※24


 瞳が熱に当てられて少しだけ傷む。身体も火傷してしまったかも知れない。それでも炎の中を全力疾走し、息も絶え絶え目的の放送室に到着。扉に手をかける。

 鍵がかかっていた。


「氷柱雪さん! いるの!? 返事をしてくれ!」


 乱暴に扉を叩きながら叫んだ。しかし返事は無い。

 数歩後ずさってから、助走を付けて全体重をかけたキックをかます。すると扉は壊れ、すっ飛んでいった。


 背中から差し込んでくる月明かりを頼りに、部屋の中を見渡す。

 放送マイクが置かれている机の前に、氷柱雪さんが横たわっていた。俺はすぐさま彼女に駆けより肩を揺らす。


「氷柱雪さん、しっかりして!」


「…………タ、タツヒロくん」


 氷柱雪さんの美しい顔に打撲傷があった。かあっと身体中の体温が上昇していく。誰だ、こんなことをした奴は。許せないにもほどがある。氷柱雪さんの顔を殴るなんて。


「氷柱雪さん……そのケガは?」


 大切な彼女を強く抱きながら、怒気を抑えた声で訊ねた。


「こ、これは……」


 氷柱雪さんは頬に手を触れながら、言いにくそうに肩を竦める。


「……カズト?」


「…………」


 すると彼女はそのまま黙り込んでしまった。それが答えだった。

 カズトが氷柱雪さんのことを批難していたことを思い出す。化け物だとか、心が無いだとか、そんなことを言っていた。


 血が滲むほど強く唇を噛みしめる。


 ――お前は……卑怯者だ。


「とりあえず、火事が起きてるから早くここを脱出しよう……立てる?」


「……う、うんっ」


 彼女はふらふら立ち上がり、俺の肩に腕を通した。甘い香りと柔らかな弾力が身体の側面に密着する。放送室から出ると、先ほどより火事の進行は進んでいた。もはや一階がどういう状態にあるのか想像することさえできない。


 ともかく、今はここを脱出しなくてはいけない。一階に降りるのは自殺行為だ。ここは三階の教室に戻って警察の到着をみんなと待つべきか。

 隣で、氷柱雪さんが震えた声を漏らした。


「う、嘘……おじ、さん……」


「カナタちゃん……その顔、一体どうしたんだい」


 俺たちの横に立っていたのは、グレーのみすぼらしい布に身を包んだ長身の男だった。手には小ぶりのナイフを持っている。


 一歩、一歩と近づいてくる。


「そこの男がやったのかい」


 思わず後ずさる。三年前逮捕されたはずの氷柱雪叔父だった。


「……迎えに来たよ、カナタちゃん。さあ、一緒に行こう」男が手を差し伸べる。


 周囲は既に炎に囲まれていて、退路は完全に塞がれてしまっていた。

 俺は最愛のヒロインの盾になることを選ぶ。手持ち無沙汰にしていたバットを構える。


 すると、氷柱雪叔父は途端に顔を歪ませた。


「私のカナタを返せッ――!!」

 まるで悪魔の咆哮だった。


 持っていたナイフで襲いかかってくる。

 身体が一瞬で怖じ気づく。しかし、間一髪のところで攻撃を躱す。


「――逃げよう!!」


 暴れる心臓をそのままに、俺は氷柱雪さんの手を掴み取った。

 瞳に映るのは真っ赤な炎の海。


 背後からは死神が自分の命を摘み取る為に、まっすぐ突き進んでくる。

 あの館での恐怖体験が蘇る。死神の吐息がすぐそこまで来ていた。少しでも気を抜けば死がやってくる。

 鈍く光る瞳がこちらを睨む。途端に目眩がして、意識を保てなくなりそうなときだった。


 炎の中から――誰かが飛び出してきた。


 そいつは俺たちを追ってくる死神に向かって、赤色のポリタンクを振りかけた。中から油臭い液体が飛散する。灯油だった。


「早く行けッ!!」


 大声で叫びながら彼は俺の持つバットを奪い取って、先端を炎の海へ突っ込んだ。


「――カズト!」


 俺が叫んだのも束の間――木製のバットにごうっと灯が灯り、それは炎を纏った武器となった。しかし相手も怯まなかった。氷柱雪叔父がカズトに飛びかかる。

 抵抗するようにカズトは炎のバットを振るった。すると氷柱雪叔父の衣服に火が引火する。


 氷柱雪叔父の絶叫の中で、カズトは泣いているようだった。全身を燃えさかる火炎に焼かれる氷柱雪叔父に、カズトはバットを振るい続け、取っ組み合い――やがて床に押さえ付ける。


「バカ野郎! 何してんだ! さっさと行きやがれっ……」


 氷柱雪叔父の身動きを封じながら、カズトが涙声で叫んだ。

 カズトの衣服に火が燃え移る。


「お前、燃えて……」


「ちょっと熱いくらいだ、大丈夫。心配すんな」


 上半身だけこちらを振り向きながら、カズトは疲れたように笑った。


「ふざけんなよ……もう、顔を見せるなって言っただろ!」


「はは、悪りぃ、もう忘れちまった」


 平然とそんなことを言うカズト。


 ああ……本当にこいつは――ヒーローみたいなヤツだ。

 見返りも無いのに勝手に人を助けて、お節介を灼いて、都合が悪いとしらばっくれる。人をバカにして、からかって。だけど、人のために本気になれるヤツ。そんな情に厚い俺の親友。


