第10話 人に言うのは簡単なのに
月明かりと飛び交う虫が放つ淡い光の中、幼い少女は森の中を走っていた。
ベッドから抜け出し薄布一枚で、小枝が素足を引っかくのも構わず、転んで顔に泥が着いても立ち上がり、ただただ無我夢中で駆けていく。
森の魔物たちに『こっち』『ここにいる』と導かれるまま。
そうやって開けた場所へ出て立ち止まった先には、月光で輝く金色の壁があった。
少女はその壁に登ろうともがく。
足を引っ掻ける場所もなくて、ただぴょんぴょん跳ねるばかり。
見かねた巨大な蠍が背に乗せ壁の上まで飛んでくれ、見下ろすと、壁と思われたのはとぐろを巻いた金色の大蛇だった。
蠍がとぐろの中心にある蛇の顔まで近づく。蛇は気配に気づいているはずなのに、瑣末なことなのか動かない。
少女は大きな蛇の体へ飛び降りて、眠りについた。
「……姉さま。セイレティア姉さま」
軽く揺すられて、ツバキはまどろみから覚める。
いつの間に眠ってしまったのか、飛馬車で空にいたはずが、気づけば地に降りて整備された山道をゆっくり走っていた。
「見てください、レッテの街が一望できます! 海も見えますよ!!」
ゆるふわ髪の美少女、リューシェが興奮した面持ちで馬車から身を乗り出す。
バルカタル帝国北西部セイフォン州のモルビシィア(貴族の街)のレッテは広大な海に面している。色彩豊かなかわいらしい建物が並び、街の中心に二つの細長い塔が印象的な大聖堂が建っていた。
「あの大聖堂にはとっても大きなオルガンがあるんですって。日曜には聖歌隊が歌うそうですよ」
「へえ。よく調べているのね」
「は、はい……。とっても楽しみで」
リューシェは顔を赤らめた。
彼女は幼いころからの友人で、セイフォンの州長官アルベルト=コウキの恋人だ。
ツバキがセイフォンへ行くと知ってついてきた。おそらく恋人が治める州について色々調べていたのだろう。かわいらしいな、と素直にツバキは思う。
しばらく山を登っていくと、開放的な宮殿が見えてきた。
柵も塀もなく、結界が張ってあるにしても、帝都の城と比べるとあまりに無防備だ。おおらかでのんびりした州民性がここにも表れているのだろうか。
きれいに整えられた芝生の間を進んで、飛馬車が止まる。
「セイフォンへようこそ、セイレティア」
玄関の前ではアルベルトだけでなく副長官や補佐官やら使用人たち大勢に出迎えられた。
ここまでかしこまらなくてもいいのにと思うが、立場上仕方が無いだろう。
飛馬車から降りようとして、つんつん袖を引っ張られた。振り向くと、リューシェがさっきと打って変わって小さくなっている。
「あの、お姉さま。私は……」
「わかっているわ。アルベルトには内緒なのよね?」
リューシェの家は子爵だ。本来なら、皇女と一緒に州長官の宮殿になど来られない。
それが出来ているのはセイレティア付きの侍女という体裁を整えたからだった。
サプライズのつもりなのか、ついてきたことは内緒にしてほしいというので、言う通りにしている。
アルベルトはツバキの後について降りてきた侍女姿のリューシェに気づかず、部屋まで案内すると仕事があるからと戻っていく。リューシェは気づかれないようずっと下を向いていた。
「何だか変な気がするのだけど、リューシェ?」
荷ほどきを侍女たちに任せて部屋でくつろいでいたツバキは、侍女の手伝いをしているリューシェに声をかけた。
彼女の肩がぎくり、と固まる。
「正直に言ってちょうだい。本当は何があったの?」
「な、なんのことでしょう」
「さっきのリューシェの態度、こっそり来てわくわくしているというより、ビクビクしているようだったけれど、気のせいかしら?」
「それは……」
リューシェがしょんぼりして目を潤ませた。
ツバキは隣に座るよう促す。
話を要約すると。
セイフォンで働くアルベルトと、一つ年下でいまだ帝都の学生であるリューシェは遠距離恋愛中。
アルベルトは毎年祝っている記念日に帝都へ帰る予定だったのに帰れなくなり、リューシェは仕方ないと理解しつつも拗ねてしまい、そんなに忙しいならしばらく距離を置こうと提案したら、今度はアルベルトが怒ってしまい、以来二週間ほど話していないという。
