第1章

第1話 空と雨

 苔むした屋根の隙間から漏れた雨が、ぽつんぽつんと音を立てて傘に落ちていく。

 ゆるやかな山道に建てられた東屋で、湿ったベンチにタオルを敷いて座るツバキはぼんやりと上空を眺めていた。

 そこには金色の巨大な蛇と、白い衣をまとったこれまた大きな鞠のような生き物が楽しそうに飛び回っている。


「もうすぐ一時間か」


 そろそろ頃合いかと思ったところで、山から誰かが下りてくる気配を感じた。

 傘を傾けてその人物を見ると、彼もこちらに気づいたようだ。


「こんなところに女の子が一人で何してるんだ?」


 春が近づいているとはいえまだ肌寒い季節、小綺麗な服を着た少女がいるには不釣り合いな山道。

 待ち人でもいるのかと男に問われ、ツバキはあいまいに首をかしげた。待っていることは待っているが、相手は人ではない。


「あなたはどちらへ?」

「すぐそこのカイロって街でしばらく厄介になるつもり。なあ、ちょっと隣に座ってもいいか? 疲れてるんだ」


 ツバキは快く頷いた。

 昼のこの時間に山を越えたということは、通常の人なら昨夜は野宿をしているはずだ。

 髪はぼさぼさで無精ひげもひどいが、これは野宿をしたからなのか元々の性分なのかツバキには判断がつかない。

 ただ、荷物は山を越えるには必要最低限しかなく、腰に下げられた鞘も使い込まれており、ただの商人や旅人というわけではなさそうだった。


 男は男でどさりとツバキの隣に座ると「あー」と呻いてコリをほぐすように首をゆっくり回しながら、目の端で少女を観察する。

 よく見れば整った顔立ちに長い手足。栗色の髪は平民には珍しくない色だがどことなく品のある佇まいがちぐはぐな気がして少し興味が芽生えた。


「俺はトキツ。あんたはカイロの人?」

「私はツバキと言います。カイロのことはよく知っていますよ。……それより、そこの木に座っている魔物はトキツさんの授印ですか? ハクエンコウ、ですよね」


 ツバキはトキツの左後方にある木の枝に座っていたサルの魔物をしげしげと見つめた。

 白く長い毛並みが美しく手入れされており、瞳も大きくて一見愛らしい顔。魔力は個体にもよるが平均して高いはず。


「ハクエンコウはとても頭がいいと聞いています。それに人をよく選ぶって。よほどの方なんですね、トキツさん」


 魔物と精霊と人間が共存するこの世界では、魔力のある人間も珍しくはない。

 魔力がわずかでもあれば魔物たちを見ることはでき、安定した魔力があれば魔物と契約し、自分の魔力を与える代わりに自分もその魔物の力を使えるようになる。

 契約すると魔物が印を人間の体に刻むことから印を結ぶともいい、契約した魔物を他と区別するために授印と呼ぶ。


 ここ、バルカタル帝国の国民は大概魔物は見えるものの印を結べる者は少数で、しかもトキツの授印は平民向きで慣らしやすいとされる下級ではなく、山奥にしか生息しない中級クラスだ。