 肉が焼ける匂いと共に、カズトの唸り声が聞こえる。

 そのとき俺は見た。カズトの脇腹に、小さなナイフが一本刺さっているのを。


「お前……それはっ……」


 言葉を探しながら困惑する俺に、カズトはにやっと唇を歪めて、言った。


「お前のことが……好きだって言ったろ。……俺は……お前が幸せで居てくれるなら、他はなんだっていいんだよ。タツヒロ」


「そんなの勝手だ! 俺の為にそんなっ……お前が生きてないと、俺はお前を絶対許さないからな!」


「バーカ、誰が死ぬっつったよ……まだやり残したこともあるってのに、死ねるか」


 カズトの声が、だんだん低くなっていく。


「タツヒロ……俺のこと、信じてくれよな」


 儚い想いを告げるみたいに、カズトが言った。


「どういうことだよ……?」


「いいんだ。俺の言葉、絶対忘れんなよ? そしたら、早く行け……」


「……っ! 絶対、絶対に追いつけよ!」


「……当たり前だろ!」


 カズトの声が彼らしい明るいものになっていた。

 瞳に涙を溜めたまま、氷柱雪さんを抱えてその場を逃げ去る。


 下駄箱へ続く道は地獄の業火が広がっていた。とてもじゃないが通れない。俺たちは二階へ引き返し、そこで『救助袋』と書かれた鉄の箱を見つけた。


 前面に書かれた使用方法に従って蓋を外し、窓の外に向かって重り付きのロープを放り投げる。箱の中に詰まっていた白い袋を少しずつ外へ出して、最後に金具を持ち上げると、立派な救助袋が完成した。


「氷柱雪さん、降りるよ」


「でも、怖いよ……タツヒロくん」


 不安がる彼女の手のひらを強く握って、「大丈夫、二人なら」と笑いかけた。





 外の空気は澄んでいて、学校の中とはほとんど別世界のようだった。

 俺たちは疲弊しながら校庭の中心まで走った。煤焦げた肌は所々負傷していた。

 振り返って燃えさかる学校を仰ぎ見る。叫び声が怨念のように鳴り響いていた。教室の中のみんなが助けを求めているのだ。


 真紅の炎に包まれる学校を呆然と眺めながら、俺たちはただひたすらに待っていた。ずっとずっと、祈っていた。

 やがて、サイレンを鳴らしながら救世主が校庭の中へ突入してきた。



 俺たちは助かったのだ。



 それからの出来事は迅速だった。

 オレンジ色の服に身を包んだ人々が俺と氷柱雪さんの元にやってきて、簡単な状況説明を求めた。

 ガスボンベを背負った消防隊員たちが、消防車に備る梯子を三階の教室まで伸ばし、救助を始める。火災がおさまったのは、それから二時間後のことだった。

 教室のバリケードの中で身を固めていた生徒たちは、みんな無傷で救助された。



 助からなかったのは、カズトだけだった。



 彼は焼死体で発見された。

 無残にも片腕を切り落とされ、刃物で何度も胸を突き刺されていた。一緒に居たはずの氷柱雪叔父は見つからなかった。

 俺は、カズトを助けることができなかったのだ。



 カズトとの想い出が蘇る。

 あいつとの出会いは、小学三年生のとき。別のクラスだったけど、学校全体で見ても目立つタイプの人間で、人気者だった。だが、それ故に息苦しさを感じていたらしい。カズトは屋上で一人きりだったのだ。


 当時友達の少なかった俺は、彼に話しかけることも無く距離を置いて空を眺めていた。

 夕焼け空が黒く染まってきたころ、カズトが口を開いた。


「なんで何もしゃべんねえの?」


「え、理由とかないけど」


「俺さ、結構人から好かれるタイプだけど、あんまり人好きな性格じゃないんだよな」


「はあ」


「わりと疲れるんだよ。人気者のフリしてるのって」


「じゃあ辞めればいいじゃん」


 カズトはポカンとした表情で俺を見つめて、「……確かにそうかもな」と笑った。

「お前、好きな女子とかいるの?」


 突然訊ねてくるデリカシーのかけらもないカズト。


「いない」


「俺はモテるよ」


「あっそうそれは良かったね」


「でも興味ないんだよな。そういうの」


「好きにしたら良いよ。好きとか嫌いとか、別にどうでもいい」


「……そうだよな。誰が誰を好きになったって……別にどうだっていいよな」


 カズトは何やら納得したように、うんうんと頷いた。


 遠い日の記憶。もう、カズトと二度と話をすることはできない。

 つうっと、頬に涙の線が通った。


 ――俺はカズトのことを恨んだらいいのか、悲しんだらいいのか、よくわからなかった。


 * * *


 現場に到着した私は、亡き人となった少年の死体から焼け焦げたボイスレコーダーを手に入れた。話に聞いていたとおり、ちゃんと彼の左ポケットの中に入っていた。


 彼とは、あの館での事件から個人的なやりとりを続けていた。

 私は彼の言うことをほとんど信じちゃいなかった。同僚の甥っ子だからと、相談相手に乗ってあげただけに過ぎない。


 ――後悔している。


 ちゃんと彼の話を聞いていれば、救えたかもしれないのだ。市民を守る警察が聞いて呆れる。

 結果的にやっていることは人殺しも同然だった。

 だから、私はどんなに長い時間がかかったとしても、この事件を追っていきたいと思う。


 正義とはなんだろうか。私たちは、なんの為に存在しているのだろう。

 一人の子供も救えず、悪を野放しにしておくことがこの国の正義なのか?


 自問自答しながら、側で泣きじゃくっていた坊主頭の少年の頭を撫でてやった。


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