第8話 恋する心
ソニアはジョージと二人だけで二度過ごしただけで、頭の中は彼の事で一杯になっていた。どうにかして再び会いたいと思うが、必ず会えるのは一週間後だ。彼が一週間後の休憩時間に会おうと言ったのだ。それまでじっと待つしかないのだろう。一週間はとてつもなく長いような気がした。これから何をしても手につかなくなるだろう。かといって、そんな気持ちを正直に打ち明けても、相手が同じぐらいの気持ちを持っていなければ、こちらの気持ちが重すぎてもう会ってくれなくなるかもしれない。悶々としてソニアは一日を過ごしていた。
―――そうだ、今度渡す花束に、手紙を添えておこうか? いえいえ、手紙は後々
残ってしまうからまずいかもしれない……
父親のラムジーが、そんなソニアの様子を心配した。
「ソニア、どこか体の具合が悪いのか?」
「いいえ、別に。ちょっと考え事をしていただけ」
二人の会話を聞いて、姉のイザベラが何やら探りを入れてくる。
「ソニア、この間劇場へ行ってきてから様子が変ね。何かあったんじゃないの?」
「何もないわ、お姉さま。私ちょっと部屋で休んでいるわ」
そう言って、部屋へ引き上げてしまった。二人に追及されて、何か話してしまわないとも限らない。この気持ちだけは誰にも悟られたくなかった。一週間後が待ち遠しい。かといって、何もしないでいるのはさらに辛い。ハンカチにパンジーの花と、ジョージ・オズワルドのイニシャル、J.Oの刺繍をして手渡すことにした。こんな物でも、心にとめておいてくれるかもしれない、と思うとすがすがしい気持ちで時間(とき)を過ごすことができた。
それも、姉のイザベラに悟られないように、一人部屋で黙々と作業をしていた。
ソニアは、ジョージから、歌い手としてレッスンしてみないかと言われていたことを思い出して、父親に訊いてみた。
「あのう、お父様、私もっと歌のレッスンを受けて、オペラの歌手みたいに、劇場で歌ってみたいんだけどどうかしら?」
「何だって、あんな芸で身を立てているような連中の仲間になろうっていうのか! いかんいかん! 音楽は趣味の範囲で沢山だ! 家事や教養を身に着けて、早く嫁に行く事を考えろ」
「でもね、私せっかく歌の練習をして上手になったのだから、さらに練習すればプロになれるんじゃないかと思って……」
「プロへの道はそんなに甘くはない! みんな子供のころから、それはそれは大変な練習を積んで、ようやく舞台に上がれるようになるんだ! 舞台に上がれずに終わってしまう者もいるんだ」
「確かに……そうよね。プロへの道は甘くわないわね……」
そうは答えてみたものの、ジョージから誘われたことは、ソニアの胸の中で次第に大きくなっていた。自分もジョージと同じ舞台で歌うことができる日が来るのではないか、と本気で考えていた。しかし、父親のラムジーがすんなり認めてくれるとは思っていなかった。
―――やっぱり私のようなありふれた男爵家の娘には無理なこと
貴族の娘が人前で、しかもお金のために歌を披露することなど、通常では考えられないことだった。
「ねえ、お父様、主演の歌手のジョージ様も、家と同じ男爵家の出なのよ。でも、歌がお上手で歌手の道へ進まれたのよ。そういう方もいらっしゃるのね」
「よっぽどお金に困っていたんだろう。お前はお前だ。この先の事をよく考えろ!」
「先の事って……」
「早く縁談を決めるんだ!」
「お父様の横暴! お姉さまが先でしょ?」
「姉に気を使っている場合じゃない!」
そうだったのかしら? 私の方が先に決まってしまったらまずいんじゃなかったかしら? ソニアは、頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。さんざん姉に言い渡され、すり込まれてしまっていたのだ。
