とけない雪だるま

美里ダイズ

第1話

 ピカッと光った。

 真理子はパソコンのキーボードを叩く手を止め、デスクの向こうの窓の外を見た。

『一、二、三、近いな…』

 そう思って、この前、大原さんが言ってたことを思い出していた。『光と音にはタイムラグがあるんです。三秒でゴロゴロ聞こえてきたら、だいたい一キロ先におちたってことなんですよ』

『もう十月だというのに、雷だなんで、異常気象だな』と真理子が思いながら、さて、どこに落ちたのだろうと椅子から立ち上がると、課長の声が背中から聞こえた。

「大原君達、大丈夫かなぁ。心配だよね、春日さん」

 振り返ると、みんなが「課長椅子」とよぶ肘付きのパソコンチェアに座ったままの課長が、真理子とは反対側の窓の外を眺めていた。

「そうですね、今日は山上地域ですしね」

 課長に言われ、今日の午後から現地調査に出ている大原さんの行った先を思いうかべていた。

 真理子の所属する産業課は毎年現地調査に出る。補助金申請の農場にきちんと申請書通り、稲や野菜が作られているのかを確認する。全ての農場を見るのは現実的に無理なので、代表的な農場をピックアップして、写真を撮り、メジャーで面積も計る。一人ではできないので、二人ペアで行く。

 梅雨前に係長以下が駆り出される大規模な調査と違い、秋と冬は担当者だけで数日でこなす。

 今日の調査、大原さんは新人の柏木さんと一緒だ。

「柏木さんが一緒だから、心配ないけどね」

 課長は嫌味などでなく、本気で言っているようだった。『大原さんもかわいそうに』真理子は少し同情する。仕事は丁寧で人当たりもいい。でも、言葉足らずのところがあって、いつも柏木さんにフォローの一言を付け加えられるので、大原さんはすっかり柏木さんの後輩ようのように扱われるようになってしまった。

「一応、電話しておいて、春日さん」

「はい」と真理子はデスクの電話で大原さんの個人携帯の番号を押す。

「はい、大原です」

 ワンコールで出た。いつも通り、ゆっくりと、まるで留守電のメッセージのような口調。

「春日です。お疲れ様です。そちら、雷、大丈夫ですか? 課長が心配してらして…」

「大丈夫です。ちょうど車で移動中でしたから」

 ついでだ、と思い、

「何時に戻られますか? 予定では四時ですよね?」

「どうだろう…?」

 受話器の向こうから、でもすぐ隣から紙をめくる音が聞こえる。『予定通り、現場を回れてますが、雨が降り出したので…』柏木さんの高い声が聞こえてきた。

「四時すぎるかもしれませんが、定時までには戻ります」

「わかりました。では課長に伝えます」

 受話器をそっと戻し、『こちらは雨が降っている、くらい言えないのかな』と心の中で呟いて、小さめのため息をしてから、まだ窓を眺めている課長に伝えた。

 *

 結局二人が戻ってきたのは定時の五時ギリギリだった。あの後、雷が鳴っただけだった事務所と違い、調査地の山上地区は土砂降りになったそうだ。二人はカッパを着て調査を続けたらしい。事務所に戻ってくるなり、大原さんが、

