第11話 添い寝
しんと静まり返った薄暗い廊下をそっと歩き、主が眠る部屋の前で止まる。扉の下の隙間から、就寝前に消したはずの明かりが漏れていた。
遠慮がちにノックして扉を開けると、ベランダの椅子に両膝を立てて座るセイレティアの姿があった。訪問者に気づいた彼女の、月の光を吸ったような髪が揺れる。
「そろそろ来てくれるかなって思ってたの」
人懐こい笑みに、ほんの少し寂寞が垣間見えた。
「お気づきでしたか」
「最近、寝つきが悪くて」
「……そうですか」
セイレティア付きの女官アベリアは、あの大蛇の魔物が森へ帰って以来、主の様子を見に毎晩部屋を訪れている。
主は女官のために用意していたお茶を注ぎ、空いた椅子の前へ置く。主の隣に女官が座るなどできないと渋ると、甘えた目が「座って?」と訴えてきた。
「ですが」
「今はもう、勤務時間外でしょう?」
「……では、お言葉に甘えて」
この仕事に時間外などないが、この目には逆らえない。
女官が座ってお茶を一口飲むのに合わせて、主も口をつける。入眠作用のあるハーブティーだった。真夏だからかあえてぬるめにしてあった。
茶器や茶葉の置き場を、なぜ皇女が知っているのか。湯を沸かす行為を、なぜ自分でしてしまうのか。侍女に任せるべき立場にいるというのに。
「私も皇女の時間は終わりなの」
心の中のなじりが聞こえたのか、皇女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。皇女もまた、時間外などない。
「セイフォンではちゃんとやっていたでしょう?」
セイフォンでの公務は終わり、今日帝都へ帰ってきていた。各施設への視察、要人との食事会に舞踏会、心配していたお見合いも、すべて皇女らしい態度で勤めあげた。いつものように突飛な行動はせず、余計なことに首を突っ込まず、大人しく、気品がありたおやかで秀麗な皇女セイレティアになっていた。やるべきときにきちんとやるなら、女官もそれほど文句は言わない。影武者を立ててまでサボるなどありえないのだが、結局女官も彼女に甘いのだ。
「なかなか楽しかったわ」
セイフォンの街並みを思い返し微笑む。しかし、もっとキラキラした表情を知っている女官の胸は痛んだ。
あの魔物がいなくなってから、すでに一ヶ月近く経とうとしていた。あれだけ泣き崩れていた主は、彼が脱皮のために森へ帰ったと聞いてから、何も話さなくなった。最初からいなかったかのように振る舞っている。それが見ていて痛々しく、侍女のサクラが代わりに泣いているかのように毎日嘆いている。
「アルベルトとリューシェ、仲直りできてよかったわね」
二人は記念日に仲直りできたとサクラが嬉々として報告してきた。アルベルトがリューシェのことを将来の州長官夫人だと公言したとかしないとか。女官にとってはどうでもいいことだ。
「はた迷惑でしたけれど」
「あら、あの子がついてくるときは嬉しそうにしていたじゃない」
「それはセイレティア様が逃げ出さないための抑止力になると思ったからです。なのに、たった二日でアルベルト様の部屋へ移ってしまうなんて」
「私一人で抜け出そうなんて、思わないわ」
抑揚のない声に、女官の身が強張る。思えば、主が城を抜け出して遊ぶようになったのは、あの魔物と印を結んでからだった。それまでは臆病が先に立つ子だった。それをあの魔物が唆したのだ。
主はベランダから始祖の森を眺めている。暗くてよく見えない先に、
女官は机の上に置かれていたクディルをぼんやり見つめる。
リーンと虫の音がどこかから聞こえた。
「ねえ、アベリア」
また甘えた目で女官を見つめてくる。
「一緒に寝よう」
思いがけない言葉に女官の瞳が揺れた。
「いえ、そんなわけにはいきません」
「よく一緒に寝てくれたじゃない」
「子どもの頃の話でしょう」
姉を亡くしたばかりの幼い少女が、毎日夜中に起きては泣いていたから。既にいない母親の代わりに女官がそばについていた。
「じゃあ、命令」
「勤務時間外じゃなかったんですか」
「もう。そんなに嫌なの?」
「他の侍女に示しが付きません」
「それなら、これから毎晩、順番に一緒に寝てもらうっていうのは?」
「……」
呆れる女官の顔を見て、クスクス笑う。
「冗談よ。ねえ、今日だけ。お願い」
甘えた目。
その中に見え隠れする、すがるような瞳。
女官は毎晩様子を見に部屋の前まで来て、すすり泣く声がしないか聞き耳をたてていた。確かめるため中へ入ろうか何度逡巡しただろう。もし昔のように泣く声が外まで届いていたら、迷わず抱き締めに入ったのだろうか。
「……今日だけですよ」