姉のイザベラも、ただならぬ様子だった。フレデリック王子と会話を交わし、身近な人としてとらえ始めていた。何か自分を印象付けるのに良い方法はないかと思いあぐねている。プレゼントなどは、いくらでも高価なものが手に入る身分だ。かといって、食べ物もああいった身分の高い人は、もらったものは無暗に口にしないらしいから、焼き菓子などを焼いても受け取ってもらえないだろう。もらってくれたとしても、後で捨てられてしまうだろう。
―――そうだわ! ハンカチに刺繍をして、お渡ししよう。それならご迷惑にはならないだろうから
姉のイザベラも、部屋にこもり誰にも気づかれないよう、白いハンカチにクロッカスの花とイニシャルの刺繍を入れた。フレデリック・アシュフォードの頭文字、F.Aと。こんなところだけは、二人の姉妹はそっくりだった。
一週間後に渡すプレゼントの用意が整い、二人はなんだか心が軽くなっていた。春の日の陽ざしも柔らかく、絶好の散歩日和だった。二人の家から町を通り、宮殿へ向かう道には木々の緑の美しい小道があり、二人の興味をそそる店も通り沿いにあった。
二人は、身軽な服装で歩いていく。いつもの歩き慣れた石畳の道だ。時折馬車が通り過ぎていくので、道路の端の方を歩くことにしている。そうして、宮殿の方へ向かって歩いていると、ひときわ美しい馬車が後ろから迫っていた。特に気に留めずにまっすぐ歩いていると、真横に来た時にその美しさにはっとした。あれはもしや宮殿の馬車では。そう思い、乗っている人が誰なのかと窓の中を覗き見ると、そこにはフレデリック王子の横顔があった。
二人は、思わず速足になり、声を出した。
「フレデリック王子様!」
真っ先に呼び掛けたのは、姉のイザベラだった。すがるような眼をして、必死で馬車に追いつこうとするイザベラ。とても追いつくことはできないとわかっていても、ふくよかな体を揺らしながら走る姿は、知らない人が見たら買い物に急ぐ女性にしか見えない。
王子は御者に合図すると、静かに馬車は止まり窓越しに後ろを振り返った。
「あ、君は。ラムジー・カールトン男爵のお嬢さんたち」
「はい、イザベラです。劇場で二度もカウンターでお会いした……」
「おう、そうでしたね。そちらのお嬢さんが妹さんですね」
ソニアはじっと窓の方を見つめた。
「はい、姉がお世話になりました」
フレデリック王子は美しい金髪の前髪を風になびかせて、窓越しに二人を見ていた。栗毛色の髪をしたジョージとはだいぶ髪の色が違い、そのせいか印象もだいぶ異なっている。しかし目は二人とも緑色をしていて印象はとても似ている。後髪は短く切りそろえていて、爽やかな印象を与えている。ソニアは初めて彼の顔を見たが、鼻筋は細く整い、口元は引き締まっているが優しそうな印象を与えている。美しい方、と思わず心の中で思った。彼の頭上には白い雲が見えた。あら、イザベラといた時は、灰色だった雲の色が変わっている。数日間の間に、何が事態が変わったのだろうか。でも、暗い色から明るい色に変わってよかったと、ほっとした。
「面白い妹さんだね」
「面白い……ですか」
「いや、べつに」
「あ、あのう。どこかでお会いしましたか……」
「いいや、君とは初対面だ」
「そうですね」
二人がじっと目を見つめ合っているのを見た姉のイザベルは、間に割って入った。
「そうよ。二人は初対面。私が二度もお会いしているんだから」
「イザベラさまはお痩せになると妹さんのようになるに、美しくなると思いますよ。お顔はよく似ていらっしゃいますので。では、また劇場でお会いするかもしれませんね」
「はいっ! 来週また行きますので!」
「じゃあ、その時に」
フレデリック王子は御者に合図すると、再び馬車は動き出し、王宮へ向かって走り去った。
「ふ~ん、私たち顔立ちはそっくりなのね。私も痩せたらあなたのような顔になるということね」
何を思ったのか、イザベラは考え込んでいた。
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