「タオル、タオル」

と賑やかに言うので、取引先から挨拶にいただいた社名入りのものをロッカーから出して四、五本、投げ渡した。

「わぁ!」

と、大原さんは大げさに驚いて、そのタオルを柏木さんに渡していた。大原さん自身は首にかけた、これまた社名が堂々とかかれた手ぬぐいでなんとなく顔を拭いていた。

 私は二人のカッパを預かり、できるだけ水滴をタオルで拭いてからハンガーにかけた。 大小の蛍光イエローのカッパが並ぶ。

「春日さん、ありがとうございます」

 ふいに後ろから柏木さんの高い声がしてタオルを持った手に力が入った。

「いえ、お疲れ様でした。今日で秋の分の調査が終わってよかったですね。あの、タオル、預かります。家でまとめて洗濯してきますから」

 私は柏木さんからタオルを預かり、

「大原さん、その手ぬぐいもついでに預かりますよ」

 と、柏木さんの後ろでメジャーやヘルメットを片付けていた大原さんに手を出した。

「いいですよ、自分のですから。自分で洗濯できます」

「そう、ですか。ではお先に失礼します」

 と、私はタオルを持ったまま出した手を下におろし、一礼して事務所を出た。

 *

 現地調査は一週間ほど続く。この地域はほどんどが稲作中心の農家なので、おそらく田植えが終わったであろう七月までにはおおよその調査が終わる。野菜や果物などはそれぞれの収穫時期に現地調査に行くが、それらも秋と冬にそれぞれ二三日もあればほとんどの調査が終わる。

 稲刈りも終わり、山々も紅葉し始めた十一月上旬。私は大原さんの現地調査に同行することとなった。

「ごめんね、春日さん。明日の現地調査、大原君と一緒によろしくね」

 昨日、定時で帰ろうとした私に会議から戻ったばかりの課長が、朝と同じことをもう一度言った。

「いえ、私は構いませんが、柏木さん、心配ですね」

「昨日、柏木さん、体調不良で帰ったでしょう? あの後、連絡があって、しばらく検査入院だって。彼女がいない間、よろしくね」

 昨日の昨日だから、一昨日のことだ。

 私はコピー室にこもっていたので知らなかったが、あとで救急車を呼んだほうがよかったかもと言うくらい、苦しがっていたようだ。柏木さんは、『少し早めにお昼休憩行きます』と言ってしばらく休憩室で休んでいたらしいが、回復しそうにないと判断し、早退したらしい。

 思った以上に印刷に時間がかかり、お昼過ぎに大量の印刷物を持って事務所に戻った私に、お昼休みの電話番をしていた大原さんが『柏木さん、早退しましたから』とだけ言った。

 昨日の朝礼で、課長から事の次第を聞いた私が、『事務所には女性は二人だけなので、次からは私を呼んでくださいね』と大原さんにこっそり伝えると、大原さんは『そうですか、その方がいいですか』とわかったのかわからないような返事をしていた。

 現地調査は新人の仕事だ。まさか派遣の私が行くとは思っていなくて、昨日は家に帰ってから、すっかり衣替えした押入れから日除け用の帽子や手袋をひっぱりだした。

 調査は午後からだった。私は私服でいいといわれたので、動きやすいようにと長袖の黒色のタートルネックのニットにシルバーのUVパーカー、ストレッチのきいたグレーのパンツで車の助手席に乗り込んだ。

 もちろん、昨日慌てて用意した帽子と手袋も持った。

 大原さんは指定の作業服を着て、帽子代わりにヘルメットをかぶっている。首からはいつものように手ぬぐいをかけていた。

 後部座席に資料と地図とカメラ、メジャーを積んで運転席に座った大原さんに真理子が

「よろしくお願いします。ナビ、私がしましょうか?」

 と、後部座席から道路地図を取ろうとすると、大原さんは

「大丈夫です。去年も行った場所ですから、地図はいりません」

と、エンジンをかけてハンドルを握った。

『頭、いいんだよね』と思いながら、大原さんの経歴を思い出していた。県内の有名進学校を卒業後、現役で有名国立大学に入学。背も高いし、スポーツもできる。でも、まだ独身。まだ、といっても三十歳だから、特別遅くはない。

