第22話 サタールの王子
昔、女神がこの地に一滴の涙を落とした。
涙は地を潤し、草木を育て、精霊を呼び、人と獣に命を与えた。
やがて世界の気が乱れ妖魔が地底より湧くようになると、女神は人と獣を使って戦い、精霊王は地・水・火・風・空の精の助けを借りて地底とこの地を繋ぐ道を封じた。
その後五つの精たちはこの世界のどこかで眠りについていると言われている。
「水の精は気難しくて、精霊王は一番苦心したそうですよ」
サタールの第一王子、シルヴァンがツバキの耳元でそっとささやく。
今は建国記念式典の真っ最中。
ツバキはシルヴァンの隣に座り、サタールの民族衣装に身を包んでいた。白いロングスカートの上に青い大きな花柄模様が刺繍された黒い布を巻き、ゆったりとたすき掛けにした紐は鮮やかな紫。髪は服と同じ模様のリボンを入れた編み込みのツインテールで、毛先はくるんとカールさせかわいらしく仕上がっている。
サタールのお偉いさん方の長々とした挨拶が終わった今は伝統舞踊を鑑賞中だ。この地に伝わる精霊王と水の精との出会いの話らしかった。歌もあるのだが抑揚が強すぎて、日常会話くらいしかサタール語が話せないツバキには何を言っているのかわからない。こうして時折シルヴァンが解説してくれるのはありがたかった。
水の精と聞いて、先日の風呂場での出来事を思い出す。
「エイラト州では水の精の加護があると聞きましたが、こちらもそうなのですか?」
「はい。エイラト州の東とサタールの北西を跨いでいるウォールス山に水の精が眠っていて、周辺の街に水のご加護があるそうです」
「具体的にはどのような?」
「簡単な傷なら治せる泉がありますよ。それから、その恩恵にあずかる土地で育てた野菜は栄養価が高いですし、今年は日照不足で他は収穫量が減っていますが、その土地だけは影響もないようです」
「水の精が現れるというような話はありませんか?」
「そういう話は聞きませんが、ご興味がおありですか?」
「ええ、少し」
人にイタズラするようなことがあるのか、あのとき聞こえた言葉の意味を知っているか聞きたかったが、精霊に会ったかもしれないなんて信じてもらえないだろう。
昔そうだったように。
そう思うと聞くに聞けなかった。
その日の夜は舞踏会が開かれた。
肩がざっくり空いた真っ赤なマーメイドドレスに着替え、シルヴァンにエスコートしてもらう。
「先ほどの民族衣装もかわいらしかったですが、こちらの綺麗なドレスの方がセイレティア様の美しさが際立ちますね」
物腰柔らかな彼はしれっとそんなことを言う。
(これはサクラが照れるはずだ)
以前、皇帝即位後のパーティーに出られずサクラに影武者をしてもらったとき、シルヴァンから褒められたのか口説かれたのか歯の浮くようなことを言われ逃げるように帰ってきてしまったと聞いていた。
ツバキはそういう甘い言葉には動じない。上っ面のことを褒められてもそれほどうれしくなかった。告白されたことも何度もあるが、よく知りもしない相手から言われても頬を染めるほどではない。所詮彼らは皇女という地位に目が眩んでいるだけだ。
そのはずなのに。
ふと、レオの獣のような目を思い出して胸の中がぞわりと荒ぶる。最低な一日だったのに、どうして時折あの日を思い出してしまうんだろう。
「セイレティア様?どうかされました?」
「え?いえ、なんでもありません」
余所行きの笑顔を貼り付けて答えた。
舞踏会にはバルカタルだけでなく様々な国の人が来ている。サタールより東の国とは交流がなく言葉がわからないので通訳をつけてもらえた。サタールも魔力のある人は半数ほどだが、東の国はもっと少ないらしい。代わりに文明が発達しているという。カメラというのも東の国では当たり前にある物らしかった。
なんとなく危機感を抱く。しかしこういうことは兄ならとっくに気づいているだろうと心にしまう。
シルヴァン以外の男性とは二人きりにならないように気を付けていたが、今日は舞踏会なので初対面の人とも踊らないわけにはいかず、ツバキは先日のことが頭から離れずびくびくしていた。
そのせいで気疲れしてしまったので少し休憩したいとシルヴァンへ申し出る。
護衛を呼ぼうと思っていたのに、彼が付き添ってくれることになった。
小高い山の上に建てられた城から外に出ると、気持ちいい風が吹いていた。
よくこうして抜け出す人がいるのか、ちょうどいいところに石造りのベンチが置いてあったので二人で腰掛ける。サタールの街の夜景が眼下に広がっていた。
「すみません、わがままを言ってしまって」
「とんでもない。大事なお客様ですので」
「もう十分よくしてくださっていますので、私のことはあまりお気になさらないでください」
顔見知りとはいえ、あまり男性と二人きりになりたくない。やはり護衛を呼んだ方がいいだろうかと考えあぐねていると。
「お話したいことがあったので二人きりになれてちょうどよかった」
「……なんでしょうか」
思わず身構えてしまう。
シルヴァンは少し言いにくそうに口を開いた。
「セイレティア様は僕との縁談にあまり乗り気ではありませんよね」
「はい」
