第8話 触らぬ皇女に祟りなし

「誰だお前!」


 カオウが少女を突き飛ばした。

 袖で唇を拭いながら睨みつける。

 深緑の髪の少女はカオウと同じ金の双眸を細めにこりと笑った。


「昔よく遊んでたじゃん。何度かふざけて転化したこともあるんだけどな」


 カオウは訝しみつつ少女をまじまじと見つめる。

 今の姿に見覚えはないが、深みのある髪色や勝ち気そうな笑顔の中に、見知った幼い少女の面影があった。何百年も前の話だ。


「……ウィンヒ?」

「そーだよ!」


 明るく笑ったウィンヒはガバッと抱きついた。

 カオウは嫌がるどころか、懐かしそうにウィンヒの頭をよしよしと撫でる。


「久しぶりだな。元気だったか?」

「もー。元気だったかじゃないよっ。この前、空に帰ってきてたんだって? どうして会いに来てくれなかったの?」


 この前とは、ツバキが空間へ入ったまま戻らなかったため、慌てて龍の国へ行ったときのことだ。


「悪い悪い。あのときはツバキのことで頭いっぱいだったか……ら…………」


 カオウの動きが止まった。

 呑気に昔馴染みと話している場合だろうかと思考がフル回転し始める。

 先程ウィンヒがしたことは何だったか。

 不可抗力とはいえ、かなりまずいのではないか。

 しかしウィンヒが起こした強風で目を開けていられなかったはず。すぐに離れたので、もしかしたら見ていなかったかもしれない。

 僅かな望みを賭け、恐る恐る、首が錆びついたようにぎこちなく、ツバキの顔色を窺う。

 新雪の煌めきのような清らかで美しい笑みをたたえた皇女は、氷の彫刻のような冷気をまとっていた。


「カオウのお知り合いなら、歓迎しなくてはね。紹介してくれる?」


 カオウの顔からサーッと血の気がひく。

 助けを求めてトキツとギジーを見たが、サッと顔を背けられた。


「ツ、ツ、ツバキ。誤解するな。こいつは俺の」

つがいだよっ」


 ウィンヒがカオウに抱きついたまま断言した。

 ギョッとしたカオウはウィンヒを振りほどく。


「おいっ。俺とお前がいつ番になったんだ」

「照れなくていいのにー」

「訂正しろ」

「噂通り、人間の食べ物って本当においしいんだね。気に入っちゃった。カオウのおすすめは何?」

「話を聞け! だいたいお前、何しに来たんだ」

「迎えに来たに決まってるじゃん」


 ツバキの瞳が揺らぐ。


「……迎え?」


 ツバキのつぶやきを拾ったウィンヒは、ツバキへ冷たい視線を向けた。


「カオウ、人間の雌と印結んだって本当? この人?」

「ああ。この国の皇女だよ」

「アーギュストの子……。こんな小娘がねえ」


 ウィンヒはツバキの頭からつま先までじろじろと厳しくチェックし、主に胸のあたりで目を留めると、ふふんと嘲笑した。


「随分貧相な体」

「!!」


 思わずウィンヒの胸を凝視するツバキ。

 サクラより大きかった。

 敗北感に打ちひしがれた。


「こいつが言ってるのは細すぎるって意味だぞ。気にするな」


 カオウの一言が追い打ちをかける。

 ショックと恥ずかしさで体がふるふると小刻みに震え始めた。

 そんなツバキを見たウィンヒはツバキを見下ろせる位置まで宙に浮くと、どうだと言わんばかりに胸を突き出す。


「カオウは返してもらうから」


 ツバキは自身を落ち着かせるため長く息を吐いた。

 年下に見えるが、龍ならば何百年も年上である。

 見下ろされるのも、小娘と呼ばれるのも、甘んじて受けよう。

 しかし。

 どうしても譲れないものはある。

 ──負けられない戦いが始まった。




 トキツの頭の中で、戦いの開始を告げる鐘が鳴った……ような気がした。


「面白くなってきたな」

「わっ!?」


 突然の声に驚くトキツ。

 右隣に腕を組んだジェラルドが立っていた。後ろには困り顔のクダラもいる。


「陛下、いつの間に」

「さっきからいたぞ」

「止めなくていいんですか」

「他人の修羅場は見ていて楽しいからな」

「…………」


 傍観者に徹するジェラルドを見習い、トキツは静かに前を向いた。