 四月、慣例の歓送迎会の席で、課長が

「大原君ね、せっかくの三高がもったいない。いや、残念だよ」

としきりに嘆いていた。『三高』って、ずいぶん懐かしいな、と思って一番下座で空になりそうなグラスをなんとなく持っていた真理子は、聞くとはなしき聞いていた。

「課長、今は三高じゃなくて、三ノー、ですよ。三ノー」

と、バツイチになったばかりの係長が一番上座に座っていた課長に近づいていった。

「暴力しない、借金しない、浮気しない、ですよ。ボクは浮気しなかったのに、ヨメさんがぁ…」

と課長に絡み始めたので、みんなでなだめていたっけ…。

 一言も話すことなく、一時間足らずで最初の農場に着いた。車から降りようとしたとき、

「春日さん、名札、服の外に出してくださいね」

と、大原さんが自分の名札をヒラヒラさせながら言った。

 真理子は慌ててパーカーの外に首から下げた名札を出す。『ちゃんと見てるんだよね』と少し悔しい気持ちを抑えながら、横目で大原さんを見た。

 事前の打ち合わせ通り、写真撮影と計測は大原さん、記録は私で作業を進める。

 今回の調査は野菜や花が多い。申請書通りの作付けがされているか確認しながら記録していく。この地区はほとんどが露地栽培なので、真夏の調査は汗との闘いと聞いていた。

 夏の現地調査で柏木さんが『記録係って、両手とも塞がるから、日傘を持てないんです。日焼けしたくないのに…』とボヤキながら出かけていくのを見送ったことを真理子は思い出していた。

『夏じゃなくてよかった』と内心ホッとしていた。

 最後、三つ目の農場に到着した時だった。そこは菊の栽培をしていた。それも、ビニールハウスで。すぐに真理子は『しまった』と思った。

 十一月とはいえ、ハウス内の温度は屋外よりも高い。今日のような穏やかに晴れた日なら尚更だ。とにかくパーカーだけでも脱いで、ハウスに入った。

 先にハウスに入っていた大原さんがカメラを持ったまま固まっていた。

「どうしました?」

 真理子がカメラを覗き込むと、レンズが曇っていた。

「すみません。中がこんなに暑いと思わなくて…」

 大原さんがすまなさそうに小声で言った。

「仕方ないですよ。先に計測しましょう」

 真理子がメジャーを手渡すと大原さんは素直に受け取って、カメラを入り口のドアに掛け、畝の間をとぼとぼ歩き出した。

 ハウスは全部で四棟あった。後から追加で設置していったのか、どれも大きさがバラバラだった。仕方なく四棟全て計測し終わる頃には、真理子はハンカチでは抑えきれないほどに汗をかいていた。

 最初のハウスに戻り、掛けたままのカメラを見ると、くもりはすっかりとれていた。

 作業服の袖をまくりあげて、首元のボタンをいくつも外していた大原さんにカメラを手渡すと、

「春日さん、先に車に戻ってていいですよ。 ぼく、写真撮って、すぐに戻りますから」

 そう大原さんは言ったあと、

「車の後部座席のボクのバッグの中に、新しい手ぬぐいがありますから、よかったら使ってくださいね」

と、走ってハウスの奥へ写真を撮りに行ってしまった。

「ありがとうございます」

 真理子は走る大原さんの背中に向かって大声でお礼を言うと、先にハウスを出た。途端に耳元を秋の涼しい風がそっとなでる。

『残念、なのかなぁ』

 真理子は課長の言葉を思い出していた。

 大原さんはきっと優しいだけなのだ。すぐそばにいればわかる。ただ、すぐそばにいないとわからないだけなのだ。

 今日の現地調査で半日一緒にいただけで、真理子はその優しさに気づいた自分に驚いていた。メジャーを持って何度も往復してくれたのは大原さん。実は車酔いしやすい真理子が地図を見なくてもいいように、事前にルートを調べていたのも大原さん。