「会いに行けば、きっと喜んでくれて、仲直りできるって思っていたんです。でも、いざアルを前にしたら自信がなくなってしまって。やっぱり突然来たらご迷惑でしょう? それに、結局お姉様にもご迷惑をおかけしてしまいましたし」
「私のことは気にしなくていいのよ」
セイフォンには一週間滞在する予定だ。
そんな長旅にリューシェを侍女として同行させるには、ただ侍女の服を着せれば良いだけではない。裏で色々と手続きが必要だったりする。
だが、ツバキの女官はむしろ喜んでいた。リューシェが来れば、破天荒な皇女も公務をサボらずおとなしくしているに違いないと。なので、多少仕事が増えようが全く問題ない。
「それに、アルだって迷惑とは思わないわ。せっかく来たんだもの、会わなくちゃ」
「ですが、まだ怒っているかも……」
「本当に距離を置きたいわけではないのでしょう?」
そう言ったのは言葉のアヤだと説明すればいいと付け足すと、リューシェはうつむいてしまった。
「わかりません。本当に距離を置いたほうがいいのかも」
「どうして?」
「アルは仕事の合間を縫って連絡してくれていたんです。でもいつも疲れた様子で、最近はイライラしていて。だから、私と話す時間があるなら、ちゃんと休んだ方がいいのではないでしょうか。……州長官に就任して大事な時期なのに、重荷になりたくたいんです」
リューシェの手の甲に一つ涙が落ちる。
ツバキはかわいらしい少女の目元をハンカチで拭いた。
「偉いのね、リューシェは」
顔を上げたリューシェは不思議そうに首を傾ける。
「自分だって会いたいのに、相手のことを考えたのでしょう?」
「いえ! そんな殊勝な考えではありません。結局我慢できなくて、来てしまいましたし。……本当は」
顔を真っ赤にして口をつぐみ、少しして言いにくそうに開く。
「私との関係が重荷になって、アルから離れてしまうのが怖いんです、きっと。それに、アルは州長官です。子爵の娘の私よりもっと相応しい人がいるのでは」
それなら自分から離れた方がいいと考えたのだろうか。アルベルトがしっかりしないから……とツバキは心の中でぼやいた。
「それならなおさら会って、ちゃんと話し合わなくちゃ。ねえ、その記念日はいつなの?」
「明後日です」
ツバキの目がキラキラしてきた。
「なら、協力させて? アルベルトをびっくりさせましょう。そうね、それなら……」
「セイレティア様」
女官が割って入ってきた。
「明日から予定はビッッッシリ入っております」
さぼらせないぞという気迫がすごい。圧がやばい。
がっくりうなだれるツバキ。はあ、と深いため息をつく。
「では、サクラ」
「はい」
突然呼ばれた侍女のサクラが前へ出る。
「貴方が代わりに協力してくれないかしら? リューシェ、サクラに色々相談してみて。私よりとっても器用なの」
こんな楽しそうなことに参加できないのは悔しいが仕方ない。
ツバキはリューシェを安心させるよう、にっこり微笑んだ。
その日の夕食は、海に近い州だけあって、帝都では見かけない魚料理のフルコースだった。
帝都にも海はあるが、獲れるのは魔物の魚ばかりであまり美味しくない。
「どう? セイフォン料理は」
「生の魚料理なんて食べたことなかったけれど、すごく美味しかった。卵であえるのが気に入ったわ」
「どちらも新鮮じゃなきゃできない料理だから」
ツバキの向かいに座っているのはアルベルトだ。
部屋には二人と一人の給仕だけなので気楽だ。
明日から晩餐会やら食事会やら舞踏会やらでゆっくりした夕食はなかなか取れないだろう。
「忙しそうね、州長官の仕事は」
アルベルトは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ほんとに。人使い荒すぎるんだよ、伯父さんは」
本来、州長官の交代時期は各州によって異なる。
今回ジェラルド即位に伴って全州長官が交代されることになったのは、ネルヴァトラスが強く望んだからだ。
理由は彼が皇帝となったいきさつにある。
先にも述べた通り彼は前の皇帝、つまり自分の父親を弑して皇帝についた。
また、八人兄弟での魔力の順位は次男に次いで二番目だった。
次男が父親と同じ主戦派だったこともあり優遇されたとの周囲の見方もあったが、それでも二番目は二番目。内戦で次男も殺したから得られた地位だ。自分が任命した州長官たちも。