 自称つがいのウィンヒは宙に浮いてツバキを見下ろしたままだ。

 たわわに実った舐瓜メロンのような胸による精神攻撃は見事にツバキにヒットした。

 目の前でキスされたという衝撃もなかなか消えるものではないだろう。


 ツバキは一瞬怯んだものの、すぐに背筋を伸ばした。

 口角を上げて柔らかい印象を与えつつ、鋭い目で相手を威圧し、発言する気を消失させるという高度な笑みで対峙する。

 息を呑む美しさだ。訓練のため動きやすい質素な服を着ていたが、溢れる高貴さは隠せない。


「こちらの食べ物が気に入ったのなら、たくさんお土産を用意させるわ」


 遠回しに「帰れ」と告げる。

 皇女の眩いオーラを浴びたウィンヒも負けじと龍の威厳を保つ。


「たくさん用意して。カオウと二人で食べるから」

「カオウはここに残るから、空にいる他の龍の方々と召し上がってね」

「人間のくせに龍に命令するなんて何様のつもり?」

「ああ、申し遅れました。私はバルカタル帝国皇女、セイレティア=ツバキ・モルヴィアン・ト・バルカタル。初めまして、さようなら」

「喧嘩売ってんの!?」

「いいえ、"お土産"を"差し上げたい"の」


 にこりと微笑むツバキを見たカオウは笑いをこらえた。

 ジェラルドはさすが我が妹だと言わんばかりに満足気に頷く。

 トキツとギジーはこの場に立ち会う不幸を互いに慰めるように手を繋いだ。

 馬鹿にされたウィンヒはムッとする。


「……人間のくせに生意気」


 突如、切り裂くような強風がツバキを襲った。


「きゃあ!」

「ツバキ!」


 カオウが地面に倒れたツバキの元へ駆け寄る。

 頭は打っていないようだったが、頬から血が垂れていた。


「アハハハハ! あたしに歯向かうからだよ」


 勝ち誇ったように笑うウィンヒ。

 カオウは怒りを押し殺してツバキの血を袖で拭う。


「……お前、早く空へ帰れ」

「カオウと一緒じゃなきゃ嫌」


 つんとそっぽを向かれた。

 カオウは苛立ってため息をつく。

 ツバキは顔を傷つけられたショックからか、俯いたままだった。


「ツバキ、部屋に戻って手当してもらえ。こいつは俺がなんとかするから」

「嫌よ」

「へ?」


 拍子抜けするカオウをよそに、ツバキはすっくと立ちあがった。

 拳を強く握り、上空のウィンヒを見上げる。

 瞳に静かな闘志を宿していた。


「降りてきなさい。ちゃんと話をしましょう」

「アハハ。小娘が睨んでるー。全然怖くなーい」


 威嚇する鼠を嘲る蛇のように、ウィンヒは余裕の笑みでツバキを見下ろす。


「今度はその生意気な目と口を潰してやろうか」


 旋風が発生し、地に落ちていたクディルが風に乗った。

 勢いをつけるうちに、クディルが魔力に応じて動くと気づいたウィンヒは薄ら笑いを浮かべ、尖端をツバキへ向ける。


「ウィンヒやめろ!」


 カオウがツバキを庇い前に出る。

 だがツバキはその広い背中に手を置いた。


「カオウどいて」

「おい、無理するな」


 ツバキの魔力の質の高さは龍に負けてはいない。しかし操作技術はまだまだ低い。カオウと違い、敵対心むき出しのウィンヒを操れるとは思えなかった。


「いいから」


 怒れるツバキは忠告を無視しカオウを押し退けると、手を上空へ向けた。

 一瞬だけ旋回していたクディルが乱れるが、止まる気配はない。

 ウィンヒは「ふん」と侮蔑する。

 

「まさかそれが限界?」

「そうね、クディルは無理みたい」


 潔く手を下ろすツバキ。


「私流にやらせてもらうわ。……降りてきなさい」

「えっ」


 油断したウィンヒの体がガクンと沈んだ。

 風が止み、クディルが散らばり落ちる。


「な、何?」


 見えない力に引きずり降ろされ、ウィンヒの顔が青くなっていく。

 再び風を起こそうにも魔力の放出が上手くできなかった。必死で抵抗するが、もがけばもがくほど体は下へ降りていき、従いたいという思考さえ芽生え始めていた。胸の奥底に残る頑なな矜持だけで抗う。


