第26話 風の精霊

 鳴動がなくなり、ジェラルドが作り出した闇が消えると、景色がガラッと変わっていた。

 ここは自然にできた空洞のようだった。高さも幅もかなり広く、道の中央には細い川が流れている。見上げると巨大な乳白色の結晶がつららのように伸びて淡く光っており、滴り落ちる水が蓄積してできる石筍はツバキの背丈ほどもあった。

 いつの間にか松明も角灯の火も消えていたが、結晶のおかげで辛うじて目視でき、近くにいるジェラルドとリタも状況が飲み込めない様子で辺りを見まわしている。

 息苦しい場所から抜け出せたのはよかったが、どうやってここまで来たのかさっぱりわからない。ツバキ自身は混乱していたため、瞬間移動できることをすっかり忘れていた。


「クダラの能力って転移できたの?」

「いいや」


 隣に立つジェラルドが言った。


「あの音の正体は不明だが、敵意があった」

「敵意?」

「微かだが、まだ感じる」


”なあんだ、バレてたか。バレてたね”


「!?」


 背後に生暖かい風が吹いた。

 驚いて振り返るが、何もない。

 クスクス、と囁く声が耳元で聞こえた。


「だ、誰?」


”誰かな。誰だろう。”


 風が髪を撫でるのと同時に、無邪気な子供のような高い声と、すました子供のような低い声が聞こえた。クスクス、クスクス、と複数の笑い声が耳にまとわりつく。


「お兄様、今の聞こえた?」

「いいや」


 リタを見るが、彼女も首を振る。


「誰なの!?」


 叫んでも声の主は現れない。

 しかし思いもよらないところから答えを得た。ツバキの中にいる水の精霊が”風の精霊”と呼んだのだ。


「風の精霊?」

”そうだよ。そう。水の、久しぶり。久しぶり”


 地面に溜まっていた水が風に吹かれてツバキの足を濡らした。

 ”忌々しい”と水の精霊が言う。


”キャハハ。ボクたちは嬉しいのにね。うん、会えて嬉しい”


 近くの小石が次々と宙に浮き始めた。引き寄せられるように螺旋状に並び、ゆっくり回り始める。


「何か聞こえるのか?」


 ジェラルドがツバキの肩を叩いた。


「うん。風の精霊らしいわ」

「これが?」


”やだねえやだねえ。聞こえるのは一人だけ。面倒だね。面倒だ。どうする? どうしよう? 力を貸そうか。貸しちゃおう”


 小さな笑い声が風に乗ってジェラルドとリタの髪を揺らした。

 咄嗟に耳を押さえる二人。


”聞こえる? 聞こえる?”


 リタは耳元の囁きがくすぐったそうではあるが、精霊の声を聞けたらしく感激していた。

 ジェラルドはただただ不快そうだ。

 ツバキは「水の精霊のときはあんな苦しい思いをしたのに」と不満顔。


”こっちにおいで。こっちだよ”


 螺旋状に回っていた小石が二列に並び、蛇のような動きで川上の方へ進んでいった。


「この先に精霊王がいるってことよね」


 ツバキが二人と顔を見合せると、体内で水の精霊が蠢いた。




 洞窟内はかなり入り組んでいるらしく、ツバキたちは九番目の分かれ道を左へ進んだ。

 結晶の多くはつららと石筍がつながって柱になっていた。成分は不明だが、通常の鍾乳石は百年で一センチ成長するといわれているので、何万年もの歳月をかけて形成されたであろうそれらの中を歩くのは非常に感慨深いものがあるが、ツバキたちは心穏やかに鑑賞できなかった。

 なぜなら風の精霊がおしゃべりだったからだ。


”あのね。あのね。さっきのもう一つの道はね。壁が黒いんだよ。黒くて硬い。遠くの山であれ探してる人いたよ。いたね。随分遠く。ボクたちにとっては近いけどね。近い近い。ニンゲンには遠いかな。たぶん遠い。でも何に使うのかな? わからないね。わからないよ。そうだこの前も。この前っていつ? 月がない日だった。ない日か。人がたくさん集まってた。あれは何だろう。オマツリかな。オマツリ大好き。楽しいね。楽しい。あれもオマツリだった? わからない。あれはどこだった? どこだろう。ちょっと遠いかな。ニンゲンにはもっと遠い。ニンゲンてのろまだよね。うん。せっかちなのにね。うんせっかち。キャハハ!”


