第9話 精霊の言葉
「こ……皇女様!?」
「あっ。立ったままでいいから。あと、ここでは皇女様はやめてね」
ツバキは、
それでも顔を伏せたままの二人。皇女の扱い方なんて知らないと、チラチラ視線を合わせる。
「精霊は他に何か言っていた?」
「は、はい。えっと……」
アフランは水たまりの中へ視線を落として奥の魚を見る。
ツバキの目には床しか見えないが、水面は不自然に揺れていた。
「『アーギュストの子、湖へ行け』と言っています」
「湖……。この近くにある湖というと、隣街にあるイーヴィル湖のことかしら」
アフランたちが暮らすレイシィア(平民の街)の隣にあるモルビシィア(貴族の街)には街の半分を占めるほど大きな湖がある。以前温泉に入ったときに見た湖だ。
「その湖に何かあるの?行ったことはある?」
「いえ。平民は高い通行料を払わないとモルビシィアへ入れないので、行ったことはありません」
平民のモルビシィアへの通行可否は州によって異なる。帝都は許可制(侍女や宅配業者など仕事で必要なら許可証がもらえる)で、イリウムは自由、エイラトは許可証がなくても通行料を払えば、つまり金持ちなら可能だ。
アフランがまた水たまりの声に耳を傾けた。
「また『湖へ行け』と言っています」
「とりあえず行けってことね」
「ちょっと待って。危険かもしれないのに行かせるわけにはいかないよ」
トキツがしかめっ面をしている。ツバキの突飛な行動を諫めるのも護衛の仕事のうちだ。
「だけど、始祖の名前を出されたのだから行くべきだと思うの」
「そいつらがツバキちゃんに危害を加えない保証はないだろう」
「それは……」
ツバキは温泉で深い闇へ引きずり込まれたことを思い出し身震いした。あのときは思うように体が動かず、テスが助けてくれなければ溺れていたはずだ。
「水のある場所には近づかぬよう」そう姉も言っていた。あれが精霊のせいだったなら、次は何をされるのかわからない。
だが、無視もできなかった。
「ねえアフラン。ティデェンって言葉はわかる?精霊の言葉だと思うのだけれど」
「ティデェン……」
アフランの言葉に呼応するように水が跳ねる。
「ティデェンなら、助けてって意味だそうです」
「助けて?精霊が助けを求めているの?」
突然、水が苛立ったようにバシャバシャ跳ね始めた。
ツバキの足元にかかり、その水が足にまとわりつく。
人の手のような形へ変わり、足首を掴まれてぐいぐい引っ張られた。
「きゃあ!」
「ツバキ!」
カオウがツバキを抱き上げ、足に絡みつく水を蹴り落とす。
すると水飛沫は小さくなり、やがてピタリと止まった。
「……いなくなりました。湖へ来いと言って」
アフランがそう教えても、ツバキの体は小刻みに震えていた。カオウが背中を撫でて落ち着かせる。
トキツは目を細めた。
「やっぱり危険じゃないか」
「それだけ必死ということでしょう」
「何かあったらどうする」
「だ、だけど」
ツバキはカオウを見上げた。
「カオウはどう思う?」
「俺は精霊なんてどうでもいい。でもツバキが気になるなら行けばいいよ。ちゃんと守ってやるから」
カオウに頭を撫でられ安心して微笑むツバキと、呆れて小さくため息をつくトキツ。
「あ……あの、皆さん」
おずおずとアフランが場の雰囲気を変えるように割って入った。
「ここでは何ですから、もう少し落ち着いたところで話しましょう」
そう言って通されたのは、店の二階にある住居だった。
そこで改めて自己紹介を終える。
ルファは店の手伝いがあるので、アフランは一人で皇女を相手にドギマギしていた。
「えっと……ちょっと待ってください。ツバキ様は皇女様で、カオウさんはあのとき助けてくれた男の子で、しかも魔物だったんですか!?それでトキツさんがあのぼさぼさ頭の人?」
「うん、俺だけインパクト弱いな」
トキツがツンツンした髪をなでる。キシシシシとそれまで姿を消していたギジーが笑った。
ツバキは難しい顔をしたままだ。
「ちょうど精霊とロナロの関係について教えてもらいたくて来たの」
本はさすがに黙って持ち出せなかったので、菱形と五芒星の図形をメモした紙を渡す。