「あんたがやってるの?」

「早く降りて……!」


 ツバキも今までにない抵抗に苦戦していた。

 少しでも気を抜いたらすぐ相手の力に飲み込まれてしまいそうだ。

 ウィンヒの足は地面から二メートルほど離れている。

 あと少しだが、急激に魔力を使っているためか意識が遠のき始めた。

 反発しあう二人の間の空気は亀裂が入りそうなほど張り詰めており、周囲の誰も入り込む隙はない。

 男性たちは固唾をのんで見守る。

 やがて、ドサッと音がした。

 先に地面に両手をついたのはウィンヒだった。


「……ありえない……」


 茫然とするウィンヒ。

 直後にツバキもよろめくが、カオウに抱き留められる。


「よくやったな」


 カオウは労わるように髪を撫でながら、誇らしげに微笑む。

 その表情は誰が見ても愛情に溢れていた。

 龍であるウィンヒが気づくほど。


「……そいつがいるから帰ってこないんだね」


 当惑したウィンヒは地面に爪を立てる。


「人間と印を結ぶだけでも罪深いのに」


 カオウはツバキを抱きながら、冷静に返す。


「印なら俺の親父だって結んでたろ」

「女神様から力を与えられた特別な人間とだもん」

「ツバキはその子孫だし、俺と同じくらいの魔力を持ってる。文句を言われる筋合いはない」

「……それが問題なんだよ、カオウ」


 怒りに震えたウィンヒは地面を抉って握りしめた。


「カオウと同じだって? そいつは、今のあたしにかろうじて勝ったくらいだよ。本当ならカオウは、もっと力があるはず。千年を生きた龍なんだから」


 ウィンヒの金色の瞳が龍のそれに変わった。


「転化後のその姿だって、全然成長してないじゃん」

「それは俺が、空間に長くいたことがあったから……」

「空間だけが問題じゃない。空に全然戻ってこないからだよ。龍には莫大な魔力が必要なの。聖樹の近くにいなければ、いつまで経っても成長できない。本当はわかってるんじゃないの?」


 ウィンヒはギリッと歯ぎしりしてツバキを睨んだ。

 ツバキは動揺してカオウを見上げたが、目を逸らされてしまった。

 背中に回っていた手も離れてしまう。

 「ははっ」とウィンヒが嘲笑した。


「何にも教えてないんだ」

「やめろ」

「カオウ、いい加減目を覚まして。地に縛られてないで、早く空へ帰ろう。完全な龍になりたいでしょう?」

「いいよ、俺はこのままで」

「人間なんてどうせ百年も生きられないんだよ!?」


 カオウは下唇を噛んだ。

 目を逸らしたまま神妙な顔で黙考する。

 ツバキに話していない事柄の多くは、過去のものだった。だが今考えているのは、未来に関することだ。

 それを、ツバキにではなく同族へ向けて話そうとしている状況を苦々しく思いながら、息を吸う。


「……だから、人間になる方法を探してる」

「は!?」


 衝撃を受けたウィンヒが憤怒の形相となり、髪と同じ深緑の魔力が体を包み始めた。


「そんなの絶対、許さない」


 カオウは急に耳の奥が重くなったように感じた。

 冷たい風がツバキの白銀色の髪を撫で、ふと空に目をやると、分厚い雲が異常な速さで動いていた。近くを飛んでいた空の魔物が一目散に逃げていく。


『カオウは転化後のあたしを見て、変だと思わなかった?』


 はっとウィンヒを見ると、彼女の口から鋭い牙が生えていた。

 パンッと何かが弾ける音が聞こえる度に体が膨張し、裂けた服の隙間から緑の鱗が露出する。


『あたしはここへ来る前、人間の前で龍にならないように、燐紫草の液を体中に塗ってきた。その影響で魔力は抑えられて、体も幼くなったの。本当のあたしはすでに、カオウを追い越してるんだよ。……体も、魔力もね』


 風の勢いが増してきた。

 気づけば、黒い雲の一部が地へ迫っている。

 砂埃が舞い、近くの木々がしなる。このままでは巨大な竜巻へ変化するだろう。


『破壊してあげる。カオウをこの地へ縛るもの、全て』


 凄まじい風が吹いた。

 吹き飛ばされたギジーをトキツが掴み、剣を地面に刺して必死に耐える。

 ジェラルドとクダラはウィンヒへの攻撃を開始したが、魔力を含んだ風に阻まれていた。


「ウィンヒやめろ! 無理して龍になるな!」


 燐紫草を塗ったまま龍になろうとすると激痛が伴う。

 我を忘れるほど激怒しているのだ。


「早く止めないと!」


 ウィンヒが完全な龍になって暴れたら城はひとたまりもない。

 雲が漏斗状に伸びてきた。一度発生してしまった竜巻はただの旋風と違い、時間が経つほどウィンヒでも止めるのは難しく、経路も予測不能になる。


「ツバキ、今は城内も危険だ。自分の空間の中に入れるか?」


 カオウは座り込んでしまったツバキの肩に触れる。

 ツバキは呆然と地面を見つめ、カオウの声も届いていないようだった。


「しっかりしてくれ。俺はあいつを止める。お前を守ってる余裕はないんだ」


 返事はない。

 この状態のツバキを瞬間移動させるのも危険だ。

 残った選択肢はカオウの空間へ入れることだが、長らく他人の空間にいると気が狂ってしまう。


「気絶させれば少しなら大丈夫か……?」


 悩んだ末、空間を作った刹那。

 中から白い手が出てきた。


「!?」


 突然現れた白い手がツバキを空間へ引っ張り上げた。慌てたカオウはツバキの足を掴む。


「な、な、なんだお前」

「いやあねえ、こんないい女を忘れるなんて」


 確かに聞き覚えのある声だった。

 空間の中にいた人物といえば。


「レイン!?」

「そうよ。お困りなら、あたしが預かってあげるわ♡ ちゃんとこの子の空間へ連れて行くから心配しないで」

「本当に大丈夫か?」


 カオウは警戒しながら手を離す。


「うふふ。ほとぼりが冷めたら出してあげる。あなたのところかはわからないけどねー」

「は? ちょっと待て!」


 カオウの怒声も虚しく、ツバキが吸い込まれた直後に空間は閉じてしまった。

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