9 何やってるんですか、先輩
自分のことはあれだけ卑下し続けた先輩が、親のことになると鋭い声で反駁したのが、俺には大きな驚きだった。
「元々、私の家もそういう製剤で認められた家で……中でもお父さんは、とても腕の良い薬剤師なんです! 本当なら今頃、国の御用達になっていてもおかしくないくらいの腕があって……でも、前に大きな事業を立ち上げた時に、詐欺師に騙され、一山幾らの安い土地を掴まされて……」
今までとは打って変わって、語気には強い熱が籠もっている。
たったそれだけで、いかに彼女が父親のことを信頼しているか、理解できた。
「……そういうことがなければ、お父さんは必ず成功していたはずなんです! だってうちのお父さんは、うちのお父さんは……本当にすごい人なんですから!」
素敵な親子愛だ。
父親の失敗でそれなりに苦労しただろうに、それでも親のことを信じてあげられるなんて。
うちの家庭環境とは大違いだ。まあ、特殊すぎて何の例示にもなってないんだけど。
参ったな。情に流されるようでは空気王子になりきれないとよく分かっているんだけど……こういう家族愛みたいなものには、ちょっと弱いところがある。
「……それだけ素敵な方なら……娘が自分の意思を曲げて、したくもない相手と結婚しようとしていると知れば、きっと悲しむと思いますよ」
「……」
「いいんです。お父さんがこんなことを望んでいないのは、十分理解していますから」
「だったら何故」
「お父さんやお母さんが望んでいなくても、これが私のやりたいことなんですよ。『したくもない相手と結婚する』ことがです」
「!」
遠い目でそう語る彼女の言葉に、俺は何故か親近感を覚えた。
「……元々、不出来な娘なんです。お父さんもお母さんも、私に大きな夢を追うことを期待していましたけど。学芸院に来ないと叶えられないようなすごい夢なんてものは、元々私の中にはなくて……ただ私は……」
ああ、きっと彼女の夢は、俺によく似ているんだ。
俺も大それた事をやろうだなんて思っていない。こじんまりとした幸せを得られればそれでいいと思っている。
「苦労してきたお父さんやお母さんに、楽をさせてあげたかった。ただそれだけだったんです。それを言うと、きっとがっかりされると思いますけど」
いや、一緒にするのは失礼だな。
先輩と違って、俺のこじんまりは結局自分のためでしかないんだから。
まあ、そんな自分を恥ずかしいとも思わないし、怖がってもいないけれど。
「だからもし私が殿下と結ばれて、二人が裕福な暮らしをできるようになったら……私の夢は、それだけで叶ってしまったんですよ」
そう言うと、先輩は消えてしまいそうな微笑みを浮かべた。
「……と、まあ、洗いざらい打ち明けてしまった今となってはもう、その夢が叶うこともないですけどね」
「先輩」
「殿下の言う通り、私は今はまだ殿下のことが……好きではありませんでした」
「いいですよわざわざ言わなくても」
また無駄に傷つくだけだから。
「ですが私は」
「言わなくていいって言ってるじゃないですか」
「殿下のことを好きになりたいとは、ずっと思っていたんです」
「!」
はにかむように下を向く先輩の表情はどこか儚げで、憂いがあって……不思議に美しく見えた。
「だって、夫婦になるってそういうことですよね。お互いのこと好きになれない夫婦って、とても悲しいことだと思います。もし私が選ばれたら、いいえ、選ばれなかったとしても――――……」
そして先輩は俺の手を取って、淡く微笑む。
「……候補を選ぶ過程の中で、好きになってみせると決めていました。何もかも、てんで駄目駄目な私ですが……そんな私でも、それくらいの分別はあります」
「先輩……」
今は好きではないけれど、好きになるつもりはある。
それを誠実な態度と呼ぶかどうかは、人によって意見が分かれるところだ。
無理をしてまで愛されたくなんてないと思う人だっているだろう。
だけど俺は、一人の人間として相手に誠実であろうとする彼女の考え方は……結構好きだ。
「でも、無理は良くないですよ。人の心なんて、決意ひとつで変えられるほど軽いものではありません。俺のことが生理的に無理だったとしたら……」
「生理的に無理?」
「……多分、努力したとしてもどうにもならなかったんじゃないですかね」
「何の話をしているんですか?」
「えっ?」
「私、殿下のことをそんな風に嫌ったことなんて一度もありませんよ?」
なんだと。
「確かに今の段階では、殿下に恋愛感情があるとは言えません。でもそれは殿下のことを何も知らないからで、逆に言えば嫌う理由だってないんですよ」
それもそうだ。今までの話を統合すると、自然とそういう話になる。だが……
「生理的な嫌悪感というのは、そういうのを陵駕する絶対的なものではないのですか」
「ですから何の話をしてるんですか?」
