第9話 ハンカチのイニシャル

 イザベラは家へ帰ると、腰に手を当て足を大股開きにしてソニアに宣言した。


「私、決心したわ」


「何を?」


「これからダイエットして、美しくなるわ」


「どうして? 今のままで、フレデリック王子に気に入られているんじゃなかったの?」


「まあそうだけど、さらに美しさに磨きをかけるために、痩せて美しくなるわ。先ほどもおっしゃっていたように、私たち顔は瓜二つ。だから私も痩せれば、あなたのようになるわ」


「あら、私のように……美しくなりたかったの。知らなかったわ」


「まあ、悔しいけどあなたのスタイルだけは本当に素晴らしいわ。顔が似てるんだったら、後はスタイルを手に入れるだけ。私王子様のためにやってみるわ」


「凄いわね、恋の力は。途中で諦めないで最後までやり遂げてね」


「わたくし、今度こそはやり遂げるわ!」


 イザベラは決意も固く、早速今日からダイエットに取り掛かることにした。食事の内容を見直し、毎日一時間以上は歩くことにした。散歩にはソニアも付き合わされることになってしまったのだが。イザベラは、今後野菜とスープだけの食事にすると、侍女とメイドに告げた。

 ラムジーは、どうせすぐにやめてしまうものと大して気にもしなかった。何度かダイエットをしたものの、いつも途中でやめてしまっていたからだ。

その日の夕食から始まったダイエットは、一週間後の公演まで続いた。


「一週間も続けられたのね、お姉さま」


「一週間ぐらいじゃ、何も成果は出ないわ。まだまだよ!」


「なんかいつもと気合が違っている」


「今回は本気よ!」


 フレデリック王子から言われた、痩せると妹のようになるという言葉がよほど胸に沁みているのだろう。イザベラは空腹になると、意味もなくソニアを睨んだり苦しそうな顔をして唸り、水を飲んで胃の中を満たしていた。かなりの頑張りようだ。そんな食生活を一週間も続けていたら、頬が幾分ほっそりしてきた。流石にまだ一週間なので、腕や腿の肉はなかなか落ちてはいなかったが、ゆさゆさと揺れていた腹の肉は少しだけに減っていた。


「どうお、このスタイル。この一週間辛かったわあ。でも陛下のために頑張ったのよ。私の努力を認めてくれるかしら?」


「そうねえ、なんとなく顔つきが変わってきたみたいだし、少しだけあごの肉が減っているような気がするわね」


「ドレスのウェストが緩くなっているのよ! 凄いわ!」


「まだまだこれからが大変よ」


「これからも続けるから見てらっしゃい。あなたより美しくなると思うから」


「体を壊さないようにね、お姉さま」


 そしてまた劇場へ行く日がやってきた。父親のラムジーはもう呆れたのを通り越して、あきらめの境地に入っている。


「お前たちまた同じオペラを見に行くんだな。何度も同じ歌や芝居を見て飽きないんだな……」


「何度見ても飽きることはありません。素晴らしい方たちにお会いできるんですもの」


 姉のイザベルが夢見るような表情をしている。ソニアとイザベルはその日のために必死で仕上げた刺繍を施したハンカチをバッグに忍ばせて出かけた。


「嫁入り前の最後の楽しみだ。せいぜい見ておくがよい」


「はい、お父様」


 ラムジーの言葉が背後から聞こえてきた。二人は戦場へ赴く兵士のような気持を心にしまい込み、優雅な面持ちで出かけた。父親の言葉は、聞こえていてもほとんど上の空だった。


「ソニア、いつもと違うわね。そわそわしちゃって」


「あら、お姉さまこそ、いつもの堂々とした姿じゃないわ」


「また、余計なことを言って。少しだけ細くなってるのよ」


 ソニアは、イザベラの体を上から下までなめるように見える。言われてみれば、確かにほっそりしているような気がする。いつものように馬車に乗り、侍女とともに劇場へ向かう。


