※2 


 こんなバカな話があるか? 俺はわなわなしながら目の前の光景に見入っていた。


 かなり懐かしい。長いこと見る機会のなかった黒板には、たくさんの悪戯書きがされていた。子供たちがチョークの音を響かせていく……って、そうじゃないだろ。一体何が起きたんだ?


 視界の中の情報を落ち着いて整理してみる。目の前に二人の少年が立っていた。やけに見覚えのある奴らだ。


「タツヒロどうしたんだよ、急に変な顔して」


「…………え?」


 短髪の活発そうな少年を二度見する。見覚えがあるなんてものじゃなかった。こいつとはさっきまで一緒にいたのだから。


「カズト……? お、お前、なんでそんなっ――」

 言いながら、俺は再び驚くこととなった。声がやけに高い。これじゃまるで小学生だ。


「……? 何言ってんだお前。寝ぼけてんのかよ」


「……でも、一体何が起きて」


「あっ、先生来たよ」


 坊主頭の少年がそう言って、そそくさと自席に戻っていった。今のはオニギリだ、間違いない。


 教室に入ってきた女性が教卓の前に立ち、「今日は、みなさんに新しいお友達を紹介したいと思います」と微笑みながら廊下のほうに視線を向ける。


「入って」


「はい」


 ――がらり。木造の田舎校舎を思い出す古めかしい音と共に、少女が姿を現した。


 アニメやマンガでしか表現できそうにない黒髪ストレートが、風と一緒にふわりと持ち上がる。そして、流麗な毛先がぱさりと赤いランドセルにかかった。

 清純な白のワンピースには、鮮やかな花柄がプリントされている。小学生らしくありながらも、確実に異性のハートを射貫くことのできる魅力的な格好だった。


「氷柱雪さん」

 彼女が自己紹介をする前から一人で勝手にぼやいていた。

 動揺が隠せない。俺は声を押し殺した。今目立つことが得策だとは思えなかったからだ。


 やがて彼女は、小学生とは思えない達筆な字を書き終えてぺこりと頭を下げた。


「氷柱雪カナタです。仲良くしてください」


 可愛らしい声と一緒に、あどけない頬がにっと上がる。なんて可愛いんだ、天使か。そう、氷柱雪さんは小学生のころから美しかったのだ。


 どうやら――氷柱雪さんの転校初日の風景のようだ。


 ということは新学期が始まったばかりで、ここは六年三組の教室ということになる。


 下げていた頭を戻して、氷柱雪さんがにっこりしている。気のせいかも知れないが、俺に微笑んでくれている気がする。なんて都合の良い夢だろう。



 * * *



 小学校の教室風景に懐かしさを感じつつ、俺は空恐ろしい感覚を味わっていた。

 それは、今この席に座っていることがとてもリアルに感じられるという点だ。夢ってもっとぼんやりしているものじゃなかったっけ。


 朝の会(ホームルーム)が終わると、カズトとオニギリが俺の元に寄ってきた。


「なんかすんごく綺麗な子だよねえ、氷柱雪って子……」


 まるで恋心を抱いた猿のようなニヤニヤ顔のオニギリが、教室の端で数人の女子に囲まれる氷柱雪さんに熱い視線を送っていた。


「なんだよ、オニギリってああいう女子が好みなのか。わかりやすっ」


 カズトがケラケラ笑いながら氷柱雪さんをチラリと一瞥。こいつ氷柱雪さんのことを鼻で笑いやがった。因みに、オニギリと同じような男子がクラス中にいることは言うまでも無い。


「ち、違うよ。僕は女の子を顔で選んだりなんてしないって。優しくて家庭的で、僕のことを癒やしてくれるような女の子が好きなんだもん」


「なんだもんって……求める理想が疲れたサラリーマンみてえだぞ。……で、タツヒロはどうなんだ?」


「俺は……」


 窓辺の席で女子たちに囲まれていた氷柱雪さんに目を向ける。彼女は表面上は自分を取り囲む女子たちに愛想を振りまいていたが、内心では何か別のことを考えこんでいるように思えた。


 今にして思えば、俺は何故彼女がこの学校に転校してきたのか理由を知らなかった。普通に考えれば親の仕事の都合とかだろう。


 だが、氷柱雪さんの纏う不思議なオーラのせいか、彼女には普通に親御さんが居て、料理を作ってもらったり、家族で何処かへ出かけたり、そういったありふれた一般人的な行動が釣り合わないように思えた。


 言葉にするのが難しいけど、氷柱雪さんは人の腹から生まれたというよりは、神様が気まぐれで創った存在だったり、空から突然降ってきたといったファンタジーのほうが合っている。彼女はそういう神秘的な存在なのだ。


 そういえば、披露宴に来ていたのも両親では無く親族の誰かだった。

 ――キーンコーンカーンコーン。氷柱雪さんに見惚れる貴重な時間が終了する。身体に染み渡るような、懐かしいチャイムだった。





 給食を食べ終え、うとうとし始める午後一番。委員会を決めるため先生が黒板を叩く。


「入りたい委員会に手を上げてねー」


 六年のときどんな委員会に所属していたっけと記憶を掘り返していると――視界の中で氷柱雪さんの白い手が伸びた。


 黒板には『ハッピーラビットパーク委員会』とあった。他は『図書委員』とか『保健委員』と明記されているのに、なんでウサギの飼育委員会だけそんなにもハッピーな感じなんだ。


「他には――」

 先生が言い終える前に、俺は天井に向けてビシッとキメた。

 当然の成り行きだ。氷柱雪さんが挙手したのなら、俺が手を上げない理由など無い。


 咄嗟に手を上げてしまったが、俺は当時、氷柱雪さんに憧れながらも恐れ多くて手を上げることができなかった。だったら、夢の中でくらい良い思いをしたっていいじゃないか。


 だが、先行した俺に続くように、おろおろと数本の腕が伸び上がってきた。


 ――ちっ。


 思わず舌打ちをする。この色気づいたガキどもめ……!

