※18
――そう、思ったときだった。
自分の身体がぐいっと持ち上がる。途轍もない力だった。
歪な悪臭が鼻腔を刺激する。ごつごつした手で顎を鷲づかみにされる。
目の前には、殺人鬼の顔。
目玉だけが闇の中でぎらぎら浮き上がっていた。ぎょろりと充血していて、まさしく狂人のそれ。不適に歪んだ唇はにやにやと笑っているように見えた。
逃げようが無い。
死ぬ。
ぼんやりした思考の中、闇色の空間を青白く染める月光がチラリと目に入った。
――月って、こんなに綺麗だったのか。
もう諦めていた。後は死を待つだけだ。
「タツヒロッ――!! 何処だー!」
カズトの叫び声。
俺はっと気を取り返して、持っていたエアガンを殺人鬼の顔面にねじ込んで連射する。殺人鬼の反撃。顔面を殴り飛ばされた。
だが、これで良い。
「カズトッ――! 俺はここだッ!!」
力の限り叫んで、口元の出血さえ気にせず速攻で跳躍し窓をブチ割った。月夜に照らされたてきらきら光り輝く硝子の破片が宙を舞って――そのまま夜の空を真っ逆さまに落下する。
草花のクッションに尻を強打。あまりの痛みに失禁しかけたが、骨が折れたわけでもなさそうだった。
「タツヒロ! 大丈夫か!」
やがて、悶えている俺の周囲に人が集まった。先に脱出していたカズトたちだった。三人に介抱されながら、俺は身体を起こした。
「早く逃げよう!」
叫ぶ一同。ここは庭の側面側のようだ。周囲は刺々しい柵で囲われていて、とても乗り越えられそうもない。つまり、出口は正面の玄関にしか存在しない。
「ひっ……!」
突然、オニギリがうわずった声で叫んだ。
背後からどすりという鈍い音。
どうやら殺人鬼も二階から飛び降りてきたようだ。
「に、逃げろおおおおおおぉぉぉ!!」
カズトが真夜中に叫び声を上げる。
焦燥する俺たちに、サイレンが届く。
半ばむせび泣きながら、館の入り口へ飛び出した。潜入する前に見た犬小屋が無性に懐かしい。恐る恐る開けた門の向かい側に、幾つかのパトカーが停車していた。俺たちの姿を確認した大人たちが、手を上げながらこちらへやってくる。
「ぉぉおおまわりさんっ! さささ殺人鬼が来ます! はやくやっつけて!」
オニギリが震えた声のまま、制服に身を包む優しげな男性に抱きつく。
困惑した制服姿の男性二人の背後から、赤ネクタイに黒のワイシャツ姿の男性が現れる。筋骨隆々、顎髭を携えた貫禄ある男性だった。
警察というよりはどことなく刑事っぽい出で立ちだった。彼は俺たちを後ろに引っ込めて、ゴツい腕時計を付けた太い腕をぐるぐると回した。
俺たちが出現した角から殺人鬼が飛び出した。赤ネクタイの男性は瞬時に拳を作り腹部に一発。それから顎にアッパーカットを直撃させる。
殺人鬼はそのままばったりと地面に倒れ込み、憔悴した様子でうわごとをぼやく。
「連行だ」
一仕事終えた赤ネクタイの男性は、ポケットからタバコを取り出し煙と共に吐き捨てた。
「か、格好いい……」
オニギリが頻りに興奮していたが、それは俺も同じだった。刑事ドラマかよ、と思わず内心で突っ込む余裕さえ出てくる始末だ。
優しげな男性警官たちに囲まれて、パトカーに乗せてもらった。殺人鬼とは別の車だった。
走行中、子供たちの人気を総取りした赤ネクタイの男の携帯電話が鳴る。
「何っ? ……殺人!?」
驚いた声が車内に響き渡る。物騒な世の中になったもんだ。
しかし、たった今死の恐怖から解放されたばかりの俺には、そんなパワーワードさえ他人事のように思えた。とにかく今は眠かった。どこかの誰が殺されようが、自分にはまったく関係が無い。可哀想だとは思うけど、俺たちだってかなり大変な目に遭ったのだから。
気が付くと、眠っていた。きっとみんなも同じだろう。
パトカーに揺られながら、目が覚めたときには警察署に辿り着いていた。
そこで聞かされたのは――氷柱雪叔母が死亡したという話だった。
氷柱雪叔母の遺体は自宅にて発見され、だるまのように手足が無い状態だったという。
バラバラにされた氷柱雪叔母の手足は、すべてあの館から発見された。驚くことに、氷柱雪叔母以外にも行方不明になっていたという女子大生、女子児童、女子高校生の手足も見つかり、学校で噂された都市伝説が、世間を騒がせる大事件へと発展することになったのだ。