「お嬢様方、なんだかうきうきと楽しそうですね。よほど楽しい公演なのでしょうね」


 侍女は何の疑いもなく、二人が歌を聞き楽しい時間を過ごしているものと思い込んでいる。


「いいですね。お嫁に行くまでの楽しみですから……素敵な役者さんたちが出ていらっしゃるんでしょうねえ」


「えっ、まあ」


 ソニアは焦って、向こうを向く。

 侍女にまで、そんなことを言われてしまう。結婚したって見に行く機会はあるだろうに……。

 いつものように、大人しく前半を見た後は、二人ともソワソワそれぞれの目的地を目指して一目散に向かった。お互いの事はほとんど目に入らない。ソニアには楽屋へ向かう時のドキドキした気持ちは薄らいでいた。それだけ、会いたいという気持ちが先に立っていた。

 たった三十分間しか一緒にいられる時間がない。しかも移動もあるし、ジョージはその時間の中で休息する必要もある。一緒にいる時間は正味十分から十五分ぐらいしかない。できるだけ早く移動して、楽屋へたどり着きたい。ソニアは、するすると忍び足で進み、あっという間に廊下の闇の中へ消えていった。


―――ジョージ、どれだけあなたに会いたかったことか!


 楽屋の扉の前で、思いのたけを込めてノックした。扉はすっと開いて、ジョージの上気した顔が現れた。ステージが終わったばかりで、まだ息も整っていない状態だった。額にはうっすらと汗が滲んでいる。汗をぬぐいながら扉を開けて、ソニアの手を取り中へ引き入れた。その勢いで、ソニアはジョージの胸元へぴったりとつく格好になった。


「ジョージ様、会いた……かった……です」


 言い終わらないうちに、ジョージはソニアをしっかりと抱きしめた。汗ばんだ体からは熱気が伝わってきたが、そんなことは気にならなかった。


「僕も……です。あなたに会いたかった」


 ソニアは、自分の思いが伝わったことに感激し、自然に涙がこぼれてジョージの上着を濡らした。ソニアも、思わずジョージの背中に腕を回していた。二度しか会ったことがないのに、これほどの思いに動かされるのが不思議なほど強く惹かれていた。


―――もう、あなたの事しか考えられない


 ソニアはもうあと先のことなど考えられないほど、ジョージに夢中だった。


 ジョージがそっと腕をほどいた時、涙ぐんだソニアの顔が目の前にあった。


「ジョージ様が、好き」


 自分の口からこんな言葉が出るとは、ソニア自身も考えられなかった。その言葉と彼女の真剣なまなざしに揺れ動かされるように、ジョージはソニアに口づけした。


「あっ」


 という言葉も、ジョージの唇にかき消されてしまった。


―――私はいけないことをしてしまったのかしら。でも、もう後戻りはできない。


「僕は本気です。あなたのことが……」


「ええ、私も」


 それだけ言うのがやっとだった。しかし、気持ちが通じ合っていることは、それ以上言わなくても伝わってきた。まだ、息使いが荒くステージから走ってきたことがわかり、ソニアはそっと体を離した。


「御免なさい。疲れているのに。座ってお休みください。あ、ジュースを持ってくるのを忘れてしまいました」


「慌てていたんですね。お水を飲むから大丈夫です」


 ソニアは、バッグの中からハンカチを取り出して、ジョージにそっと手渡した。


「これは? ハンカチですね。僕に?」


「どうぞお使いください」


「おお、刺繍と、僕のイニシャルも入っているんですね。大切にしますよ」


「受け取っていただけて良かった。何かお渡ししたくて悩んだ挙句、こんな物しか思い浮かばなかったんですが……」


「嬉しいです」


 ジョージは、ハンカチを広げたり折りたたんだりして、刺繍を手でいとおしむように撫でた。二人並んで座ると、ようやくジョージの息も整い、ほっとしている様子が分かった。


「あら、もうこんな時間」


 楽屋へ来てもずっといるわけにはいかない。第二幕が始まる前には、余裕をもって舞台に戻らなければならないからだ。


「ああ、また来週にならないとお会いできないのですね」


「必ずお会いできますよ」


「分かりました」


 ソニアは、苦しい思い出いでドアを閉め、暗い廊下を客席へ向かって歩いた。


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