精霊信仰は公に言えない宗教だと知っていたアフランは口籠っていたが、ツバキが誰にも言わないと約束すると恐る恐る教えてくれた。
「確かにこれは精霊信仰にも用いられています。精霊が眠る場所を指しているそうです」
アフランは身に着けていた首飾りを服の中から出し、五芒星の天辺を指さす。
「この星の頂点がロナロで、ロナロはすべての精霊の加護がある土地だそうです」
「すべての精霊?」
ロナロは帝都とケデウム州に挟まれている。しかし水の精霊の加護があるエイラト州のように、帝都で精霊の加護があるという話は聞いたことがなかった。精霊信仰が禁止されたのは約三百年前だが、エイラト州は約二百年前に統治したから精霊の話が伝わっているのかもしれない。
「ロナロの人たちには霊力があるの?」
「どうなんでしょう。僕も精霊を見たのは今日が初めてです」
ツバキは顎に手を当てて考え込む。
今日が初めてだとしても、精霊が見えたのならアフランたちには霊力があるということだ。
つまり、魔力がない普通の人間だと思われていたロナロの人たちには、実は霊力があった。
だがそれなら今まで見えなかった理由がわからない。
「ねえカオウ。あなたも何百年か前は見えていたのよね?霊力があるの?」
カオウはアフランが出してくれた、ジャムがたっぷり包まれたパンをおいしそうに頬張っていた。精霊の話には全く興味ないらしく、突然話題を振られて迷惑そうだ。自分のグラスが空になっていたのでツバキのお茶を勝手に取り口の中のものを飲みこむ。
「魔物と違って、精霊は姿を見せてくれたら霊力がなくても見えるもんだ。姿を消されたら霊力がないと見えないけど」
「じゃあ昔は姿を見せてくれたってことね。なぜ隠れたか知ってる?」
「さあ。クダラなら知ってるんじゃね?」
考え込むツバキ。この国のことは小さいころから習ってはきたが、精霊については教わっていない。
精霊が見えなくなった理由はひとまず置いておくとしても、なぜ精霊は湖へ行けと言うのか、なぜ助けを求められるのか、やはりここで考えていても答えは出ないことばかり。
「トキツさん」
正面に座っていたトキツは呼びかけられて険しい顔になる。
「危険なことはわかってる。だけど、放っておくわけにはいかないと思うの」
「どうして?」
「精霊は始祖アーギュストの子と言った。もし、私がこれを無視して帰ってしまったら、今度はエレノイア姉様の元へ行くかもしれない。州長官である姉様の手を煩わせるわけにはいかないわ」
「エイラトで起きているなら州長官が対応すべきだと思うけど」
「まだ何もわからないのだから、自由に動ける私が行くべきなの。それに私にはカオウがいるもの。危険だと思ったらすぐに逃げられる。そうでしょう、カオウ?」
「うん」
隣に座っていたカオウがツバキの手を包む。頼られて嬉しそうだ。
固く手を握り合って見つめ合う二人を見て、トキツは頭を掻きむしった。
精霊の声だろうがなんだろうが、護衛である以上皇女を危険な場所へは行かせられない。しかし止めたってカオウがいれば勝手に行ってしまう。それなのに怒られるのはなぜかトキツだ。こんな頑固で自由な皇女の行動をどうやって止めるのか、誰か見本を見せてほしいと切実に思う。
「あのう。僕も行ってもいいでしょうか」
「はあ!?」
アフランがおずおずと申し訳なさそうに申し出た。
「通訳が要るかもしれませんし、僕も気になります。精霊が困っているなら信者としても放っておけません」
「いや、まだ行くと決まったわけじゃ」
「お願い、トキツさん」
ツバキとアフランにウルウルとした目で見つめられる。
ぶんぶんと首を振った。
「さすがに精霊相手じゃ守れる自信がない」
ちらりとカオウに視線を送る。カオウは面倒くさそうに肩をすくめた。
「まあ、なんとかなるだろ」
むむむ、と眉根を寄せるトキツ。
暴風雨に一人で立ち向かっている気分だった。抗っても止められないなら、風が吹いていく方向へ身を任せるしかない。
「……わかったよ」
憐れんだギジーがポンとトキツの肩に手を置いた。
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