第二章
※12
「本当にいいのか……?」
「もう、決めましたから」
退職届を上司に提出して、私は深々と頭を下げた。
「堂島さん。今まで……お世話になりました」
刑事のなんたるかを叩き込んでくれた、何から何まで世話になりっぱなしの先輩刑事へ感謝の言葉を贈った。
「……答えは、変わらないんだな」
「はい」
「……そうか、ちょっと待ってろ」
堂島さんはゆっくりと腰を起こして、鍵付きの引き出しから何かを取りだした。人目を気にしながら、私のほうへ近づいてくる。
「いいか、こいつは警察としてじゃない。私個人が友人であるお前に貸しておくものだ」
十分に念を置きながら、ぐっと握られた硬い拳が私のほうへ向けられる。
渡されたのは、焼け焦げたボイスレコーダー。
塗装が溶けたまま固まった端末を眺めながら、私は連想した。そして、これがとても重要な物だということに気が付く。
「…………アイツの、ですか」
「ああ。……なんだろうね、ずっとこうなるんじゃないかって気がしていたんだ」
子供の成長にいくつかの寂しさを残した父親のような表情で、堂島さんは力なく笑った。
「……ありがとうございます」
それだけ言ってボイスレコーダーをポケットにしまい込む。そのまま事務所から去ろうとすると、「鬼頭っ……!」と呼び止められる。
「……はい?」
「たった今地域住民から通報が入った。“奴”だ」
電話を耳に押し付けた堂島さんは、ベテラン刑事の顔つきに戻っていた。
途端に脳に流れ込んでくる悪しき記憶たち。
きっと、これが私の刑事生活最後の仕事になるだろう。
* * *
次のタイムリープが発動した。時代は二〇〇六年の夏――中学三年生の頃だった。
「俺購買行ってくるわ、焼きそばパン無くなっちまう」
カズトが笑いながら昼休みのチャイムと共に席を立ち上がった。
「あっ、待ってよ。僕も行く」
続くのはオニギリ。カズトに坊主頭を押さえ付けられながら、そのまま一緒に走って行った。
前回のタイムリープで迎えたエンディングは不吉なものだったが、カズトやオニギリに別段変化は無さそうだった。
――氷柱雪さんとあの男は、カズトの家で何をしていたんだろう。
それとなく氷柱雪さんに確認するくらいのことはできるかもしれない。
忙しなく泣き続けるアブラゼミたちにうんざりしながら、俺は急に成長した(実質は幼くなっているのだが)身体に少し戸惑いを覚えつつも、氷柱雪さんの机へ詰め寄る。
中学三年生になった氷柱雪さんは、本当に美しかった。
小学校の頃の愛らしく柔らかそうな頬を保ったまま、より女性らしい成長を遂げていた。ブラウスは山なりに膨らんでいて、制服のスカートは少しだけ短い。その下からは眩しいくらいの白肌を覗かせている。
性的な魅力を伴った氷柱雪さんは、まさに最強だった。おそらくこの地球上で最もエロく、美しく、可愛い。まさに史上最強の美人だった。
「氷柱雪さん」
「ん……何?」
氷柱雪さんは女子の友達と一緒に昼食を楽しんでいた。中学生にもなれば生徒の数も増える。気が合う奴がいたって別に可笑しくない。
左右でパンを頬張る女子を無視して、目の前の美人に問いかけた。
「氷柱雪さんってさ、カズトの家に遊びに行ったことあったっけ?」
「カズトくんのお家? 見たことも無いよ」
「だよね」
それだけで十分だった。あの日の恐怖体験が、既に記憶から薄くなっていく。
直感的な時間で言うとほんの一時間以内の話なのだが、時を飛び越えた影響なのかもう何年も昔のような気がしてならない。
ひそひそと氷柱雪さんのサイドが何か呟いたが、俺は自席に戻りランチボックスを広げる。丁度、手にパンを握った少年たちが笑い声を上げながら戻ってくるところだった。
