※11


 すっかり沈みかけた夕日は、逢魔が時のようになっていた。

 一昨日は少し強く言いすぎたかもしれない。カズトに会ったら、なんと謝ったらいいだろうか。そうこうしているうちに、カズトの家に辿り着く。玄関ではなく裏庭へ。いつもカズトの家に行くときは、チャイムも鳴らさず無遠慮に窓から入るのがお約束だった。


「…………?」


 ――何か、おかしい。

 人の気配がする。それもカズトのじゃない。

 近場の茂みに身を隠して、そっとカズトの部屋を注視する。乱雑にカーテンが開きっぱなしの状態だった。


 カズトの後頭部が見える。大人しくテレビを見ているようで内心ほっとした。気が抜けたせいか、そのまま足を踏み出す。


 視界の中に移った光景に、俺はぎょっとした。


 氷柱雪さんがいた。


 なんでこんなところに? 自宅の部屋に閉じ籠もっていたんじゃ?

 だが問題はそこじゃない。氷柱雪さんは“誰か”と一緒に居る。シルエットから、それが大人の男だとわかった。全身真っ黒のウィンドブレーカーを着ていて、フードを被っている。とても背が高い。190センチくらいはあるように思える。


 反射的に身を隠す。


 こめかみを冷たい雫が伝う。バクバクと心臓が暴れていた。

 こんな夜に氷柱雪さんとばったり出会えたなら、ラッキーじゃないか。

 いや……違う。わかってる。

 彼女の纏うオーラがとても歪に思えて、怖かった。

 胸の高鳴りを必死に抑えながら、そっと顔を出してみた。



 そして、俺は見てしまった。



 時間が止まったような感覚を味わう。頭の中が真っ白になる。

 長身の男が、カズトの家に人差し指を向けた。

 その指は確実にかつ正確に、テレビを見ているカズトの後頭部を差していた。

 俺はすぐさま頭を引っ込める。


 ここで一つ思い出したことがあった。高校生の頃に友人に訊ねられたサイコパス診断だ。


『あなたは向かいのマンションの一室で、残虐殺人が行われている現場を目撃してしまいました。あなたに目撃されたことに気付いた犯人は、あなたが居るマンションを指差しながら何か口を動かしています。さて、犯人は一体何と言っているのでしょうか?』


 これについての解答として一般的な答えが、「今からお前を殺しにいく」だとか、「そこで待っていろ」などがあげられる。


 しかし、凶悪犯罪者――即ちサイコパスの人間はこう考えるのだという。



「犯人は、目撃した人物が居る階数を数えている」



 途端にざわざわと鳥肌が立ち上がって、瞳に涙が溜まった。震えが止まらない。歯が音を立てる。


 そこから逃げろと脳が危険信号を放っていた。だけど――俺は気が付くと再び草陰から頭を出していた。



 目の前に、氷柱雪さんの顔があった。



 くりくりした愛らしい二重瞼が――暗黒のように黒ずんだその目玉が――確実に俺を射貫いていた。



 氷柱雪さんが早口で唇を動かしている。だけど、そのすべてが聞き取れなかった。



 俺の視界は――――そこでぷつりと途切れた。



 * * *



 眩しい光に包まれて、俺は目玉をひんむいた。


「――――うわぁ!」


 がやがやと賑わっていた人々が、一気に静まり返る。

 ここは――そう、披露宴会場。


「…………っ」


 息を荒げながら周囲を見渡した。タイムリープをする前の会場に間違いなかった。

 ――戻ってきたのか……?


 やはり今までの体験はすべて夢だったのだろうか。だとしたら、なんて悪質な夢なのだろう。

 心の底で舌打ちして、力が抜けたように席に座り直した。


「…………はぁ」


 だが、心のどこかでほっとしている自分がいる。夢の中で真っ正面に現れた氷柱雪さんの顔が忘れられなかった。

 彼女は俺に何かを語りかけていた。一体何を言っていたんだろう。


「お、おい……タツヒロ……急にどうしたんだよ」


「…………」


 額にびっしりと汗の玉を浮かべたまま、声のほうに顔を向ける。困惑したカズトがそこにはいた。

 そしてあの光景を思い出す。氷柱雪さんと一緒にいた謎の男が、カズトを指差していたこと。何を意味していたのだろう。夢なのだから、俺の深層心理が何かを訴えているのだろうけど。


「カズト……俺たちって小六のときケンカしたことあったっけ」


「は? まあ……無くはないだろ。ていうか顔色ヤバいぞ、本当にお前大丈夫か?」


「……そうだよな」


 俺は決して怒鳴ったりするタイプでは無いが、機嫌が悪くなったりすることは多々ある。カズトとの会話がきっかけでそうなったのなら、俺が認知する前にケンカをしたということになる。カズトの捉え方の問題もある。

 しかしこれでは、今までの数ヶ月に及ぶ不思議体験が、タイムリープによってもたらされたものなのか、俺のただの夢なのか判断することができない。


 まあでも……夢だったんだろう。タイムリープだなんて、SFじゃあるまいし。

 安堵しながらテーブルを眺めていると、とあることに気が付いた。


「あれ? オニギリは何処いったんだ?」


「……おいおい、さっき言ったばっかじゃねえかよ。物忘れ激しすぎだろ……ったく……アイツは仕事だよ。遅れてから来るって言ってただろ」


「そう……なんだ」


 ――未来が変わっている。


 俺は疑惑を確信へと変えた。やはりタイムリープは起きていた。そして、何かしらの影響でオニギリは披露宴に遅刻している。何故だ? きっかけはなんなんだ。

 狼狽していると、カズトが疑り深い眼差しを向けてきた。


「お前、本当に具合悪そうだな……早めに引き上げとくか?」


 カズトの心配も余所に、俺は左隣にも人が居ないことに気が付く。


「俺は平気だよ。それより――」


 温海さんは? そう訊ねようとしたときだった。何やら視線を感じ、振り返る。

 ――氷柱雪さん。

 新郎の隣で、にっこりと微笑む絶世の美人。彼女の様子は過去を改変した今でも変わらない。


 でも……なんだか、妙だった。

 どうにも、彼女が俺に向ける表情が特別なものになっている気がした。

 まるで魂を抜かれたみたいになる俺は、気が付くとウエイターが新しく持ってきたジョッキを握って、再びがぶ飲みを始めていた。



 ――もう一度、やってみよう。



 もしかしたら、本当に氷柱雪さんの恋人に……いや、新郎になれるかもしれない。

 一気に大量の酒を流し込み、勢いのまま新郎の顔面を見ようと試みる。



 ――既視感。

 きた、またきた。これは来る。



 俺は確信した。

 再び――、時を越えるのだと。




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