結局、この女官は皇女に甘い。
嘘つき皇女、とセイレティア付き女官のミランダは言った。
皇子女付きの女官や侍女は、皇帝もしくは皇子と深い関係になれる可能性があるため人気の職で、ミランダもそれを狙っていたが、就いたのは今は亡き第二皇后の小さな娘。普段の仕事はおざなりで、皇帝や兄が来るときだけ目の色が変わり仕事に精を出している。
第二皇女クリスティア付き女官だったアベリアは、半年前に皇女が身罷られてからセイレティア付きになっていた。
「空の魔物と友達になったと言うのよ」
二人は侍女たちと一緒に、使用人の休憩室と化している部屋で、皇女のお下がりの菓子を食べていた。セイレティアは同い年の異母兄とともに、外国語を習っている。
「どうして嘘ばかり言うのかしら」
「嘘ではないかもしれませんよ」
格下の女官に自分の言葉を否定され、ミランダは眉を顰める。ミランダは侯爵令嬢、アベリアは伯爵令嬢だ。
「空の魔物なんて、あんな小さい子が見えるわけないでしょう」
あまり一般には知られていないが、雲が流れるのと同じように、空にも魔物がいる。しかし空の魔物は地にいる上級魔物よりも格式高い。歴代の皇帝でさえ、姿を消す彼らを見た者は稀らしい。
それを、セイレティアは見えると言った。それが四歳の頃。体力・知力と同様に成長に伴って魔力も上がっていくものなのに、たった四歳の幼子が見えるわけがないと誰しもが思った。ちょっとした騒動になったことを覚えている。
「おかしいのよ、誰もいないところで一人でしゃべっているの。冗談で、また空の魔物でもいたんですかって聞いたら、そうだって。しかも金色の蛇らしいの。金色の空の魔物なんて、十二神の龍みたいじゃない。そんな大それたことは言っちゃいけませんとお諫めしたら、泣かれてしまったわ」
「龍ではなく蛇とおっしゃったのですか?」
「そうよ。さすがに龍と言ったら信じてもらえないと考えたのかしらね」
変な浅知恵よねと小ばかにすると、彼女に従う侍女たちが笑った。
「それはそうと、アベリア」
ミランダがねちっこい視線をアベリアへ向ける。標的が変わったようだ。
「あなた、クリスティア様が亡くなられてから、セイレティア様と一緒に寝ているそうね」
思わず視線を逸らす。
セイレティアは姉を亡くしてから、夜中に目覚めて泣くようになった。元クリスティア付きの女官がでしゃばるのはよくないと思いつつ、あまりにかわいそうでアベリアは一緒に寝ている。自分も、ずっと仕えていた主が亡くなり心に穴が開いていたのもあった。
隠れてしていたが、ついに気づかれてしまったらしい。いや、半年も経って、やっと。
「ご機嫌取りもいいけれど、女官が一緒に寝るものじゃないわ」
「ですが、まだお小さいですし、おかわいそうではありませんか」
「だからっていつまで一緒にいるつもり?空想のお友達がいるのだから、そろそろ必要ないんじゃないかしら」
くすくす、と嘲笑が複数上がる。
「いい? もう一緒に寝るなんてやめてよね。次やったら、女官長に言いつけるわよ」
ミランダは早く異動したいらしく、最近女官長にすり寄っている。あることないこと吹きこまれてクビになることは避けたい。
それに、半年経った今はもう夜中に起きなくなっていた。少しさみしいけれど、頃合いなのかもしれない。
……と、思っていたが。
「いやー!! いっしょにねるのー!!」
アベリアが今日から自分の部屋で寝ると告げると、セイレティアは大泣きして服を引っ張った。
「ずっといっしょにねるのー!!」
「ですが、そろそろお一人で寝られるようになりませんと」
「どうして!?」
「もう五歳なのですから」
ひっくひっくと泣く皇女の背中をさする。
「ミランダにカオウのことばれちゃったから、おこったの?」
セイレティアは怯えた目でアベリアを見つめる。
カオウという名前の友達のことは聞いていた。幼少期にそういう存在を作る子はたまにいるらしいし、半年前からできたと言っているので、きっと姉を亡くしてさみしいから頭の中で作ったのだろうとアベリアは思っていた。ミランダに知られたらねちねち言われるのは明白なので、二人の秘密だと言ったのだが。
「いいえ、怒ってなどいませんよ。そのお友達は、空の魔物だったんですね」
ビクッとセイレティアの肩が震えた。さらに涙が溢れてきた。
「ご、ごめんなさい。他の人に空の魔物が見えると言ったら嫌われるって、ミランダが言っていたから」
四歳で騒動になった時、ミランダにかなり強く諫められたらしい。あの時はミランダが「母親を亡くして寂しいからみんなの気を引きたかっただけだ」と言い張り、皇女の嘘として片付けられた。
