第28話 一緒にいたいから。

 地面に転がった角灯の明かりがふわりと舞う雪を照らし、赤黒い雨を浴びたカオウに異質な雰囲気を纏わせる。

 黒いしずくはカオウの体を伝い落ちて、地へと消えていった。

 そんな恐ろしい場面さえ、ツバキの瞳には穢れを浄化していくような、神秘的な光景に見えた。

 本物なのか判然とせず、駆け寄るカオウをぼんやりと碧眼に映す。

 気づくと抱き寄せられていた。


「もう大丈夫だから」


 優しい声がツバキの不安を包み、確かな両腕が知らずに強張っていた体を緩ませる。


「助けにきてくれたの?」

「当たり前だろ」


 カオウが雪に濡れた白銀色の髪に触れる。

 髪先へゆっくりと下りる手に呼応するように、涙がツバキの頬を伝った。


「私、カオウに酷いことしたわ。傷つけることも言った。助けられる資格なんてないのに」

「俺が助けたかったから来たんだ。それに、資格なら……」


 続きが聞き取れず耳を澄ますが、それきりカオウは口を閉ざしてしまった。

 明かりを背にしている彼の表情もよく見えず、緊張だけが伝わる。もどかしさから胸をそわそわとさせていると、カオウは更にざわつかせることを言った。


「婚約相手と会った」

「シルヴァン様!?」

「会ってみてわかった。アベリアが言ってた通り、俺はツバキにはふさわしくない」


 喉に冷気が通る感覚がした。カオウの顔にかかる影のせいで、焦りが大きくなっていく。


(明かりが欲しい。ちゃんと顔が見たい)


 どんな表情をしているのかと、そっと冷たい左手を伸ばしたが、頬に触れるより早くカオウに指先をまとめて掴まれる。


「だけど勝手なことした」

「勝手なこと?」

「婚約、やめてくれって頼んだ」

「えっ」

「ウイディラからサタールの土地を取り返したら、シルヴァンが父親を説得してくれるって。それから、シュンの臣下になった」

「ちょ、ちょっと待って頭が追いつかないわ。カオウがお兄様の臣下?」

「ツバキにふさわしい男だって認めてもらいたいから」


 カオウはツバキの指を下から握り、手の甲にそっと口づけた。

 

「ごめんな。俺はツバキを諦めてやれない」


 どう返答すべきなのか、ツバキはすぐ考えられなかった。

 無言のまま立ち尽くしていると、ふいに、紺碧に輝く雪が二人の間に降ってきた。

 白に混じって一つ二つと増え、丸い光が二人を照らしていく。

 雲一つない空が粒となって落ちてきたようだった。

 完全に紺碧だけとなった雪は色を深くしながら地へ積もり、枝に積もり、森の闇を濃紺へと塗り変えていく。

 その変化を合図に、木々に隠れていた虫が飛び交い始めた。天からの恵みを喜び、体から緑や黄、赤色の光を発する。

 吸い込まれそうな紺色の中に宝石が散りばめられた世界は、ここが森であることを忘れさせるほど美しかった。


(でも……)


 幻想的な景色に見惚れていたツバキとカオウは、互いの瞳を見つめた。

 澄んだ碧色と、煌めく金色。


(一番綺麗なのは)


 トクントクンと胸が高鳴っていた。いつの間にか固く繋いでいた手は温かくなっており、二人の頬も淡く染まる。


「なあ、ツバキ」

「な、なに?」

「覚えてる? 八歳くらいのとき、始祖の森の湖の底に虹色に光る鱗があったろ。すごく綺麗だからってツバキが欲しがって、俺が取りに行った」

「そうだった?」


 記憶を巡らせてもさっぱり思い出せないツバキに、カオウは柔らかく微笑む。


「俺ははっきり覚えてる。他にもツバキが忘れてそうなこと、たくさん覚えてるよ。ツバキが思っている以上に、俺にとってこの十年はすごく大切なものなんだ。うんざりするほど長い年月を生きているけど、今が一番生きてるって感じがする。でもこのまま別れたら、全部つらい記憶になる。そんなのは耐えられない」