もちろんその被害者の中には、温海チカもいた。
検視の結果、多くの遺体が生きたまま身体を切断され、大量出血によるショックで死んでいるということがわかった。人としての良心を持たない残虐非道なやり口だとテレビで犯罪心理学の専門家が声を荒げていた。
殺人鬼の正体は、氷柱雪さんの叔父だった。
何故、氷柱雪叔父が最愛の妻を殺害しなければならなかったのか。どうして切断した手足を古びた館に集めていたのか。
そのすべてが不明確で、やりきれない気持ちでいっぱいだった。氷柱雪家で見た家族写真を思い出す。あの柔和な笑みは偽りだったのだろうか。
俺たちは知っている。あの男の狂気を。恐ろしさを。だから、きっとこれで良かったんだ。
だけど、一つだけ腑に落ちないことがあった。
氷柱雪さんだ。
親代わりだった叔父が連続殺人鬼だということが判明し、同じ時を今まで過ごしてきた叔母が殺害された。一介の中学生にとって、天地がひっくり返るほどの出来事だと思う。精神が壊れてしまってもなんらおかしくない。
泣いていた。瞳を濡らして、ぽろぽろと綺麗な涙を流していた。
傍目から見れば、その姿は肉親を殺された悲しみに打ちひしがれた少女そのものだ。だけど、何かが引っかかる。
……まるで、名女優の迫真の演技を見せられている気分だった。
なんと言えば良いのかわからない。だけど、そうしていれば間違いなく俺たちから同情を引けると考えているような。漠然とそんな思いに駆られる。
大好きな氷柱雪さんのことを、俺はどうしてそんな風に考えてしまうのか。
ウサギ小屋でのことがあったせいだろう。彼女の子供らしからぬ知性や、ウサギを埋めたときの言動。それらの問題に触れたことがあるのは俺だけだった。
すべては直感だった。論理的ではないし、裏が取れているわけでもない。
育ての親を失い天涯孤独の身になった一人の少女。悲劇のヒロイン。そんな彼女のことを、俺は哀れんでいるのだろうか。それとも恐れているのだろうか。
俺の中で、理想の女性像――氷柱雪さんが少しずつ剥がれ落ちていく。
愛しい顔の肉が腐ってずり落ちて、中から白くやせ細った骨が垣間見えた。
妄想の中で骸骨になった彼女と、顔を合わせる。
しかし、そこで俺の意識はぷつりと途切れた――。
* * *
二度目のタイムリープがエンディングを迎えた。
額にびっしり浮かび上がる汗を、構うことなくスーツの袖で拭う。
「……はぁはぁ」
周囲を見渡す。綺麗に着飾った参列者の多くが、不審な顔で俺を睨み付けていた。
唖然とする。
俺が座るテーブルには、俺以外の人間がいなくなっていた。
過去を改変したことで温海チカは死んでしまった。殺人鬼の氷柱雪叔父に殺されたからだ。そう、彼女が死ぬ未来を俺が作ってしまったのだ。
じゃあ、仕事中のオニギリはともかくとして……カズトは?
席が無い。
椅子が消えていた。
この四人がけのテーブルで、椅子が用意されていたのは俺とオニギリだけだった。
目眩がする。全然状況を整理できない。
酷い立ちくらみの中、なんとか身体を起こして会場を見渡した。
「誰か! 誰かカズトを知らないかっ! この席に座ってたはずのあいつらがどこに行ったか知らないか!!」
周囲の空気を読まずに叫ぶ。みんな痛々しい眼差しを向けてくるだけだった。
「クソっ……」
舌打ちをして席に座る。しんとした広場の中で、一際強い視線を感じた。
氷柱雪さんが、俺のことを見つめていた。
頬をぽっと染めて、火照っている。潤んだ瞳が色っぽくて、俺はこんなときでさえ生唾を飲んだ。
――なんだよそれ。それじゃあ、まるで……俺に恋をしてるみたいじゃないか。
反射的にジョッキを掴んでいた。
泡だらけの液体を零しながら強引に喉に流し込む。
――考えてる場合じゃない。もう一度タイムリープだ。
血走った瞳で、新郎に視線を飛ばす。
すると――、
ほらね、やっぱりだ――。
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