第二章 夢現(ゆめうつつ)

第13話?

 速報を示す音がリビングから聞こえてくる。じめじめと梅雨が続く七月、またどこかでセンセーショナルな事件でも起こったのだろうか?


 ただでさえ不景気が続いている。世を儚んで死ぬ気持ちには同情しないわけではない。しかし、息子はその苦しみさえ感じられないのだとモヤモヤした思いが心を曇らせる。こんなこと、考えても仕方ないことだというのに。


「速報です。下尾大学病院に入院している、身元不明の男性ですが、今朝呻き声を漏らしたという情報が入りました。この男性は顔を大火傷しており、自殺を図り塩酸をかけたとではないかと病院関係者は証言しています」


 すぅ、と背が冷えた。なぜメディアが知っているのだろう。寝たきりで目を覚まさない息子をことを。——それに、このニュースを見て帰宅するだろう夫はまた機嫌が悪くなる。


 一人息子が引きこもりであることを、夫は気にしていた。跡継ぎともあろうものが軟弱では困る、覇気がないやつは息子ではないとまで言い放った。これは本当に俺の子かと、顎で息子を指して詰問されたこともある。


 最近夫の帰りは遅い。夫が望む温度で準備したお風呂も、いつでも提供できるよう最後の加熱だけ手順を残した料理の数々も、また今日も無駄になるのだろうか。


 ガチャ……


 ドアが開く音は、心なしか気怠そうだった。それは夫の帰りが憂鬱で仕方ない、妻である自分の心情を反映したものとばかり思っていたが——


 速報を見るためにリビングに来ていた。リビングから玄関は見えない。夫だと信じて疑わなかった来訪者が、夫ではないと知るのが遅れてしまった。


 新婚当初、ここが私たち二人の愛の巣であり、終の住処でもあると信じて疑わなかった……。


「死"ね"ェ"ェ"ェ"エ"」


「真二!?」


 顔一面がケロイドで覆われ、唇が引きつって発語さえ困難なように見える男が、「死ね」だけは確実に発音してみせた。その後に続く言葉はぶつぶつと聞こえない。


 息子を血の通った人間とみなさない、薄情な夫から息子を守れなかった。おかげで息子は自分で自分の顔を痛めつけた。


 殺されても、仕方ないのかもしれない——


「あまえらうらされうたぅ、あもあな! ——海斗」


 聞き覚えのある人の名前に我に帰り、息子が振りかぶった包丁をすんでのところで回避する。しかし、脳天を割られることがなかっただけで、右肩にざっくりと包丁は食い込み、帯状に血が飛び散っては壁に吸い付いた。


 息子は、いま殺そうとしている存在が、母親であるとはわかっていないのではないか?


 海斗という名前は、息子が書いていた小説の主人公だったはず。現実が夢に飲み込まれてしまったのだろうか?


 もしそうなら、夫の言い分も少しは正しかったことになる。夢物語ばかり摂取していては、現実も妄想も判別できない人間になるとよく息子を叱っていた。


 そういえば、夫の帰りはまだだろうか。

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