 男子三人。いずれも愛しの氷柱雪さんとお近づきになるのが目的だろう。愛しのマドンナを連れ、俺たちは教室の後ろへと集められた。


 激しい火花が繰り広げられる。表面上は穏やかでも内心は睨み合う小学生たち。

 勝負方法はじゃんけん。そして定員はたったの二名。


 その間、女子たちの刺々しい視線を感じた。異性に人気のある氷柱雪さんを早くもねたんでいるのだろうか。見苦しい、お前等なんて氷柱雪さんの足下にも及ばない。その貧相な顔面をさっさと整形手術でもして改善したらどうなんだと思ってしまった。


「氷柱雪さんは転入したばかりだしさ、もう決まりってことで良いんじゃ無いかな。んふふ、女性だしね」


 赤のベストを着たお坊ちゃまが、腕を組みながら偉そうに鼻を鳴らした。


 どうやら、早速自分の好感度と印象値の向上を図ろうとしているらしい。お前そんなこと言うキャラじゃ無いだろ。あれ、というかこいつ名前なんだっけ。全然覚えてない。


 だが、氷柱雪さんを固定枠として男たちの戦いから離脱させるのには大賛成だった。他の二人もきっと一緒だろう。予期せぬ事故は未然に防ぐべきだ。野郎と二人でハッピーラビットパーク委員会なんてことになったら、全然ハッピーになれなそうだ。


「でも、いいの……?」

 氷柱雪さんが戸惑ったように小さな唇を動かした。


「いいのいいの」口を揃えてみんながそう言う。


「わあ、嬉しいなあ」


 ぱあっと氷柱雪さんの表情が明るいものになる。もう飼育するウサギよか可愛いのではなかろうか。ほっこりする男子たち。


「さて、じゃあ始めようか」


 早くも戦場を仕切り始めるお坊ちゃま。我こそはと男子たちが腕を輪の中心に突きだしていく。


 そこで、「あっ」と氷柱雪さんの可愛らしい声が漏れる。

 全員の視線が一人の姫君へと注がれた。


「手、すっごい綺麗」


「えっ」


 氷柱雪さんが、俺の手のひらを褒めた。

 俺は驚きのあまり完全に喜びどきを失っていた。ならば心のうちで存分に喜んでおくことにしよう。――やったああああああ!


「お手入れとかしてるの?」


 続けざまに質問してくる氷柱雪さん。正直にやにやが止まらない。


「全然してないよ」


「ふうん、素敵だね」


 にっこり微笑む氷柱雪さん。おいおいなんだよこれは、一体何がどうなってるんだと大袈裟なくらいに慌てる表情の男子一同。まあ俺自身が一番驚いているのだが、ここで予想外のアドバンテージを得てしまった。『氷柱雪さんに手を褒められる』ってなんだそれ。ああっ、生きてて良かった!


 そんなことがあってからというもの、俺はちらちらと氷柱雪さんと視線が合ったような気がしてならなかった。やはり自分の夢だからか少なからず優遇されているらしい。氷柱雪さんはニコニコしながら「みんな頑張ってね」とエールを送ってくれた。


 勝者はたった一人。負けるわけには――いかない。

 今、愛しのマドンナをかけた愛の激闘が始まろうとしているのだった。





 勝者となったのは、俺だった。

 なんと勝負は一発。自分がチョキで他の連中がみんなパーだった。なんて運命的な……! と興奮を隠しきれなかったが、何故か連中は落ち込むどころかへらへら喜んでいた。


 なんだお前らの氷柱雪さんにかける想いはその程度か! と俺は敗北者たちを存分に嘲笑うことにした。


 かつて小学六年生だったときのことを思い出す。氷柱雪さんが飼育委員に手を挙げたとき、それに続くことが出来ず興味も無い図書委員に立候補した。


 俺が見ているこの夢は、かつて歩んできた道とは別の人生を行っている。

 俺の心に一つの野心が芽生えた。



 ――もしかしてこの夢の世界でなら、氷柱雪さんとお近づきになることだって可能なんじゃないか……?



 さっき氷柱雪さんに手を褒められたせいだろうか。調子に乗っているのかもしれない。


 子供の頃はおしゃべりの一つもできなかったが、今は違う。俺は正真正銘の大人だ。自分自身そこまで話術に秀でているわけでも無いが、周りは歳が二桁になったばかりの子供ばかりだ。流石にそんなガキ共よりはずっと上だろう。だから上手く立ち回って、氷柱雪さんの視界の中に映り続け、そこらの鼻垂れ小僧たちより魅力的な男子になればいい。


 女子は年上好きだと聞いたことがある。教師に本気の恋をする小学生女子がいるとも聞くし。


 頭の中で様々な妄想が捗る。若干危ない考えに傾きそうにもなったけど。

 それにしても……本当にリアルな夢だな。と俺は授業中に一人ぼやいた。


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