが呼んだくせに失礼な子たちね』


 二人の悲鳴にため息を一つついてから陸へ上がったのは、年老いた人魚だった。

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