第9話 優しさか怠慢か 1
箱に閉じ込められたような息苦しいほど深い闇の中、獣の唸り声が聞こえた。
耳を澄ませども声の方角は判然とせず、目を凝らせども己の姿さえ見えない闇では無意味であった。
どこにいるの、と問う声は闇に吸われた。
ゆっくり目を開けたツバキが立っていたのは城にある自室の扉の前だった。
扉をわずかに開けるが音は聞こえない。
不審に思いながらも己が入れる分の隙間を開ける。
むせるような血の匂い。
血の道がツバキの足元へ忍び寄り、裸足にぬるりと血がまとわりついた。
扉を全開する。
床一面に広がった血。
ツバキの愛する者たちが無残な姿で空中に縫い付けられたように浮いていた。
腹に穴の開いた護衛、首のない魔物。
手足のない侍女たち。
喉を切り裂かれた女官。
一列に並んだ彼らの体の断面から血がどぶどぶと流れている。
叫び声は血に吸われ、代わりに獣の唸り声が聞こえた。
寝室へ続く扉であった。
歩を進める。
生ぬるい血が足を染め、一足ごとにぴちゃんと音をたてる。
──ぴちゃん。
────ぴちゃん。ぴちゃん。
──────ぴちゃん。ぴちゃん。ぴちゃん。
息絶えている者たちの横を通り過ぎたとき、彼らの体が地面に落ちた。
──ばちゃっ。
跳ねた血がツバキの体につく。
それきり動かない死体。しかしながら光を宿さない彼らの瞳がツバキを見つめていた。
恐ろしさで震えながら懸命に進む。
ようやく寝室へたどり着き、ゆっくりと開ける。
いつもと変わりない寝室。
ほっとしたのも束の間、ベッドで眠る人影にぎくりとした。
純白のドレスを着て手を胸の前で重ね、静かに横たわる人物の髪は白銀色。
ツバキ自身だった。
「おい」
突然呼ばれ振り返る。
全身血まみれのカオウがいた。
右手には剣。血に濡れた剣。
左手には猿の魔物の首。
「お前も俺からツバキを奪うのか?」
カオウが
飛び起きたツバキはあまりの息苦しさからしばらく浅い呼吸しかできなかった。
呼吸音が耳に届き、ようやく起きていると実感する。
夢で見た女官たちの死に顔が脳裏に浮かび頭を振った。
「あれは夢。大丈夫」
夢、と再度呟く。
息を整え、白銀の髪を梳きながらここがどこだったか見回した。
暗闇の中に栗色のウィッグ、化粧道具、質素なワンピース等、見慣れた物が浮かんでいる。
「私の空間? ……そっか。ウィンヒが来て、それで……」
人間になる方法を探していると言ったカオウを思い出し、ドクンと大きく心臓が跳ねる。
何も聞いていなかったツバキは愕然としてしまい、途中からの記憶がない。魔力を消費した影響もあるのだろう。今は意識こそ戻ったものの、まだ体は十分に回復していないようだった。
全身で空間に入るのは二回目だ。
出た方がいいのだろうが、外がどうなったかわからない。
「レインはいないのかしら……」
入ったときにはいたような、と朧げな記憶を頼りに空間をさまよう。
私物をぽいぽい投げていたおかげで、最初と比べれば寂しさは少ないが、相変わらずどちらが上なのか判別できないので奇妙な感覚は残る。
時間が止まっているというのは本当のようで、大分前に試しに入れてみた白椿は萎れておらず匂いもしなかった。しかし止まっているならなぜ自分は動けるのだろうと不思議に思いつつ、椿を下から支えるように手の平へ乗せる。
途端、椿の匂いがふわりと漂ってきた。
驚いて手を引っ込めると椿が落下し、ツバキの足元でぴたりと止まる。匂いはもうしなくなっていた。
困惑するツバキの耳に、誰かの声が届く。
「レイン?」
この空間に壁のようなものはないが、目がおかしいのか何もないと思っていた場所にレインの姿がぼんやりと浮かび上がった。そこにいる、と認識すると徐々に鮮明になっていく。
ややあって完全にレインの姿を捉えた。捉えて、呆れた。
「……いけー! そこだー!! きゃーすごーい!!」
楕円形の何かを見てスポーツ観戦のようなノリでキャーキャー叫んでいる。
ツバキが近づくと興奮した眼差しのままこちらを向いた。
「あ、気づいたのね。よかった。ちょうど今、みんなで緑色の龍を捕まえたところよ」
