第10話 残念ながら
平民の教育は貴族のように義務ではない。しかし教育に力を入れているエイラトでは平民でもほぼ全員が中等部まで通っている。そしてその中で優秀な者が高等部、大学へと進み、ほんの一握りの者が文官となれる。エイラトは他州より多く平民出身の文官を輩出していた。
今年十六歳になったアフランは高等部の年齢だが、ロナロでは初等部相当の教育しか受けられなかったため、特別学校(個人の学力に合わせて教えてもらえ、時間も融通が利く)へ通っている。飲み込みが早いので面倒見のいい先生が駆け足で教えてくれており、再来年には高等部卒業資格をもらい、大学へ行きたいと考えていた。
そして文官を目指していたのだが、文官になるにもバルカタル帝国では魔力が重視される。魔力の低いアフランが文官になるにはそれを補うほどの優れた何かがなければならない。
コネもお金も才能もないアフランには高い壁のように感じていた。
昨日は霊力があるとわかったが、それでも、精霊信仰は貴族には異端だ。疎まれこそすれ、強みにはならないだろう。
(やっぱり文官になるのは諦めるべきかな)
そんなことを考えながら学校を午前中で切り上げたアフランは、自分の目が信じられず頬をつねった。昨日の緊張感はどこへやら、店の前では呑気な光景が広がっていたのだ。
「ふんわりとろ~りチーズパンはいかがですかー」
両耳の下で髪を縛り大きめのリボンをつけた美少女が、道行く人にパンの試食を勧めている。動くとピンク色のエプロンの裾がふわりと可愛らしく揺れ、満面の笑みで迎えてくれるものだから、男女問わず大勢の客が引き寄せられていた。
(あれって、皇女様だよね……?)
まさか叔母さんが皇女と知らずに働かせた?と焦り裏口から店に入る。
忙しなくレジの対応をする叔母夫婦が上機嫌で迎えてくれた。
「お帰りアフラン。あなたの友達すごいわねえ。ちょっと外に立ったらあれよあれよと言う間に人だかりができたの。今日は早々に完売しそうよ」
「まさか無理矢理立たせたんですか?」
「あの子が自分から手伝うって言ってくれたのよ」
それにしても……とアフランは店の外で元気よく呼び掛ける皇女へ目を向ける。
バルカタルという強大な帝国の皇女が気さくに平民に話しかけ、敬語を使い、頭まで下げていた。誰かが失礼なことをして不興を買わないかそわそわして仕方ない。
やめさせるべきかと狼狽していると、諦めの境地に達した顔のトキツに呼び止められた。
「迷惑じゃなければ好きにさせてやって」
「迷惑ではありませんけど……。あのう。あの方、本当に皇女様なんでしょうか?」
「残念ながら」
「はあ。ツバキ様って病弱で儚いって聞いていたんですが」
「……だよなあ」
哀愁漂う表情を浮かべるトキツ。彼は本人と出会うまで、第三皇女セイレティアは魔力が低く病弱な深窓の令嬢だと思い込んでいた。
「カオウさんとギジーさんは?」
「ギジーは俺の肩に乗ってる。カオウも姿消してどこかにいる」
アフランはトキツの肩を見るが何も見えない。そっと肩の少し上あたりに手を伸ばすと柔らかい何かにあたり、『おっおい。そんなとこ触るなよぅ』とくすぐったがる小さな声が聞こえた。
「あっ。すみません。本当にいるんですね。カオウさんも本当に魔物だったんですね。どこにいるんでしょう」
「さあ。ツバキちゃんの近くにいると思うけど」
ツバキは心底楽しそうに通りすがりのおばあさんと話していた。試食した人を店内へ誘導するのも忘れない。ツバキの周りにカオウはいるはずだとトキツが注意深く観察していると、男性がツバキの肩に触れようとした。しかし男性の手が見えない何かに阻まれる。男性は不思議そうに自分の手を見て、また肩に触れようとしたら今度は体が後ろによろけた。
それで確信する。カオウはツバキの真後ろにいる。守るように。
トキツは内心ため息を漏らした。以前カオウはツバキが他の人を選んだら諦めると言っていたが、あんなに過保護で本当に諦められるのだろうか。
(無理だろうな)
きっと連れ去ってしまう。
そもそも、陛下もそれを見越してギジーの透視能力を持つトキツを雇ったのではないかとさえ思う。
損な役回りだなとトキツは自嘲した。
イーヴィル湖は広い。精霊に会いに行くとしても、湖のどの辺りへ行けばいいのか悩む。さらに誰にも見られない場所となると、観光船もでているような湖では探すのが難しいかもしれない。
そんなアフランの心配は杞憂だった。
「精霊信仰の信者のおばあさんが言うには、ウォールス山側に水の精霊の祠があるらしいの。モルビシィア(貴族の街)だから、人は少ないみたい」
手伝いを終えた皇女が、にこにこと嬉しそうにそう報告する。試食を提供しながら、集まってきた人たちに湖について聞いていたのだ。
感心したアフランは手をポンとたたく。
「情報を集めるためにあんなことしたんですね。そうですよね、皇女様が働くなんておかしいなって思ったんです」
「あー……うん、そうそう」