「だって先輩、昨日の顔合わせの時に俺と握手することすらできないって感じで……」
「えっ? あ、ああ……あれは、えっと、その……」
突然口ごもる先輩。
怪しい。
「何か、また隠し事があるんですか?」
「いっ、いえっ!? そういう、そういうわけではなくてですね、えっと、その……」
色々と筒抜けか。
良くも悪くも誤魔化すというか、嘘がつけないタイプなんだな。
「……全部正直に言えない人は、嫌いだと言ったはずです」
「え、えっと……その……こっ、これだけは言えません! そ、それにっ、どうせ洗いざらい話した以上、このまま候補で居続けることなんてできないんですから!」
ちょっとつついただけで大体のことを話した彼女が、これだけはと口ごもる。
「だったら、もう、別に殿下に嫌われたっていいんです! ですから、これだけは絶対に……絶対に……」
恐らく、自分の身で収まる範囲のことであれば、先輩はここまで拒絶しないだろう。
つまり恐らく、彼女にとって大切な存在――――家族に関わることである可能性が高い。
そして、生理的に無理という理由でないのだとしたら、きっと接触そのものに問題があった、と。
そういえば、『やっぱり駄目』とか言ってたな。
あの『駄目』が、『できない』の意味ではなく、『してはいけない』の意味だったとしたら……
……。
まさか。
「……そういえば、あのときは手袋をしていたのに、今日はしていませんね」
「!」
ラブルラックス先輩の肩がぴくりと震える。
そうか。それが関係あるのだとすればやはり――――
「……『薬』ですか」
「~~~~!!!」
呆然と頭を抱え、その場にうずくまる先輩。
どうやら、図星だったようだ。
「……分かりました」
「あっ」
俺は先輩の手を引き、路地裏へと向かう。
ここで喋りすぎると、人目につくと思ったからだ。
「そういえば、父親が凄腕の薬師だと言っていましたね。無断か、許可を取っていたかは存じ上げませんが、貴方は父親の薬を持ち出して俺に使おうとした」
「……」
「肌に直接触れて効力を発揮する類のものなら、あの場で手袋を嵌めていたのも納得できます。冷静に考えると、握手をしようというあの場で手袋をつけたままというのはおかしい。潔癖症でもない限り」
「……えっと……っ」
「ですが寸前で倫理的にブレーキがかかったか、あるいは怖くなったか……それで、瀬戸際になって手を出すのをやめた。てっきり逃げ出したのは、俺のことが生理的に無理だったからだと思っていましたが……」
「わ、私は……」
「……まさか、手元に抱えた薬を隠蔽するためだったとは」
先輩を問い詰める中で、俺の脳裏に去来したのはあるひとつの恐るべき可能性だった。
それは、そもそも先輩の真の目的が俺との結婚ではなく、その薬で俺を害することにあった場合だ。
先輩が毒薬を仕込んで俺を殺そうとしたとして、単なる愉快犯ならまだマシだ。肝が冷える物騒な話だが、今後に続くことはない。
だが、誰かの依頼で毒薬を仕込もうとしていた場合、話は別だ。
ことは先輩一人を止めればいいというものではなく、それどころか依頼した黒幕を消せばいいというものですらない。
何故なら俺は今まで誰からも恨まれないように世渡りを続けてきたわけで(イザベラのことは置いておくとして)、王子ではあるとはいえ本来誰からも暗殺者を差し向けられる立場ではないはずだからだ。
それにも関わらず暗殺が試みられたとなれば、俺の今までの人生でやってきたことが全て無駄だったということになる。
もし明らかになれば、俺は一週間はショックで動けなくなるかもしれない。
「……先輩、一体俺に何の薬を盛ったんですか?」
だからといって、目の前にある不確定な情報を放置しておくわけにもいかない。
ラブルラックス先輩には、どんな薬を使ったかまで含めて、洗いざらい話してもらうとしよう。
「わ、私は、そんな……えっと……」
「先輩!」
先輩を壁に押しつけ、逃げ場をなくして問いただす。
少し荒っぽいやり方になってしまったが、これは看過するわけにはいかない。
先輩は涙目になりながら、掠れ掠れの声で吐いた。
「え、えっと、私が、殿下に塗ろうとしたのは……」
さあ、何が出るか。嫌がらせのしびれ薬なんかならまあいい。しかし命を左右するような毒薬だと大変なことだ。
騒ぎにしたらしたで俺に衆目の目線が集まりかねないし、今後のことを思うと頭が――――
「び、媚薬です……」
「――――……」
「……はい?」
最初何を言っているか分からなくて、俺は何度も激しく瞬きした。
「び、媚薬って……あの……」
「えっちな気分にするためのお薬ですっっっ!!!」
顔を真っ赤にする先輩。唖然とする俺。
な、なんでそんなものを……あの場で?
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