第8話 理性と習性
帝国の南にあるサイロス州で疫病が発生したという知らせを受け、応対が終わったのが深夜0時を回ったころ。
大昔に流行った病だったため対策会議は紛糾し、建国時代からの、文字通り生き証人であるクダラがいなければ未だ混乱していただろう。
側近とともに自室へと続く長い廊下を歩きながら、ジェラルドは今日処理するはずだった書類に口頭で答えていく。
側近は歩きながらそれをしたため、すべての書類を片付けると足早に去っていった。ふらつく足取りがいたたまれない。
「就任直後になぜこうも問題が湧き出てくるのだ」
『天がお試しになっておられるのでしょう』
クダラが黄色い尻尾を左右に揺らして言った。
「俺は皇帝になる器にないと言いたいのか?」
『おや、そうお思いなのですか? 建国時代から生きる私が貴方と印を結ぶ。それもまた、天の配剤』
「お前の言は時に理解の範疇を超えるな」
クダラのヒゲがふさふさ揺れる。
通路に敷いてある絨毯の色が赤から濃紺に変わった。
ここから先に住むのは皇帝と授印のみ。そして今はリハルしかいないはず。今日もすでに寝ているだろう。これは本気で顔を忘れられてしまうかもしれないと、ジェラルドは世の忙しいお父さんのような心境になりながら歩を進めて行く。
「……待て」
部屋の前で足を止める。クダラも警戒し姿勢を低くした。
空気が重い。何か異形なものが部屋の中にいる、そんな感覚。
ゆっくり扉を開け、明かりをつける。
「なんだお前か」
カオウが正面の窓台に座っていた。
右膝だけ抱え、顔を突っ伏している。
「どうした」
答えない。
ジェラルドは短く息を吐き、ソファにどさりと腰を下ろす。
クダラは目を細めて近づき、彼を検分する。『眠気、倦怠感、イライラ、ふむふむ』と医者の診察のようだ。
『これは、あれですな』
「……」
『とりあえずこちらに来たらどうだ。温かい飲み物でもどうかな』
顔を伏せたまま首を振るカオウ。
「どうしたんだ」
ジェラルドが訝しむ。眠気倦怠感イライラなら、まさに今のジェラルドも同じだ。
『ついに来た、ということですよ』
何が、と問おうとして一つ思い至る。
額から汗が流れた。
「成長するということか?」
『どうなのだ、カオウ』
「…………うん」
ぽつり、つぶやく。
「随分久しぶりだけど、そう」
彼は少年に見えてクダラより年上。齢千に近い魔物の随分とは百年の単位。
「どうなるんだ? 龍になるのか?」
「完全にはならない。ずっと止まっていた成長が再開しただけ」
「なら、セイレティアは大丈夫なんだな?」
「ああ。それは、大丈夫。……でも」
膝を抱える手に力が入った。
「……でも、もう離れたほうがいいのかも」
「どういう意味だ?」
また数秒の無言。
時計の音が耳に響く。
「……印を、消す」
「それは!!」
ジェラルドが思わず立ち上がる。
印を消すとは契約を抹消することだ。すなわち、関係を断つということ。セイレティアが五歳の時からの関係を。
「セイレティアには言ったのか?」
「…………」
「悲しむぞ」
「わかってる」
「消す必要ないだろう」
「……あいつのそばにいると……今は、理性が、きかない」
ジェラルドは目を見開いた。自然と険しい顔になる。
「……我慢できないんだ」
何を、と問わずとも言葉が続く。
「あいつが他の男を頼るのが嫌だ」
「そうだな」
「あいつが他の男の名を呼ぶのも嫌だ」
「わからんでもない」
「あいつが他の男を見るのも嫌だ」
「いや、それは」
「あいつは年上好きだし」
「そうなのか?」
「見ると怒りが込み上げる」
「…………そうか」
「あんなこと、するつもり、なかったのに」
絞るような声が聞こえた。
「だから、今から森へ帰る。探せないように印も消す。あいつにはうまく言っておいてくれ」
「期間はどのくらい?」
「わからない。いつもは始まったら二週間くらいで終わるけど、今回はまだ始まってもいないし」
「あんまり離れていると、他の魔物と印を結ぶかもしれないぞ」
がばっとカオウの顔が上がった。
瞳孔が蛇のように縦長になっており、ものすごい怒気がジェラルドを襲う。全身が硬直して息が止まった。
クダラの前足がカオウの左足をはたいて硬直を解く。
『カオウ、本気にしない。ジェラルド、おいたが過ぎます』
「すまん。帰ってくるんだよな?」
「……うん」
帰りたい、という小さな願いだけが窓台に残った。
翌日の夕暮れ。
トキツがジェラルドの執務室へ向かっていると、遠縁の後ろ姿が見えた。
