第11話 やっちゃう?

 力強くペンを走らせる音と、かすかにタバコの匂いがした。


(えっと……私、何をしていたんだっけ)


 長時間眠った後のように頭が重い。

 ツバキは薄っすらと目を開けた。見えたのは、誰かの右肩と腕。焦茶色の軍服を着ている。

 焦茶色は警察官の色だ。


(!?)


 まさかと思い、恐る恐る腕の持ち主を盗み見る。

 ロウの真剣な横顔が間近にあった。

 どうやら彼の膝の上で眠っていたようだ。仮眠用の毛布までかけてある。


(なんで!?)


「やっと起きたか」


 鋭い目のロウと視線がぶつかり、ツバキはビクッと体を強張らせた。

 なんて恐ろしいことをしていたのかと思うと同時に、初恋の相手と密着している状況にどぎまぎしてパニックに陥る。


「な、な、なんで私ここに!?」

「こっちが聞きたい。お前が上から降ってきたんだ」

「上から……?」


 ようやく先ほどまでレインといたことを思い出す。不可解な別れではあったが、前回と同じくレインが空間から出してくれたらしい。

 それにしてもよりによってなぜカオウではなくロウなのか、そしてなぜまた膝の上なのかとツバキは恨めしく思った。


「私、いったいどれくらいここにいたの?」

「一時間」

「そんなに? ごめんなさい。私も訳がわからないのだけれど、とりあえず降りるね」

「いや、このままでいろ」


 ドキッと胸が高鳴る。

 ツバキは今、ロウの膝に座り、がっしりとした体に寄り掛かり、落ちないためか腰に手を回され、怖いけれども整った顔が近くにある状態だ。このままここにいるのは色々な意味で心臓に悪い。


「お……降りる」

「だめだ」


 一層強く抱き寄せられ、ツバキの心臓がドキドキドキと激しく波打ち始めた。


「ど、どうして?」

「顔が青白い。体調がよくないだろう」

「そう?」

「ああ。……今は赤いが」

「えっ」


 恥ずかしくなり急いで頬を隠すと、いつも不機嫌そうなロウの表情がふっと和らいだ。貴重な笑顔を見てしまい、またもやツバキの胸がキュッとなる。


(からかわれているのかしら)


 ロウはおそらく、かつてのツバキの気持ちを知っている。

 告白することはなかったが、カオウにも気づかれていたのだから、態度でバレバレだっただろう。

 当時を思い出して身悶えそうになるのをぐっと堪え、指の隙間からちらりとロウの凛々しい横顔を見る。

 黙々と書類に目を通していた。


「忙しいならどこかで休ませてくれればいいのに」

「そうしたいが、あいにく今は寝かせられる場所がない」


 視線を巡らせると、確かに長椅子の上には両手で抱えるほどの大きな厚紙の箱がいくつか置かれていた。

 その中に物を詰めたためか部屋はほぼから、机上に常時積まれていた書類も残りわずかとなっている。


「どうしたの、これ」

「異動命令が出た」

「え、ほんとに?」

「帝都を離れる」

「どこへ行くの?」

「イリウム州だ。そこでモルビシィアの署長をやることになった」

「それって出世したってこと?」

「さあな」


 通常、レイシィア(平民の街)の署長よりもモルビシィア(貴族の街)の署長の方が立場は上だ。だが帝都から州へ異動となると、人によっては左遷という見方をする場合もある。特にロウは元平民のため男爵から陞爵することはなく、貴族街の警察署長となるのは出世というよりも嫌がらせに近い。

 そんな異動命令が下された理由は、先日のケデウム奪還戦の際、本来の任務に逆らって軍に加わったためだ。コハクを追ったせいだが現場を混乱させたのは事実であり、授印の責任は契約者であるロウにある。

