第4話 イリェーネ岬の伝説

 ――むかしむかし、オリュンポス島の海底に、うつくしい歌声をもつイリェーネという人魚の女の子がいました。

 ある日、地上にあこがれていたイリェーネは「人間と会ってはいけない」というしきたりをやぶって、海の上まで泳ぐことにしました。

 大きな船が見えたのでこっそり近づいてみると、まわりにしかけられていた網にからまってしまいました。

 漁をしていた船だったのです。


「助けて!」


 船にのっていた男のひとは、海の中から声が聞こえたのでびっくりしました。

 あわててイリェーネを網から助けだします。


「大丈夫かい?」

「はい」


 なんとそのひとはサイロス州の王子でした。

 それからふたりは何度も会いました。おたがいの話をしたり、海で泳いだり、イリェーネは人間に転化てんかできたので、サイロスの街を歩くこともありました。

 楽しい日々を過ごすうちに、イリェーネはやさしくてかっこいい王子のことを好きになりました。

 王子も、イリェーネのうつくしい歌声と明るい笑顔が大好きだと言ってくれました。

 しかしいくら転化できても、イリェーネは魔物です。まわりの人間はふたりの恋を良く思わず、王子を他の女のひとと結婚させようとしました。


「ぼくが愛しているのはきみだけだ。他の誰とも結婚なんてしない」

「でも人間と人魚は添い遂げることができません」


 イリェーネは泣きながら別れをげ、王子の前から姿を消しました。

 しきたりをやぶったので、もう海へ戻ることもできません。

 しばらくのあいだ、あてもなくさまよっていましたが、気がつくと、イリェーネはオリュンポスの岬に来ていました。

 はじめて心をかよわせた、ふたりの思い出の地です。

 月がうつる湖があまりにきれいで、イリェーネは王子との日々を思い出し、かなしみにくれました。


「わたしが人間になれたらいいのに」


 イリェーネは泣くように、叫ぶように、かなわぬ願いを歌に込めると、オリュンポス島の神様が現れて言いました。


「望むならば、お前の血肉ちにくで薬を作ってやろう。生きぬいたなら、人間になれるだろう」


 言われたとおり体の一部をさしだすと、神様の作った薬を飲みほしました。

 体中が燃えるように熱くなり、引きさかれるような痛みがイリェーネをおそいます。

 気力も魔力もうしない、死にかけたころ、イリェーネを探していた王子が駆け寄ってきました。


「イリェーネ!」


 王子がイリェーネを抱きしめた瞬間、まばゆい光がふたりを包みます。

 痛みはなくなりましたが、イリェーネの体にはうろこのようなあざが残っていました。

 そして、隣を見て青ざめました。

 王子の体が冷たくなっていたのです。

 イリェーネは死ぬ直前、自分でも気づかないうちに王子からすべての魔力をうばっていたのでした。


「死なないで」


 イリェーネは王子の手をにぎり、いやしの歌をうたいます。


「ほどけて散るは夢の声 あつめてつむぐは救いの 光をしたあまかぜのゆくえを知らせる海の月影つきかげ


 うたいつづけると、王子の頬に赤みがさしました。

 ほっとしましたが、王子を死なせるところだったイリェーネはひどく悔やみます。


「わたしといては幸せになれない」


 イリェーネはまたうたいました。

 今度は王子の記憶を消す歌でした。


「雨は落ちて川となり流れて海へ消えていく あなたを待つわたしはいない 恋い焦がれるわたしはいない はじめの雨も燃える意味も海のあわは知らないから」


 王子が目を開けそうになったので、イリェーネは湖の中に隠れました。

 起きあがった王子はここにいた理由を思いだせず、不思議そうにあたりを見まわします。

 もちろん、イリェーネのことも覚えていないようでした。


「さようなら、愛しいあなた」


 王子の後ろ姿を見おくるイリェーネの涙が湖に落ちます。


「かわいそうに。おまえの体は今、人間でもなく人魚でもない。しきたりを守っていれば、海の中で幸せに暮らせただろうに」


 神様があわれむと、イリェーネは首をふりました。


「彼を愛したことは後悔していません。彼と過ごした日々はわたしの幸せそのものです。わたしはこれからも、彼がおさめる国を見守っていきます」


 それからイリェーネは何日も何年もやさしい歌をうたいました。

 王子の幸せを願って。

 今もオリュンポス島では、ときどきうつくしい歌声が風にのって聞こえることがあるそうです――




 読み終えたツバキは、絵本の背表紙を見つめたまま動けなかった。

 人間と魔物の悲しい恋物語。

