第1話 悲しくて優しい日

 雨が降っていた。

 室内では聞こえない程度にひっそりと。

 朝日をうっすら隠して静かに降る雨は、天にいる誰かの涙なのだという。


「絶対に出てきてはだめですよ」


 そう告げて、女官のミランダは部屋を出ていった。


 残されたのは幼い皇女セイレティア=ツバキ。

 勢いよく閉まった扉の音に、ベッドの中でビクッと肩を震わせる。

 涙が手を伝ってシーツに染みを作ったころ、突然少年の声が聞こえた。


「なんでこんなに暗いんだ」


 明かりがつき、ツバキはもそもそとベッドから顔を出して目をこする。


「カオウ?」

「どうしたんだ。どっか痛いのか?」


 ベッドの際に座って頭にポンと手を乗せると、ツバキは辛そうに顔を歪める。


「そんなに痛いのか!?」


 ツバキは違うと首を振った。しかしカオウが優しく頭を撫でると、ついに大声を上げて泣きだしてしまった。


「なんで泣くんだよぉ」


 カオウはツバキの頭から手を放し、自分の頭を掻きむしる。

 出会ってからまだひと月足らず。その間も、気が向いたときにふらりと立ち寄って、遊び終えたらすぐ森へ帰っているため、号泣する幼子おさなごへの対処法など思いつかない。

 とりあえず空間からツバキの気に入りそうな物を出した。おもちゃやぬいぐるみ、果物やお菓子、宝石や望遠鏡、果ては剣や兜まで。

 手当たり次第出し続け、ベッドが物で溢れてようやく、ツバキは泣き止んだ。気に入った物があったわけではなく量に圧倒されたようだ。


「何があったか言えるか?」


 ツバキは返事の代わりに、ひっく、としゃっくりした。


「……きょ、きょうは」


 泣きすぎて目は真っ赤で、息を吸うたびにひくひくとしゃくりあげる。


「かなしい日、なのに。どうしていいか、わからなくて。いっぱいいっぱい、かなしいこと、考えてたの。そしたら、カオウが来てくれて、よろこんじゃった、の。わたしやっぱり、わるい子、なの」

「はあ? かなしい日?」

「きょうは、おかあさまの、めいにち、なの」

「メーニチって?」

「天に召された、日」


 しくじったと思ったカオウはおろおろして、また泣かないようにツバキの背中をさすった。


「ごめんな、人間だけが使う単語はあんまり覚えてないんだ」


 産まれたときから母親がいないことは聞いていた。そして、人間には死者を偲ぶ風習があることも知っていた。しかし、別れを惜しむことはあっても他のことまで喜んではいけないという制約まであっただろうかとカオウは首をかしげる。


「母親とおれは関係ないんだから、喜んだっていいだろ」

「でもミランダが、わたしは今日一日ここにいて悲しんでなさいって」

「なんで母親を知らないツバキにそんなこと。この国は天界の存在を信じてるから、無理やり悲しむことはないと思うんだけど。それどころか天にいる死者がさみしくないように、体がある場所……ええっと、何て言ったっけ」

「おはかのこと?」

「そうそう。墓の前で宴会する奴もいたはずだし。ほら、死者は天からこっちを見てるからな、いつまでも泣いてたら心配するだろ。だから無理に悲しまなくていいんだよ。って、なんでおれが人間に人間のこと教えてるんだ」


 「調子狂うなあ」とカオウはぼやく。

 必死に伝えたが、ツバキは理解してなさそうだった。


「お前は墓に行かなくていいのか」

「わたしはいかないほうがいいの。にいさまが嫌がるもの」

「それって、初めて会った日に見た奴?」

「ジェラルドおにいさまじゃなくて、ライオネルにいさま。にいさまはわたしのこと、嫌いだから」


 ツバキはカオウが出した大きな兎のぬいぐるみを抱きしめて鼻をすすった。

 また泣かれてはたまらない、とカオウは両手でツバキの頬を挟む。


「じゃあ他に行きたいとこあるか。どこでも連れてってやるぞ」

「部屋から出ちゃだめなの」

「こっそり出りゃバレないよ」

「だけど……」

「どうせ今日は夕方まで来ないよ」


 ツバキは普段様々な教育を受けているが、授業がない日は滅多に女官も侍女も来ない。部屋から出るなと言われているならば、今日も放置されるだろう。それが普通なのかはカオウにはわからないが。


