第23話  皇女がすべきこと

 ぽとりぽとりとツバキの髪先から水滴がしたたり落ちていく。

 体全体が震えているのは、濡れた体が冷えたからなのか、身の内から来るものなのか。


「セイレティア様、大丈夫ですか? ……魔物がいたんでしょうか?」


 声を掛けられ、呆然としたままシルヴァンを振り返る。

 ツバキは自分の立場を思い出して、立ち上がろうと足に力を入れた。すかさず出してくれたシルヴァンの手につかまる。


「シルヴァン様。先ほどのお話、返事はまた後日でよろしいでしょうか」

「ええ、もちろん」

「今日は疲れました。もう失礼いたします」


 ツバキはただ呼吸に集中していた。何も考えず、何も感じないように。

 明らかに様子がおかしいツバキをシルヴァンは詮索せずに優しく手を引いてくれ、しばらくして走って来たトキツに気づくとツバキを引き渡して戻っていった。


 トキツは持参したタオルをツバキの肩にかける。


「何があった?」

「早く部屋へ戻りたい」

「わかった」


 トキツはそれ以上何も聞かず、ツバキを抱きかかえ人目につかない道を探しながら走った。


 そして窓から城へこっそり入る。

 長い廊下のつきあたりの部屋の前に女官の姿があった。

 ツバキは脇目も振らず廊下を駆け、無言で彼女に抱き着く。

 そっと抱き返してくれた女官のぬくもりが心を静めていった。

 数秒そうしてから中へ入って腰を落ち着けて、侍女が用意してくれた蜂蜜がたっぷり入った湯をゆっくり飲む。 

 

「どうなさいました?」


 部屋には、女官と侍女、そしてトキツしかいない。

 ツバキは飲み込んだ湯が冷えた体の中をじんわり通り過ぎるのを待ってから、ようやく口を開いた。


「カオウの脱皮が終わったって」


 この部屋にいる全員の顔が驚きに変わる。


「空の魔物が教えてくれたの」


 女官の目の端で、侍女たちが顔を見合わせた。彼女たちはツバキの魔力がどれほど高いか知らなかった。しかし今はそれにかまっている余裕はない。


「どうされたいのですか?」

 

 ツバキは女官のそっけない物言いに動揺した。

 どうしたいかなんて決まっている。

 しかし、女官がそれを許可しないこともわかっている。

 

「…………明日はまだ、公務があるから」


 明日はシルヴァンと共に農園や孤児院などの視察をする予定だった。そして皇族専用の飛馬車で二日かけて帰国する。

 あと三日。

 それだけ待てば、帰れるのだから。


 するとサクラがツバキの前に立つ。


「ツバキ様。今すぐ会いに行きたいのでしょう? 明日は私が代わります。だから……」

「国の代表で来ているのだから、今回ばかりは代わってもらうわけにいかないわ。それに今日一日ずっとシルヴァン様と一緒にいたもの。さすがに気づかれてしまう」

「ですが!」

「いいの。……カオウが私に会いたいかどうかも、わからないし」

「会いたいに決まっています!」

「そんなの、わからないじゃないの」


 無責任に断言されて、ツバキは眉根を寄せた。

 サクラが自分のために言ってくれていることはわかる。

 だが、必死でこらえようとしている気持ちを無理やりこじ開けようとする彼女に苛立った。


「いいえ、わかります!」

「わからないわ」

「わかります!」

「どうして!?」


 ツバキが声を荒げ、サクラが青ざめる。


「私が最後に見たあの子は怒りに満ちていた。森へ帰る前、お兄様には会いに行ったのに、私のところには来なかった。それなのに、あの子も私に会いたいはずだって、どうしてわかるの!?」

「陛下がそうおっしゃっていたではありませんか」

「そうよ、お兄様がそう言っただけ。励ますための嘘かもしれない。私はあの子の言葉が欲しかった!」


 ツバキは顔を背けた。サクラからも、アベリアからも、誰からも見られないように。


「……今日はもう皆下がって。あとは一人でできるから」


 ツバキは全員の気配が完全に消えるまで、ずっと顔を背け続けていた。 

 



 ベランダの手すりに手をかけ、白銀色の月の煌めきをじっと見つめる。

 もう少しで満月になりそうだった。


(あの日は満月だったな)


 カオウに会いに、初めて森へ飛び出したあの日。

 小説ならば、再会するときはきっと同じ月夜にするはず。

 

(だからまだ会う日じゃない)


 食い入るように空を見続けても、カオウの姿はない。

 ツバキは月から目を離して、暗い部屋の中へ戻る。


(明日は、ちゃんとセイレティアの役目をこなさなくちゃ)


 シルヴァンに今日のことをなんて言おうか考えるが、おそらく彼からは何も聞かないだろうから、それに甘えて何も言わずにおこうと決める。

 

(それで帰国したら……)


 森へ探しに行こうか逡巡する。


(待っていようかな。それが当然よね。ずっと一緒にいるって約束してくれたのに、勝手にいなくなるなんて酷すぎる)


 カオウが何に怒っていたのかわからないが、ツバキを傷つけていい理由にはならないはずだ。


(帰ってきても、謝るまで許してあげない。私は待つ。それがいいんだわ、きっと)