 しかしロウは数日前にこの帝国のトップである友人から直々にあるお願いをされていた。この異動は彼が一枚噛んでいるに違いない。

 無論そんなことなど露ほども知らない彼の妹は、純粋な目でロウを見上げる。


「寂しくなるわ」

「カオウの能力があるだろ」

「……そう、ね」


 カオウの名前が出た途端ツバキの声が沈んだ。

 ロウは書類を作成しながら会話を続ける。


「喧嘩でもしたのか」

「そういうわけじゃないけれど……」


 言いあぐねたツバキは、床で退屈そうに寝そべっている黒豹へ目を向けた。


「コハクは軍施設出身なのよね。ロウはそのころのことも知っているの?」

「記録はもらったが読んでないな」

「なぜ?」

「知りたきゃ本人から聞けばいいだろ」

「そうなのだけど……」


 想像以上にあっさりとした答えだったので、ツバキは不満げに口を尖らせた。


「印を結んだ後のコハクについては何でも知っているのよね?」

「何でもはないな。昨夜もコイツはふらっと出かけたが行き先は知らん」

「気にならないの?」

「まったく」

「あ、そう」


 聞く相手を間違えたとツバキはむくれた。


「結局何が言いたいんだ」


 苛立ったロウに横目で睨まれたツバキはピシッと背筋を伸ばした。この睨みにはときめき要素が皆無である。

 ツバキはおずおずと小さな口を開く。


「私、印を結ぶ前のカオウのこと、何も知らないの。思い出話とかはたまに聞いていたのよ。でもどういう環境で育ってきたのかまでは知らなくて、秘密も多いんだって最近知ったの。今もそう。お兄様とばかりいて、機密が多い仕事なのでしょうけど、何をしているか教えてくれないし、なんだか私よりお兄様の方がカオウのこと知ってる気がするの。クダラがいるのもあるけれど……私に言えないこともお兄様には言えるのだなと思って……」


 ツバキの視線が徐々に下がっていく。ロウはモゴモゴ話すツバキに嫌気がさしたのか眉間のシワを深くした。仕事を続けながら片耳で聞くが、不安の吐露からただの愚痴へ話が逸れていく。


「……この前なんて久々にカイロへ遊びに行ったのに、カオウったらお兄様のことばかり話すのよ。しかも途中で呼ばれてすぐ帰っちゃうし。お兄様から呼び出し用の魔道具渡されてることもそのとき初めて知ったの。私に無断でそんなもの渡すなんてひどいと思わない? 私のカオウなのに」


