※4
スロープを全力疾走しながら、俺は坊主頭をどこまでも追いかけた。全身汗だらけだったけれど、不思議と嫌な気分にならない。大人の汗はじっとりしているけど、子供の汗は本当に爽やかで、さっぱりしている。
「オニギリタッチー!」
背中の代わりに頭をぺちんと叩く。良い感じの音が鳴った。
「うわっー!」とオニギリがぜえぜえ言いながら床にくずおれる。俺は彼に捨て台詞を吐いてから、再び逃走を開始した。昼休みの『隠れ鬼』の真っ最中だった。
隠れ鬼とは、その名の通り隠れんぼうと鬼ごっこを組み合わせた遊戯である。
ルールは単純なもので、最初にじゃんけんで鬼を決めたら他の者は許された範囲内で身を隠す。それを鬼が探し、発見されてたなら捕まらないよう逃げ切って、また隠れる……ということを繰り返すのだ。隠れ場所の移動は自由で、次のポイントを探している最中に捕まってしまうアクシデントなんかも起きるのが、異様なスリルを醸し出すのである。
今回のエリアは校舎内に限られるが、放課後や休日はエレベーターの付いている人様のマンションだったり、一定地域内なら無制限で行うこともある。
ぶっちゃけ普通の鬼ごっこと何も変わらないが、子供たちの自由な発想なんかは今にして思えばとても面白く感じる。
スロープを駆け下りながら、俺は終始笑顔だった。久しぶりにこんなに運動をした気がする。なのに疲れるどころか全身の血が巡ってワクワクする。小学生って本当にパワフルだな。
そんなことを考えているおりスロープのコーナーが視界に入ったが、俺は速度を落とすことなく急激なカーブを行った。
すると――、
「きゃっ!」
「うわあ!」
激しい身体の接触。相手の抱えていた教科書やらリコーダーが投げ飛ばされる。
童心に返りすぎた。完全に俺の失態だった。
「大丈夫!?」
冷や汗を浮かべながら、床に尻餅を付いた女の子に手を差し伸べた。
「う、うん……平気」
少女は潤んだ瞳でそう言いながら手を取ろうとしたが、俺の顔を確認すると目を見開いた。
「く、栗ヶ山くん!?」
「……? そうだけど」
少女は明らかに顔を真っ赤に染め上げていて、身体を石のように固めてしまった。
この子は誰だろう……と相手の顔をじっくりと眺めて気が付いた。
ああ……、温海チカか。
全体的に平たい印象を受ける立体感の乏しい顔面。頬には茶褐色のそばかすが散りばめられ、ちんまりした背丈と相俟って全体的に野暮ったい印象だった。
俺の知っている未来では未だ特定の相手は居ないようだったが、温海チカはわりかしモテる。
幼かったころの俺は彼女の良さに気付けなかったが、今にしてみれば彼女は素晴らしく性格が良い。鼻垂ればかりのこの小学校じゃ目立たないかもしれないが、高校生……いや、社会に出れば彼女は普通にモテるだろう。人への気配りが出来るし、何より優しい。男子も女子も分け隔て無く接するし、仲間外れがいればキチンと輪の中に入れてあげようとする子なのだ。
だが、それだけだ。彼女は美しい顔を持ち合わせてはいない。そのみすぼらしい容姿から、彼女は俺の美学とは正反対に位置する女性なのである。つまるところ、俺が彼女に与えてあげられる評価点は、かなりオマケして15点というところだ。
「本当にゴメン。隠れ鬼をやってて全然周りが見えてなかったよ」
「隠れ鬼って……和馬(かずま)くんたちと良くやってるアレ?」
「そうそう。丁度鬼を交代してきたところでさ。って……もしかして次は音楽の授業?」
「うん。移動教室だよ。早くしないと遅れちゃう」
温海さんは健気に散らばった教科書を拾い上げ、ぽんぽんと身体をはたいた。
「温海さん、本当に身体は大丈夫?」
「う、うん……本当に、大丈夫。その、大丈夫だからっ」
頬を染めながら心配する俺を、手で制する温海さん。
温海さんの身体を勝手にチェックする。目立った外傷は無さそうだが、一応女の子だし、心配だった。子供にケガをさせてしまったのなら、それは大事件に繋がる。
