第8話 パン屋

 緑色のとんがり帽子のような屋根の店から、焼きたてパンの香ばしいにおいが漂ってくる。ふんわりもちもち食パンと美少年店員が評判の店だ。今も道行く女性たちがちらちら店内を覗いている。


「また戦になるのかねえ」


 五十代くらいの女性客の不安げな声に、話題の少年は紙袋を渡しながら「どうでしょうね」と曖昧に答えた。最近、ウイディラが次はケデウムを攻めるのではという話題で持ちきりだ。


「ケデウムは治安が悪くなって、物価も随分上がってるそうだよ」

「それは困りますね」

「バルカタルが負けるわけはないだろうけど、怖い話だね。じゃあアフラン、またね」

「ありがとうございました」


 アフランが笑顔で常連客の女性を見送ると、隣で一緒に接客していた二十代後半くらいの小柄な女性が肩を叩いた。


「勉強が忙しいのにごめんなさいね。今日はもう上がっていいから」

「はい、叔母さん」


 店の奥の厨房へ行くと、茶色いもじゃもじゃ頭の弟がバターを生地で包んでいた。


「ルファ。お昼ご飯食べた?」

「うん。サンドイッチ作っておいたよ」

「ありがと」


 アフランは厨房のすみの椅子に座りハムとチーズとレタスを挟んだサンドイッチを頬張りながら、近くに置いてあった新聞を手に取る。アフランもルファも読み書きが上達し、今は新聞もスラスラ読めるようになっていた。


 アフランは新聞を悔やむような、悲しむような目で眺める。視界に入っている記事のことを考えているわけではない。


「ルファ。あの記事、見た?」


 麺棒を転がしていたルファの手が止まる。苦々しく眉を寄せた。


「あー……。うん」


 何も言いたくなさそうだったのでアフランは視線を新聞に戻し、二枚ほどめくる。そのページの小さな小さな欄には、彼らにとって新聞の一面記事より重大な出来事が載っていた。


 【即位パレード襲撃犯 死刑執行】


 記事は犯人の名前、処刑日時・場所・方法だけの簡単な内容のみ。重大な事件にしてはあまりに小さい。皇族の威光に影を落とすような記事はこんな扱いなのだろうか。それとも犯人が住んでいた村に配慮してなのだろうか。犯人はアフランとルファの故郷ロナロの村長を含めた数名の男たちだった。


 皇族を敬う一部の過激派がロナロ村を襲撃する可能性を考えて、新聞では事件の翌日も村のことには触れていなかったが、数日後に発売されたゴシップ誌では犯人がロナロの者たちであることが書かれていた。皇族陰謀説をよく掲載している雑誌には、すでにロナロ村は国軍によって全員処刑されているという記事さえあったらしい。そんな話アフランは信じていないが、その証拠に現在ロナロ村は封鎖されて誰も入ることができないのだと、噂好きのお客さんが教えてくれた。もちろんその人はアフランたちがロナロ村出身とは知らない。知っているのは身元保証人である叔母とその夫だけだ。


 アフランは複雑な胸中で記事を見据える。

 アフランとルファは彼らに協力していたが、利用されただけということと未成年だということが考慮されて、身元保証人の管理下で暮らし、三年間はエイラト州から出ないことを義務付けられただけだった。皇帝を狙った事件にしてはかなり温情ある措置だ。

 同郷の者の処刑をどう受け止めるべきか、まだ子供のアフランたちには整理できない。利用されて悔しい気持ちはあるし、ルファに至っては自爆させられそうになったのだから許せないが、かといって彼らを心の底から憎むことはできなかった。彼らが恨みを抱えて苦しんでいたことも知っているから。


「兄ちゃん、食べてみて」


 ルファが焼き上がったばかりの食パンを二つ持ってきた。

 アフランは暗く沈んだ気持ちを振り払い、一口ずつ味わう。

 見た目は同じだが、噛んだときの甘味に若干違いがあった。


「こっち……かな」

「当たり。はあ。なんでだろ」

 

 甘味が強い方はアフランが作り、もう一方はルファが作った。だが、材料を混ぜただけだ。こねる作業以降はすべてルファが行ったのに味が違う。


「材料も同じなのに、なんで兄ちゃんの方がおいしくなるんだろ」


 こうして食べ比べるのはすでに九回目。同じように作っているのにアフランの方が美味しいのが悔しいルファは、どこで差が出るのか見つけるために少しずつ段階を遡り、とうとう材料を入れるまでに至った。


 不満顔のルファは材料をどどんと机の上に並べる。


「混ぜ方が違うのかな」

「うぇ、また作るの?」

「いいでしょ。売れ行きいいんだから」

「そうだけどさあ。僕は何にもしてないよ?」

 

 ぶつくさ言いながらアフランは材料を順に計量していき、水差しへ必要なだけ水を入れ、蛇口をしっかり閉める。この街は水の精霊の加護があるから感謝して使いなさいと耳にタコが出来るほど聞かされていた。


「ねえルファ。ロナロでも精霊の加護があると云われていたよね」


 両手で頬杖をついてじっとアフランの手元を見ていたルファの顔が、今朝読んだ新聞記事を思い出して強張る。

 ロナロは精霊の加護があり、そして村人は精霊を守護していると母から教わった。村では一日一回お祈りをし、一月に一度村人全員が遺跡に集まって礼拝していた。食事の前だけでなく、畑仕事や料理をするときも胸の前で四角形と五芒星を切ってから行う。