 ふと、窓際の机に置かれたブレスレットに目が留まった。


(でも、来なかったらどうしよう)

  

 サクラにはああ言ってしまったが、ツバキもまだ、カオウはツバキに会いたいはずだという考えを完全に捨てきれていない。何の根拠もないが、つい自分の都合のいいように考えてしまう。


(二度と会えなかったらどうしよう)


 想像して、胸がぎゅうっと締め付けられた。

 喉も締め付けられて、息苦しくなる。


(怖い)


 まるで五歳のころのように、ツバキは声をあげて泣き始めた。

 ぽろぽろと涙がこぼれて、ひっくひっくと勝手に声が漏れる。


「カオウ……会いたいよう……。早く会いに来て……」


 さみしくてたまらない。会いたくてたまらなかった。

 

  

 コンコンとノックの音がした。

 ツバキはしゃくりあがる声を必死で抑える。

 ついた明かりに目を細め、入ってきた人物を確かめる。

 サクラだった。

 手に持っていたのは質素な黒いワンピースと、下に履くズボンと、茶色のウィッグ。

 平民のツバキになるためのものだ。


「ツバキ様。これに着替えてください」

「…………」 

「早く」


 ツバキは首を振る。


「無理よ」

「いいえ、行ってください」

「代わらないわ」

「ダメです。代わって下さい」

「シルヴァン様はダマせないわ。それに……」

「会いたいんでしょう!?」

 

 サクラが大声を出し、ビクっとツバキの体が震える。


「……で、でも。カオウが会ってくれないかもしれない」

「会いたいか、会いたくないかを聞いてるんです!!」

 

 サクラがツバキの両肩を掴み、睨む。絶対に引かないと覚悟している目だった。

 ツバキはしばらく負けないように見つめ返していたが、徐々に弱弱しくなり、萎える。

 目頭がまた熱くなり、唇が震えた。


「会いたいわ」


 小声でつぶやく。


「会いたい。今すぐ会いに行きたい」

 

 たった三日待てば、会いに行ける。

 たった三日。

 それが、とてもとても遠い。

  

「じゃあ立って、着替えて。部屋の外にトキツさんが待っています。飛馬車の用意もございます」

「だけど、アベリアが許さないでしょう?」


 サクラは視線を外し、しばし考えてから言った。


「言うなと言われたんですが。……すべてアベリア様が手配してくださいました」


 ツバキは目を見開く。


「アベリアが?」

「はい。もし夜中に泣くようなことがあれば、帰るように勧めなさいと命じられました。二度と夜中に泣くところは見たくないとおっしゃって」

「どうしてアベリアが直接言ってくれないの?」

「理由はわかるのではありませんか?」

「女官という立場があるから?」

「はい」


 サクラはツバキの手を取って立たせ、着替えを手伝う。


 ツバキは着替えながら、アベリアのことを想った。

 時に母のように、姉のように接してくれた人。

 厳しいことも言うが、結局はツバキに甘い優しい人。

 コロコロ変わっていた女官や侍女の中で、唯一今も一緒にいてくれる人。


(ありがとうアベリア)


 心の中で深く感謝した。


「私は皇女失格ね」

 

 着替え終わり、鏡を見ながらつぶやく。

 美しいと言われる白銀色の髪よりも、この栗色の髪でいるときの方が、自分らしくいられる。

 セイレティアと呼ばれるよりも、ツバキと呼ばれる方がうれしい。

 そう言うと、サクラは短く息を吐いた。 


「今更ですね。皇女らしい姿なんて、ちょっとしか見たことありませんよ」

「……言うようになったわね」

「四年も鍛えられていますから」


 くすり、と笑いあう。


「でも本当に大丈夫? あのシルヴァン様相手よ?」


 前回のことを思い出すと、到底ダマせると思えないのだが。

 するとサクラはふんっと鼻息荒く拳を握った。 


「大丈夫です! あのキラキラ王子スマイルに慣れるため、特訓しましたから!」

「キラキラ? 特訓?」


 目をぱちくりさせるツバキ。


「はい。城のイケメン衆に手伝ってもらいました!」 

「い、イケメン衆?」


 ふふふ、とにやつくサクラ。

 よくわからないが、不安がらず楽しそうなら大丈夫……? とツバキは汲み取ることにした。


 そのとき、またノックする音が聞こえ、外からトキツの声がした。

 ツバキはサクラの手を握る。


「ありがとう、本当に」

「お任せください」


 サクラはギュッと握り返す。


「じゃあ、行ってくる」

「ご武運を」


 ツバキは扉を開けて出ようとし、ふと重要なことを思い出して振り返る。


「そうだ。私、シルヴァン様にプロポーズ(仮)されたんだった。今は保留にしてあるから、よろしくね」

「へ!?」

「じゃあね! ありがとう!!」


 ツバキは晴れ晴れとした顔で走り去っていく。

 サクラは顔を真っ赤にしてわなわなと震える。


「えっ。プロポーズ(仮)って何!? えええええええええええっ!?」

 

 白銀色の月光が長く届いた部屋の中で。

 サクラの悲鳴がいつまでも響き渡った。

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