放課後、カズトが上の空で掃除をしながら、勝手に部屋に入ってくる母親がクソウザいと批難を始めた。オニギリも「うざいよねー」と慣れない口調で同調する。
中学生特有の期間は無事二人にもやってきたらしく、思春期と反抗期の真っ最中らしい。中三男子ともなれば、親への不満の一つや二つはあるものだ。俺はカズトとオニギリの荒ぶっている姿を勝手に妄想して楽しんだ。
中学生になったカズトは野球部に入部し、並み居る強豪を抑えてエースにまで上り詰めていた。さらに容姿にも気を遣うようになり、一丁前にワックスなんて使ってやがってる。そんなに髪の毛おっ立ててどうするんだよ。スーパーサイヤ人でも目指してんの? と昔から思っていたが、それは二度目となるこの時代でも変わらなかったようだ。この時期彼の一番の悩みは受験勉強をしたくないこと。一番楽しみにしているのは、次の全国大会である。
オニギリに関しては小学生の頃と同じくりくり坊主頭だった。学ラン姿と相俟って、まるで戦争に行く人みたいな風貌だった。
俺は唐突に思いだし笑いをした。かつて中学一年生だったとき、俺やカズトがオニギリオニギリと呼んでいると、なんでオニギリなのか? という疑問がクラス中に広まったのだ。そこでカズトがこれがその証拠だ! と叫びながらペシーンとオニギリの坊主頭を引っぱたいたことがあった。
あのとき教室中に響き渡った音が忘れられない。本当に最高だった。その日からオニギリはクラスの人気者兼弄られキャラの立ち位置を獲得した。まあ、この時代であのイベントがあったのかは知らないが。
当時のことを思い返しながら、俺はやれやれといった具合に手のひらを振った。
「まったく……君たちは子供だなあ」
「いや、まだ子供だろ」すっかり声変わりをしたカズトが言った。
「俺くらいになると、親への不満を乗り越えて感謝する側に回ってるよ。生んでくれてありがとうってな感じに」
目の前の思春期ニキビ少年たちはポカンとした表情を浮かべた。
「オニギリ、こいつ今日おかしくね……?」
「タッツー変なものでも食べたんじゃない? タツノオトシゴとか」
「タッツーだけにってか? うっわ、クソつまんな!」
カズトが自分自身にツッコミを入れる。
「まあ聞いてよ。今朝しらすご飯食べたんだけど、パックの中にタツノオトシゴが紛れてたんだよ! お母さんのケータイで写メ撮っといたから、カズトにも送ってあげるよ。ああ、美味しかったなあ」
「てか食って大丈夫なのかよ! シラスノオトシゴォ!」
「うん、なんか新食感だった」
「…………やべえ、俺も食ってみてえ」
「でしょでしょ! 今日みんなでスーパー探してみようよ!」
「中三にもなってこんなことで喜んでるのは俺等くらいな気がしてきたぞ……」
途端に虚しくなったのか、カズトが小さな溜息混じりに言った。
「カズト、思春期の今を存分に楽しんどいたほうが良いよ、これ俺からの忠告」
「お前も最近ジジ臭いんだよなあ……」
「オトナだからね。酒もやっちゃうよ。なんだったら、後でタバコでも買う?」
そんな冗談を言っていると、俺たちは「ちょっと男子!」とクラス委員に怒鳴りつけられた。
とある都市伝説を聞いた。
広葉樹や山々に囲まれたこの土地には古びた館があって、そこには一人の殺人鬼が暮らしている……というものだ。
「面白そうだな、今夜そこに忍び込んでみようぜ」
前席のカズトが椅子ごと身体を回して、ニヤニヤと提案した。
やっぱりか。こいつも変わらないなと呆れていると、突然オニギリが机を叩いた。
「やだよ、絶対にやだ! 本当に殺人鬼が出てきたらどうするのさ!」
青ざめ、しわくちゃの顔でオニギリが俺の袖をぐいぐい引っ張ってくる。臆病者のくせに意外と力が強い。あとその顔割と怖いからやめて。