しまった即答しすぎたかと思いちらりとシルヴァンを見ると、苦笑していた。
「すみません」
「いえ、あまりに即答だったのでびっくりしました」
さわやかな笑顔に変わる。
(サクラはこういうタイプが好きなのかしら)
彼を興味深く観察する。
可愛いさとカッコよさを両立させたような顔に程よく鍛えられた筋肉、柔和な物腰。女性の扱いもスマートで、まさに白馬に乗った王子様のようだ。
どこぞの皇帝も外見はキラキラしているが中身はあれだから、と複雑な心境になった。シルヴァンも彼の友人なら実は一癖あるのではと勘ぐってしまうのはさすがに考えすぎか。
「失礼ですが、恋人がいらっしゃいますか?」
「え?」
突然の問いかけに狼狽える。シルヴァンは興味というより探るような目を向けてきた。
「そのブレスレットが気になりまして。恋人から贈られたものかなと」
ツバキは左手につけていたブレスレットを隠すように握る。
(意外とめざといな)
わざわざ腕輪をいくつかつけて目立たないようにしていたのに。
「大切な人からもらいました。でも、特別な意味はありません」
直前に喧嘩してしまったので、仲直りするためにくれたのだろう。もしくは、もしかしたらあのときすでに印を消そうと考えていて、代わりにくれたのかもしれない。それが、また戻ってくるという意味なのか、お別れの意味なのかはわからないけれども。
「私には、恋愛感情がどういうものかよくわかりません」
カオウに対する気持ちは出会った頃から少しも変わっていない。ツバキ自身が年頃になって、周りから恋人のように見えるのだと気づいたくらいだ。
「でしたら、僕との縁談を前向きに考えてはいただけないでしょうか」
「はい?」
顔をしかめそうになるのをぐっと堪える。
隣を一瞥すると、シルヴァンの眉が申し訳なさそうに下がっていた。
「実は、もうすぐ貴国と同盟が結べそうなんです」
「同盟ですか?」
「ええ。同盟の詳しい内容は申し上げられませんが、それが締結されれば、貴女と私か、もしくはジェラルド様と私の姉のどちらかが結婚することになるでしょう」
「締結の条件ということでしょうか?」
「いえ、同盟はほぼ決まっております。ですが、婚姻という確固たる証がほしいと周りから圧力がかかっているのです。ジェラルド様が突っぱねているのですが」
突っぱねるジェラルドの姿が目に浮かび、心の中で笑う。
「兄に頑張っていただきます」
「そうですね。だといいのですが……」
途中で言い淀んだシルヴァンを見て、ツバキは彼が本当に言いたいことを悟る。
「王女様の魔力の高さは、どれほどなのですか?」
「……さすが聡い方ですね」
シルヴァンは悲しげに目を細めた。
「姉の魔力は貴国の侯爵レベルですが、体が弱いのです。ジェラルド皇帝の妻はとても務まらないでしょう」
ツバキの表情が陰る。
魔力は成長とともに高まるものだが、稀に胎児の時点で母親より高くなることがある。そうなると、母体に影響する可能性があった。
ツバキの母のように。
さらに、ジェラルドの魔力は歴代でも高く、同じ侯爵レベルの魔力を有した皇后は第二子出産時に倒れてしまった。
つまり、シルヴァンの姉は命がけでジェラルドの元へ嫁ぐことになる。そんな危険なことを身内にさせるわけにいかないと彼は考えているのだろう。
ツバキがシルヴァンの元へ嫁げば丸く収まる。
それは理解したが、気持ちが追い付かない。
考え込んでしまったツバキの両手にシルヴァンの手が重なった。
「もし受け入れて下さるなら、僕は貴女を大切にするとお約束致します。どうかゆっくり考えてみてください」
そうは言ってくれても、承諾してほしいに違いなかった。
ツバキはじっとシルヴァンを見つめる。彼はそれ以上何も言わず、優しく微笑んでいる。
その時、何か大きな気配を頭上に感じた。
ぱっと空を見上げると、白い衣をまとった大きな鞠のような魔物がふよふよ浮かんでいた。
(あれは、カオウの友達の魔物……?)
思わず立ち上がる。
「セイレティア様、どうかされましたか?」
「……雨が降ります」
「え?」
訝しむシルヴァンの頬にぽつりと雫が落ちる。
ツバキはじいっと空を見上げ、鞠の声に耳を傾けた。彼らの声は小さく、聞き取りづらい。
『……カ……の…………が………た……』
徐々に雨足が強くなる。
「聞こえない!カオウに何かあったの?」
『……オ…………だ………おわ………』
「聞こえないわ!!」
ツバキが叫ぶと、空の魔物はころころと転がりながら降りてきた。しかし近づけば近づくほど風雨が強くなる。
中へ入ろうと呼びかけるシルヴァンを制し、ツバキはびしょ濡れになりながら聞き耳をたてた。
『カオウの……が終わった』
「え?」
『カオウの脱皮が終わった』
「本当?」
『そう。伝えたよ』
鞠は白い衣をはためかせながら空へ転がるように上がっていく。
ツバキはストンとその場に座った。
口を覆う手が震えていた。
「セイレティア様、大丈夫ですか?早く中へ」
「……もうすぐ止むわ」
呆然と前方を見ながらつぶやく。
その数秒後、静かに雨は止んだ。
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