 今度は洗って返そう。額の汗をバックから取り出した真新しい手ぬぐいで押さえながら真理子は車の窓を開けた。生ぬるくなっていた空気が出ていく。

「お待たせしました」

 大原さんが小走りで戻ってきた。

「今日はこれで終わりですね。春日さん、お疲れ様でした」

「お疲れ様でした。手ぬぐい、ありがとうございました」

 後部座席にカメラを置く大原さんに、助手席から振り向くように見て言った真理子は、その首にかかっている、白いけど白くない手ぬぐいに何か違和感を感じた。

「帰りましょう」

 エンジンをかける大原さんの首にはまだその手ぬぐいがかかっている。事務所に着くまでにチラチラ横目で見ているうちに、それがいつもの社名の入った手ぬぐいではなく、雪だるまの柄ということに気がついた。

 それと同時にそれがプレゼントされたものだということにも気づいてしまった。そのまま行きと同じく一言も話さぬまま、事務所に着いた。

 *

 年末最後の出勤日は恒例の大掃除だ。

 真理子も派遣とはいえ、一緒に大掃除をする。こんな時、背が高い大原さんは重宝される。

 課長や部長に「大原くん、電灯つけかえて」とか、「大原くん、換気扇外して」といった要望に素直に「はい」と応え、その度に事務所に唯一の脚立を移動させていた。

 お昼になり、柏木さんと二人、トイレ掃除から戻った真理子は大原さんの首にかかっている手ぬぐいに気がついた。それは一緒に行った現地調査の時に使っていたそれだった。

『そういえば今年は初雪、遅いな』

 手ぬぐいの雪だるまから窓の外に目をやると、磨いたばかりの窓ガラスには青空が広がっていた。

 大掃除の昼食は毎年、部長のおごりだ。近所のお蕎麦屋さんでざるそばをいただく。必ず、ざるそばを。

『そばはざるだよ、ざる』という部長の信念にこの日ばかりは全員が付き合う。

「一気に食べろよ。五分で。いや、三分で」

と、部長がみんなをまくし立てる。

「ほら大原くん、見本、みんなにみせて」

と部長が指名するのも恒例。大原さんは箸でそばを二、三本とると、つゆをたっぷりつけて、豪快に音をたててすすった。

「違う、違う。つゆは少しだけつけて食べるもんだよ」

とすぐに部長のダメ出しが入る。『これくらいね』と部長が手本を示すのをみんなが見つめるなか、真理子は大原さんの首から下げた手ぬぐいを見ていた。そこには今さっきついたであろう、そばつゆのドット柄が新たにできていた。

 *

 午後からは自分のデスク周りの大掃除を各自でする。

 大原さんが外した換気扇や網戸を元に戻して、ようやく自分の席についた頃には、みんなはデスク周りの掃除を終えて、給湯室でお茶を飲んでいた。

 事務所には年内最終便の郵便物を配っていた真理子と大原さんの二人きりだった。パソコンの裏側の掃除をしようと前かがみになった大原さんが「しまった」という顔をしたのが見えた。

「どうかしましたか」

 真理子が声をかけると、大原さんは手ぬぐいをヒラヒラさせて

「多分、お昼の時に…」

と頼りなげな声がさらに小さくなって最後は聞こえなかった。

「大丈夫ですよ。こういうのはまかせてください。年明けには綺麗にしてお返ししますよ」

「本当ですか、助かります」

 大原さんの声がわかりやすいほど明るくなった。

「贈り物でしょう? 大事にしてくあげてくださいね」

と、手ぬぐいを受け取りながら真理子が言うと、

「贈り物っていうか、お土産、ですけどね」と慌てて訂正するところがわざとらしい。

『気づいてないとでも?』と言いたいところをぐっと押さえて、真理子はその日の夜、自宅でスマホで検索していた。

 『あった』

 同じ手ぬぐいは小さな画面にあった。送料を含めても二千円しない。

 年末年始、宅配便は大忙しだろう。しかし、真理子はためらいもせず、「購入」ボタンをクリックした。

 今夜も雪はふりそうにない。でも、真理子の手の中には雪だるまが笑っている。

 こんなに握りしめても形も変えず、溶けもしない雪だるま。

 真理子は手ぬぐいを目頭に押し付けて永遠に溶けない雪だるまを涙で濡らした。

(完)

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