 と、要領を得ない話を長々としている。

 話が盛り上がった精霊が叫ぶと不快な風の音も追加されるが、それを耳元で聞かなければならないのだから、かなりストレスだ。

 次に現れた三本の分かれ道を、川に沿った左ではなく中央へ進む。


”ねえねえ。ねえねえ。オーウィンの子。オーウィンの十二番目の子。知ってる? きっと知らない。そうだね知らないね。あのね、ここは昔ロナロとネージュとカリロをつないでたんだ。ネージュとカリロにもオーウィンの子がいてね。四番目と五番目と十番目。三番目もじゃなかった? そうだっけ? そうだよ。そうか。みんなここを通った。上から行くより早いからね。うん早い。だからたくさんたくさん作ったんだよ。楽しかった。楽しかったね。でも大きな地震のせいでたくさん死んじゃった。それから妖魔が出てきた。そう出てきた。あのときもみんなでここに隠れたね。隠れた。それでオーウィンがボクたちを分けたんだ。ボクたちと水のと火のと地のと。でもカリロもネージュも滅んじゃったね。たぶんね。悲しかった。悲しい”

”ねえねえ。ねえねえ。アーギュストの子。さっき脅かしたのはボクたちだよ。びっくりした? したよね。だって待ちくたびれたんだもん。待ちくたびれた。待ったよね。だいぶ待った。だから脅かしたんだよ。待たせるから脅した。アーギュストの子野蛮だし。野蛮野蛮。嫌いだよね。嫌い。精霊はみんなアーギュストの子嫌い。嫌い嫌い。でもキミたちはマシって聞いた。聞いたね。だからここに運んだんだよ。運んだのはボクたち! やっとオーウィンの子とアーギュストの子がそろった。そろったね”


 風に乗っていた小石がおもちゃのように上下に揺れる。


”さあさあ。さあさあ。もうすぐつくよ。つくつく! ボクが待ってる!”

「ボク?」

”そう、ボクが!”


 一度高く飛び上がってから、急降下して小さな穴に入っていった。

 穴は一人ずつ、四つん這いで入らなければならないほど小さい。ジェラルドが顔を歪ませながらも率先して湿った地に膝をつき、リタ、ツバキと続いた。


「うわあ」


 立ち上がったツバキは眼前に広がる光景に圧倒された。

 はるか頭上にぽっかりと空いた穴――遠すぎて小さな穴にしか見えないが――から青空が見える。降り注ぐ陽光が塔のようにそびえ立つ乳白色の石筍群を照らし、何十メートルあるのかわからないほど高い岩壁は白銀や透き通った青に煌めいており、天から川が流れているような錯覚に陥った。

 よくよく見ると、煌めきの正体は鉱石だった。ツバキの見立てに間違いがなければ、ヴェアフィストという稀有な宝石の原石だ。カルバル国でのみ採掘されるはずの、別名月の石。質にもよるが、一グラムあれば平民が一生遊んで暮らせるという。


(ヴェアフィストの塊が、ごろごろと)


 巨神の住処に迷い込んでしまったような壮大な光景に軽い目眩を覚えた。


”やっと来た!”


 一列に飛んでいく小石につられて空を見上げると、純白の鳥がいた。その鳥とぶつかる直前に小石の列が崩れ落ち、鳥の体が一回り大きくなる。まるで、風がその鳥へ吸収されたようだった。

 ”もっと大きいのがいいよ””蝶にしようよ””方がいい”などと戯れる複数の声が風とともに降ってくる。


”ミミズクにしよう!”


 下降しながら姿形が変わり、顔が見えるようになってぎょっとした。胴体はミミズクだが、顔が正面と左右にくっついていたのだ。


 ミミズクはツバキの身長より高所にある岩壁の出っ張りに降り立つと、白い翼を大きく広げた。


”やあ、オーウィンの子とアーギュストの子”


 正面の顔が言った。


”オーウィンは寝ちゃったよ”

”寝ちゃった寝ちゃった”


 左右の顔が交互に言う。


”ずっと前からだけどね! キャハハ!”


 三つの顔が笑顔で言った。そして矢継ぎ早に会話を始める。


”オーウィン起きるかな”

”起きないかも”

”そろってないもんね”

”何がそろってないか教えてあげないと”

”でもボク飽きちゃった”

”ボクもボクも”

”どうする? 追い返す?”

”上へ飛ばそうか”

”ハナビみたいに?”

”ハナビ大好き!”

”人間でもできるかな”

”バラバラになる?”

”血の雨が降るよ”

”コワーイ!”

”キャハハハハ!”