 信心深いアフランはパン作りの前も必ずその印を切っていた。

 それを見たルファは手から顔を上げる。


「あ。ぼく、それやってないや」

「ルファは熱心な信者じゃないもんな。でも、これだけで変わるわけないだろう」


 すべての材料を大きな器へ入れていき、水差しを持ち上げた。

 すると。


 ”チャ・オ・アーギュスト”


 微かにそんな声が聞こえた。


「……何か言った?ルファ」

「ううん。兄ちゃんじゃないの?」

「いや。僕はなにも」


 ”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”


「水差しから?」

「そんなわけ……」  


 アフランはそっと水差しを覗き込んだ。

 その中には、眼球のない不気味な魚がいた。


「うわっ」


 驚いて水差しを床に落とす。こぼれてできた水たまりの部分だけ床が消え、暗闇の奥から不気味な魚が薄い唇をパクパクさせて泳ぎながら近づいてきた。


 ”チャ・オ・アーギュスト デラ・レトク”


 聞いたことがない言葉のはずなのに、なぜか理解できた。

 不気味だが、不思議と恐怖はない。アフランも水面へ近づこうと膝をついた、そのとき。


「アフラン、ルファ。お客さんよー。中に通していい?」


 叔母さんの声の方へ顔を向ける。はっとして再び水たまりへ視線を戻すが、まだ不気味な魚はいた。

 

(誰だろう)


 この街にいる知り合いは叔母さんも名前を知っているから、”お客さん”とは言わないはずだ。

  

「ま、待って」


 この水たまりを見られるのは良くないのではと思ったアフランとルファは慌てて店へ向かい、客の顔を見て止まる。

 その人物には見覚えがあった。

 栗色の髪の少女。

 帝都にいたとき、捕まりそうになったところを助けてくれた人だった。


 


 少女はアフランたちを見て柔らかく微笑む。 

 しかしそれも一瞬で、すぐに気まずそうに眼を泳がせた。


「あ、たぶんアフランとルファは私たちのこと覚えていないかもしれないけど……」

「覚えてますよ。帝都で会いましたよね。あのときはありがとうございました」


 深々頭を下げると、少女はきょとんとした。


「助けて下さったじゃないですか。あの……倉庫で」


 あのとき少女はすぐどこかへ消えてしまったので礼を言えていなかった。気にかかっていたことが伝えられてすっきりしたと同時に当時の奇妙な光景を思い出す。魔物に囲まれたあの奇妙な静けさを。


(あの魚も魔物かもしれない。この人なら何かわかるかも)


「ここじゃなんですから、こちらへどうぞ」


 厨房へ案内した。もういなくなっているかと思ったが、水たまりの中にはまだ魚がいてほっとする。


「突然すみません。あの……。水たまりの中見えますか?」


 少女は唐突に言われて訝しみつつ、水たまりに目をやる。一緒にいた金髪の青年も同じように覗き込んだ。


「何も見えないけど」

「え?魚が見えませんか?魔物だと思ったんですが」   


 アフランは母親がロナロ人なので魔力は低い。クディルで言えば三段くらいしか積み上げられない。そんなアフランに見えて少女に見えないなんて、通常ではありえない。魚が魔物であったなら。


 ”スピリファ” 


 いきなり魚がバシャッと水をはねた。水の動きは少女たちにも見えたらしく、一様に驚いた表情を浮かべる。

 魚の言葉を理解したアフランも耳を疑った。


「精霊?」


 アフランは魚を凝視する。魚は自分が精霊だと言いたいのだろうか。霊力があれば精霊を見えるというが、精霊を信仰していたロナロでも実際に見た者はいない。しかもこんな水たまりの中にいるなんて信じられなかった。

 だが魚は同じ言葉を繰り返す。

 

 ”スピリファ”

 ”スピリファ”

 ”スピリファ”


 ばしゃばしゃと魚は水飛沫をあげる。水たまりの水が勝手に動く現象を気味悪がった少女は金髪の少年の腕に掴まる。


「何なの?今、精霊って言った?」

「え……ええ。精霊だと、この魚はそう言ってます」

「まさか。アフランは精霊が見えるの?」

「いや。今まで見えたことはないです」


 少女たちは怪訝な顔をしている。アフランでさえ信じられないなら、魚が見えない少女たちはなおさらだ。怪しい奴と思われてもおかしくない。


 ”チャ・オ・アーギュスト”


 魚はまたも先ほどの言葉を告げた。その言葉の意味は。


「……アーギュストの子?」


 どういう意味だろうと首を捻ると、今度は少女がはっとして幽霊でも見るような目つきをアフランへ向けた。


「どうしてそれを知っているの」

「どういう意味ですか?」

「私が誰だか知っているの?」

「そういえば名前も伺っていませんね」

「そうよね……」

「どうしたんだ?」


 黙り込んだ少女に声をかけたのは、それまで彼女の一歩後ろに下がっていた男性だった。アフランは彼が帝都で見たぼさぼさ頭に無精ひげの男だと気づいていない。


 少女は数秒悩んでから口を開く。


「始祖の名前は皇族以外知らないはずなのに」


 ”チャ・オ・アーギュスト”


 魚はまたそう言って、少女の足元へ水を飛ばした。

 少女は青ざめたまま水たまりを凝視する。


「本当に精霊がいるのね。……始祖アーギュストの子。それはおそらく私のことよ」

「え?」

「私はセイレティア=ツバキ・モルヴィアン・ト・バルカタル。この国の皇女です」


 アフランとルファの目が点になる。


「え?え?でもツバキ様は白銀色の髪って……」


 少女はちらりと叔母の方を見て死角になっていることを確認してから頭のウィッグを取った。

 さらりと広がったのは白銀色の髪。

 彼女はまさしく皇女セイレティア=ツバキだった。

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