第5話 一週間後
家へ戻ってからイザベラもソニアも劇場でのことが忘れず、熱に浮かされたようになっていた。イザベラはフレデリック王子のことが頭から離れず、ソニアはジョージと交わした会話を幾度も頭の中で反芻していた。
そしてようやくやってきた一週間後、再びオペラを見に行くことになっている日がやってきた。二人は大のオペラ好きではあるが、同じタイトルの物を二度も見に行くとあって、父親のラムジーは不思議そうに娘たちを見ている。姉のイザベラが弁解する。
「お父様、素晴らしい舞台は何度見ても素晴らしいものです」
妹のソニアも、付け加える。
「そうなのです、繰り返し見ることでさらに素晴らしさが増していきます」
そして、娘たちに甘い父親は許可せざるをえなくなる。
「わしには、何がいいのかさっぱりわからんが、お前たちが楽しみにしていることだ。まあいいだろう。若い娘に声を掛ける不届きものがいるかもしれん。気を付けて行ってくるのだぞ」
「そりゃあもう、私たち大丈夫です。ねえ、お姉さま」
「わたくしがついていますもの。ご安心くださいお父様」
「イザベラがついてるから大丈夫か……それもまた寂しい言葉だが……」
父親のラムジーは、複雑な表情をしている。内心、イザベラには誰でもいいから早く言い寄って欲しいとさえ思っていた。
「イザベラ気を付けて行ってくるのだぞ」
「はいお父様」
イザベラはそう答えながら、フレデリック王子と親しくなり、父親を驚かそうとたくらんでいた。そうなったら、妹に今まで馬鹿にされてうたスタイルを得意顔で自慢するつもりだった。
二人は馬車で劇場へ向かい、座席には並んで座った。イザベラの隣に座った人が迷惑そうな顔をするのはいつもと同じだ。二人は前回よりも早く劇場に着き、あたりをきょろきょろと眺めまわしていた。イザベラはボックス席を睨むように見ている。
「ちょっと、お姉さま、私トイレに行ってきます」
「あら、そう。行ってらっしゃい」
一つのことに集中しているので、ソニアの言うことなど上の空だ。ソニアは、この間と同じ場所へ急いだ。また扉が開いていないだろうか、確かめるためだ。横の出入り口からステージ方向に向かって進み、突き当たったあたりにその扉は、あった。やはり手前には関係者以外立ち入り禁止の札が立っていて、誰もそこにはいなかった。今頃、ステージ裏では、出演者や裏方の人々が忙しそうに動いているのだろうと、想像しながら扉に近寄り、そっと開けてみた。鍵はかかっていなかった。ガチャリという音がして、取っ手が回り扉は開いた。ガタガタと遠くの方で音はしているが、そこには人がいなかった。そっと中へ入り、扉を閉めた。一歩また一歩と前へ進んでいく。暗い中足元だけを見て、進んでいく。しかし果たしてどこへ行けば会えるのか、見当がつかない。間違って迷い込んでしまったような錯覚を覚える。
「ひっ! うぐっ」
ソニアの口元に大きな手が当てられた。その手は節くれだった男性の手だった。あまりの恐怖に叫ぶこともできない。こんなところで、何をされるのか、恐ろしさで震えて動くこともできず体が引きつっていた。
「君だろ? この間ここへ来た……」
その声を聴いたとたん、全身の力が抜けた。
「来るの早すぎだぞ。まだ準備しているんだ」
「うぐうぐ……はなひへ」
ソニアは手をばたつかせて、早く口元に置いた手を(はなして)とジェスチャーをした。なぜこんな子供じみた悪戯をするのか、測りかねる。
「大きい声を出さないで!」
強い口調が後ろから聞こえ、首を縦にこくこくこと動かした。それでようやく口は解放してくれた。言われた通り、小声で耳元に囁いた。ジョージとの距離があまりに近くて今にも体中が触れそうだ。
「早すぎましたか?」
「幕間の休憩時間にしてほしかった。仕方ない。こっちへ来い!」
「何処へ行くの……あ―――!」
今度は、腕を引っ張られ、暗い廊下をずんずん進んでいく。ある部屋の前へ来てバタンとドアを開け、ソニアを中へ入れると再びバタンと閉めた。
「ここは?」
「僕の楽屋だ。主演には一部屋楽屋があてがわれているんだ」
小さい部屋ではあったが、テーブルには鏡やカップが置かれ、椅子が二客置かれていた。出番が来るまでに衣装を着けたり、控えの時間休憩できるようになっていた。メイクアップ道具などもあり、ソニアは興味津々でそれらを見ていた。
「わあ、こんな世界があったんですね。夢のようです」
「本当は、あまり舞台裏を覗かないほうがいいと思ったんだが、君が興味ありそうだったからここへ連れてきた」
今度は、そんなことを言ったジョージの方を向いた。彼はなぜか照れているようでもあり、嬉しそうでもあった。この人、言葉とは裏腹に嫌がっていないようだ、とソニアは好意的に受け取った。
「すごく興味があります」
勿論ジョージにも興味があるのだが、そんなことは口には出せない。狭い部屋でジョージの素顔を少しだけ覗き見ているようで、心が浮きたつ。
「ちょっと……」
「あっ……」
ジョージの右てがソニアの丁度頭の横に来て、ドンと音がした。これは一体どういうこと?と思って目をつぶった。
―――そんないきなり私にキスをするなんて、いくらなんでも早すぎるんじゃ……
「ちょっと……そこにいると、クロゼットが開けられない……」
「はっ、はいっ」
ソニアは後ろを振り返った。いつの間にかクロゼットの前に立っていた。横に一歩移動すると、ジョージは右手でクロゼットを開け、中から帽子を取り出して被った。
「す、すいません。気がつかなくて……」
「いや、ちょっとそのまま」
今度は、ソニアのあごに指を掛けると、顔を上に向かせた。
―――やっぱり、そういうことになるの。でもまだ早すぎるわ……
「君、いい顔してるね。ステージ映えするような……歌は歌えるのかい?」
「歌は……結構……」
「フムフム、結構……何?」
「得意な方です」
「ほう、いいねえ。今度聞かせて」
「あっ、はい!」
これはスカウトされているんじゃないか、とソニアは気持ちが高揚してきた。私の顔って舞台映えするのね、と浮き浮きしてきた。だから呼び止めてここへ呼んでくれたのだろう。
「さあ、これから準備だ!」
「わ、分かりました。もう座席へ戻ります」
「今度は、幕間の休憩時間に来て」
「はい!」
「待ってるよ、必ずね」
―――こんなことがあるの? 主演の歌手に個人的に声を掛けてもらえるなんて
ソニアは、ふわふわと揺蕩うように暗い廊下を歩き、自分の席へ戻った。
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