皇女はぎこちなく答えながらなぜか視線を遠くへやり、トキツがそんな皇女を半眼で見ている。何か変なこと言ったかなとアフランは首をかしげた。
というわけで、その祠があるとされる場所の近くまで瞬間移動した。アフランはカオウの力を知っていたが、胃が浮く感覚が苦手のようで、しばらく胃のあたりを押さえている。
きょろきょろと辺りを見回すツバキ。
ここはウォールス山の西側の麓だった。昨夜降った雨で足場が悪く草木のこもった臭いがまとわりつく。
「この辺だと思うけど。トキツさんかギジーは何か見える?」
「どんな祠?」
「大きな穴の空いた石らしいけど」
しかしトキツとギジーが協力して能力で探しても、それらしきものは見当たらなかった。かろうじて残っている細い山道を下っていく。歩を進めるたびにぬるっとした土がぬちゃぬちゃと音を立てて気持ち悪かった。
先頭を歩いていたカオウが突然立ち止まる。足元ばかり見ていたツバキは彼の背に顔をぶつけた。
「どうしたのカオウ?」
「この辺になんかいる」
「何?」
「見えないけど、やべー奴」
緊張をはらんだカオウの声に不安になり、腕につかまる。
全員が立ち止まると、しんとした静寂が不気味さを助長させた。
どうするのかとカオウの袖を引っ張ろうとしたとき、後ろにいたアフランが横を通った。
彼はだらんと力なく両腕を垂らし、歩いているというより、何かに引っ張られるようにガクンガクンと足が動いている。
「……アフラン?」
腕を引いて彼の顔を覗く。
ゾクッと身の毛がよだった。
アフランの目がなかった。眼窩には澄んだ水が溜まっており、揺れて零れた水が涙のように何本も筋をつくっている。
アフランはツバキの手を振りほどき、道を外れて茂みの中を歩いていった。
「ア……」
「待って」
呼び止めようとしたツバキをカオウが遮る。
「このままついていこう」
アフランはなおも引っ張られるように歩いていく。ぬかるみに足首まで浸かっても、彼の背ほど高い草が顔にあたっても構うことなく進む。
ツバキは迷子にならないようカオウの服を掴んだ。自分より高い草のせいで先が見えず、何が待っているかわからない恐怖が背中に絡みつく。
五分ほどして草むらから抜け出すと、アフランがこちらを向いて立っていた。その後ろには大きな穴の空いた石。
「あれが祠?」
祠の周りには四本の青い柱が建ち、祠の上で四角形を作るように麻縄が張られている。
アフランはその麻縄の中にいた。
目はまだ戻っていない。ただ、目から滝のように流れる水がゼリー状になって足元へボタボタと落ちていく。まぶたも少しずつ下がり、完全に閉じたときには水の固まりはアフランの膝が隠れるほどの高さになっていた。
最後の一滴がそれに吸い寄せられる。
「え?うわっ……なんだこれ!?」
正気に戻り驚いて後退るアフランを水の固まりが捕らえた。
固まりは長細くなり、髪の長い女性のような形に変化する。右腕でアフランを抱いたまま、左手に変わった部分でおいで……おいで……と手招きし始めた。
「つ……ついてこいってこと?」
震える声で呟くと、顔の口にあたる部分がニタアと嗤うようにさける。そして手招きしていた左手で祠に触れた瞬間、アフランごと石の穴の中へ吸い込まれていった。
茫然と立ち尽くすツバキたち。
ツバキは恐怖で足がすくんでいた。
すぐ後ろにいたアフランの体が何の前触れもなく不気味な水に乗っ取られ、祠へと吸い込まれたのだ。精霊の力の強さを見せつけられた気分だった。
カオウの服を掴む手も震えている。
こんなことができる精霊に助けが必要なのだろうか。トキツが懸念した通り、何かのワナなのかもしれない。来たことを後悔し始めていた。
だがアフランが連れ去られた以上、助け出さなければならない。
「私、行ってくる」
「んじゃあ俺も」
『ええ!おいらはちょっと……』
トキツの肩に乗っていたギジーが血相を変える。
「トキツさんとギジーはここで待ってて」
「俺も行くよ。ギジーは待ってろ」
『まじかよっ。一人は嫌だ』
肩に乗ったまま体を思いっきり前後に揺らすギジー。トキツの頭もぐわんぐわん揺れた。
「思念が届くかわからないから、夜になっても帰ってこなかったらエレノイア姉様へ連絡してくれる?」
『え、縁起でもないこと言うなよぅ』
情けない顔をするギジーを置いて、三人は祠の前に立つ。
見た目は何の変哲もない石で気配も何も感じないが、それが余計に不安を掻き立てる。
心臓が恐怖で大きく鼓動していた。
「ツバキ」
震えながら祠へ伸ばした手にカオウの手が重なる。
反対の手で抱き締められ、背中に体温を感じた。
「絶対離さないから」
頭上から降ってきた声が体の中に浸透して勇気に変わる。
大きく息を吐いて、吸った。
「行こう」
祠の天辺に触れる。
ぐらりと上下逆さまになる感覚。周りの景色が反時計回りにぐるぐる回り、ギジーの白い毛が瞼の裏に焼き付いた記憶を最後に、意識が遠のいた。
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