※16


 男が禍々しい肉切り包丁で、オニギリの腹を真っ二つにした。はらわたがぶちまけられる。続いて殴るように頭部を切断。脳味噌が弾け出て、糸の切れた人形のようにへたり込んでしまった。


 ……頼りない。甲斐性無しだ、と誰かが俺を嘲笑う。


 俺はこの中で唯一の大人だ。それなのに、実際は泣きべそオニギリと何も変わらない。笑われたってしかたない。


 オニギリの返り血でクローゼットは血痕だらけだった。

 俺は身動きが取れないまま、耳に残った残響を聞く。

 氷柱雪さんの嗤い声だけが寂しい館にこだましていた。

 それは、まるで悪魔のようだった。


 ――――はっと我に返る。

 氷柱雪さんの表情を窺う。瞳を潤ませて、かちかちと歯を鳴らしていた。その手のひらは俺の袖をぎゅっと掴んでいる。


 ――守ってあげないと。

 クローゼットの扉が開いたら飛びかかって、男の凶器を蹴り飛ばす。武器さえ取り除けば、後はなんとかなる。目玉に向かってエアガンを発射して、相手が怯んだ隙に逃げれば良い。


 というか……もうこれしかない。拳を握り込んで、身を屈める。

 カズトだって出来たんだ。成人になった自分が出来ないでどうする。


 ふと氷柱雪さんに目を向けると、彼女はふるふると顔を左右に振っていた。それから、小さな声で――「じっとして」と。


 俺とオニギリは、氷柱雪さんに背後から抱かれるような姿で優しく包み込まれた。

 柔らかくて温かな体温に触れて、殺気立っていた気持ちが一気に萎んでいく。

 だけど、危機的状況は何も変わらない。



 男の手が、クローゼットへ――――。



 静寂。



 ――――開かなかった。


 そのまま、男の気配が引き下がっていく。その後、彼は部屋を出て行った。

 だが油断は出来ない。しばらくそのまま潜み続ける。体感で五分程度だったが、アイツが戻ってくる様子は無かった。クローゼットをそっと開き、部屋の中を確認する。


 男の姿は見えなかった。俺は二人を制して先にクローゼットから出た。声を出さずに手招きする。

 オニギリは安堵した表情で、床に膝を突いた。唐突に付近が小便臭くなる。


「あっ……」


 じわーっと彼のベージュ色のチノパンが色濃く染まっていく。目のやり場に困っている氷柱雪さんが可愛かった。それだけで彼がお漏らしをした価値があったというものだ。


「まあ、仕方なかった……と思う」と一応フォローを入れておく。


「そ、そうだよ……気にすること無いよオニギリくん」


「ううっ、……二人は優しいなあ。ありがとう」


「にっこり微笑んでる場合じゃないから。カズトが心配だ。早く探そう」


「そ、そうだけど……でも待ってよ。僕たちが今からカズトを探しても、その前に僕らが見つかっちゃう」


「じゃあカズトを置き去りにするっていうのか」

 少し苛つきながら口走ってしまう。


「そ、そうじゃないけど……ここを出て、大人を呼んでくるとか……」


 一考する。確かにオニギリの言うことは一理ある。子供の姿であの男に太刀打ちできるとは思えなかった。


 でも、だからといってカズトを置き去りにすることはできない。本当にアイツが殺されてしまう。


「――――うわああああああ!!」


 悲鳴が、館の中で響き渡った。続いて何かを破壊する音が立て続けに起こる。カズトが男と出くわしたのだ。


「カズトの声だ! やっぱり悠長なこと言ってられない。すぐにあいつを助けよう」


 利口な考えとは言えなかった。だけど……。


「……そ、それもそうだね」

 オニギリがぶるぶる震えながら、深呼吸する。瞼がくわっと見開いた。


「うん……わかったよ。怖いけど、それはカズトだって一緒の筈だから」


「ってことでいい……? 氷柱雪さん」


「うん……みんなで頑張れば、きっと大丈夫だよ」


 こんな土壇場で、どうしてそんなに綺麗に笑うことができるのだろう。氷柱雪さんの圧倒的な美しさに惹かれながら、決してぶれない彼女の人格にも心を打たれた。


「……二人とも、耳貸して」


 カズトを救ってここから脱出する為に――俺は思いついた作戦を彼等に伝えることにした。子供のときに何度も見返した映画から思いついた発想だった。


「う、うん……わかった」


 不安な表情ながら、了承してくれる二人。

 俺たちは装備の確認を早々に、部屋を後にする。





 ――頼む、出てくれ。


 館の中を徘徊しながら、カズトのケータイに電話をかけていた。

 こんな静かな館の中で音でも鳴らしてみろ。一発でアウトだ。バイブレーションですら怪しい。カズトが常時マナーモードにしているのを知っていたから実践できることだった。


 回線が繋がる。


「カズト……カズトか?」


『ケータイがあるの完全に忘れてたわ』


 電話越しの声で安堵するなんていう経験は初めてだった。


「無事なんだな?」


『なんとか。ちょっとだけケガしたけどな。そっちは?』


「みんな平気。お前のおかげだよ」


『そうか……へへ、ちょっとは見直したか?』


「無事にここを出られたらいくらでも奢ってあげるから、それは後にしよう。アイツはどこに行った?」


『わかんね。まだ館のどっかにいるだろ。それだけは間違いない』


「カズト、今どこ?」


『ホールと違う場所から二階に上がれた。場所は良くわかんねえ。でも結構広いぞ、この館』


「そうか。俺たちは二階のホール付近にいるんだ。どこかで合流――」


『……ぅ、うわああああああ!』


 俺の声を掻き消して、カズトが大きな悲鳴を上げた。


「どうしたっ!?」