 無邪気な笑い声が洞窟内に反響して空気を震わせた。

 耳が刺すように痛み、耐えきれなくなったツバキはしゃがみこむ。

 どくん、と心臓が大きく収縮し、急に全身が熱くなった。体の内側が膨張するような感覚に襲われる。


(く、くる……しい……)


 ツバキは荒い息を繰り返しながら体を起こした。

 違和感のある右手を広げて目を見張る。

 手の平に水が溜まっていた。いや、水を生み出していた。水滴がみるみる大きくなり、水の玉となった瞬間、大量の水がミミズクに向かって勢いよく噴き出す。


「”うるさい! 話が進まん!”」


 ツバキは口を押さえた。言葉はツバキの口から出たが、声はツバキの声と水の精霊の声が重なって聞こえた。

 全身ずぶ濡れとなったミミズクが体を振って水を払う。


”やーい、おこりんぼー! キャハハ!”


 言い捨てて飛び立ち、上空で旋回を始める。

 ツバキの手に残っていた水がまた噴き出したが、彼らには届かない。「”この体じゃなければ”」とツバキの口を使って悔しそうに呟く。


「勝手にしゃべらないでよ」


 ツバキ自身の言葉だ。体を乗っ取られたのかと焦ったが、そうではないらしい。


「精霊王はどこにいるの?」

「”風に訊け”」

「知らないの?」

「”奴が眠りについたのはワタシがの地に留まった後だ”」

「彼の地ってサタールのこと?」

「”人間どもの呼び名は知らん”」


 ツバキはミミズクを見上げた。案内する気はないらしく、自分たちだけでしゃべり続けている。


「風の精霊ってあんなにおしゃべりなの?」

「”個々では静かだが揃うと厄介だ”」


 水の精霊はかなり嫌そうに言った。


「何一人で話してるの」


 リタに呼びかけられ、はっとする。

 ツバキは水の精霊と会話しているつもりだったが、両方ともツバキの口から発しているため他人には独り言を言っているように見えただろう。


「あ、えっと。私の中に水の精霊がいて、私の声を使って話してるの」

「表情まで変わってたわよ」


 驚きと疑心が混ざった顔をするリタ。

 ツバキは急に気恥ずかしくなり、髪を弄りながら咳払いした。


「精霊王の場所は風の精霊にしかわからないみたい。地図に書いてないかしら」

「地図には明黎石に守られているとしか書いてなかった。でも私が知る明黎石は真っ黒なのよ」

「真っ黒?」


 辺りを見回しながら考える。

 陽光の美しさに気を取られていたが、広い洞窟内の大部分は陰湿な影の中。それでも周囲が見えるのは乳白色の結晶が淡く光っているからだが、その現象には発生要因があるはずだ。


「魔力を当てると光る鉱石があるように、この結晶は霊力で光るのかも。守護者の霊力を蓄えている間は光っていて、本来の色は黒なんだわ」

「じゃあこれ全部明黎石ってこと?」

「そう思う。でもまだこんなに光ってるなら、霊力がすぐに枯渇する心配はないのかな」


”最初は当たり~!”

”最後はハズレ~!”


 ミミズク姿の風の精霊が急降下した。突風に煽られてツバキの体がよろける。


”どうしてハズレか知りたい?”

”気になる?”

”気になるよね!”


 ツバキの周りを飛び回るミミズク。さっそくうざい、と水の精霊と意見が一致する。


”オーウィンの霊力はもうすぐなくなるよ”

”だって霊力が届いてないもん”

”届いてないからなくなっちゃう”

”キャハハハハハハ!”


 精霊王に霊力が届いていないならかなりまずい状況のはずだが、風の精霊は不気味なほど楽しそうに笑った。

 水の精霊が怒ったのか、また体が熱くなる。焦ったツバキは宥めるように深呼吸して、険しい顔のジェラルドに助言を求めた。


「どうしたらいい?」

「確かめるしかないな」

「どこにいるのかわからないわ」

「光が弱い石を探せばいいだろ。向こうがやけに暗い」


 ジェラルドが示した方角に目を凝らすと、確かに彼の言う通り今まで見てきたものよりも弱弱しい光があった。乳白色より灰色に近い。霊力を蓄えていない明黎石本来の色に戻りつつあるのだと予感させるような鈍い光。


”そう。あっちにいるよ”


 やっと案内する気になったミミズクが先導する。

 ツバキは再び角灯に火をつけると、温かい陽光に背を向け、冷気漂う薄闇へ向かった。

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