それをネルヴァトラスは良しとせず、自分の子が皆十六歳になり授印を持った時点で全員交代することとした。
よって、アルベルトは史上最年少の十六歳で州長官となった。とはいえまだ成人(十八歳)していないので、先代州長官である伯父が彼を補佐し、しごいている。
「早く隠居して農作業に専念したいからってスパルタ過ぎるんだよ」
セイフォンは農業、林業、漁業、それに関わる製造・加工に力を入れている州だ。
おおらかな人が多く、貴族も平民に混じって畑を耕したりする。魔法を使うので自分の手は汚さないが。
伯父も長年自分の畑で好きなものを好きなだけ育てていた。
「伯父さまは今日はいらっしゃらないの?」
「ぎっくり腰で療養中。いい年なのに張り切るから」
「あら。お見舞いに行く時間とれるかしら」
「いいってそんなの。セイレティア見たらまた張り切るから」
くすくす、とツバキは笑う。
女好きの伯父さんは姉とツバキに甘く、よく抱えきれないほどの果物をくれる。
州長官を決めるときも、セイフォンは姉かツバキにしろとネルヴァトラスとジェラルドに駄々をこねていた。
「最終日なら行けるかな」
「だから行かなくていいって。それより、明日のお見合いよろしく。……嫌だろうけど」
一瞬で無表情になってしまった。
「属国の第二王子の、三十二歳だっけ。しかもバツ2で四人の子持ち。無理」
「会うだけでいいから」
セイフォンの北にある属国は、そのさらに北の国とバルカタルとの交易の要であり、あまり無下にできないらしい。
相手もおそらく一目会いたいだけだろうから断るのは問題ないそうだ。
それなら話を持ってくるなと言いたいところだが、見合い話になったのは丁度いい。
「アルベルト、貴方も見合いの話があるんじゃないの? セイフォンの公爵令嬢と」
今度はアルベルトが無表情になった。
ツバキと違うのは、その後伏し目がちになったことだ。意中の相手がいるかいないかの差。
「リューシェはどうするの? 知ってるわよ、このこと」
想定していなかったらしく、アルベルトの顔色が変わった。
「本当に?」
「たぶんね。とても不安がっていたから」
何年もアルベルトのパートナーとして公式行事へ出ているのに、爵位を気にしていたのは、このことがあったからだろう。本人たちの気持ちだけではどうにもならないことがある。
「どうするの?」
「断るに決まっているだろ」
「なら、はっきりリューシェに言いなさい。自分が誰と結婚するつもりなのか」
アルベルトの頬が染まる。
ツバキと彼は似ているのでなんとなく複雑な気分になる表情だ。
「まだ十五だよ、リューシェは。それに州長官の妻なんて、荷が重すぎるだろ」
「今更言うこと? とっくに覚悟しているわよあの子は」
「考えてても、実際やると違うんだよ」
吐き捨てるように言い、しかめっ面で押し黙ってしまった。
アルベルトは昔から州長官になるため努力していた。
それでも、机上と現実ではいろいろ違うことがあったようだ。自分の不甲斐なさに苛立つこともあったのかもしれない。
ツバキは長いため息を吐いた。
「だからって、不安にさせたままでいいの?」
「…………」
「他の男性にとられちゃってもいいわけ?」
「…………」
「あのね。恋愛に関しては、私はあなたたちより経験ないけれど、お互い遠慮して本音を言っていないのはわかるわ」
「…………」
「私の侍女に、とっても面白い子がいるの」
突然何を言い出すのかと、アルベルトが訝しんだ目をする。
ツバキは楽しみが見つかったとばかりに微笑する。自分は参加できないが、話を聞くだけでも面白いはずだ。
「あなたはいろいろ言葉が足りないんだから、役に立つと思うわよ」
「必要ない」
「明日のお見合い、ちゃんとやるから」
「……セイレティアがそこまで言うなら、仕方ないな」
しぶしぶ承諾した表情の中に、少しだけほっとしたものが隠れていた。
うざいほどラブラブな二人が二週間口もきいていない状況なら、彼もきっかけを探していたのかもしれない。
(一緒にいたいなら、いればいいのに)
ツバキは名も知らない魚の切身をパクリと食べた。
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