第20話 授印への気持ち
泣き腫らした目がじんじん痛む。
起き上がったツバキは腫れぼったい目元を押さえた。
寝所には四つベッドがあり、入って左端のベッドでツバキは寝ていた。隣とはツバキの身長よりやや高い衝立で仕切られている。
当初の予定では夜は城で眠るつもりだったがカオウがいなくなり帰れなくなったため、トキツが気を遣って置いてくれたのだろう。
そっと衝立の向こうを覗く。
隣のベッドは空だ。また涙が盛り上がってきて、浴衣の広い袖口でそっと拭う。
時計は暗くて見つけられなかったが、カーテンの下から薄っすらと光が漏れている。
お風呂は一日中やっていたはず。昨夜は結局入れなかったので入ろうと隣の部屋へ行くと。
『ダメだぜ外へ行っちゃあ』
ギジーが外へ通じる扉の前に胡坐をかいていた。ずっと起きていたのか、眠そうだ。
『トキツと交代で見張ってた。悪いけどもう一人にはさせられない』
「…………」
ツバキは無言で方向を変え、洗面所へ向かった。水で腫れぼったい目を冷やす。
身支度を整え、景色を眺めるように窓に平行に置かれていた少し硬めのソファへ腰かけた。ぎし、という音が寒々しく響く。
「どこにも行かないから、寝てもいいわよ」
『そんなわけにいかないって』
ギジーが扉の前から二回跳躍して隣に座った。
まん丸で黒ぶちの目をくりくりさせてツバキの顔を凝視する。
『目ぇ痛いのか?』
「ちょっとね」
人なら気を遣って凝視なんてしないだろうに、やはり人の言葉を話しても魔物は魔物だ。その隔たりを感じ取ってストンと腹に落ちる。その些細な隔たりの積み重ねがカオウとの間にできていたのだと。ツバキが気にしてカオウが気にしない部分、カオウが気にしてツバキが気にしない部分があったのだと。
ツバキは青白い色に染まり始めた空を飛ぶ象の魔物に目をやった。まだ飛び慣れていない子象なのか、よろめきながら、体を覆えるほど大きな耳を懸命に羽ばたかせている。
あの子象も、実年齢はツバキよりうんと年上に違いない。
「ギジー。あなたは本当は何歳なの?」
『おいらは百ちょいだな』
「ちょいってどれくらい?」
『んー。十年くらいだな』
ちょっとが十年か……とツバキは心の中でつぶやいた。
「授印になったのはトキツさんが初めて?」
『二人目だ』
「えっ。そうなの? 前の人は?」
『死んだ』
ギジーの背中が丸くなって、ツバキは愚問だったと気づいた。
「…………ごめんなさい」
『いいって。覚悟はしてた』
「どんな人だった?」
『無茶苦茶頑固ジジイだった。すぐ怒るし。貧乏だし』
「それでも授印になったの?」
『キシシシ。なんでだろうなー。むかつくのに、結局二十年くらい一緒にいたなあ』
懐かしむような笑顔に変わる。
それだけ長い時間を一緒に過ごして、失った悲しみをどう乗り越えて、どんな思いでトキツと契約したのだろう。
「あの……。言いたくないならいいのだけど……」
『なんだ』
「トキツさんと印を結ぶとき、迷わなかった? また……同じ悲しみを味わうかもしれないのに」
空をぼんやり眺めていたギジーは、『ちょっとは考えたけど』とつぶやく。
『トキツもそいつの知り合いだったんだよ。死んで寂しそうにしてたし、なんとなく気があったから、それほど躊躇わなかったなあ』
「……そう」
気落ちしたツバキの声に、ギジーは眉尻を下げた。
『本当は何が言いたいんだ?』
首を傾げてツバキの顔を覗きこむ。
その丸まるとした魔物の瞳があまりに純粋で、ツバキの胸がチクリと痛んだ。
「ある人に言われたの。カオウの長い人生にとって、私の人生は人間で言えば一・二年程度にしかならないって。あの子とは十年以上のつきあいで、私の中に占めるあの子の割合はとても大きいのに、あの子にとって私は一瞬だけの存在なんだって知って、とてもショックだった。私が死んだらカオウはきっとすぐに忘れてしまうわ。そのことがたまらなくつらい」
ギジーは頭の天辺をポリポリと掻く。
『おいらだって、前の奴を忘れたわけじゃないぜ。今でも思い出して……悲しくなることもある』
思い出したのか、ギジーの大きな目にも涙が溜まった。慌てて首を振る。
『たっ。たまにだぞ、たまに!! 泣いてないからな!! ……とにかくだ。あんまり難しく考えなくていいんじゃないか? 言っとくがな、人を餌と思ってる魔物もいるぞ。印を結んですぐ魔力を吸い尽くして殺す奴だっているし、味に飽きたらすぐに乗り換える奴もいる』
「そうなの?」
『人間だってそうだろ。一途な奴もいれば、とっかえひっかえする奴だっている。魔物の寿命は人間より長いけど、それでも一年は一年だよ。何年も一緒にいるってことは、それだけ大事に思ってるってことだ』
「そう……なのかな……」
『本当にカオウとはもう一緒にいられないのか?』
「無理よ」
昨日のカオウを思い出してまた涙が溢れた。
ツバキは彼の気持ちに応えられないとわかっていて、婚約のことを隠していた。
一緒にいることがあまりに心地良く、ツバキにとって当たり前のことだから。無駄なあがきだとわかっていて少しでも長く一緒にいようとした。
とてもとても大切な存在へそんな仕打ちをしたのだ。
完全にツバキの我がままだ。カオウの気持ちなど考えていない。
それでもあまりに違う寿命に愕然とし、すぐに忘れられてしまうのが嫌だと拗ねている。
なんて自分勝手なのか。
『あのよぅ。ツバキは、カオウが好きなのか? そのぅ、男として』
ためらいがちの問いかけに、首をどちらにも振らず、両目を手で覆う。指の隙間からぽたりぽたりと雫が落ちる。
(本当に好きになったら、相手の気持ちを優先させたはず)
ツバキにはそれができなかった。
どうしても、できなかった。
だからこの気持ちは、五歳のころから抱いているものと少しも変わっていない。
変わっているはずがない。
「……そんなわけないじゃない」
ぽたりとまた雫が落ちた。
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