レインの前にあった楕円を覗き込むと、確かに、ジェラルドが作り出した影に包まれた緑龍が映っていた。宥めている様子のカオウもいる。どうやら空間へ入ってからそう時間は経っていないらしい。
彼ら以外にも上級魔物と印を結んだ衛兵たちが龍を取り囲んでいた。だがその中にもどこにも、トキツとギジーの姿はない。
夢を思い出したツバキの顔が蒼白となる。
「トキツさんとギジーは!? 城は無事? アベリアや皆は……」
「トキツとお猿さんは、さすがに龍に対抗できないから城内へ避難したわ。城はクダラが守ってるから無事。アベリアや侍女の皆もね。竜巻も消えたし、もう大丈夫でしょ」
「よかった」
ほう、と安堵すると、楕円を閉じたレインがムフフと微笑みながら顔を近づけてきた。
「なんかぁ、恋のライバルがぁ、現れてぇ、大変ねぇ」
明らかに楽しんでいる。
「目の前でぇ、チューされてぇ、嫉妬メラメラ~みたいな~?」
プフーッと笑うレイン。
辟易したツバキは目を閉じる。
「別に、嫉妬してません」
「またまたぁ。『私のカオウに何するの。このアバズレが!』とか言えばよかったのにぃ」
プフフーと笑いながらツバキの背中をバシバシ叩く。
「魔力勝負も見ごたえがあったけどぉ」
「見世物じゃないのだけれど」
「龍に対抗できるなんてさすがじゃない」
ツバキは急に恥ずかしくなり口をキュッと結んだ。
あれは頭に血が上って勢いでしてしまったことだった。なぜそんな無茶をしたのかと顧みれば、レインの言う通り嫉妬からだと認めるしかない。
「ウィンヒは本気ではなかったのだから、対抗できたとは言えないわ。遊ばれていたようね」
「そんなことないわよ」
レインは柔らかく目を細めた。
「あの龍はカオウとあなたの力を見くびり過ぎ。肉体年齢を越えたからって魔力まで越えてるとは限らない。それにあなただって万全の体調ではなかったでしょ。朝もカオウに魔力あげていたし、直前に力を使っていたもの。魔力操作がもっと上手にできるようになれば、あの龍が本気を出しても負けることはないわ。だから……」
両手でツバキの手を握り上目遣いでニコニコと、いや、ニマニマと笑う。
「訓練がんばって、第二回戦やりましょう☆」
「…………」
ツバキから不穏な空気を感じとったレインは「冗談よ」と手を離す。
「でもね、訓練はもっと本気でやった方がいいと思う。今日みたいなことがまた起こるかもしれないもの。直接的な攻撃魔法は防げるようにならないと」
きょとんとするツバキ。
「訓練したら攻撃魔法って防げるの?」
「あー、そうだわ。あなたが戦うなんて誰も想像していないものね」
レインはがっくりと肩を落とした。赤紫の長い髪が揺れる。
「魔力を体に纏わせれば攻撃魔法を弾けるの。そのためにはまず自在に操れるようにならなきゃいけないんだけど、今日の訓練を見る限り、壊滅的。全然ダメ。たぶんトキツは皇女に防御方法まで教える気ないでしょうね。カオウに頼んでも俺が守るとかカッコつけるだけだろうし。せめてこの空間に防御系の魔道具いくつか置いておきなさいな。龍には利かないけど」
投げやりに言い放つレイン。そんなにダメなのかとツバキは凹み、頑張ろうと決意する。
「直接ではない攻撃魔法を防ぐ方法はあるの?」
何気なく問いかけると、レインの顔つきが真剣なものに変わった。じっとツバキを凝視する。
「認識できなきゃ無理ね。すでにかけられていること、気づいていないでしょう?」
「…………え?」
「セイレティアは、ウイディラの森で何があったか覚えている?」
「それは、もちろん」
「言ってみて」
「飛馬車から落ちてしまって、助けを待っていたらカオウが迎えに来てくれただけよ」
「それだけ? 何か怖いことなかった?」
こくんとツバキは頷いた。
あの夜はカオウと共に生きると決心した大切な夜だ。忘れるはずがない。
しかしレインの目はそれだけではないと語っていた。
黒にも紫にも見える瞳は先程夢で見た闇を想起させ、胸中に不安が広がる。
レインがツバキの両肩に軽く手を置く。
「セイレティア。あなた、記憶を消去されているわ」
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