「どこ行きたい?」

「でも……」


 ツバキがちらと窓の外を見た。

 雨がまだ降っていた。

 「なんだそんなこと」とカオウは得意げに笑う。


「ちょっと待ってろ。どいてもらう」

「?」


 きょとんとするツバキを残してカオウが消える。

 ツバキがベッドから降りて窓から空を見上げると、金色の大蛇がぱっと現れた。

 相変わらず灰色の衣を重ねたような雲はいたずらに陽を隠していたが、大蛇カオウが昇っていくと、大きな鞠のような空の魔物が衣をたなびかせて泳ぎ始め、その後ろの雲が綿あめのようにくるくると巻かれていくようにツバキには見えた。巻かれれば巻かれるほど雲は薄くなり、ついに陽が顔を覗かせる。


 急に差し込んだ光に目を細めたツバキの隣に、カオウが戻ってきた。

 雨に濡れた金の髪が陽を浴びてキラキラと光っている。


「もう雨の心配はいらない」

「あの魔物を追い払うと、雨が止むの?」


 ツバキに尊敬の眼差しで見上げられ、カオウはへへっと笑った。




 ツバキが望んだのは母親の庭園だった。

 命日の話題から逃れられると思っていたカオウはがっかりしたが、知らないとはいえ母親のことはやはり気になるのだろうと仕方なく付き合うことにした。そもそも、この少女の世界はまだ城だけなのだ。


 人がいないことを確認してからこっそり入る。

 故人の庭でも手入れされているらしい。カオウは花の名前を知らないが、白と青の花が多く、雨露に濡れた花弁から甘いにおいがする。


 中央には池があり、弓なりの朱い橋がかけられていた。

 ツバキはすぐにそこへ向かい、しゃがんで池を覗き込む。


「おかあさまは、この花がいっとう好きだったんだって。ねえさまが教えてくれた」


 手すりがないので、カオウはツバキが落ちないかヒヤヒヤしながら横に立つ。

 鏡のように蒼天を映す池の中に、浅紫色の花が咲いていた。


剣妃皐けんひこうというの。花の先が剣みたいで、かっこいいしきれいでしょう?」


 植物は食べられるか否かにしか興味がないカオウは「そうかも」と曖昧に答える。


「おかあさまも、きれいでかっこいい人だったんだって」


 母親のことよりも、母親の話をしてツバキがまた泣かないかの方が気になるカオウは「そうなんだ」とまたも適当に返した。


「おかあさまは、天に召されるまでずっと眠っていたんだって。……わたしを産んだせいで」

「それも姉さんが言ってたのか?」

「ううん。ライオネルにいさま」


 近くの木から深緑の葉が一枚、池に落ちた。広がった波紋はツバキが見入っていた水中の花を揺らす。


「わたしはおかあさまのことよく知らないけれど、おかあさまもわたしのこと知らないの。だから天からわたしのことなんて、見てないと思う」


 ゆっくり零した小さな声は、池に咲く花へ向かって溶けた。泣いてはいなかったが、泣いたときよりもカオウの心をチクリと刺す。

 カオウはふうと息を吐くと、ツバキと同じようにしゃがみ、ツバキの視線を誘うように空を見上げた。


「おれの親父が言ってたんだけど、天に帰った者はすべてを見通せるんだってさ。どんな姿でも、どこにいても、空が曇っていたって、親は子を見つけられるんだ。たとえ生きてるときに会ってなかったとしても、ツバキが母親のこと気にしてるみたいに、きっとツバキの母親も、自分が産んだ子のこと気にしてると思う」

「ほんとうに?」


 ツバキが顔を傾けると、カオウは碧眼をしっかり捉えて、安心させるように微笑む。


「……おれはそう、信じてる」


 ツバキの瞳が潤んで揺れた。

 「カオウのおかあさまも?」と控えめに問う声には答えず、立ち上がって伸びをする。


「あと、こっちではどんなに長い年月でも天では一瞬なんだって。だったらいつか会えたときにいろんなこといっぱい話せるように、たくさんうまいもの食べて、たくさん遊んで、たくさん楽しんでから天に行った方がいいだろ」

「だけどおかあさまは、わたしのせいで……」


 カオウはなおも暗いツバキを無理やり立たせた。


「お前は何にも悪くないんだから、兄に言われたことは気にするな。つーか、兄のことなんてもう放っておけ。なんならおれが代わりに兄になってやる。だからもう泣くな」

「カオウがにいさまになってくれるの?」


 勢いで言ったものの、若葉が芽吹いたような無垢な笑顔で繰り返されると胸のあたりがこそばゆくなる。


「あーその、なんだ。とにかく今後はくよくよ悩む前になんでもおれに言え。わかったな」

「うん、カオウにいさま」

「いや、『にいさま』はつけなくていいよ……」


 耳まで赤くなり、手で顔を隠したカオウの頭に、ぽつんと水が落ちた。

 雨雲のない空からパラパラと雨が降ってくる。

 こんな通り雨は、天が誰かをからかっているという。


 ――ふたりが印を結ぶ前の、悲しくて優しい日の出来事。

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