それにしても、皇女には言うなと強いたのに、本人は他の侍女たちと笑い話にするなんて、どういう神経をしているのだろうか。
「金色の蛇なのですか?」
「うん。人にてんかすると金色の髪に金色の目をしているの」
「そのお友達は、夜には来てくれないのですか?」
「夜は、森へ帰ってしまうの。私もいてほしいのだけど」
「頼んでもダメですか?」
「魔物なら一緒に寝てもいいの? あ、そっか!お父様もエンシと同じ部屋だものね!」
エンシとは皇帝の授印の名だ。
「印は結べませんけど、寝るだけならいいと思いますよ。私も眠るまでは一緒にいますから」
「ほんと? なら、アベリアがいなくても、がんばる!」
拳を握って決意する皇女を見て、アベリアは微笑んだ。いつもの童話を読んで、肩をトントン優しくたたいて寝付かせる。愛らしい寝顔をそっと撫でてから、部屋を出た。
セイレティアの言葉を文字通り信じなかった点は、アベリアもミランダと同罪だ。完全な嘘とは思っていなかった。ただ、友達というのは本人が信じているだけの空想上のものだと推察していたし、四歳で見たという魔物も、空高く飛んでいた鳥か何かの地の魔物を空の魔物と勘違いしたのだと納得していた。
だから、いつも夜泣きが始まっていた時間に念の為部屋を覗いて、愕然とした。
空のベッドに、開いたままの窓。
まさか森へ入った? という考えが脳裏をよぎり、すぐさま考え直す。十六になるまで始祖の森へ入ってはいけないと、口を酸っぱくして言った。ミランダはもし入れば喰われてしまうと脅していて、信じた皇女は真っ青になっていた。万が一入ろうとしても、城に仕える中級魔物が森の入口を見張っているので無理だ。彼らを動かす権限や、
部屋の外では、皇帝に見つかる前に探しなさいとミランダがヒステリックに叫び、セイレティアが住む塔専属の使用人が総出で城の中を捜索していた。即刻侍従長へ報告して魔法を使って探し出すべきだと嘆願しても、ミランダは評価に響くと許してくれず、アベリアは部屋に閉じ込められてしまった。
そうして何時間過ぎただろう。朝を迎え、ミランダがもう面倒事はごめんだと逃げ出そうとしていると侍女から聞いたが無視し、昼近くなったころ。
一人で部屋に待機していたアベリアは、突然セイレティアが宙に浮かんで現れたように見えた。
落ちてしまうと反射的に彼女に駆け寄ろうとした。しかし、
「待って」
どこからか声が聞こえ、意識のないセイレティアを抱える少年が現れ、叫びそうになった口を押える。
金髪金眼。主が言っていたそのままの姿が、目の前にあった。
ありえない、と思い込んでいた。いくら皇族でもたった五歳の子供の魔力が、伯爵家の娘で成人したアベリアより上であるはずがないと。皇帝でさえ見えない空の魔物が、見えるわけがないと。
しかし実際、あの侯爵令嬢のミランダが見えなかった魔物がいる。
少年はアベリアを品定めするようにじっと見つめた。
「あんたがアベリア?」
ゆっくり頷くと、少年は明らかにほっとした様子で一歩前へ出た。思わず一歩後ずさる。
少年は眉をひそめて訝しむ。
「いらないならもらっていくけど、いいの?」
はっとして、アベリアは少年へ駆け寄り、セイレティアを受け取った。
「あ、あなた、カオウ?」
「そうだけど」
「空の魔物?」
「空、になるのかな。まだ蛇だしなあ」
「まだ?」
「そのうち龍になるから。……って、いけね。クダラにいうなって言われていたんだった」
龍? クダラ? なぜ第一皇子の授印の名が?
次々投げられる想定外の情報を処理しきれず、とりあえず主が無事か確かめねばとようやく思い至り、足を下ろして上半身だけ抱えて観察する。体は泥だらけで、手足には無数のかすり傷があり、髪には葉が絡みついているが、息はしており命にかかわるようなケガもなく安堵した。
しかし、あるモノが目に留まり、心臓が数秒止まる。
ドクン、ドクン、と心臓が大きく波打つ。
右手首に、先の尖った長い羽根のような金色の印があった。
魔物が人へ授ける印。契約の証。
皇族は十六歳になるまで魔物と印を結んではいけないとされているのに。
私が信じなかったばっかりに、幼い主に罪を犯させてしまった。しかも、空の魔物。それも、龍。
こんなこと誰かに言えるはずがない。しかし私一人では到底抱えきれない。
唇が、手が、体中が震えている。
アベリアはゆっくり魔物を見上げた。
魔物はそんな女官の胸中など考えもせず、平然と口を開く。
「ツバキはもう、おれのだから」と。
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