 それが実際にあったということが、胸に深く突き刺さった。


「あらあら、アニヤったら」


 物語を聞いている最中に眠くなったらしい。母親の膝の上でうとうとしていたので、これ以上長居できないと判断したツバキたちは彼女らに礼を言ってサイロス城へ戻った。


 そのままカオウたちと別れて就寝の支度をし、今は一人、部屋にいる。

 心身ともに疲れていたが眠れそうになかった。

 絵本についてカオウと何も話せないまま帰ってきたせいかもしれない。

 彼は今、何を考えているのだろう。


 風にあたろうとテラスに出た。

 すでに人の喧騒はなく、常夜灯だけが点々としている。

 海に浮かんだ月明かりに、耳をすませば微かに聞こえる波の音。帝都と違う夜景は眺めているだけで癒され、深呼吸して海のにおいをかぐと、なんとなく、凝り固まった思考や悩みがほどけていく気がした。

 吊り下げ式の椅子ハンギングチェアに座って、しばらくぼうっとする。


(カオウはもう寝たのかしら)


 女官は隣に、公用護衛と侍女は下の階にいるが、平民護衛は建物自体違うはずだ。ここから右の建物か、左の建物か……と気配を探ると、なぜか海の方にそれを感じた。


<カオウ、でかけてるの?>


 呼びけるとパッと現れる。

 空に浮く姿は見慣れているはずなのに、満月に近い白銀の月を背にしたカオウはより神秘的に見えた。月からの使者――人ならざる者――のように。


「なんだ。ツバキも寝てなかったのか」

「カオウは何をしていたの?」

「寝付けなくて、散歩してただけ」


 カオウは宙に浮いたままスーッと近づいてきた。

 ツバキを椅子から抱き上げて自分が座り、膝の上にツバキを乗せて抱きしめる。


「やっとふたりきりになれた」


 昼間も抱き上げられたが、一週間ぶりとなるふたりきりでの抱擁は格別に嬉しく、ツバキは素直に身を委ねた。

 耳、まぶた、額に頬と次々贈られるキスも受け入れる。

 ツバキが映る綺麗な金色の瞳にとらわれると胸が高鳴り、彼の眼差しの熱にドキドキしながらそっと目を閉じた。

 星空の下、期待通りに授けられたキスは甘く、魔力を吸われてビクッと震える体を引き寄せられると、恥ずかしさとともに求められる喜びで胸がいっぱいになる。

 唇が離れて目を開ければ、カオウの幸せそうな顔にときめいて、たまらずツバキはカオウの首筋に顔をうずめた。



 カオウは溢れそうな想いを閉じ込めるように、照れて隠れたツバキをギュッと抱きしめる。


「うん。元気出た」


 広い海の上を飛行しても沈んだままだった気持ちはツバキに会えてすっかり落ち着いた。やはり自分の居場所はここなのだと改めて強く思う。

 それを失わないために、やれることは……。


「もしかしたら、あの話の人魚、今もまだ生きてるかも」

「そうなの?」


 驚いたツバキが顔を上げる。


「岬は始祖の時代にできたって言ってただろ。人魚は魔物の中でも長命種だし、それに、ちょっと前にカルバル国の女王と会ったんだけど……」

「あの世界三大美女のお一人といわれてるハトシェプトゥラ様!? 私、いつかお会いしたいと思っているの。どんな方だった?」


 目を輝かせるツバキ。

 つい今しがたまでいい雰囲気だったのに他人に興味をもつなんて、とカオウがムッとすると大人しく黙る。


「で、そいつからサイロスには人と魔物の恋愛話があるって聞いたんだ。うまくいかなかったなら意味ないと思ってすっかり忘れてたけど。会えば話してくれるって言ってた」

「ハトシェプトゥラ様はお会いしたことがあるってこと?」

「そうっぽかった。俺、その人魚と会ってみたい」

「でも、絵本通りなら……」


 人魚は人間になろうとして死にかけた。

 それをツバキは心配しているのだろう。

 人間が残した話が脚色されるのはよくあることで、しかも子ども向けの絵本にどれだけの真実があるかわからない。真実の方がより残酷な可能性もある。

 もし話に出た薬を作れたとしても結局死ぬかもしれず、最悪の場合、同じようにツバキを死なせてしまうかもしれない。

 しかし人間になろうとしたのが事実ならば、知る価値はあるはずだ。

 カオウは、不安げに見上げるツバキの頬を優しく撫でる。


「……ふたりで探してれば、いつか絶対、いい方法が見つかるよ」


 自分の居場所を少しでも長く守るために。誓いと祈りを込めて、カオウはツバキにそっと口付ける。

 濃紺の空に星が一つ、二人の頭上を流れていった。

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