 普段魔物を見慣れているツバキも、碧い大きな瞳を輝かせずにはいられなかった。


『よせやいお嬢さん、そんなに見つめられたら照れちまうよ』


 サルの魔物は木からトキツの肩へ飛び乗ると、キヒヒヒと下品に笑った。


『おいらはギジーってんだ。よろしくな』

「よろしくお願いします、ギジーさん」


 にっこりと微笑むツバキ。

 そのやり取りを見て、トキツも驚いた。


「ツバキちゃん、だっけ。君もなかなかの魔力を持っているんだね」

「あ。もしかして、姿消してました?」


 少しでも魔力があれば魔物の姿は見える。

 しかしそれは魔物が姿を消していないときだ。

 姿を消した魔物を見るには、その魔物よりさらに強い魔力を必要とする。

 つまり、ツバキの魔力はギジーより上ということ。


 やっちゃったという顔でツバキは居住まいを正した。

 話題を変えなければと一つ咳をする。


「あの、トキツさんは何をしにカイロへ? お仕事ですか?」

「ああ。なあ、中央警察署の署長ってどんなやつか知ってる?」

「署長ってロウのこと?」

「知り合い!? どんな人?」


 ツバキは言葉に詰まった。

 帝都の平民街を取り締まる中央警察の署長は有名な人物だ。

 元々帝都の辺境で自警団をしていたところ能力を買われ帝都の自警団団長となり、自警団が組織化されて警察になったとき署長に抜擢された。


 そう説明するとトキツは首を振る。


「そういう上っ面じゃなくてさ。機嫌を損ねると氷漬けするって本当?」


 またもツバキの目が泳ぐ。

 署長について聞くということは、彼に用があるのだろう。もしかしたら警察官かもしれない。慢性的な人手不足のあそこへ来てくれる貴重な人材が、ツバキの説明でやめられては困る。人手不足の原因はほぼ署長のせいなのだが。


 答えに窮していると、突然トキツが大きな声で笑った。


「大丈夫。俺はロウの遠縁だから奴が小さいときからよく知ってる。たださすがに氷漬けってのが意味不明でさ。しかしその様子だと本当みたいだな。授印でも持ったか」


 トキツは今まで用心棒をしながらいろいろな街を旅していたこと、そろそろ貴族からの紹介状(護衛時の評価が記されており、貴族の紹介状があるとないとでは報酬に雲泥の差がつく)が欲しいと思っていた頃にロウから貴族の護衛を頼まれたことを話した。


「護衛って誰の?」

「どこぞのじゃじゃ馬娘の護衛だそうだ。融通が利いて腕の立つ奴が欲しいんだと」

「じゃじゃ馬ねえ」


 ツバキの綺麗な顔がむむっと歪んだ。

 何事かとトキツが訝しんだとき、ふいにツバキが空を見上げた。

 じっと一点を見つめていたかと思うと、トキツに向き直る。


「もうすぐ雨があがるようです。中央警察署まで案内しますよ」


 しかしトキツが見る限り変化はない。雨は相変わらず降っており、空には分厚い雲がある。


「案内は助かるが。まだ止みそうにないけど」

「道すがら、ロウの街での呼び名や噂話について教えますよ」


 いたずらっぽい笑みを浮かべるツバキ。

 どことなく怒っているようだが、理由を聞ける雰囲気ではなさそうだとトキツは腰を上げた。


「ツバキ、誰? そいつ」


 突然目の前に金髪金眼の少年が現れた。トキツが少女から目を離したほんの一瞬でだ。

 トキツとツバキの間に割って入るようにして立っている。


「この方はロウの遠縁のトキツさん。これから中央警察署まで案内するの」

「ロウの遠縁? うーん、似てなくもない……か? タレ目だけど」

「カオウ!」

「ほら行こうぜ。用は済んだし」


 カオウと呼ばれた少年はツバキの手を取りスタスタと歩いて行った。




 二人の背を、唖然として見つめるトキツ。

 用心棒をしていると、周りの気配を嫌でも察知する。

 殺気はもちろん、誰かが、ましてやあんな子供が近づけば必ず気づくはずだ。

 しかし目の前に来るまでまったくわからなかった。ギジーも同じようで、興味深げにじっと少年を見つめている。


 そして、さらに驚くべきことに、二人が屋根の下から一歩踏み出る直前に、黒い雲の隙間から光が漏れだしぴたりと雨が止んだのだ。


 背中に一筋の汗が流れる。


「とにかく、あいつらについていかなきゃな」


 不気味さと好奇心を抱きながら、トキツは荷物を持ち上げツバキたちの後を追った。

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