「おーい、ロウ。お前も呼ばれたのか?」
警察署長殿は煩わしそうな一瞥を遠縁へ返す。
「元気そうだな」
思っていることと反対のことを言うトキツ。
ロウは目の下にうっすらクマがあり、人相をさらに悪くしていた。
「そうだ。ロウ、後で話があるんだけど」
「つまらん話じゃないだろうな」
「笑い話じゃないけど、つまらなくはない」
「なんだ、それは」
ロウの眉間のシワが深くなったところで、執務室の前に着く。
扉の前の護衛がロウを見て、何もしていないのに氷付けされたように直立不動になった。額の汗さえ凍ってしまいそうだ。
それを横目に見やり、扉をノックして開ける。
中にはすでにセイレティア付きの女官がいた。昨夜から一睡もしていないのか、顔色が悪い。
どうもトキツ以外多忙を極めているらしい。今日ツバキは一歩も部屋から出ていないのでトキツは暇だった。
(カオウもまだ戻っていないようだし)
能力で確認すると森が見えた。しかし姿を消しており、彼の様子はわからなかった。
「揃ったな」
ジェラルド皇帝へ慇懃な礼をしてから、トキツとロウは女官の隣へ並び、ギジーとロウの授印であるコハクが部屋の奥にいたクダラとリハルの元へ駆け寄り、各々挨拶する。
「さて。トキツは知っているだろうが、昨夜カオウが森へ帰った」
ジェラルドが憂うような顔で告げると、知らなかったロウの眉がピクリと動く。
「どうやら成長するらしい」
それは昨日ツバキも言っていたが、トキツはいまいち要領を得ていなかった。
ただ体が育つだけだろう。ギジーも成長期だが、魔物は人より長生きなので成長速度は遅い。たとえそれに比例して魔力が高くなったとしても、変化は微々たるものではないのか。
「ようは、脱皮だ」
そう補足され、そう言えばカオウは大蛇だったと思い出す。
「しかもセイレティアと会ってから初めての脱皮だ。人で例えると四、五年一気に成長するそうだ」
それなら急激な変化になるな、と納得した。初めてなら不安になるのも無理はない。
「ちなみに脱け殻は高く売れるらしい。国庫が潤う」
どれだけ潤うのだろう、ジェラルドが口元を手で覆うがニヤつきが隠しきれていない。
ゴホン、と女官が咳払いした。青筋が立っているのはトキツの見間違えだろうか。
ジェラルドが気を取り直して真顔に戻る。
「カオウが、印を消した」
「なっ!」
思わずトキツが叫ぶ。
それは予想しておらず、思い詰めたツバキの顔が脳裏に浮かんだ。
「セイレティアの様子はどうだ」
「今は眠っております」
女官の顔に影が落ちる。
「昨夜は堪えておいででしたが、今朝印が消えていることに気づくと泣き崩れてしまいました。トキツに探してもらおうと薄着のまま宿舎へ行こうとして手がつけられなかったので、やむを得ず治癒魔道士を呼び出して無理矢理眠らせております。……あんなに取り乱したセイレティア様は初めてです」
侍女たちも初めて見る主人の姿に動揺しており、部屋は混迷を極めているらしい。時に母として接してきた彼女の心痛はいかほどか。
「恐れながら、なぜカオウは黙って行ってしまったのか、お教え願えませんか」
女官は顔をしかめて皇帝に乞う。
皇帝は深くため息を付き、トキツをやや疎ましげに見た。
身に覚えのないトキツは目を左右に振る。
「脱皮前は神経質になって、まあ……なんだ。つまり、セイレティアといると理性がきかないそうだ」
それは……と皆微妙な顔をする。
リハルだけは『えぇ? どういうことですかぁ?』 と周囲を見、コハクが『いつかわかる日が来るさ』と生温かい目で諭していた。
それにしても、女官にまで疎ましげに睨まれるのは解せないとトキツは思う。
「セイレティアには、脱皮が始まったから一時的に印が消えただけだと伝えろ。あとは何もわからないと言い張れ。事実、いつ帰るかは本人にもわからない」
「しかし、森へ探しに行くのではないでしょうか」
「ああ、だからしばらく帝都から離れてもらう。ちょうどサタールの建国記念式典にも呼ばれているし、他にもいくつか断りきれない見合い話がある」
女官が眉をしかめる。なにもこんな時にと思うが、こんな時でなければ行けないだろう。カオウがいたら外交問題に発展する可能性がある。
「この話を受けたら、カオウが戻ってから一ヶ月休みをやると言えば多少は元気になるだろう」
女官は顔色が優れないまま一礼して退出した。
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