 ぴたりとロウの手が止まった。

 切れ長の目が怪訝かつ憐れみを含んだ色に染まる。


「お前、あいつに嫉妬してるのか」

「ち、違うわ。私はただ、カオウにもうちょっと自由時間あげてもいいんじゃないかって……思って……」


 ツバキは毛布を引き寄せて口元を隠した。自分でも話が逸れていると気づいたからだ。


「カオウは聞かないと自分のこと話さないの。今までは近くにいたから何とも思わなかったけれど、こんなに離れてる時間が多いと、何を考えているかわからなくなる」

「カオウほどわかりやすい奴はいないだろ」

「ロウはわかるの?」

「あいつはツバキか食い物のことしか考えていない」


 「悩むだけ無駄だ」と言ったロウはペンを置き、片手で器用に書類を整え始めた。

 そんなに単純じゃないわとツバキは口籠りつつ頬を染め、ふいに見上げたロウにつられて壁掛時計へ視線を移すと、目を見開いた。


「もう夜の十時!?」

「迎えは来るんだろうな」

「迎え?」


 ロウが刺すような目つきでツバキを凝視する。


「城の上空に竜巻が発生したと部下が騒いでいた。まだ危険だからカオウがこっちに避難させたのかと思ったが違うのか?」


 ツバキは返答に困った。カオウではなくレインに瞬間移動させられたとは説明しづらい。


「えーっと、空間の中に逃げたのだけど、途中から覚えてなくて。気づいたらここに出たみたい」

「じゃあカオウがここへ送ったわけじゃないんだな?」

「そう……ね」

「ちっ」


 ロウは明らかに迷惑そうな顔で舌打ちした。


「よく考えたらカオウが俺に預けるはずないか」

「どうして?」


 きょとんとするツバキ。

 ロウは一度視線を外して何やら思案してから再び合わせた。さっぱりわかっていないツバキへ呆れる。


「カオウが不憫だな」

「?」

「送ってやるから行くぞ」

「ま、待って」


 ツバキは腰をあげようとするロウの服を引っ張った。


「もうちょっとここにいちゃだめ?」


 甘えた上目遣いで言ってみると、ロウのこめかみに青筋が立つ。

 さすがのツバキもびびった。殺気とはいかないまでも、肌がぴりぴり痺れているような気さえする。


「うう……。でもまだカオウと会う心の準備が……」


 話し合うべきことが山程あるとわかっているが、まだ頭の中が整理できていない。

 一向にカオウから思念での連絡がないのも気になっていた。授印ならばツバキが空間から出たと気づいているはずだ。

 ロウは膝から降りようとしないツバキを見て、小さく息を吐く。


「やっぱり喧嘩したんじゃねえか」

「喧嘩にもならないわ。そんな時間もないもの、今は」


 ツバキの碧眼に涙が溜まる。

 するとこれまで床で寝そべっていたコハクがむくりと起き上がり、机の上に飛び乗った。


『女を泣かせるなんてダメだなカオウは』


 黒豹の体が突然人間へ──獣耳付きの男性へ転化する。

 コハクは人間の年齢で十八歳ごろだ。

 ハリのある浅黒い肌に整った顔立ちと琥珀色の瞳は少年から大人へと変わる時期特有のあどけない色気を漂わせ、くっきりとした鎖骨と均整の取れた体は美しく、腹筋は見事に六つに分かれていた。

 なぜ腹筋が見えるのか。理由は素っ裸だからである。


「きゃあ!」


 ツバキは咄嗟に毛布をかぶせたが、コハクが上半身をツバキへ近づけたため、すぐに肩からずり落ちる。

 瞳を妖しく光らせたコハクは長い指でツバキの顎をクイッと上げた。


「コハク!?」


 驚きで瞬きすると、目に溜まっていた涙がこぼれる。

 それをペロッと舐められた。


「今夜だけカオウのこと忘れさせてやろうか。一夜のあやまち、やっちゃう?」

「!!!!」


 黒豹とは思えない色気に当てられたツバキは赤面して口をパクパクさせた。

 もしも彼に獣耳がなく、毛布から長い尻尾が出ていなければ、真に受けてしまったかもしれない。


「コハクったら。からかわないでよ」

「優しくするぜ?」


 コハクは艶かしく唇を舐めウインクした。


「もう!」


 ツバキが軽く睨むと、コハクは初々しいツバキの反応にふっと笑ってから黒豹の姿へ戻る。


「ロウも止めてよ!」


 コハクの契約者であるロウも、ツバキの睨みをしたり顔で跳ね返した。


「なによ。帰ればいいんでしょ」


 完全に厄介払いされていると感じたツバキは拗ねてロウの膝から降りる。


「大鷹で送ってってよね」

「阿呆。皇女を大鷹に乗せられるか」


 「馴染みの店で待つ」と言って、ロウは立ち上がった。迎えがなかなか来ないのは城の騒動が関係している可能性もあり、無闇に近づくべきではないと判断したようだ。

 ツバキは部屋の隅に寄ると、空間から栗色のウィッグを取った。服装も平民には到底見えないので変装用の外套で隠し、木製の前ボタンをしっかりとめてから振り返って──黒の長い外套ロングコートを着たロウの後ろ姿に目がくぎ付けになった。


 誰も寄せ付けないオーラを放ち、我が道を貫く信念のある人。そんな頼もしい大人の背中に胸をときめかせた日々は、甘酸っぱい思い出として、心の奥にしまってある。


(あのころは好きってだけで満足してた気がする)


 恋心を抱いたその先を共に歩きたいと願う人は。


「何ニヤついてる。早く行くぞ」


 知らずに上がっていた口角を誤魔化すように指で押したツバキは、扉を開けて待つロウの脇をすり抜ける。

 くるりと大きく振り返り、ロウと向き合った。


「カオウに会いたくなっちゃった」

「なら思念で呼び出せ」

「うん。それよりロウ、ちょっとしゃがんで」

「あ゛あ゛?」


 ドスの利いた声を返されるが怯まず目で命じる。

 渋々腰をかがめたロウの肩に手を置き、背伸びをして──頬へチュッと口付けた。


「!?」


 仏頂面のまま固まるロウ。

 ツバキはいたずらっぽく笑う。


「じゃあね、ロウ。イリウムへ遊びに行くから。コハクも元気で。やんちゃは程々にね」


 二人に背を向けたツバキは逃げるようにその場を去る。

 外に彼の気配がした。

 はやる気持ちのまま、ツバキは好きな人の元へ走った。

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