第三章

※19


 ――黒板を叩くチョークの音。……いつ聞いても、良い音だな。

 まどろみの世界の中でそんなことを思っていると、やがて声が聞こえた。


「はい、ではこの問題解ける人」


 黒板に背を向けた教師が仏のような顔で言ってから、溜息をついた。彼は名簿表に視線を落とし、唸りながらも指名することにしたようだ。


「ええっ、なんで僕なんですか!」


 男子生徒が顔をしわくちゃにさせて文句を付けた。同時にあははとクラス中が笑いの渦に飲み込まれる。


「そりゃあ当てるよ。親御さん来てるんだから。ほら、格好いいところみせてあげなさい」


 にやにやと笑う国語教師が、教科書をパタンと閉じて教卓から離れる。

 男子生徒が照れくさそうに頬を染めながら、ちらちらと教室の後ろに目を配っていた。


「ヒューヒュー! よっ、オニギリー! お母さんが見てるぞー!」


「もう、うるさいなあ! カズトは黙っててよ」


 瞬間、俺は反射的に席から立ち上がって叫んだ。

「カズトッ!!」



 ――披露宴会場では、カズトの席が無くなっていた。



 ぽかんと口を開けたカズトと目が合う。

 次第に胸の内に安心という二文字が降りてくる。


 顔を上げると、周囲の視線は俺に集まっていた。呆然とするクラス中の生徒と、席を立ったまま固まってしまったオニギリ。


 中学時代までは丸みを帯びていた彼のフェイスラインが多少変化していた。頬骨が出ていて、ぱっと見無骨な印象だ。トレードマークのオニギリ頭は変わっていないが、全体的にがっしりした体型になっていた。ブレザーの上からでもそれが良くわかる。


 俺の知っているオニギリは高校一年生を境にでぶっちょへの道を進み始めていたが、この世界のオニギリはそうでは無いらしい。

 教室後ろにはオニギリのお母さんがいた。どうやら、今日は高校の授業参観日らしい。


「おいおい栗ヶ山、居眠りでもしてたのかあ?」


 またもやどっと笑いが巻き起こる。

 三回目のタイムリープ。カズトもオニギリも、無事らしい。





 授業参観が終了し、俺たちは教室の隅っこに集まっていた。この頃の習慣みたいなものだ。


「つうかさっきのはマジでなんだったんだよ、タツヒロ」


 カズトが本気の心配面で、俺のことを見つめてくる。


「だから夢を見てたんだってば。お前が崖から落ちそうだったから、叫んじゃったんだよ……多分。もう良く覚えてないよ」


「夢、ね……」カズトはそこで話を一度終わらせて、にやっとした表情を浮かべた。「いやあ、それにしても最高だったぜオニギリ。お前のかーちゃんも微笑んでたぞ」

 オニギリを小突きながら笑うカズト。


「うるさいなカズト! そういえば……またお母さんに余計なこと喋ってないだろうね!?」


「ああ? 喋ってねえよ? ……この前オニギリが後輩の女子にフラれたことなんて」


「でた! ああもうホント最悪! 今朝からなんか様子が変だとは思ってたんだよ! クソッ、なんだよもうっ……ていうかそもそもなんで人の親と勝手に連絡取り合ってんの? 何考えてんの? 熟女好きなの?」


「今更何言ってんだか。小学生の頃からだろ、こんなの」


「おかしくない? 普通におかしくない? ねえどう思うタッツー」


 オニギリが眉根を寄せながら同意を求めてくる。


「あ、ああ……」


 カズトとオニギリは家族ぐるみで仲が良い。だからオニギリの諸事情はすべてカズトを通して御両親に伝わっている。控えめに言っても、思春期男子には最悪のネットワークシステムだ。