「お前も変わらないよなあ。いつまでも小便垂れっつうかさ」
「全然いいよそれで! 僕は絶対に行かないからね! そんな、面白がってやることじゃないよ……そんなことしてると今に死者の魂がカズトを襲っちゃうんだからな!」
「死者の魂とか何言ってんだよ。くだらね……別にいいじゃねえか。最近俺ら各々忙しいし、なんか一体感みたいなやつが欲しいんだよ」
「一体感なんていらない! 僕は自分の身の安全が一番大事なんだ!」
優柔不断なくせに、こういうときだけ確固たる意思のオニギリ。俺は彼をなだめる為に笑みを浮かべながら語りかける。
「オニギリ、大丈夫だよ。殺人鬼なんていないから」
「そ、そんなことどうしてわかるのさ!」
まるで警戒した犬のようだった。
どうしてわかるかって? 答えは実際にその館に忍び込んだことがあるからだ。冒険心を掻き立てられたカズトやオニギリと一緒に。だけど、館の中は当然のようにもぬけの殻で、ずいぶんと拍子抜けしたことを覚えている。
「そうだぞオニギリ。館に殺人鬼なんて居ないってことがわかれば、お前ももう怖がる必要がなくなるじゃん。夜道歩くのが怖い~とか女子みたいなこと言ってただろ? このイベントを乗り越えればそういう心配も無くなるぜ」
「いや待って! 何普通に暴露してんの? 誰にも言わないって誓い合ったじゃん! それに僕はその館に行くこと自体が嫌なの! そんなに行きたいなら二人で行ってきたらいいよっ」
今にも泣き出しそうな表情。カズトはそんなオニギリをじーっと見つめたまま、「……お前が来なかったら、面白くねえじゃん」と情緒たっぷりに言った。
「……カズト」
「俺とタツヒロとオニギリ……俺等は三人揃って一つだろ?」
微妙に役者らしい表情の作りで、カズトがそれっぽいシーンを醸し出した。
「…………」
「ほら、行こうぜオニギリ。俺たちの夏はこれからだろ?」
「……いや、普通に行かないから」
きっぱりと断るオニギリだった。
ぐちぐちとお互いの不平不満をぶちまけるカズトとオニギリ。ついにはパンツの柄までけなし合い始めた。
そこに、ぱたぱたと上履きの音。
「みんなで何話してるの?」
俺たちの会話が可笑しかったのか、くすくす笑いながら天使が輪に入ってくる。
「ああ氷柱雪さん、今夜噂の館に忍び込もうって話をしてたんだ」
「……館? あの殺人鬼が居るっていう?」
「ああ。そしたらオニギリが駄々こねてさ――」
「こねるよ! こねまくるよ! 当然だろ!?」
「えー面白そう。それ、わたしも行きたい」
艶やかな唇が、にっこり曲がる。
――あれ。
以前館に行ったときは、こんなこと無かった。俺とカズト、それから結局渋々付いてくることになるオニギリの三人だけだったのだ。
「氷柱雪さん、お家の都合は大丈夫なの? 今夜って多分深夜になるんだけど」
「ふふ、全然大丈夫だよ。お友達の家に泊まるってことにすればいいだけだから」
そう言って氷柱雪さんは悪戯な笑みを浮かべた。
幸い今日は金曜日。言いくるめることはできるだろう。俺は心の中で氷柱雪叔母に謝罪した。氷柱雪さんと一夏の想い出を作りたい! という清い少年心に免じて許してください。
「ええっ、氷柱雪さんも来るの!?」
オニギリの声は驚きつつも、喜びの色に満ちていた。このむさ苦しいメンバーの中に華が添えられることが単純に嬉しいのだろう。
カズトがチラリと俺を一瞥する。彼は飲み込むようにしてから、続けた。
「……構わねーよ、氷柱雪が来ても。オニギリも喜んでるしな」
「違うから! 喜んでないから! 僕はただ――」
つらつらと言い訳を始めたオニギリ。俺と氷柱雪さんは一緒に笑った。
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