まだ免許取り立てだったころ、横断歩道に飛び出してきた子供と衝突事故を起こしそうになったことを思い出す。もしケガでもさせてしまったら、示談金やら、慰謝料やら、損害賠償金に追われることになる。幼い頃はまったく考えていなかったが、人にケガをさせるというのは子供が思っているよりもずっと重いことなのだ。
「いや、やっぱり保険室に行こう。事情は先生に報告しておくから」
「そんな! いいよいいよ、気にしないで」ぶんぶんと胸の前で手を交差させる温海さん。
そんなとき、俺の肩がばちーんと叩かれる。
「タッツー、タッチー!」
「待てオニギリ、今はタイム!」
「ええっ、どういうこと?」逃げ去りそうな体勢のままで、オニギリが素っ頓狂な声を上げた。
「温海さんとぶつかった。だから保険室に連れて行くよ。それにもう昼休み終わりだってさ」
「えー、温海さん大丈夫?」
「あっ、うん。わたしは大丈夫なんだけど、栗ヶ山くんが――」
「ダメだってば。念のために行っておこうよ。もし後遺症とか残ったら大変だし」
「こーいしょー……」
ぼやく温海さん。さっきから表情がぽけーっとしている気がしないでもない。熱か?
「……ははーん、なるほどなあ」
名探偵のように頻りに頷くオニギリ。温海さんの表情からどういった解釈をしたのか知らないが、彼はにやにやと頬を緩ませながら俺の肩を叩いて、「後でお母さんから詳しい話は聞いておく」と言い残し、去って行った。
「なんなんだあいつ……」
吐き捨てながら、隣でどぎまぎしている温海さんに目をやる。
「ほら、行こうよ。教科書は持ってあげるから」
「あ、ありがとう……」
強引に彼女から荷物を奪い取って、保険室への歩みを進める。
振り返ると、温海さんはじいっとこちらを見つめたまま口をぽかんと開けていた。
「なんか……栗ヶ山くんって大人だよね」
「……そ、そんなことはないよ! た、たまに言われるけどね! あはは……」
マンガのキャラクターのように慌てながら、意外に鋭い温海さんの視線から逃げた。
「はい、これでもう大丈夫よ」
優しく微笑みながら、養護教諭が温海さんの肌に湿布を貼り付けた。
「ありがとう、オニギリのお母さん」
「もう、元気よく遊ぶのは結構だけど、女の子にケガさせたらダメよ。……でも、しっかり保険室に連れてくるタツヒロくんは紳士ね」
清潔な白衣を着たオニギリ母が俺を見て笑った。
「あなたは平気?」
「あ、大丈夫です。オニギリくんのお母さん……なんですか?」
おろおろしながら俺とオニギリ母を見比べる温海さん。まあ、無理も無いかな。
あのオニギリ頭からは想像出来ないくらいの美人。年齢を感じさせない麗しマスクの女性は、温海さんのことをじっと見つめながら、呟いた。
「ねえねえ……うちの子のこと好きにならない?」
「……えっ!? ええっ」
突然だった。懇願するような声なのが、マジベースの話であることを暗示している。
「あの子死ぬほどモテないから誰かもらってくれないかなって。ママとしては心配なわけよ」
まだ十一歳だぞ、早まりすぎではと思ったが、あいつはあと五年もすればデブ街道まっしぐらだ。
「タツヒロくんは周りと比べて大人っぽいからモテるだろうし、カズトはアレで結構気配りできるからモテるでしょ? ほら、ウチの子だけのけ者なのよねえ。でもね、聞いて? あの子の坊主頭触るのってすっごく気持ち良いのよ?」
「は、はあ……」と温海さんが頷く。
「彼女になってくれたら、あのオニギリ頭を触りたい放題よ!」
嬉しそうに言うオニギリ母。今ここにあいつが居たら全力で突っ込むんだろうなと想像できる。この面白いお母さんありきのオニギリなのだろう。
治療後、温海さんはしばらく休養を取ることになった。一方で保険室の隅で突っ立っていた俺は戻るよう宣告を受けたが、今更音楽の授業を受けたところで何になるというのか。それよりは温海さんと無駄話の一つや二つしたほうが面白そうだと思ったので、彼女が心配だと言い張ってとりあえず同伴させてもらうことにした。