「……なんか、タッツー今日元気ないね。さっきも様子変だったし」


 言葉に詰まっていると、オニギリが「あ、もう授業始まる」と行儀良く席へ戻って行った。

 カズトと二人になる。


「……タツヒロ」


「何?」


「……なんか悩みがあるなら、とりあえず俺に言っとけよ? 解決しないまでも話し相手くらいにはなれるからさ」


 カズトが人懐こい表情で笑った。

 その笑顔が見られて、俺は心の底からほっとした。





 放課後になるとカズトは部活へ、オニギリは道場があると早々に帰ってしまった。

 道場とかお前何言ってんだと思ったが、過去が改変されたことでオニギリは実家の剣道道場に通うようになったらしい。彼はそのおかげで太らずに済んだというわけだ。防具が臭いからヤダ! とあれだけ嫌がっていたのに。


 独りぼっちで暇人となった俺は、窓際の最後列――いわゆる主人公席から夕焼けに染まる校庭を見下ろしながら、物思いにふけっていた。

 三度目となるタイムリープを果たしたはいいものの、披露宴会場で席ごと無くなったカズトや、行方不明のオニギリの為に、俺は何をしたら良い?


 そもそも、なんでタイムリープしたいと思ったのだっけ……?

 理由を見失っている気がする。なんだろう。この世界がほのぼのし過ぎているせいかもしれない。何しろ、少し前まで俺は殺人鬼に追われていたのだ。温度差が違いすぎる。


 あの館での壮絶シーンの連続を思い出すと、それだけで後頭部辺りに寒気を覚える。ホラーというのはフィクションだからこそ面白いのであって、現実で体感するなどもってのほかだ。


「タツヒロくん」

 とても魅力的な甘くて優しい声音が、俺の右耳を包む。


 俺の横には、清楚な制服姿に包まれた史上最強の美少女JKが立っていた。


「氷柱雪さん」

 薄く化粧をしているせいか、中学の頃と比べると大人びた印象を受ける。髪は子供のころから変わらない黒髪のストレート。短くしたスカートからはかぶりつきたくなるほど美しい白肌が見えている。


「今、帰り?」

 氷柱雪さんはにっこり微笑んで、小さな顔を傾けた。


「う、うん」


「……一人?」


「カズトもオニギリも……用事あるから」


 言いながら、俺は鞄を担いだ。そのまま氷柱雪さんの横を通り過ぎようとする。


「――待って!」

 ブレザーの袖が、ぐっと掴まれた。


 ……大好きな女の子に服を掴まれるのは、嬉しいことのはずだ。そもそも俺は氷柱雪さんの生涯の伴侶になりたくて、そう願った。


 だからこの展開は、自分で望んだストーリーのはずだ。それなのに……。

 喜びよりも恐怖心のほうが勝っていた。彼女の付近には死の匂いがする。関わった人間が次々と不幸になっていく。


「わたし……何か悪いことしたかな」


 その声には明らかな悲しみが含まれていた。よそよそしい態度を取った俺に困惑している

のだろう。今まで仲良くしていたはずの相手が突然態度を変えたら、誰だって悲しい。


「…………」


 氷柱雪さんの表情を見てみると、彼女は今にも泣き出しそうだった。それを見て、俺は自分のことを心の底から軽蔑した。


 幸せと不幸せは――同じだけあるはず。きっと神様は彼女に美しすぎる容姿を与えてしまったばかりに、バランスを取らなくてはいけなくなったんだ。

 幼少期に強盗殺人に襲われて実の肉親を失い、その後引き取られた叔父は妻や近隣住民を大量殺害した殺人鬼だった。


 それ以降彼女は天涯孤独の身。親代わりになっていた家族の生命保健と貯蓄で一人暮らしをするようになった。当時まだ中学生だった氷柱雪さんを哀れみ、いくつかの児童養護施設が彼女に声をかけたが、氷柱雪さんはそのすべてを断ったという。オニギリとカズトに聞いた話だ。


 壮絶すぎるじゃないか。いくらなんでも。

 こんな風に冷たい態度を取ることが俺のすべきことなのか?

 葛藤を続ける俺に、そうとは知らず氷柱雪さんが顔を寄せてくる。

 彼女の髪の毛がはらりと肩から落ちて、ふわりとシャンプーの甘い香りが広がった。


「ねえ、今からデート……しない?」


 氷柱雪さんが悪戯な笑みを浮かべ、くすりと笑った。


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