 カオウはツバキの手を離した。体を抱きしめていたもう片方の手も緩ませ、体を引き離す。


「今まで俺はツバキのそばにいた。寂しくないように。何があっても守るって約束した。……でもこれからは、ツバキが俺のそばにいて」


 金の瞳からしずくがこぼれた。

 初めてカオウの涙を直視したツバキの心が切なく痛む。

 背負うべき重責はもはやツバキを縛る力を持たなかった。

 離れてしまった温もりにまた触れたいという想いが、その想いだけが、体を突き動かす。


「私、カオウと一緒にいたい」


 倒れ込むようにカオウに抱きついた。


「でも怖いの。私はすぐにカオウを追い越してしまうわ。たった数十年で私はお婆さんになって、そして……あなたを置いていってしまう」

「俺だって怖いよ」


 カオウは震える声を絞り出した。自ら戻って来てくれた存在を二度と離すまいと、両腕の中にいだきながら。


「ツバキを失うことを考えたら、すごく怖い。でも。だからって、今諦めたくない」


 ツバキの耳にカオウの息がかかる。


「探すよ、一緒にいられる方法」


 カオウは紺碧の雪をそっと手で受けた。溶け残った銀粉を握りしめる。


「この世界には俺が知らないことがまだまだたくさんある。きっと……必ず、いい方法がある」


 ツバキはすがるようにカオウを見上げた。

 そんな方法がある保証はどこにもない。だが決意した彼の目は揺らぐことなくツバキの姿を映している。

 彼を見つめるうち、瞳の中の不安そうな自分の表情も徐々に和らいでいった。


「私も探す。カオウと一緒なら、なんでもできる気がする」


 声が消えると静寂が訪れた。

 よく考えれば、幼い頃と変わらない約束が将来の誓いになったのではと気づいて、ツバキは顔を赤らめる。

 ツバキだけを見つめるカオウの眼差しが熱いものへと変わった。

 どんな宝石よりも美しいと思った瞳が近づいてくる。

 期待と緊張が不思議な心地を生む。

 幻想的な景色の中にいるからなのか、確かに現実のはずなのに、ふわふわとした夢でも見ているようだった。

 自然と瞼が閉じていき、直前に見たカオウの唇が、ツバキの唇に──。


『やっと繋がった!』


 突然どこからか甲高い声が聞こえた。小動物の鳴き声のような。


「シュリ、起きたの?」


 服の中に綿の魔物がいたと思い出して外套の襟を広げると、シュリが慌ててよじ登ってきた。

 遠方にいる仲間を通じて誰かから話があるのか、ツバキの手の平で止まる。


『ツバキ様ご無事ですか!?』

「もしかしてサクラ?」

『はいっ。サクラです。カオウもいますか?」

「ええ、いるけれど」

『良かったあ、心配したんですよ。カオウがいるなら早く帰ってきてください。一刻も早く』


 シュリはサクラの言葉を伝えながら、ピョンピョンと跳ねる。

 切羽詰まった様子に首を傾げた。


「もう大丈夫だから急ぐ必要はないでしょう?」

『なにをおっしゃっているんです。危険はすぐそばにあります!』

「カオウといるから平気よ」

『その、カオウが!! け……ムグ』

「サクラ?」

『ツバキさまぁ、モモですぅ。大丈夫ですよ、お二人でどうぞごゆっくり……ンン」

「モモ?」

『カリンです。とにかく、お姿をこの目で確認するまで気が気じゃありません。カオウ、いいわね? 信用しているわよ』


 お帰りをお待ちしていますと告げて、シュリは伝言を終えた。

 伝言が相当慌ただしかったのか、目覚めたばかりだからか、キューと疲れた声で鳴き、また服の中へ戻ってしまった。

 相変わらず賑やかな侍女たちを想像し、ツバキはクスリと笑う。


「早く皆に会いたいな。あれ、カオウどうしたの?」


 ツバキがカオウへ視線を戻すと、彼はがっくり肩を落としていた。「あとちょっとだったのに」と、ぼそり。


 意味を理解したツバキは恥ずかしさから俯くが、カオウの肩に頭を預けたところでハッと気づく。


(私、カオウが好きなのよね)


 再認識した途端、全身がカーッと火照った。腰に回された手にも意識が向く。


(いつもこんなにくっついていたのよね、私たち)


 思い返せば昔あんなことやこんなことがあったと次々記憶が蘇り、なんてことをしていたのかと羞恥心で身悶えた。


「ツバキどうした? 寒い?」

「そ、そういうわけじゃ……」

「顔赤いけど、風邪ひいた?」

「!!」


 顔を覗かれ、さらに赤くなった。

 心臓の音がカオウに聞こえませんようにと願う。

 いつもと違う様子のツバキを心配したカオウはツバキの背中をさすった。


「カリンに釘刺されたし、帰ろうか」

「あ……」

「どうかした?」

「ううん。その……」


 ツバキはカオウの服の裾をキュッと握った。

 女官や侍女たちは、今か今かと帰りを待ちわびているだろう。

 いつも以上に世話を焼いてくれるに違いない。

 

(もう少し二人きりでいたいなんて、わがままかしら)

 

 何でもないと返答しようとしたとき。


「なあツバキ、上見て」

「上?」


 見上げたツバキの目が輝く。

 いつの間にか雪は止み、空には無数の星が瞬いていた。小さくとも強い光が再び暗くなっていた森に届く。

 カオウが感動していたツバキを抱き上げた。


「あと少しだけ、遅くなってもいい?」


 寄り添うような口調なのは、ツバキの心情を知ってか知らずか。

 同じ気持ちでいてくれることを、とても愛おしく思う。

 コクンと頷くと、カオウはゆっくり飛翔する。

 満天の星の下、冬の風が顔を撫でた。

 思わず肩に寄り掛かると、カオウの声が直に響く。


「今日の夜空は特に綺麗な気がする。バルカタルと星の位置が違うせいかな」

「そうかもね」


 ツバキはカオウの横顔をこっそり見つめる。

 それだけじゃないけど、と続けた言葉を風の音に潜ませた。

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