 電話の向こう側で、カズトの息が震え上がっている。


『…………嘘だろ? ……これもう疑いよう無いぜ……アイツ、絶対に人殺しだ』


「……ど、どういうことだよっ、……カズト」


『…………あ、温海が…………し、死んでる』


「……え?」


『だから、温海チカが俺の目の前で死んでるって言ってんだよ!』


 顔は平凡だが、愛嬌があってとても穏やかな女生徒の顔が浮かぶ。人と壁を作るということ知らず、誰からも愛される天然なお人好し。

 一緒に保険室に行ったときのことを思い出す。頬を染めて、俺と会話するのさえ恥ずかしそうにしていた。そんなうぶで愛らしい少女。俺のことが好きだった温海さん。


 ふと、脳裏の片隅で埋もれていた不可解な事件を思い出した。

 中学卒業間近で、一人の女子生徒が行方不明になったのだ。別のクラスだったし名前も知らなかったから、対岸の火事くらいに思っていた。結局彼女は卒業式に出席することなく、その後は噂を聞くこともなかった。


 学校で噂される都市伝説と、謎の行方不明者。この二つを結びつけると、嫌でも不吉な繋がりが見えてくる。

 行方不明者とは被害者で、加害者とはこの館に巣くうあの殺人鬼なんじゃないのか。


 一回目のタイムリープが終わって披露宴会場に戻ったとき。そういえば彼女は席に居なかった。トイレに行っているのかと思っていたが、違う。

 ――過去を改変したことで、被害者が温海さんに変わってしまった。


 披露宴会場に出席していた温海さんが。俺の隣に座っていた温海さんが。


 死んだ。


 頭を抱えたまま、過呼吸のような状態に陥る。

 彼女が必死に告白しようとしてくれていたことを思い出す。せめて、もう少しだけ話を聞いてあげれば良かった。


 ごめん。ごめんなさい。温海さん。

 俺は亡き人となった友人に深く謝罪した。


「カズト、温海さんは……その、どんな風に……」


『…………言えねえよ』


 それだけで十分だった。


 あんな大きな肉切り包丁を持ち歩いているんだ。か弱い女の子の命を摘み取ることくらい、なんてことないだろう。


『タツヒロ……絶対ここを脱出するぞ』


「あたりまえだろ。絶対、四人一緒にね」


『ああ、そうだな』


 通話口の向こうでカズトが笑った気がした。

 しかし――その笑い声が唐突に途切れた。


「……カズト!?」


 再び電話をかける。しかし繋がらなかった。

 唖然とした表情の俺を、オニギリが心配そうに見つめてくる。

 温海チカの死。このことを二人に打ち明けるべきか悩んだが、やめておいた。矢継ぎ早に質問を飛ばしてくるオニギリを無視して、すぐに次の行動を取った。――警察だ。


 もっと早くにこうしていれば良かった。パニックを起こした頭は本当に当てにならないなと改めて実感する。


 警察に事情を説明し、カズトの手描き地図を見ながらなんとか現在地を把握してもらった。警察はすぐに来てくれるという話だった。

 ケータイを耳に当てたまま、オニギリと氷柱雪さんのほうを確認する。


「あれ、氷柱雪さんは?」


「……さっきまでいたのに」


 オニギリが驚愕した顔で周囲を確認する。


 全身から力が抜けていく。

 ――こんなときに何処へ行ったんだ、氷柱雪さん。


 このときだけは彼女のことを恨めしく思ってしまった。最悪、温海さんの二の舞になってしまうことだってあり得る。


 オニギリとは簡易な打ち合わせを行った。もし、暗がりの中に殺人鬼が隠れていた場合。または突然出くわしてしまった場合、慌てずに二発以上は必ず顔面に叩き込むこと。それから背負っているバックを投げつける、というものだ。


 思いがけない出来事というのは、極端に人間の反応速度を鈍らせる。そういうリスクがあることを覚悟しているだけでも、俺たちの反応は大きく変わってくる。それだけ逃げる時間が稼げるはずだ。殺人鬼の撃退が今回の目的じゃない。行方不明の二人と無事に合流して、館から逃げ出す。ここまで出来れば100点だ。


 俺たちは、エアガンとスリングショットを構えて夜の館を徘徊した。

 鼻が慣れてしまったのか、はたまた極限状態にあるせいか、吐き気を催す悪臭は身体に馴染んでしまっていた。嗅覚が死んだのかもしれない。


 歩くたびに軋む木の音に、いちいち神経が持っていかれる。曲がり角を確認するときはとくに慎重だった。

 また、できる限り迷うような道は選択しなかった。二階のホールから真っ直ぐのルートを進んできている。このまま戻れば元の場所へ帰れるはずだ。


 しかし、順調に進んでいた俺とオニギリの足が同時に止まる。


「…………」


 振り返る。オニギリはぶるぶると頭を左右に揺らした。


 ――その曲がり角には、確実に何かが潜んでいた。

 吐息が――聞こえる。

 子供の息遣いにも聞こえるし、大人のようにも思える。

 壁に貼り付いた格好のまま武器を構えて、指先一つ動かさず時間が過ぎるのを待った。


 殺人鬼か――それともカズトか。はたまた氷柱雪さんか。


 三分の一の確率で、死が待っている。

 自然と息が荒くなる。身体中の穴という穴から大量の汁が滴る。

 今から身を翻して逃げれば、近距離武器しか持たない殺人鬼から逃げ切れる……いや、ダメだ。あの包丁を投げられでもしたらどうする。身体に接触しようものなら、それこそ即死だ。


「…………」


 ――――行くしかない。

 顎から玉の汗を零しながらオニギリに促した。

 突撃銃のエアガンを構えて――一気に身を乗り出す。


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