「ごめんね。栗ヶ山くんまで付き合わせちゃって」
白いベッドに寝転がりながら、彼女はこちらを見つめてきた。
「いやいや全然良いよ。音楽の授業抜けられてラッキーとか思ってるし」
「……栗ヶ山くんって、もしかしてフリョーなの?」
「全然。普通の少年だよ」
両手を広げながらおどけてみせる。
「ふふ、なあにそれ。栗ヶ山くんってそういうこともするんだ」
「あれれ、そんな印象なんだ。俺」
「んー、もう少し女子が苦手でクールな子かと思ってた。だから、今日手を伸ばしてきてくれたとき、すごくビックリしたの」
「ああー……」
思い当たるところがたくさんあった。
確かに、小学校時代の自分は女子が苦手で自分から話しかけたりはしなかったし、第一氷柱雪さんしか見ていなかった。とんでもなく視野が狭かったのだ。昔の俺だったら、こんな風に温海さんと一緒に話をしようだなんて考えなかっただろう。
「……優しいんだね、栗ヶ山くん」
「……うーん、普通?」
大人として最低限のことをしているだけなのに、子供になった途端評価されるのも微妙な気持ちになる。
「ここ最近の栗ヶ山くんは……その、凄く……良いよね」
「……良い?」
「あっ……その、なんでも、ないです……」
温海さんは決して綺麗とは言えない顔をぽっと赤らめ、そっとシーツで隠した。その反応を見て、俺はなんとなく思うところがあった。
これは好意の現れだ。彼女は俺のことがきっと好きなのだろう。目を合わせようとすると反らされてしまうことや、突然敬語になったりするところからも、それで間違い無さそうだった。
「温海さんって、五人兄弟の長女だっけ?」
「えっ……うん。そうだけど……どうして?」
「あー……前に聞いた気がしたから」
因みにいつ聞いたかはまったく覚えていない。
「言ったっけ……? でもわたしたち、あんまり喋ったことない――」
「ほら、クラスでも温海さんの存在って凄い安らぎみたいなものがあるから。お姉さんっぽいっていうかさ」
「それ……良いの?」
「良いんじゃない? 悪いということはないでしょ」
「……そっか」
温海さんは嬉しそうに微笑むと、がばっと布団に顔を埋めていた。
五時間目も中盤に差し掛かった辺りで、そろそろ戻ろうかという話になった。俺は遊びの最中で教科書を持っていなかったから、そのまま音楽室へは行けなかったけれど。
それを知った温海さんは、俺に付いて来てくれることになった。因みに、今の時間帯はどこも授業中で廊下はしーんと静まり返っている。
「なんかこういうのって緊張しちゃうね」
「授業抜けるのなんて初めてだったんじゃない?」
「う、うんっ。だから今すっごいドキドキしてる」
ぱたぱたとゴム底の上履きが床を叩く音が廊下に反響する。やがて自分たちの教室が見えてきたところで、すっ――っと誰かが姿を現した。
「遅かったね、タツヒロくん」
「えっ、氷柱雪さん!?」
彼女の突然の出現に、大声を上げてしまった。
「はいこれ。行こっ」
氷柱雪さんは俺の胸に教科書とリコーダーを押し付けると、突然手を繋いできた。
「えっ――つ、つつつつ氷柱雪さんっ!?」
再び声の裏返る俺。小学生女子の手に触れただけでこんな声が出るなんて俺は変態か。
温海さんのほうに視線を向けると、彼女は唖然とした表情でそこに立ち尽くしていた。
授業中のはずなのに何故ここに? なんで俺の教材を持ってる? なんで手を繋ぐ!? 聞きたいことは山ほどあったが、そんなことよりも俺はいっぱいの幸福感に包まれることに忙しかった。
氷柱雪さんの横顔を凝視する。
――ああ、やっぱりすっごく綺麗で可愛いんだよな。氷柱雪さんって。
温海チカとは大違いだ。
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